私は結局、 彼女とどうなりたいのかな…。
緩やかに変わる。激しく変わる。良い方向に変わる。悪い方向に変わる。
それは誰にもわからないこと。
ただ一つ確実なのは、幸せになりたいと願っていること。
昼休みの喧噪がまだ耳に残っているような気がする午後の最初の授業は数学だった。お腹も満足して眠くなる時間帯、以前なら先生の言葉と板書という異国語を子守歌にして眠っていた授業も、今は熱心に聞くことができる。異国語だと思っていた言葉は実は日本語で、ちゃんと理解すればすごくおもしろいことがわかったからだ。すらすらと頭に入ってくるという意味がよくわかる。そして、それが爽快と言うことも知った。先生に当てられても「わかりません」と答えるしか能がなかった私がここまでこられたのは遼風さんのおかげに他ならない。その本人は私の前の席で熱心に板書を書き写していた。
私も黒板に意識を集中する。先生が問題を書き終え、教室を見渡す。ふ、と、私と目があった。当てられるかも、そう感じた。先生は私に向かって不自然な瞬きをして首を少し横に傾けた。「音瀬、この問題が解けるか?」そう言われている気がした。私は黒板に書かれた問題に目を向けた。そこには三角形やいびつな多角形がそれぞれ円の中に描かれていて、ひとつの図形に対して一箇所だけ角の角度を求める問題になっていた。
自信があるかと聞かれたらまだ無い。でも、私の頭が「これは日曜日の予習でやったところだ」と私に告げてくる。聞こえてくる声に耳を傾け、私は日曜日の記憶を振り返る。これは確か、円周角は常に一定と言うことと、中心角の半分であるという特性を使うんだったかな。
そう結論を出すと、私は先生の視線に対して小さく頷いて答えた。
「よし、じゃあこの問題を、音瀬、解いてみろ」
ラッキーカラーは青色。ううん。占いはあてにしない。私は実力で解いてみせる。
私の名前が呼ばれた直後から教室は少しざわめいていた。「どうせ答えられないって」、「今日も出るぞ、あのセリフ」、「先生もわざと当ててるんじゃない?」と、聞こえるか聞こえないかの大きさ、耳を澄ませば聞き取れる程度のボリュームで教室の中を飛び交っている。別に腹を立てたりなんてしない。ただの雑音だし、この間までは確かにその通りだったから。
でも、大丈夫。先生は知っている。先週終わった期末テスト、その答案に書かれた私の点数を。
「音瀬さん頑張って」
ざわめきの中はっきりと聞き取ることができた遼風さんの小さな声援に、私は背中で応えた。
「一見わかりづらいけど、定理さえ理解していればすぐに解けるからな」
私のことを心配したのか、先生が小声で言う。
「はい。大丈夫です」
私はチョークを握り、目の前に書かれた四つの問題に向かった。
「今日の五時間目の音瀬さん、かっこよかったですよ」
遼風さんが混じりけのない褒め言葉の調子でそう言った。
「遼風さんのおかげですよ」
「先生が完璧と言った後の静まりかえったところとか、その後無言で席に着くところとかは特に」
静まりかえった理由はあまりいい理由ではないんだろうけど、うるさい人達に態度で示すことができたのはいいことだったのかもしれない。
「先生が、私に当てる直前にアイコンタクトみたいなことをしてきたんですよ。それで、すぐに問題を見て、これなら解けるかもしれないと思って、頷いたら当てられて」
「先生はちゃんと見ていたんですね」
「去年までほとんど全部の私が、中間で七十点越え、期末で八十点を超えれば流石に…」
嫌でも目に付くだろう。自分で言っておきながら、私は苦笑いをした。
「点数一覧も配られましたし、今日はそれを見ながら今後の予定を詰めていきましょうか」
〝今日〟ということは、遼風さんは今日もやるつもりなんだろう。
「はい」
藤井さんは来るんですか、という言葉を私は飲み込んだ。
「そういえば、今日の勉強会ですけど…」
そんな私の様子を察したのか遼風さんはそう切り出した。一度はこの会話をしないといけないというのは朝からわかっていて、心づもりもしてきたつもりだけど、やっぱり私から切り出すのは億劫だった。
「はい」
だから私は、そう短く相槌を打った。意気地のない自分が嫌になる。
「今日も藤井さんと一緒でも大丈夫ですか?」
嫌です。いいですよ。ふざけないで。喜んで。色々な答えが頭の中で廻り、混ざり合う。これは日常にばらまかれている些細な選択ではなく、私達の今後を決める大きな選択のような気がした。どっちが正解なんだろう。藤井さんを拒むと言うことは遼風さんを拒むと言うことだ。遼風さんを拒むことは決められた未来。でも、そのタイミングは今なんだろうか。
揺らいでいた。私のやっていることは本当に正しいのか。
遼風さんのためになっているのか。
私のためになっているのか。
やっぱり答えはわからなかった。それでも私は遼風さんのあんな顔を見るのが嫌で…遼風さんのあんな声を聞くのが嫌で、「はい、かまいませんよ」と、できる限りいつも通りの声で、できる限り自然に遼風さんの方を向いて、そう答えた。
茜に連れられてたどり着いた場所は、以前にも二人出来たことがある場所だった。本の背から昼休みの学食と同じ匂いが漂ってきそうなその場所は、ご飯を食べる直前ならもれなくお腹が鳴りそうな場所だと思う。
「えーと」
そんな誘惑に負けじと本の背に指をかざしながら左から右へ、上から下へと移動する茜。指の先には〈よくわかるイタリア料理〉と書かれた本が置いてある。その周辺にはピザやパスタ、リゾットなど有名どころのイタリア料理に関する本が並んでいた。それらに混ざって〈家庭で入れるエスプレッソ〉という本が置いてある。そう言えばイタリアやフランスではエスプレッソが主流だったはずだ。
「あったあった」
茜は本を引き抜くと、表紙を俺に向けてきた。ピザのピースが持ち上げられ、溶けたチーズが両脇から垂れている写真と共に〈オーブンレンジで作るピザ〉と書かれている。昼休み、オーブンレンジでピザを作ろうとして失敗したという茜にレシピがあれば大丈夫だろうと変なフォローをしたのが間違いだったのか。それとも俺に作ってと言うのだろうか。
何かを言う。そう思わせるようなタイミングで息を吸った茜は、口を開け―――「ん?」―――ポケットから携帯を取り出した。
「良子からだ」
サブディスプレイで送信主を確認して「ちょっと待ってね」と俺に向かって言うと携帯を開いた。
手持ちぶさたになってあたりを見渡すと、最初に目に入ってきたのは本が抜き取られてぽっかりと隙間が空いている場所で、二番目はその穴の右隣に置いてある本だった。背には〈おうちで簡単、ピザづくり〉と書いてある。
「どれどれ」
俺は本を引き抜いて、一ページ目をめくった。
〈ピザ窯の作り方〉
「ずいぶんと本格的な意味での簡単だな…」
音を立てて本を閉じると、元の場所に戻す。本が書架に収まる感覚と音、それに茜が携帯を閉じた音が重なった。
「ごめん、直ちゃん。用事が出来ちゃった」
「気にするなって」
何となく昨日と似たような流れだなと考えつつ、これからどうするか考える。まあ、茜に連れられてきた図書館だが、全く用事がないわけではない。
「ごめんねー」
もう一度言う茜に、「早く行ってあげな」と促した。
「ありがとう。あ、そだ、これ、お願いね」
さっき言おうとしていたであろう台詞を言うと、茜の手にあった本が俺の手の上にのせられる。同じ厚さの教科書よりもずっしりと重く感じた。
「やっぱりか」
「美味しいのを作ってね」
「月初めだからゆとりはあるけど、いきなりの注文は受けかねるぞ」
「じゃあ、また明日ねー」
明日の昼ご飯は俺のピザと言わんばかりの勢いでまくし立てると、茜は本棚の向こう側へと消えていった。後に残されたのは図書館の音というBGMと手の上にのせられた〈オーブンレンジで作るピザ〉だった。
とりあえず後学のためにと表紙をめくる。最初の数ページは本のレシピ通りに作ったというピザの写真がカラーで掲載されていた。オーブンレンジで作ることを目的にしているからか、周りに置かれているコップや皿と比較しても比較的小さめに作られているように思える。ぺらぺらとページを送ってみると材料の用意の仕方からオーブンレンジ独特の調理法など細かくカラーページで説明してあった。
「案外わかりやすそうだな」
とはいうものの、どうするか、この本。別に借りるのは【ただ】だから問題はないのだが…。真に受けて借りたことを茜が知ったら日曜日に押しかけてきそうな気もする。
どうしたものか…。
「何かお探しですか?」
いつか聞いたことがある台詞と声質は予想以上にサラサラと流れ込んできて、体の芯に染み渡っていった。
風のようだと思った。
新しい季節を運び、風景を移り変わらせる、なにもかも変えてしまうような強さを持つ風。
それはとても暖かい風。
冬から春へ。春から夏へ。
時を回し、硬直していた私を変えていく。
でも。変わると言うことは周りに歪みを生むこと。その歪みが傷になるのか、周りを動かす力になるのか、それは私にすらわからなかった。
風のような人だねと茜は言った。
突然のように表れ、そっと懐の奥に入り込み、心を解かしていくような力を持つ風。
それはとても柔らかい風。
南から北へ。東から西へ。
思いを運び、きつく閉ざされた心を開いていく。
でも。暖かな風が吹き始める時、それはいつも突風だ。その突風が運んでくる物は笑顔だろうか、涙だろうか、それは俺にはわからなかった。
緩やかに変わる。激しく変わる。良い方向に変わる。悪い方向に変わる。それは誰にもわからないこと。でもただ一つ確実なのは、幸せになりたいと願っていること。
幸せになりたいと願うことすら忘れた二人に、新しい季節はやってくるのだろうか。
A5・196ページ・900円
ジャンル | 創作文芸 | |
---|---|---|
発行日 | 2012年8月12日(コミックマーケット82) | |
仕様 | 頒布価格 | 900円 |
大きさ | A5縦 | |
ページ数 | 表紙込み196ページ、本文178ページ | |
文字数 | 約13万2000文字 | |
段組 | 上下二段組み・つめぎみ(8.8pt・22行) | |
作者 | 文章 | 鈴響雪冬 |
挿絵 | 詩唄い | |
写真・CG | 鈴響雪冬 | |
表紙 | 鈴響雪冬 | |
装幀 | 鈴響雪冬 | |
印刷・製本 | 表紙 | 4色フルカラー(インクジェットプリンタ・インクジェット用紙) |
本文 | 白黒(レーザープリンタ・書籍用紙) | |
製本 | 並製本・平綴じ |
ページ | 誤 | 正 |
---|---|---|
61・上段 | 俺はわざとらしく遼風に向かって、「す、すみません」と言いながら足音を潜めた。 | 俺はわざとらしく遼風に向かってそう言うと、彼女は「す、すみません」と言いながら足音を潜めた。 |
また、本来「**かかっている」と表記されるべきところが、置換処理の手違いで「**かけっている」となっている箇所が幾つかあります。