窓辺に座る小さな妖精 -本編-

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前回までのあらすじ

 一年と二ヶ月つきあった彼女と別れた。うすうす感じてはいた。だんだんと距離が遠くなっていく間隔。メールの頻度も少なくなって…電話の頻度も少なくなって…嫌な予感は感じていた。そして、予想は当たった。僕と彼女は別れることになった。彼女には他に好きな人ができたらしい。僕の知らないところで幸せになることを祈りつつ、僕は家に戻った。
 別に寂しいと思った訳じゃない。でも、何となく話し相手がほしかったのは事実だ。以前どこかで読んだ“デスクトップアクセサリー”に僕はそれを求めた。僕の前に降り立ったそのアクセサリーは名前を沙希と言った。

窓辺に座る小さな妖精 -第1章-

 薄明かりが部屋を照らしている。全ての色に光沢はなく、心の奥に残っているモノトーンの写真のように時間の流れを緩やかにしていた。上半身を起こし、体を回転させ、ベッドから降り立つ。机の上で鳴り響いている目覚まし時計を止めると、カーテンを開け放った。外はまだ暗い。日が昇るまでまだ幾刻か時間がありそうだ。
 窓の鍵をはずす。
 右手に冷たい流れを感じ、足、膝…とその流れは俺を包んでいく。空気を手に掴み、すぅ、と息を吸う。はき出した息が白い綿毛になって飛び出していった。風が髪を揺らし、頬を撫でる。
 目を閉じる。
 ゆっくりとその目を広げ、外の彼方へと風景を動かす。その時、屋根の上にでもいたのだろうか、名も知らぬ小鳥がひとつの声を発しながら広いその地へと旅だった。
 おはよう…行ってらっしゃい。
 こうしてもう少しここで過ごしてもいいのだろう。…だけど。
 僕は窓を閉めると、一階のリビングへと向かった。

 ディスプレイの電源を入れ、マウスを動かすと、橙色のランプは緑へと変わり、デスクトップ画面が映し出される。メールソフトを起動し、僕は席を立つ。テレビの電源を入れると、急激に部屋は騒がしくなった。
 冷蔵庫から作り置きの肉じゃがとほうれん草のおひたしを出し、肉じゃがを電子レンジに入れる。すでに炊きあがっているご飯をお椀に盛りつけ、コンロに火をかけみそ汁を温めた。
 一通りの朝食を終えると再びパソコンの前へと向かう。23件の新着メッセージ。という文字と共に、未読のメッセージタイトルが太字で強調されている。
 今すぐ返信の必要なものは………無いな。
 ディスプレイの電源を切ると、僕は会社へ向かう準備を始めた。

 通勤ラッシュをさけるように早めの電車に乗った僕は車両の前の方に座る。ラッシュを戦う人は、電車で何時も同じ車両にはいるという。自分が降りるべき駅の階段の位置を考えているらしい。駅に止まりドアが開いた瞬間、ホームに飛び出し目の前にある階段を上る。改札を定期Suicaで通り抜け、自分の会社へと走る。…きっとこの人達は、このときだけは自分のことだけしか考えられないのだろう。
 少なくとも僕には縁のない世界だった。現にこうしてゆったりとした朝を送っている。彼らの行動の意味がわからなかった。ただ、通勤するだけにあんな殺伐とした生活をしなければならないのか…。30分時間を変えるだけでこんなにも世界が違うことに彼らは気づいていないのだろうか。電車のラッシュが嫌いで2時間時間をかけ自転車で通勤する人もいるという。都内の渋滞を横目に、風を切って会社に向かう…どれだけ気持ちのいいことだろう。少なくとも僕には、電車の殺伐とした空気に短時間触れているよりも、自転車で2時間外の空気に触れていた方が有意義な時間を過ごしていると思う。
 日本人は一般的に、集中力に欠けるらしい。仕事の時間は確かに多いかも知れない。しかし、だらだらと作業を進めてしまうため、作業効率は諸外国に比べて悪い。スローフード発祥の国なんて、昼休みが2時間ある。しかし、彼らはメリハリがある。ひとたび仕事が始まると、ものすごい集中力で仕事をこなしていく。非常に効率がいい。別に効率だけで全てを語れる訳じゃないが、僕から見てもその空気はうらやましい。………といっても、自分の会社だって危ういところがあるから大きな声で言えないのがひとつの悩みなんだけど…。良二は賛成してくれる。
 電車は速度を落としゆっくりとその場所へと歩みを止めた。アナウンスが響き、ドアが開く。ホームにおり、改札を抜けると、僕は会社への道を歩き出した。

 カードリーダーに社員証を滑らせ、鍵を開けると自分の仕事場のある3階へと向かった。部屋にはいると一箇所だけ電気がついている。設計者のアイディアで、出来るだけ採光を広く確保しているこの部屋は電気が無くても十分明るい。ただ、まだ朝早いこの時間、その明かりの下にいる彼は本を読むために自分の周りだけ電気をつけている。
 …もちろん外光によって影響を受けるCGチームのブースは壁で仕切られている。
「おはよ」
 俺に一足早く気がついた良二が声をかけてくる。
「あぁ、おはよう」
「間に合いそうか?」
「例の外注のスクリプトだろ? 昨日のうちに終わった」
 昨日…その一言が俺の琴線に引っかかって深い海の底へと落ちていった。
「そうか…。おまえにはかなわないよ」
 そう言った良二は右手で髪をかく。
「そうでもないさ。たまたま以前作ったプログラムの動作が要望に近かったからほとんど流用だし」
「そうはいってもな…」
「まぁ、元々得意だし」
「自分でいうなよ」
 一人一人背の低い仕切りで仕切られたブース状の作業スペース。俺と良二は通路を挟んで隣同士だ。良二は自分の席に戻るとマグカップに入れてあるコーヒーを一口口に含み本を広げ、糸栞を取った。
「さめてる」
「えっ?」
「コーヒーのことだよ」
「あぁ」
 それきり口を閉じた良二は次のページをめくった。
 鞄からセカンダリPCのノートパソコンを取り出し、LANケーブルを接続する。なんだかんだいって有線の方が速度が出る。見慣れたログイン画面にパスワードを入れると、僕はいったん席を立ち、良二が電源を入れたコーヒーメーカーからコーヒーを注ぎ、自分の席に戻ると、コースターの上に置いた。

 すでにできあがっているシナリオをスクリプトに埋め込んでいく。背景変更、立ち絵切替…音楽割り、SEの当てはめ………。多くの部品を最終的にひとつにくみ上げるのは俺と良二の仕事だ。
「和也、こいつで試してくれないか?」
 作業を中断し、良二の方を向く。「どれ」
「16ディザDLLの新しいやつ。前よりは軽いはずだ」
「OK」
「今、飛ばした」
 メッセンジャーのウィンドウにファイル転送完了の文字が踊る。受け取ったファイルをSayuriエンジンのあるフォルダにいれ、プログラムソースの1行目を書き換えデバックモードで起動する。メニューから『測定』を選ぶと、画像ファイルを連続で読み込み、その速度がログファイルに書き出されていく。100枚の画像の表示が終わり、ログファイルを開く。
「…一枚あたり100msec(ミリ秒)の高速化…。凄い進化だね…」
「画像を分析して、中心にない部分やベタ塗りのところは適度に処理して、メインになる部分に時間を割くように分担したら画質と同時に速度も上がった、というわけ。MDに使われてるATRAC-3みたいなものさ」
「流石、音楽をやってるだけあるね。音声圧縮の考え方を画像に持ち込むなんて」
「う~ん…。専門分野の細分化が進んで、他の分野に目を向ける人が少ないからな、特にこの業界は。広い視点で物を捕らえる必要用があるって事だ」
「なるほどね…。で、これで完成?」
「んにゃ、もうちょっと。あと50msec速くする」
「頼もしいな」
「…おまえこそ、バグとか出すなよ。今回、俺はおまえの作業が一番心配なんだからな」
「大丈夫だって」
 部屋のあちこちで朝の挨拶が聞こえてくる。三つの部署が同じ部屋に入っているが、その人数は、二十数人。しかしながら、ギャルゲーメーカーとしては多い方でもある。メンバー全員がお互いのことを知っている。
「おはよぅ」
 と、声をかけてきたのは、香澄さんだった。
「おはよう。…ってあんた、そんなにのんびりしていていいのか? マスター締め切りまで後二ヶ月。イベントCGの原画…後何枚だっけ?」
「う~ん…。五十枚ぐらいかなぁ~。一日三枚のペースで描けば間に合いますよ。私は原画を描いて、トレースして、色指定すれば大丈夫だから」
「その前に竹井さんのダメだしがあると思うんだけどなぁ…」
「気にしない、気にしない。なせばなる、ってね」
「いや…だから…話している暇があったら………」
「いじわる…」
 おいおい、やりすぎだよ、良二。ほら…涙目だぞ…。…あ~ぁ、自分の席に帰っちゃった…。
「まにあうんかな?」
 いまだに心配そうな良二。
「大丈夫だと思うけど?」
「だよなぁ…。なんだかんだ言って、集中力がすごいもんな、あの人…」
「あぁ」
 そう言って頭を掻く良二。良二の話によると癖らしい。昔、髪型をスポーツ刈りにしていた時期があって、その後、髪を伸ばしたら、どうしても邪魔に感じてしまって、髪をかき上げる癖がついたらしい。単なる癖にもその人の今までの生き方が見えてくる、と言う竹井さんの言っていたことがよみがえってきた。
「そういや、おまえは間に合うのか?」
「あぁ、もうすぐだ」
 …たぶん、とは口が裂けても言えない。
 良二が聞いてきたのは、今回からバージョンアップする[Sayuri]の事だ。AVG専用ゲームエンジン、Sayuriは僕の開発したプログラムのひとつ。Ver2.0は従来の処理速度を維持しつつ、次世代のWindows…つまり64bitに対応、HT対応等と言った近年のパソコンに取り入れられている技術を最大限に発揮し、なおかつ、ひと世代前のパソコンでも軽快に動作するようになる。
 …はずだ。
 こんなにも弱気になるのにはきちんとした理由がある。簡単に言えば、まだ完成していない。マスターアップ締め切り…つまりは、CDをプレスするためにプレスメーカーに渡す締め切りまで、今日で残り二ヶ月になってしまった。今日のミーティングで明らかになるだろうけど、一番作業が遅れているのはこの僕だ。実装できていない機能もあるし、実装していても不安定な機能も多い。良二はDLLの開発に忙しいし、向中野さんは締め切り一週間前とあって今頃デバックに終われていて修羅場だ。意見を聞く事なんて出来ない。百合山さんに至ってはDNAエンジンという違うプログラムを使っていて、Sayuriの事を相談できない。出来たとしても、基本構造だけしか相談できない。
 つまり、やるしかない、と言うことだ。
 最低限の機能を実装しているSayuri2.0を起動し、その動作を確認していく。次第に活気に満ちていく部屋にキーを叩く音がかき消されていく。画面には多くのウィンドウが並び、それぞれにソースが打ち込まれている。アクティブ、非アクティブを切り替え、手を加えていく。
「間に合わないに15000円」
 良二は何時も100円単位でかけてくる。良二曰く、自分の給料を500円だとして、設定している金額だから、本来の金額に直せば相当の金額にならしい。僕自身、良二が最も高値を付けたのでも500円だ。その良二が15000円なんていう金額をつけると言うことは、100%超の確立で、良二は間に合わないとい言っているのと同じ意味だ。
「ちょっと待てよ、それはいくら何でも高すぎだろ」
「じゃ20000円で」
「…」
「だってさ、発売日延期の理由に、プログラムが間に合いませんでした、って、結構ネタになるぞ…。まぁ、現にギリギリでデバックをろくにしないで発売したゲームもあるけど、プログラム自体が出来なかった、といのはそんなに聞かないしな。少なくとも、叩かれるのは俺じゃないし」
「16DLL作り終わったら………手伝ってくれよ…」
「まぁな、その時は手伝うさ。叙々苑か一心亭の地番高いメニューで頼む」
 叙々苑はまだしも…一心亭なんて、北海道と東北だけのチェーンだぞ…。移動費も出せと言うのか…。
 向中野さんが「おふぁよう」と言いながら、あくびをする。
「まにあいそう? こっちは泊まり込み…。何時も思うけど、仮眠室を作ってくれた鈴さんに感謝」
「俺は間に合わないに20000円です」
 「あはは」と苦笑いをしながら良二は言った。
 鈴さんというのは…音楽担当の向井さんの知り合いの人だ。もちろん愛称であって本名ではない。ビルを建てるのはあまり好きじゃない、と言いつつも、去年この会社の新ビルを設計してくれた人だ。自身もゲームをするらしく、僕たちの事情を知っていて、何かと便利な設備が整っている。おかげで快適な環境で仕事が出来る。僕は実感していないけど、事務の話によると、作業速度は速くなっているらしい。
「まぁ、がんばろう。じゃな」
「はい」
 そう言うと向中野さんは自分のブースへと戻っていた。開発室が違っていても部屋は同じ部屋。ただ広い通路で区切られているだけ。立ち上がればみんなの顔が見える。
「おはよう」
 ひときわ大きな声で現われたのは灰色のスーツに身を包む竹井さん。僕ら冬組のチーフ兼シナリオライターだ。灰色のスーツは似合う人が少ないと言うけど、竹井さんはそれをそつなく着こなしている。眼鏡をかけていてもインテリには見えないさわやかな青年という印象があっている。…全体的に細く引き締まっている体つきがそう僕にイメージを持たせるのだろうか。センター分けのさらさらと流れる髪。眼鏡の奥に見え隠れする鋭く、かつ、柔らかみのある目は、竹井さんの性格をそのまま示しているようにも見える。
「さて、みんな。ちょうど後二ヶ月だ。作業状況の説明、初め」
 竹井さんの声でミーティングが始まる。まずは各部門の作業状況だ。
「シナリオ、メインキャラ八割、NPC九割完成。誤字のチェックを始めています」
「原画、残りICG58枚」
「彩色、原画を順調に追従」
 竹井さんが自ら報告するとその後は暗黙の領域で決まった順番で自分たちの作業状況を説明していく。次は僕の番だ。
「プログラム進捗率四割。今のままでも動きますが、要望されている機能の一部はまだ実装できていません」
「よし、このペースなら二週泊まれば大丈夫、と言うところかな。前村は危険な位置にいることは把握していると思うが…大丈夫だな?」
「はい」
「おはようございます」
 やや遅れてミーティングに混ざってきたのは向井さん。三つあるすべての部門の音楽を一手に引き受けている彼女はメンバー僅か二人の音楽部門の代表格の人だ。音楽部門は三つの開発室の曲を担当しているから、一番最後の開発室である冬組には何時も遅れてミーティングに参加する。
「こちらからはうれしいお知らせです。如月さん、スケジュールが合って、来週の月曜日、収録に入れるようです。時間の都合もあるかと思いますが、みなさん、収録に立ち会って頂けないでしょうか。シナリオの竹井さんは必須として、音楽に関わりのある籠原さんもいかがしょうか」
「了解。イメージをふくらませるためにみんなに参加してもらいたいが…大丈夫かな?」
「大丈夫です」
 ほぼ同時に全員が答える。
「では、そういうことです。よろしくお願いしますね」
 「はい」と返事をした向井さんは音楽ブースのある4階へと向かった。
「おはようございます。いいですか?」
「はい」
「背景、進捗四割。現在秋組に時間を割いています」
「発売は秋組の方が速いから、それで問題はないでしょう」
「ありがとうございます」
「原画と彩色は時間の都合を見て背景と打ち合わせをしておくこと。それじゃあ、今日一日、よろしくお願いします」
《よろしくおねがいします》

 昼ご飯を食べ手持ちぶさたになった僕は、ふとノートパソコンを広げた。大きく空間を切り取られた社内のカフェ。大通りに面しながらも、レストランやブランドショップが建ち並ぶこのあたりは、昼になるとかなりのにぎわいを見せる。このカフェも一般人に開放され、昼の間はOL達が談笑を交わしている。
 無線LANで接続し、リモートデスクトップを起動すると、自宅のパソコンを操作する。プログラムフォルダからとあるフォルダをコピーすると、そのフォルダの中にあるプログラムを起動した。
 何時か見たように起動されると、そのプログラムは画面右隅に降り立つ。
『こんにちは』
 立て続けに、『あの…名前を教えて頂けますか?』と表示される。二つの選択肢が表示されると僕は、“はい”を選んだ。テキスト入力用のウインドウが表示されると僕はそこに、自分の名前を入力した。
 『あ…あの…なんとお呼びしたらよろしいでしょうか?』その文字と共に、“さん”“ちゃん”といった接尾語が表示されると、その中から一番普通な“さん”を選んだ。
『かずやさん…ですね。よろしくお願いします』
 表情が変わる。…結構緻密に作られている、と言うのが第一印象だった。もちろん、僕らが作るゲームのようにクチパクがあるわけでも、音声が再生されるわけでもないが、表情、体位の変化など、一つひとつが繊細だった。聞いた話によるとしっぽが動くと言ったアクションがあるアクセサリもあるらしい。
 僕は何気なくマウスポインタをその上へと移動させる。ちょうど頭の位置でカーソルが『手のひら』の形になる。その状態で左右に動かすと、そのプログラムは僅かに表情を赤くし、『あ………っ』と画面に表示される。その表情は照れているように見える。
「っと…時間か…」
 そのプログラムを起動したまま僕はノートパソコンをいったん閉じると、自分の作業場へと戻った。

初出: 2004年6月12日
更新: 2005年4月22日
原作: 鈴響 雪冬
著作: 鈴響 雪冬
制作: 鈴響 雪冬
Copyright © 2004-2005 Suzuhibiki Yuki

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