恋って、どんな気持ちなのですか?
遼風との出会いによって揺れ始めた音瀬と居元の心。
それは満ち欠けを繰り返す月の姿によく似ていた。
二人は、どの姿の月を選び出すのだろうか。
「いらっしゃいませー、って、おひさー」
「お久しぶりです。雪花菜さん」
「売れ残りのケーキ全品お買い上げですね。毎度ありがとうございま~す。さっすが、紗ちゃん。めちゃ、いい人!」
「いくら売れてないからって、私はそこまで経済援助はしませんよ」
「世の中には言っていいことと悪いことがあるんだよ」
今頃になってお客さんがいないか気になって、辺りを見渡す。雪花菜さんの方からあんな振りをしてきたから当たり前なんだろうけど、店内は閑散としていて、〈月刊
閑古鳥〉という雑誌があったら表紙になっていそうな風景だった。
ひとまずショーケースの前まで移動してケーキを眺める。真っ先に〈今季のお菓子〉という文字が目に入った。浅く透明なカップには、先ず新緑を思わせる薄い緑色、その上に白くてかりのある層が重なり春の大地に残る雪のように見えた。その雪の上にはちぎって小さくしたような葉っぱが幾片か乗り、真ん中に一つ、桜の花片を模した絵が描かれている。それが残り一つ、寂しそうにトレイの上に乗っていた。
「この今季のお菓子と、いつものクッキーに、ホットミルク一つずつ」
「了解。ホットミルクに砂糖は入れる?」
「いえ、いらないです」
「オッケー。持ってくから座ってて」
「ありがとうございます」
トートバックを手近なテーブルの上に置き、その席の椅子に座ると、雪花菜さんの動きを追いかける。白いコックコートに緑色のスカーフ、腰まで届く長い髪が印象的で目に焼き付いてしまう。当の雪花菜さんはショーケースの中から私が頼んだケーキを取り、トレイの上に載せカウンターに置いた。その足で店の奥に下がり、しばらくすると皿に私の注文したバタークッキーを載せ戻ってきた。トレイの上にそれを載せ、私の待つ席まで持ってきて音も立てずに置く。
「今、ホットミルク持ってくるから」
「はーい」
雪花菜さんはもう一度奥の方に引っ込み、今度はマグカップに入ったホットミルクを持ってきて、トレイの上に置いた。
「日曜日に、しかもこんな時間に来るなんて珍しいじゃない。なんかあった?」
開店して二ヶ月も経っていないうえに、数回しか来ていないのに雪花菜さんの中では私は平日の放課後にしか来ない人と言うことになっているみたいだ。
「ちょっとばかり。雪花菜さん、今日、これから時間ありますか?」
「どうかなー。一人で片づけるのには時間が掛かるからねー」
雪花菜さんが悪戯っぽく笑いながら私を見る。
「わかりました」
「じゃあ、交渉成立ね」
だから、私は驚いた。
遼風さんが藤井さんにではなく、私に話を持ちかけてくると言うことに。同時に、合宿という言葉がこれほど魅力的で、しかも私にそれが関わってくると言うことを。
「も、もちろん、迷惑を被るのは音瀬さんですし、突然のことですし、思いつきなので、聞かなかったことにしていただければ………」
遼風さんの言葉はそこで途切れ、目の前にあったはずの顔はいつの間にか頭頂部に変わっていた。
テストまで二週間と少ししかない今、総仕上げや最終確認、テストまでの日程を決める上でも凄く有意義な合宿になるような気がした。金曜日の放課後から、夜、土曜日の夕方までと言う勉強時間も、休憩を挟みながらだとしても、遅れを取り戻すために少し手薄だった一学期の勉強の総復習が出来ることを考えれば凄く魅力的だと思う。それに、普段は小声になりがちで何度も会話するのが躊躇われる図書館ではなく、気軽に声を出せる自分の部屋で勉強が出来るというのは精神的にも落ち着くと思う。
でも。
今週末という、余りにも急な、そして突拍子のない提案に、違和感もあった。遼風さんなら、綿密な計画を立てた上でもっと前から提案をしてくるような気がする。これにはきっと他の理由がある。そしてその理由は、今の状況を考えると、一つ以外思い浮かばなかった。それでも私は言った。
「私も大丈夫ですよ」
見慣れたドアを横に引くと、扉そのものが風邪を引いているかのような音を出しながら動き出す。最初に見えてきたのは二足のスニーカーで、それは下駄箱に収められることなく、コンクリートの上に並んで置かれていた。お客さんがいるなんて珍しいな。そう思い、カウンターの上に掲げられている時計を見るといつもの時間に比べて大分早い。まあ、こんな日もあるさ。靴を履き替え、下駄箱というよりは棚に近い、扉の付いていないそれに靴を預け、簀の子を踏みならす。
「そんなんだからまいっちゃうよ。こっちだって面倒な仕事はお断りなのに」
「まあ、それも一つの仕事だろうからな」
スニーカーの人だろうか。もう一度カウンターを、今度は時計ではなく人の目の高さに視線を送ると、長い髪が印象的な人と七夏がカウンター越しになにやら話をしていた。
「いらっしゃい。っと、珍しいな」
「時間が、か、来る事自体が、か」
「どっちもだな」
カウンターの真ん中から少しずれた場所まで来ると、自然と会話が途切れた。その合間に財布を取り出し二二〇円を払う用意をする。
「それじゃあ、七夏ちゃん。また来るよ」
「ああ」
女の人が歩き出し、スペースが出来たカウンターの前に移動し、台の上に二二〇円分の硬貨を置く。
「あっ、モエ」
「はいはーい」
下駄箱までもう少しと言うところまで歩いていたモエと呼ばれた女の人がカウンターの所まで戻ってくる。七夏の方に視線を戻すと、カウンターの中から透明な袋を取り出している所だった。
「これ、昼間に貰ったんだが食べきれないからやるよ」
七夏が取り出した袋には〈特大肉まん〉と朱色で書かれ隅の方には〈5個入り〉と記されてあった。
「サンキュー」
「ほら、君にも」
「あっ、どうも」
七夏が差し出した肉まんを両手で受け取る。両手にすっぽりと収まったその肉まんは、コンビニやスーパーで見かける肉まんよりも随分と重量感がある。
「冷えてるから美味しくないかも知れないけど、レンジで温めれば何とかなるだろ」
重いというイメージが先行して気が付かなかったが、七夏から渡された肉まんは体温よりも大分冷たく、温めなきゃ食べられそうにもない。そもそも、熱かったら素手で持ったり持たせたりしないよな。
「ありがと。帰ったら二人で食べるよ」
「ああ。あっ、この袋も使うか」
七夏が差し出した配り終えて空になったばかりの袋を受け取ると、黒髪のその人は持っていた肉まんを二つとも袋にしまった。風呂に入っている間更衣室にほったらかしにしなきゃいけない俺も袋が欲しいのは山々だが、入る前に食べてしまえば問題はないか。二人のやり取りを見ながら、俺は両手に力を込め、冷え切った肉まんを温め始める。その時、背筋を氷が滑り落ちるような感覚に包まれ、思わず彼女自身に意識を向けた。
ふ、と、コーヒーの甘みが舌の先から抜けていくかのようにBGMが消え、もう何度となく聞いた陽気で落ち着いたピアノの旋律が耳に入ってきた。
「この音って面白いですよね」
「ホンキートンクのことですか?」
「電子ピアノの一種ですよね」
「ああ…確かに、一見わざと音程を狂わせた電子楽器に聞こえますけど、生楽器なんですよ、これでも」
「そうなんですか? 電子ピアノだと思ってました」
もう一度演奏に耳を傾ける。音楽室に置いてあるあのピアノの仲間と言われてもしっくり来ない、底抜けに明るく、それでいてどこか寂しさが込められた音がリズムよく鳴り続けている。
「安酒場………もっと偏った見方をすれば、騒々しい薄汚れた酒場の事をホンキー・トンクと言いますけど、そこに置いてあるピアノというのは大体調律が狂っていたんですよ。それで、一九〇〇年代初頭、JAZZの創世記のころの話ですけど、その調律が狂ったピアノを使って、即興でリズムのある演奏が行われるようになって、それもホンキー・トンクと呼ぶようになったんです。そして、この独特の調律が狂ったピアノをホンキー・トンク・ピアノというんですよ」
「この底抜けに明るい感じはその狂った調律が生み出しているんですね」
「そうですね。明るい音なのに調律がずれているから独特のうねりがあってどこか悲しい、不思議な音ですよね」
もう一度音楽に耳を傾ける。前半の演奏が終わり、曲のリズムを取っていたピアノが一休みし、後半の演奏に繋げようとしているところだった。ドラムの勢いが増した次の瞬間―――
空を巡る星が時を告げる時に聞こえて来そうな、硬く暖かい音が店内に響き、マスターと奥さんの「いらっしゃいませ」という声が続いた。
「えっと、こんにちは、居元先輩」
「えっ?」
第8章は第2巻の冒頭です。ネタバレをさけたい方は読まないことをお奨めします。
出会いはありふれたものではなかった。
それでも、気が付いたときにはそこに遼風さんがいて、気が付いたときには同じ病室でお話をしていた。
でも、出会いは別れといつも一緒。花はいつかは枯れる。目の前の花もそれは変わらない。だから、別れは必ず訪れる。
でも、離れたく無いとも思った。やがて訪れる別れと割り切れない自分がいた。だから私は、遼風さんの切願に笑顔で返した。
出会いは普通ではなかった。
それでも、気が付いたときにはそこに遼風さんが居て、気が付いたときにはその友達と食事を共にしていた。
しかしこれは、運命の悪戯だった。俺達は〝話題〟や〝鈴高〟という核があるからこそ、こうして一緒の時を過ごせたに過ぎない。
だからほら、何も話題がない時はこんなにも気まずい空気になる。しかしそんな時だった。遼風さんが一つのことを俺に提案したのは。
出会いによって揺れ始めた二人の心。それは満ち欠けを繰り返す月の姿によく似ていた。満月から新月へ。新月から満月へ。
二人は、その中のどの姿の月を選び出すのだろうか。そして二人の前に現れた少女は、二人になにをもたらすのだろうか。
A5・220ページ・900円
ジャンル | 創作文芸 | |
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発行日 | 2007年8月19日(コミックマーケット72) | |
仕様 | 頒布価格 | 900円 |
大きさ | A5縦 | |
ページ数 | 表紙込み220ページ、本文202ページ | |
文字数 | 約16万4000文字 | |
段組 | 上下二段組み・つめぎみ(8.8pt・22行) | |
作者 | 文章 | 鈴響雪冬 |
挿絵 | 詩唄い | |
写真 | 御堂雷夜・鈴響雪冬 | |
表紙 | 鈴響雪冬 | |
装幀 | 鈴響雪冬 | |
印刷・製本 | 表紙 | 4色フルカラー(インクジェットプリンタ・インクジェット用紙) |
本文 | 白黒(レーザープリンタ・書籍用紙) | |
製本 | 並製本・平綴じ |