生地に魔法防御力を付与する方法を確立するため、まずは魔法の実態を見てみようと魔法院を目指したサーヤとクイナは、運悪く開戦の場に居合わせてしまう。霧も深く視界が狭いことを危惧した二人は、一旦展望山まで引き下がることにした。
途中、ドラゴンの咆哮が鳴り響くなど戦争の色が濃くなることを感じつつ慎重に進んでいる中、クイナが「いい匂い」に気がつき、走り出した。
「待って、」そう呼び止めようとした声はむなしく宙を舞う。最高速に達したクイナはすでに木々の隙間を駆け抜け、私の視界から消え失せようとしていた。荷物を背負い直し、私もその背中を追う。
私よりも数倍重い荷物を担ぎ、二足歩行という悪条件にもかかわらず、私はクイナの背中を捉え続けるのが精一杯だった。
やがて木々がますますまばらになり、遠くにあった展望山の麓が見えてくる頃、私はようやくその匂いを嗅ぎ分けることができた。それはかつて暮らしていた首都の歓楽街の片隅、暖簾を下げ、湯気を湧き上がらせ、甘さと香ばしさが混じり合う匂いを漂わせている屋台の匂い。
やがて見えてきた屋台には「めしや」と朱色に黒で書かれた暖簾が下がっている。よく見るとクイナは屋台のカウンターにしがみついている。
「サーヤ、遅いですよ」
「クイ、ナ、が早、すぎる、だけで、す」
暖簾をくぐり、なんとかそう声に出すと、何度か深呼吸をして息が落ち着くのを待つ。クイナは屋台の中でグラグラと茹でられている具に興味津々だ。普段は隠れている尻尾も元気に振られている。
「…らっしゃい」
クォーターのクイナと違って純血種らしい毛並みの大将が私達をようやく客として認知したようだ。
「どこまで引っ張ればいいかしら」
「…展望山の麓まで」
「了解」
「サーヤ?」
「さ、クイナ、屋台を引っ張るわよ」
「…お嬢さん、手慣れてるね。屋台を引くのは何度目だ?」
「首都で学生やってた頃は毎日のように引っ張ってたよ。引いたことがないやた犬はないと思うわ」
「…そうかい。そりゃ世話になったな」
「こちらこそ、毎日おいしい食べ物ありがとう」
「ねえサーヤ、なんの話?」
「やた犬のご飯はお金を払って食べてもいいけど、屋台を希望の位置まで引っ張るとただで食べさせてくれるのよ。貧乏学生の味方」
遅くまで学校で研究をし、暗くなった街で家路を急ぐとき、やた犬はポウッと路地を照らしている。その暖かさに安心しつつ、私は希望の場所まで屋台を引き、夕飯を食べさせてもらい、家に戻っていた日々が不意に蘇る。
「…ここでいいよ」
「了解」
「ふー、結構大変ですね」
「コツがあるのよ、コツが。次に引くことがあったら教えてあげる」
雪原に限らず水陸両用でどこでも引けるとは聞いていたけど、地面の上でも雪の上と同じ感覚で引けるのはいい収穫だった。今度旅先で見かけたら率先して引くことにしよう。
「…さて、この屋台は『おでん』だよ。何にする?」
「クイナはおでんは初めて?」
「初めてです」
「じゃあ、適当に頼んじゃうね。大将、大根、鯨のさえずり、がんもどき、たこを2本ずつ。あと牛すじも2本漬けといて」
「…はいよ」
「あとエインゲイル・サファイアある?」
「…あるよ」
「じゃあそれを水割りで一杯」
「…あいよ」
大きな鍋で煮込まれた具が皿に取り分けられていく。具が皿に移動するたびに湯気が辺りを包み、香ばしい香りが漂う。暗黒湾で水揚げされる魚を燻して乾燥させたものを削り、出汁にすると聞いたことがある。魚を直接煮込むよりも、うまみが凝縮されたスープが取り出せるとかで、煮物には欠かせない素材だという。
「おまちどう」
二枚の皿にそれぞれの具が載せられ、目の真に置かれる。
「お嬢さんにはエインゲイル・サファイアの水割りね」
「ありがとう。こら、クイナ、はしゃがない。やけどするわよ」
「はーい」
今にもかじりつきそうなクイナを制しつつ、「凍てつく地より賜った恵みに感謝します」と呟き、一つ目を口に放り込む。
「ん~~~」
じゅわっと舌の上に広がる風味豊かな出汁と、その直後に訪れるホロホロに崩れ落ちる大根の食感と十分にしみこんだ出汁、そして熱さ。
はふはふ。
息を小刻みに吐き出しながら、口の中を冷ましつつ、舌と歯で大根をさらに砕いていく。ジュワジュワとしみ出してくるうまみ成分が広がる。
やがて熱さに耐えられなくなると、グラスに注がれたお酒に手を伸ばす。
「くぅーーー」
水で多少ぬるくなっているとは言え、元は氷結寸前まで冷やされたお酒。火照った口内が一気に冷まされ、出汁の味を押し流し、代わりに針葉樹独特の爽やかでドライな香りが鼻を駆け抜けていく。
ふ、と、クイナはどうしているかと横を見やると、熱さと格闘しつつ、そのおいしさに抗えないようで、次々とほおばっている。
「…牛すじ、漬かったよ」
「「ありがとう」」
それぞれの皿の上に置かれた牛すじは出汁と油がヌラリと妖艶に混じり合い、キラキラと輝いていた。その光景は森の向こうで行われている戦を一瞬だけ忘れさせてくれた。