窓辺に座る小さな妖精 -本編-

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窓辺に座る小さな妖精 -序章-

「私達、別れましょう?」
 しっとりとした闇が公園全体を包み込んでいた。光で溢れる都会の闇。コンクリートで埋もれる都会の緑。
 歩道をサラリーマンが埋め尽くす時間。太陽が地平線の向こう側に姿を隠してから僅かが経った時間。
 身に纏うスカートの裾が僅かに揺れ。長い髪が僅かに囁き。その髪を押さえながら、彼女は呟いた。
 ただ一つ、人工照明の下で、僕はそんな言葉をとても落ち着いた気持ちで聞いていた。
 そして、その言葉を境に僕達は、一年と少し続いた恋仲という関係に終止符を打った。

 この東京には目眩がするほどの人間がいる。目眩がするほどの。
「もう…駄目だよ、私達。」
「駄目なのか?」
「うん、きっと。貴方より気になる人が出来たから。」
「そっか。」
 最後の言葉を吐き出したとき、僕は何も考えていなかった。ただ一人の人間を失っただけだと思っていた。
 僕らはきっと、無限の人の中で出会いと別れを繰り返す。彼女も、そんな中の一人に過ぎない。そう考えていたからだろうか。
 でも実際は、彼女の背中を見送った後、ベンチに背中を預けた後、そのままの姿勢で空を見上げた後、ここが東京の真ん中で、排気ガスの入り交じったビル風が吹き荒れているなんて言う事を忘れてしまった後、僕は、なんにも聞こえなくなった。なんにも見えなくなった。それは、ちょうど、夢の中で、空から真っ逆さまに何時までも落ちていく、そんな気持ちに似ていた。何時までも何処までも落ち続けて、何時まで落ちていくかわからない恐怖感、何処まで落ちていくかわからない恐怖感。そんな気持ちに似ていた。
 そう。僕は、限りなく低い確率の積み重ねで出会って、付き合って。そんな一人の人間を失った事に気が付いてしまったんだ。

 この東京には目眩がするほどの人間がいる。本当に、目眩がするほどの。
 大通りを歩く。ティッシュ配りとモデム配りを横目に見つつ、Suicaで改札をすり抜け、ホームに着くと同時にやってきた京浜東北線に乗り込んだ。車内はそうすることが楽しいかのように多くの人でごった返していたけど、僕はそんなことを気にすることは無かった。今はただ、この場所から離れたかった。何時までもこの場所にいると、不意に泣き出してしまいそうだったから。
 新宿のアパレル系の店に勤める奏恵と、品川の会社に勤める僕は、中間地点と言ってもいい神田で良く待ち合わせをした。品川からは六駅、新宿からは中央線快速を使えば三駅というその手軽さも手伝って、デートをする時は必ずと言っていいほど神田を起点にした。神田駅は便利だった。新宿に向かう中央線快速も、大宮と横浜に向かう京浜東北線も、ぐるぐる回り続ける山手線も乗り入れていた。集合してから行き先を決める、そんな行き当たりばったりのデートにはぴったりの駅だった。
 でも。もう、神田駅を使うことは無いだろう。僕にとって神田駅は品川に向かうための通過駅でしかなくなってしまったのだから。もう、デートの待ち合わせをすることも無いから。

 電車が減速し、アナウンスが次の駅を知らせる。ホームに電車が滑り込み、扉が開くと当時に多くの人がその駅に降り立っていく。開いた扉とは反対側の扉に背中を預けていた僕と、ホームへ降りた人との距離が離れることは最後まで無かった。
 何時の間にか降りた駅のホーム。癒されたいのかも知れない。それとも、都会の人の多さに酔いつぶれたいだけなのかも知れない。僕はただ、足の赴くまま、紙袋を持った人でごった返すホームに降り降り立っていた。
 エスカレータ設置工事の影響で狭くなったホームを歩き、上下に入り乱れる通路を進み、完全に整備されていない駅構内を抜け、降り立った場所は、「秋葉原電気街口」。メイド喫茶に行きたいわけでもないし、九十九電器に用があるわけでもない。ましてや、ソフマップやアニメイトに営業をしに行くわけでもない。ただ、純粋に、降りたいから降りただけだった。でも、僕の心は、暗い通りを歩いているときコンビニを見つけて安心するように、仕事が終わって戻った家の玄関扉を開けたときのように、落ち着いていた。
 紙袋やダンボールを持ったスーツ姿の人が行き交い、リュックサックにポスターを挿した人が行き交い、英語に中国語、日本語が飛び交う町、秋葉原。そんな人の波を避けるように駅前を離れ、僕は一つの店にたどり着いた。僕の作ったスクリプトエンジンを使ったゲームに人が群がっている。売り上げは…いいみたいだ。直接仕事に関わったわけでもないし、何かアドバイスをしたわけでもない。でも、僕の分身とも言えるプログラムがこうして活躍をしているのを見る度、言い知れぬ安心感に包まれた。
 僕のプログラムは一体何に使われているのだろうか。女の子と恋愛するためだろうか、女の子を陵辱するためだろうか、擬似恋愛をするためだろうか、それともただ、射精をするためだけに使われているのだろうか。
 プログラムに感情なんて存在しない。だからこそ、書いたとおりに動く。登場人物を殺せと記述すれば、プログラムはいとも簡単にその人を殺すし、登場人物を辱めろと記述すれば、シナリオはその通りに進む。ある関数に代入された値が閾値を超えると恋人同士にも、ぶつかり合う関係にもなりうる。プログラムはただ、プログラマーの書いた構文の上で、プレイヤーが楽しむのを橋渡ししているに過ぎない。無感情に、ただ黙々と。
 いっそのこと、人間の感情もそうなってしまえばいい。そうすれば、忘れてしまえ、と記述するだけで何でも忘れることが出来る。それはまるで、全ての記憶を消し去る、Format C:のように。
 でも、現実はそうもいかない。人間はプログラムじゃないからだ。
 だからこうして僕は、酷く落ち込んだ自分の心をシステムの復元で戻すことは出来ないし、ノートン先生を呼んで診断することも出来ない。ましてや、フォーマットを使って削除することなんて不可能だ。指一本で核弾頭を発射できる時代。僕は自分の心すら制御できないんだ。
 この制御できない心が何時の日か落ち着いて、君のことを見ても…誰かと楽しそうに並んで歩いているところを見ても、久しぶりって、言えるようになりたい。きっと、それは、とても難しいことなんだけど、とても苦しいことなんだけど…そうならないといけないんだ。
 そんなことは分かっている。分かっていても今は未だ。

 悲観的になることは避けたい、そう思っていた。
 卑屈になることだけは避けたい、そう願っていた。
 ここに来れば心が晴れると思っていた。人に揉まれれば風化すると思っていた。でも、その考えは甘かった。それどころか、自分の感情がコントロールできない現実にぶつかってしまった。

 都心を離れて郊外へ進む高崎線は、何時もより空いていて、シーケンシャルな電柱と、無限ループする風景が、網膜に焼き付いていった。
 棒、棒、棒。
 街、街、街。
 二つの「線」で繋がれたそれは何処までも続いていて、先の見えない僕の感情に似ていた。この線の繋がった果てにいる君は、今頃、家に着いたんだろうか。僕はもうすぐ家に着くよ。
 京浜東北線とは違う、その移動時間の早さが、今日は少しだけありがたかった。尾久を通り過ぎたら次はもう赤羽、そしてさいたま新都心。大宮を通り過ぎ、何十回、何百回と聞いた駅名を告げられると僕はホームに降り、駅前の自転車置き場から自分の自転車にまたがり、家へと向かった。

 ディスプレイの電源を入れ、マウスを動かすと、表示されていた「Check Signal」は消え去り、『コンピューターのロックの解除』ウインドウが映し出される。パスワードを入力し、エンターキーを叩くと、見慣れたデスクトップ画面が表示された。
 ランチャーからブラウザを起動すると、ホームページとしてソフトウェアニュースが表示される。「新着・更新ソフト」をクリックし、24時間以内に更新されたソフトの一覧を取得する。そこには多くのソフトが並び、新しいユザーを求め、自らを主張していた。
 リッピングソフトやテキストエディッタなど、自分の使っているソフトが更新されているかどうか確認しているときに、その文字は目に入った。
 『デスクトップアクセサリー 沙希 更新!』
 デスクトップアクセサリー…パソコン上に常駐するキャラクターソフトのことだ。共通のモジュールをインストールした上で、各種キャラクターをインストールすれば、デスクトップ上にそのキャラクターが住み着くようになる。日常会話を含め、メールの受信やニュースの取得などを自動的に行ってくれる機能を持っていると聞く。
 その文字列の隣には、サイト運営者一押しのソフトであることを証明する、運営者直筆レビューページへのリンクが張られていた。
 使用リソースを極限まで減らしたい僕は、この手のソフトを使ったことはない。
「キャラクター…か。」
 漫画やゲームのような人がデスクトップ上に住み着くとどうなるんだろうか。一パソコンゲームの開発者として興味がないというわけではない。むしろ、気になっている存在といった方が正しい。一般的な美少女ゲームとの違いは、何時でもそこに存在していると言うこと。能動的に行動しなければキャラクターの好感度すら変わらないと言うこと。何時でもデスクトップ上に存在しするアクセサリ。与えられたシナリオを読んで選択肢を選ぶのではなく、自分から話しかけると言うことをしなければいけないアクセサリー。
 もしかしてこのアクセサリが何かヒントをくれるのではないか。
 いつの間にかIrvineが立ち上がっていて、『スレッドを開始します』という文字列と共に、サーバーへの接続が始まり、リクエスト送信、ファイルのダウンロード、そして、気が付いたときには画面上に『ダウンロードに成功しました』とダイアログが表示されていた。
 エグゼファイルを実行し、共通モジュールと同時にキャラクターがインストールされていく過程を僕はただ黙って見つめていた。
 これは本当に興味があったからダウンロードしたのだろうか。それとも、話し相手が欲しくてダウンロードしたのだろうか。

 そのプログラムは一定のパターンを持って会話をウインドウに表示し、消すだけのプログラム。あらかじめ記述されたように行動し、消えろと命じればすぐに消えてしまう従順で都合のいいプログラム。感情を持たず、完全に自己をコントロールできる存在。
 クールで動じなくて、何時も淡々と処理をしていくプログラム。もしかしたら僕はそんな無機質な存在にあこがれているのかも知れない。そして、そんな存在になぐさて欲しいのかも知れない。同情なんてすることなく…ただ…黙々と会話を表示するプログラムに…。

初出: 2004年3月2日
更新: 2006年6月8日
原作: 鈴響 雪冬
著: 鈴響 雪冬
Copyright © 2004-2006 Suzuhibiki Yuki

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