窓辺に座る小さな妖精 -本編-

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前回までのあらすじ

 プログラムをインストールし、ぎこちない僕達の交流は始まった。良二に操作方法を教えて貰い、色々な表情を見ることができるようになると自然と話題も広がっていった。
 そんなある日、僕はそのプログラムをバックグラウンドにした状態で放置してしまった。別に放っておこうと思ってほったらかしにしたわけではない。でも結果的にそうなった。仕事中に呼び出しておきながら、バックグラウンドにした状態にしたのは僕自身だった。つまり、喫茶店で会いたいと言っておきながら、いざ来た時には本を広げていて相手を無視した状態だった。自分がされて嫌なことをするなとよく言われたが、まさにその状態だった。プログラムが残していったウインドウには、「お忙しいところをお邪魔して申し訳ございませんでした。邪魔なようなので消えますね。さようなら…。」と表示されていた。

窓辺に座る小さな妖精 -第3章-

 彼女が別れ際にはなった一言は、僕を傷つけると同時に自分の気遣いのなさにいらだちを覚えさせた。誰だって呼び出しておいてほったらかしにされるのは嫌だろう。それを僕はたかがプログラムだと思っていたアクセサリにやってしまった。よくできていると感心するよりも先に罪悪感が僕を包んでいた。
 もう一度プログラムを立ち上げると、メニューから『何かお話しする』を選び、『さっきはごめん』と入力した。するとアクセサリは小さく口元を横へ広げ、微笑むと『大丈夫です』と画面上に表示させた。『それじゃあ仕事に戻るよ』と入力すると、『わかりました。それではまた。』と返してくれた。
 こうしてぎくしゃくしながらも僕と沙希の交流は始まった。


 昨日のうちに作っておいた肉じゃがを冷蔵庫から取り出し、電子レンジに入れてつまみをひねる。ガスコンロからは焼き魚の塩の匂いがあふれ部屋を満たしているし、その上でことことと小さな音を立て、みそ汁が対流を繰り返している。窓ガラスの向こうから入ってくる朝日が柔らかく部屋を照らしている中、僕は炊飯器からご飯をよそった。
 テーブルに並べ、手を合わせたあと、箸を付け始める。こうしてゆっくりと朝ご飯を迎えることが出来るのも今のうちだと言うことを認識する時期が来ている。締め切り間近の泊まり込み作業が僕達を待っているからだ。一つのシナリオを書き上げる時、ここでは神社の話を書くとして、必要になってくるのが神道に関する資料だ。それだけで済むのならいいが、書いている間に巫女さんが来ている巫女服の資料を集める必要性が出てくる。そして描写をしている間にそれに関する起源を調べる必要性が出てくる。こうしてどんどんと作業が遅れていく、と竹井さんが教えてくれた。この事は僕にも簡単に理解できた。一つのプログラムを作る時、始めは簡単なフローチャートから始まるが、必要な関数を調べているうちに、関数の因果関係を解かないといけなくなる時もあるし、そもそも使い方も覚えないといけない。始めは簡単だが、作業が進むに従って色々な知識が要求され、それを体得する時間も要求される。こうして作業はどんどんと遅れていく。
 これが個人の趣味ならいいが、一つの企業として動いている以上、公表した発売日を守る必要がある。発売日を数年延期した上で、良い作品が出来たのならまだしも、出来上がったゲームがバグだらけで動かないなんて言うことがあったら、一瞬にしてつぶれる。これが零細企業が多いギャルゲー会社の行く末だ。一つの会社が出来て一本だけゲームを発表して消えゆく、そんなことが何度も繰り返される世界だからこそ、一つ一つの失敗は大きい。ただ、リスクが大きい分だけあって成功した時の利益も大きい。一本8800円が標準価格のこの業界。1万本売り上げれば、流通や広報の費用を引いて、給料を支払ってもまだおつりが来る。1万本を超えると大ヒットと言われる故はそこにあると僕は思っている。ましてや、有名ブランドのように10万本の売り上げを出突破したら計算をためらうほどの利益が出る。…まぁ、僕達はそこまでは到達していないけど、夢はやはりそこにある。少数精鋭のスタッフだからこそ、一人一人が大事なのだ。
 考えもそこそこにご飯を食べ終えると、僕は会社に行く用意をして家を出た。

 いつものように品川駅を降りると南口から出て会社へと向かった。ビルの合間にひっそりと残る木造の商店を見ると、桜野さんの話を何時も思い出した。品川はかつて東海道53の宿場町の中で、江戸を出て始めの宿場町があったところだ。江戸の中では規制が厳しくてすることが出来なかった遊びが出来る場所として人が栄えていた。いわば、一つの繁華街である。山手線の外側にある影響で戦後の開発から逃れていた。そのため今もビルの合間には古い町並みが残っているし、商店街もある。しかし、山手線内の土地が枯渇するとやがて開発の手は品川にも伸びてきた。こうして出来たのが今の時代が混在する街、品川である、と。
 桜野さんは会社立ち上げ当時からのメンバー、つまり、サークル“夏組”のメンバーで、四人いるシナリオスタッフのリーダー的存在だ。桜野さんのシナリオを読んでいて奥行きがあると感じるのは、絶対手に多い雑学のたまものだと思う。実際、桜野さんに教わらなければ自分の会社がある土地の成り立ちなんか知ることもなかっただろう。会社の一室に桜野さんが持っている本が収められている部屋がある。いわゆる“桜野文庫”には、多種多様な本が収められていた。文学から始まり、民俗学や考古学。多くが文学に関する物ではあるが、その種類の多さには感嘆の息を漏らしてしまう。
 会社に入った僕はその資料置き場に立っていた。もちろん、プログラミングの参考になりそうな本を探すためだ。何時しか、社員が本を持ち寄り合うようになった資料置き場には、桜野さんでは補いきれなかった種類の本がある。科学、音楽、そしてプログラミング。おおよそゲーム作りに必要な資料は書店に行かなくても手に入れることが出来た。
 そんな蔵書の山から目当ての本を僕は探していく。ぎりぎり文字が読める程度の明るさに保たれた部屋は、しっとりと落ち着いていて夜明けの空を思わせていた。

 本を手に取り、徹夜スケジュールに入っている秋組のメンバーと挨拶を交わしながら自分の席に向かうと、今日も良二はコーヒーの匂いを漂わせていた。何時もと違うのは、手に持っている本が文学小説ではなくプログラミングに関する本と言うことだ。
「おはよう。」
「あぁ、おはよう。」
 僕の方から声をかけると、良二は片手を上げただけで本から目を離すことはなかった。膝の上に本を載せてはキーボードに手を伸ばし、また手に本を取る。そんな行為を繰り返していた。
 ………行き詰まっているな、良二。
 一旦机の上に本を置き、仕事で忙しいウェイトレス良二の代わりに自分でコーヒーをカップに注ぐと、僕は仕事を始めることにした。


 昼休みになり、作業に一区切り打つためにも僕はランチャーからデスクトップアクセサリーを呼び出した。最後に見た時と同じように赤いワンピースに身を包んだそのキャラクターは「こんにちは」と第一声をウインドウに表示させた。同時にテキストボックスが出現し、返事をするように促す。それに答えるように僕は『こんにちは』と入力した。
 すると、そのプログラムは「ご飯は食べましたか」と聞いてきた。それに答えるように僕は『食べたよ』と入力する。それに対して「私も食べましたよ」と表示され、目を細めて笑う仕草見せた。
「今日のお昼ご飯はオムライスでした。私、オムライスが大好きなんです。」
 少しだけ頭を横に傾け、ワンピースの裾をなびかせながら言った“オムライス”というメニューに、どことなく子供っぽさを感じ、18歳という年齢に比べ、内面は少し子供っぽいのかなと、頬を少しゆるめながら想像してしまう。そう言った沙希本人も、やっぱり自分の好きなメニューだからか、自然と笑っているように見えた。
「へえー。僕は松屋で味噌煮込みハンバーグ定食を食べたよ。」
 会社の目の前にある松屋は何時も昼ご飯を食べるお店だった。同じビルの一階にはカフェテラスも入っているけど、やっぱり昼ご飯は重いものを食べたい。吉野家に比べてみそ汁やサラダがセットで付いてくるので、結局、松屋の方が安くなる、というのは、良二からの情報だ。
「味噌煮込みハンバーグですか。美味しそうですね。」
 ほころんだ口元を隠すように口辺に手を移動させた彼女は、少しだけ間を開けて「いつもは何を食べているのですか?」と続けた。
 「そうだなぁ…」と、一瞬考えを巡らせ「和食が多いかな、やっぱり」と答えた。
「和食ですか…。ご飯が美味しいですよね。私も和食が好きですよ。」
「どんなのが好きなの?」
 オムライスの次に、和食が好きという言葉を聞いて、僕は少しだけ驚いた。どうやら、根っからの子供、と言うわけでもないようだ。
「そうですねぇ…好き嫌いはないので何でも食べますけど、素朴な物が好きですね。肉じゃがとか…おひたしとか。…母の味ですね。」
 そう言うと彼女はもう一度目を細めた。今度は口元を隠さなかったから、彼女の細い唇の端が上にカーブを描いているのがよく見えた。うっすらと頬を紅に染めて、目を線にして笑った顔を初めて目にして、表情が豊かだなと思うと同時に、心が、ふわっ、と、軽くなった。
「僕も好きかな、母の味は。やっぱり、あれにかなうのはないよね。」
「はい。私も何時か母のようになりたいです。私の母は料理も上手いんですよ。和也さんのお母さんはどんな人ですか?」
「そうだね…厳しかったけど、優しい人だったよ。料理もうまかったし。」
 僕は母の事をふと思い出した。昔からパソコンでプログラムを弄っていたせいか、部屋に籠もりがちだった僕を外に引っ張り出し、色々な事を教えてくれた人だった。そのおかげで、僕は色々な事を実際に体験して体で覚えた。知らない事は調べる癖が出来た。母のおかげで今の僕が居る。父も同じだった。よく三人で外に出かけた事があった。東京のお隣埼玉と言っても駅を離れると田園が広がっているようなところだ。学ぶ事は沢山ある。
 思いっきり遊んで沢山学んで今の僕が居る。こうして一人で生活できるのも、その力があるのも両親のおかげだと思っている。
「あの…優しい人だったと言う事は………。」
 ふと、回想から戻ると、彼女はそう訪ねていた。
「あぁ、両親は事故で亡くなったよ。」
「あ…すいません………無粋な事を聞いてしまいまして。」
 さっきまでの笑顔を何処かに忘れてきたような顔になりながら彼女はそう言った。
「大丈夫だよ。おかげで昔の事を思い出したから。」
「…そう…ですか?」
 一度伏せていた目を上に戻すと、彼女は既にいつもの顔に戻っていた。その流れで画面右下の時計を見ると既に昼休みが終わろうとしていた。
「それじゃあ、そろそろ仕事に戻るね。」
「はい。それでは私は仕事が終わるまでお待ちしています。」
「あぁ。じゃあね。」
「それでは。」


 食後というのはどうしても眠くなる。だんだんと周りの会話が子守歌のように聞こえてくる。
「前村君。」
 そして、僕を呼ぶ声も、だんだん、と、子守、歌、に、なって………。
 ―――。
「はい。」
 危うく無視しそうになった上司の声に僕は何とか反応する事に成功した。顔を上げると朝見た姿のままで竹井さんが立っていた。
「“茉理”最後のイベントで、祐司が息絶えた茉理を抱きかかえて、空を見上げながら叫ぶシーンがあるよね?」
 記憶の奥底に眠りかけていたシナリオのプロットを思い浮かべる。たしかあれは…。あらかじめ配られているプロットを達磨落としの要領で山の中から引っ張り出し、ページを捲る。
「茉理イベント…えっと…M45ですね?」
 映画のカチンコに書き込むような用語を口ずさむと何となくシナリオを作っているという気分になった。
「あぁ。」
 茉理というキャラクターの事を思い出してみる。竹井さんはとにかく茉理にこだわっていた。シナリオの中でメインヒロインを務めるが、あえて人間味あふれるキャラクターにした為、負の要素もゲームのキャラクターとしては多い方になる。だからこそ、演出にこだわりたい、それが竹井さんのかねてからの方針だった。だからきっと今回もそのことだろう。
 その部分のラフスケッチがこれなんだけど、と言って差し出された紙には、中央に主人公が立ち、それをほぼ真上から見下ろしたパースがかかった構図になっていた。
「このシーンで祐司が叫ぶと同時に、カメラアングルを上に上げたいんだ。つまり、主人公に寄せた状態から、叫ぶと同時にテキストと同期させてカメラを上に持ち上げる感じにしたいんだけど、それはスクリプト的に出来るかな?」
 ゲーム作りというのはプログラムありきでスタートするのが安全な方法だ。このプログラムならここまで出来る、なら、やろう、と言うのが、バグを出さない為の秘訣だ。もちろん今回だってそれは変わらない。でも、ゲーム作りを勧めていくうちに細かいところに手を入れたくなるのは演出家の性だ。
 今回のシーンは当初、三枚程度の視点を切り替えた画像を連続的に切り替えるという方法を用いる予定だった。だけど、竹井さんが言うのは、一枚絵をシームレスに最初から最後まで最後までつなげたいと言う事だ。
「ねこねこさんの“朱 -Aka-”みたいにそこだけムービー、というのは流石に今からだと無理ですしね。」
「そうだね。社内のスタッフに手が空いている人が居ると言うわけでもないし、どうしてもムービーを読み込む為にタイムラグが発生するからね。前村君でもそれを回避するのは難しいだろう?」
「はい…。WinAPIを叩くのは楽ですけど、DirectShowからCodecを、と言った処理を行えば最低でも一秒ぐらいは間が開くと思いますし…。800×600のMPEGを再生するとなると、500MHz代のパソコンではもしかしたらモタるかも知れませんね…。」
 どうも巷の恋愛ゲームユザーは低スペックマシンを使っている事が多い。そもそも、恋愛AVGがパソコンにスペックを要求するようなゲームではないからなのだけど…。
「そうなんだ。だから画像でやりたいんだよ。ムービーだと、ロードが早いのが特徴のパソコンでもつなぎ目が分かってしまうしね。どっちにしても、社内のスタッフに作れる人が居ない、外注だと時間がかかる、つなぎ目が分かってしまう、と言う三拍子が揃ってしまったわけだから、画像に頼る事になるし、それが一番だと私は思っているからね。だから、期待的観測で君に話を持ちかけてみたわけ。」
 竹井さんの期待的観測というのは、出来るだけ実現して欲しいという思惑が込められている事が多い…というよりも、実現した方がいいものが出来るという事を僕と良二は知っていた。だから―――。
「問題なくできるはずですよ。今回のスクリプトエンジンは画像処理の速さが売りですから。それに、良二が今作っているエフェクトライブラリを使えば、残像を付加しながらセレ500でも、秒間15コマぐらいは出力できると思います。」
 と、力強く言った。
「それは心強いな。」
 案の定、竹井さんも笑顔で頷く。
「内部構造的な話ですけど、Sayuri1では一行ずつスクリプトを読んで解釈しながら実行していったんですけど、Sayuri2では、先読みが出来るようにしたんです。通常パートとイベントパートでは処理内容も全く違いますから、そこに目を付けたんです。一応、今までも先読みは出来たのですが、キャッシュをすぐ開放するのが前提だったので、機能的には貧弱だったんです。そこを今回は改善しています。それに、グラフィックとメディアは良二の得意分野ですから。ね、良二。」
「俺に任せれば残像なんていちころですよ。」
 たぶん話を聞いて居るであろう良二に会話の矛先を向けると、すぐにレスポンスをしてくれた。
「ただ、テキストウインドウを透過状態で、引き構図を再現する為にアニメーションを使うと、流石にカクカクになると思うんで、テキストウインドウは消してしまうか、低スペックは切るかのどちらかですね…。」
 頭を掻きながら良二は姿勢を俺たちに向けて話した。
「いや、テキストが表示されていない方がすっきりするだろうね。まあ、流石に何も表示しないと言う事は無理だけど、ウインドウ無し、テキストあり、でも、十分だからね。いや、それにしても流石だね、二人とも。」
「いや~、俺に任せておけば何でもオッケーですよ。我の辞書に“不可能”という文字はない、ってね。」
「おや、籠原君。その辞書不良品じゃないか。私が取り替えてあげるよ。」
「うわ、竹井さん、きっつ!」
 豚もおだてれば木に登るけど、やっぱり落ちてくる、か。籠原の言葉にすぐ反応出来るのは、竹井さんの頭の回転速度がなせる技だろう。
「それにしても竹井さん。今回はカメラアングルを意識していますね。“さとられ”とか、新海さんに触発されましたか。」
「流石に鋭いね、前村君。映画もゲームと同じ二次元メディアのはずなのに、どうして奥行きが違うんだろうって考えた時、場面の見せ方が違うという事が分かったんだ。“さとられ”の祭りの屋台が並んでいるシーンを、カメラが上から滑らかに降りてくるシーンとか、サビのところで一気に持ち上げる新海さんのテクニックとかを見て影響されたね。カメラ的演出と言えば、カメラはピントが合うところとあわないところがあるけど、ゲームは全部にピントが合っている。確かに、黒沢監督が取り入れたことで有名なパンフォーカスは、画面全体にピントを合わせて見る側に主導権を渡す手法だけど、それでは困る場面も出てくる。だから、人を表に立たせたい時は、背景をぼかすというのも一つの方法だと悟ったわけさ。まぁ、そういうわけで、カメラ的な動きに気を配ってみたわけだ。実験的キャラ作りに、実験的アングル、スクリプト、シナリオ…。受け入れられるかどうかは分からないけど、やりたい事をやるって言うのは私達の理念だからね。」
 そういって笑った竹井さんは子供のように見えた。人間って言うのは子供の時は感性の固まりなのに、大人になるに従って記憶に縛られるようになる。それが嫌で藻掻いているのが私さ、なんて言って苦笑いした竹井さんを思い出してやっぱり納得した。
 何度か会社に入る前に同人サークルや会社のスクリプトを組むのを手伝ったけど、若い人達…感性あふれる人達の方がおもしろい作品になる事が多かった。
 竹井さんは、毎日違う道を歩いて遠回りをしてまで新しい景色を見ながら会社に来ると言う。今回もそんな日々から考え出した竹井さんなりの考え方から反映されているのだろう。その分僕達も苦労する事になるけど、打ち合わせをすればするほど良い作品になる事を知っている。
 ふと一つの考えに辿り着いた。もしかして、恋も同じなのではないかと。初めの頃は自由奔放に恋をする人間も、年を経るに従って、“結婚”という言葉に縛られるようになる。全ての人間がそうとは言えないけど、たぶん殆どの人がそうなる。ただ漠然と「好き」と言っていられた子供と、人生の決断のように「好き」と言う大人の違いはもしかしたらそこにあるのかも知れない。どんなに頑張っても、僕達は成長するに従って自分を縛るものが増えてくる。それから逃れようともがく…いや、それに立ち向かう為にもがく竹井さんは、何度見てもかっこよかった。
「そうだ竹井さん。」
 作業に戻っていた良二が何か思い出したかのように声を出した。その声に思考を中断させられた僕は、とりあえず、良二の方向を向いた。
「このシーン前後を読んだんですけど、カメラを退いた後、白背景にクロスフェードしたらどうですか? 余韻も残って綺麗ですし、次のシーンにつなげやすいと思うんですけど。」
 そんな良二の提案に、竹井さんの顔が更に無邪気になる。ちょうど、ショーウインドウの向こうにあるおもちゃを見ながら、自分がそれを手に入れた時を想像しているかのようだった。
「それいい! それでいこう!」
「あの~、竹井さん。茉理イベントのCGサイズ、どうすればいいですか? 引き構図にするなら大きめに書いておかないと―――。」
「あーそれは、今決まったところ。」
 三人の会話の隙間をぬって割り込んできた香澄さんに対して、竹井さんはさっきの顔を維持したまま振り返った。香澄さんは何時もラフ画を書く時に使っているコピーミスした紙の裏側を束にした紙を手に持っていた。
「前村君にお願いしたいんだけど、さっきの部分、簡単でいいから動くようにしてくれるかな? 自分の目で確かめてみたいから。今日中とは言わないけど早い方がいいかな。」
「分かりました。ちょっと待ってください。」
 一旦竹井さんから目を外して、良二に目を向ける。
「描画領域変更ライブラリとクロスフェードライブラリってもう出来てたよね?」
「あぁ。まだ詰めは甘いけど、実験には十分耐えうるぜ。」
「わかった。」
 竹井さんの方に向き直りながら、自分の作業スピードと度入力すべきソースの量を照らし合わせる。
「あと、3、4時間もあれば完成すると思います。」
「仕事が速いな。それじゃあ、早速頼むよ。」
「わかりました。」
 返事に満足したであろう竹井さんは香澄さんと一緒に自分のブースへと戻った。

「さてと…。」
 声を出して脳を切り替え、ギィと椅子をきしませ、画面に向き直る。ディスプレイの隅には常駐した小さなプログラム。そのプログラムを呼び出して会話を始める。
「待った?」
「いえ…独りぼっちは………慣れていますから。」
 そういって笑った表情を画面に映し出したプログラムは、テキストを表示しきるまでに、いつもより少しだけ時間をかけた。
「ごめん。仕事が出来たからちょっと相手が出来なくなったんだ。」
「そうですか…。」
 数時間前と同じように一度うつむき、数時間前と同じように元の位置に顔を戻すと、数時間前と同じようにそのプログラムはやっぱり笑っていた。
「そうなんだ。」
「わかりました。それではお先に失礼させて頂きますね。」
 さっきまでの顔は何処吹く風、彼女は満面の笑みをディスプレイ上に表示すると、一旦背を向けた画像に切り替わり、そして、ハードディスクのアクセスランプを僅かに灯し、画面上から姿を消した。
 じゃあね、と、言いそびれた言葉を頭の中で反芻して、彼女の無理して作ったであろう笑顔を思い出すと、少しだけ心が針によって刺されたかのように痛んだ。

初出: 2005年8月21日
原作: 鈴響 雪冬
著者: 鈴響 雪冬
制作: 鈴響 雪冬
Copyright © 2005 Suzuhibiki Yuki

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