Top > 読み物 > 日記 > 2005年9月 -1冊目-
普段、ホームページビルダーを使用してタグを自動生成してもらっているためか、タグ打ちでサイトの更新となるとかなり煩わしいものがあります。たとえば、一つの段落毎に<p>
を入力するだけでも面倒ですし、そもそも"<
"をしめす"<
"すらもいやになってきます。しかも私は、それら特殊文字のタグをいっさい覚えていませんので、そのたびにメニューバーから入力するとなると、手間がかかるというもの。
ezHTMLはタグ入力支援型のエディタですから、タグを覚えているときは、タグの頭数文字を入力するだけで予測入力ウインドウが出てきて、エンターキーを押すだけで確定、という便利さを持っているのですが、先に紹介した特殊文字だけはそうはいきません。一つも覚えていないのですから。
このさい、それらのタグを覚えてしまう(タグとは違うのですが便宜上タグとして扱います)のもいいのですが、年に数回しか使わないのに覚えるはずもありませんね。
そんなこんなで、いつまでたっても、メモ帳を使ったサイト作成は無理なのです。そもそも、メモ帳を使ったら、ヘッダー部分を構築できる自信がありません。一行目、文章型宣言。えっと…構文は…<!DOCTYPE
html …ここまでしか思い出せませんでした…。
<!DOCTYPE html PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.01 Transitional//EN"
"http://www.w3.org/TR/html4/loose.dtd">
先日の旅行の時に撮影した写真を整理しました。200枚となると分類するだけで大変でしたが、メーカー純正のユーティリティーを使って、フォルダを自動生成させたら日付毎に分けるのだけは楽になりました。インターフェイスや画像読み込みの面で弱いところが多いので、そういう点は不満でしたけど、作業が少しだけ楽になったのでそれはよしとしましょう。
メインパソコン環境に戻ったら写真をアップしていきたいと思います。使っているノートパソコンをリカバリーしたときに、フォトショップを入れるのを忘れてしまいました…。
思い浮かんだネタはテラパットを呼び出して、さくっとメモ、さくっと保存を繰り返して、小説を書いたりするときに読み返したりするのですが、その数の多さや分類方法の影響で、必要なファイルを簡単に探すことが出来ません。それこそ、アナログ辞書でページをぺらぺらめくりながらおもしろい言葉を探すのが好きな私にとって、いちいちファイルのアイコンをダブルクリックしてファイルを開いておもしろい言葉を探すという作業がどれだけ面倒なことか…。
といういきさつで、新しくソフトを導入すると以前宣言しましたが、そのソフトにそれらテキストファイルに記述されている内容を移動させたら………これが便利便利。ソフト上ですべての語句を確認することも出来ますし、全文検索も可能です。なおかつ、ツリー形式をとっているので、十字キーをぐりぐり操作するだけで、テキストが閲覧可能というお手軽さ。まさに、辞書をぺらぺらめくって好きな言葉を探している感覚です。それこそ、日本製OS“超漢字”なら、ファイル管理の概念がリンクで成り立っていますから、簡単にメモを探すことが出来るでしょうけど、使用しているOSはWindowsですから、そのような機能は搭載されていません。やきもきしたときはフリーソフトを探すという癖がこういうときに役立つものです。
………とりあえず、リスト名編集の時Delキーを入力すると、リストごと消去する仕様だけは何とかしていただかなくては…。
ごめんなさい。連続で似たようなタイトルを付けたら、話の内容と全く一致していません。
私の基本的生活の概念といえば、安くていいものを、です。当たり前かと思われるこの考え方、私の場合はちょっと強すぎるかもしれません。たとえば、新しいキーボードを買うと言いながら一年以上探し回ったり(まだしっくりくる製品は見つからない)、新しい財布を捜すために半年近く探し回ったりします。
さて、ファスナーが壊れてしばらくが経つ私の財布ですが、さすがに壊れた部分が浸食しているのが徐々に早まってきました。これではそのうち小銭が自動的に排出されるというすばらしい機能が財布に搭載されてしまうので、いい加減乗り換えなくてはなりません。しかし、今使っている財布と同程度の機能を持ち合わせ、なおかつ安い財布が見つかりません。価格600円にして、カードポケット十箇所、札入れ二箇所、小銭入れ二箇所という仕様。無駄に高品質でなおかつ安いこの財布を超える財布を捜しているのですが、なかなか見つかりません。
しかし、奇跡は起きました。値段は今までの五倍はしますが、カードポケットも大量に搭載されている財布がついに見つかったのです。別にAIRの信者という訳でもないのですが、財布には“ピコ”と書いてあります。そう、白くてほわほわして、サッカーボールにもなってしまう未確認生命体の鳴き声が財布に書かれているのです。鍵っ子の私がこれを逃すわけがありません。早速、3000円をはたいて購入。なぜか波の形をかたどったマークが“ピコ”という文字列の隣についているのですが、それを含めてもよい買い物をしました。これで一つ悩みが消えたというものです。
さて、久しぶりにお送りするこのコーナー。今回はちょっとまじめで、でも、抜けている部分があるスパムメールです。本文中にも書きますが、今回はかなり厳しくチェックさせて頂きます。毎度のことですが、個人を特定できる名前に関してはイニシャルによる明記とさせて頂きます。
タイトル: 株式会社ウーマンフリー
私は株式会社ウーマンフリー代表のTと申します。 突然のメールをお許し下さい。
セックスレスな主婦、女性だけの職場、女子大生、仕事に追われるキャリアウーマン、
調査をしていくうちに、欲求不満で悩んでおられる女性のほとんどが、
お金はあるのに出会いがない、というのがわかって参りました。
これはビジネスになると思い、私は昨年、
株式会社「ウーマンフリー」を設立致しました。女性から会員費を頂き、秘密厳守というのを絶対条件に、
割り切りで関係を持てる男性を紹介する、という方法で収入を得ています。
もちろん男性からは一切お金は頂きません。
それではただの出会い系と変わりませんので。欲求不満な女性のネットワークのおかげで、
女性の会員を集めるのはそれほど難しくありませんでした。
そして、SEXしたいのにできない環境に置かれている女性が
世の中にこんなに多くいることに驚かされました。
6月現在、全国各地に約6万人の女性会員様が登録しておられます。
中にはサポート可能な女性も多数いらっしゃいます。
しかし、今度は男性会員の数が慢性的に不足するという事態に見舞われました。
女性会員の方からは会員費を頂戴しておりますので、
肝心の男性が足りません、とはとてもお伝えできません。
そして先日、男性に限り登録制度を廃止するに至りました。
現在、直接WEBサイトから女性と連絡を取って頂くシステムに移行中でございます。このメールでURLを記載してしまうと、未承諾広告等の法律に違反してしまいますので、
貴方の承諾を頂きたくメール致しました次第でございます。
ご興味ございますでしょうか。
まずはご覧になられるだけでも構いません。
次のメールでお教えしてもよろしいですか?もしご希望なさらない場合は返信なさらずに、削除して頂けるようお願い申し上げます。突然のメールでご迷惑おかけしたことを深くお詫び致します。
大変失礼致しました。株式会社ウーマンフリー代表 T
20050828181025.CF61.TAKASAKI_CHIKAKO_S_H@yahoo.co.jp
さて、初めて会社からメールが届きました。いえ、厳密に言えば、会社名を名乗る方からメールが届いたと言えます。会社名義のメールですから、“スパムにマジレス用文章評価機能”のモードも、会社名義モードに変更してお送り致します。
まずはタイトルです。メールのタイトルは個人同士でのやりとりにおいてはさほど重要視されませんが、会社や同人関係での仕事のやりとりとなると話は別です。この場合のメールのタイトルは、メール本文の内容を簡潔に示した文章が望まれます。一目でメールの中身がわかる内容が望まれていると言うことです。しかし、今回のメールはのタイトルは、『株式会社ウーマンフリー
』となっています。会社名ということまでは解りますが、そのメールが何を意味するか推測できません。また、推測できたとしても、メール本文とは明らかに意味が違いますから、このタイトルは不適切であると言えます。
このメールの場合、最終的には『増えすぎた女性に対して相手をするための男性を補填する』という目的を持っていますので、『女性の相手をしてくださる男性の募集』とでもしておきましょうか。
このメールでは、社会人の基本として一番はじめに挨拶をしています。この点は評価できますが、もう少し丁寧に事を運ぶならば、『初めまして』と付け加えるべきでしょう。
第二段落では会社設立の経緯を述べています。しかし、本文では『セックスレスな主婦
』と始まっています。これではどれだけ誠心誠意なメールを書いたとしても、出会い系サイトの広告と思われ、削除されてしまいます。また、日本語の特性である『最後まで読まないと文章の意図がわからない』というものが、もろに現れてしまっています。これでは、単純明快な文章を求められているのにもかかわらず、最後まで読まないと解らなくなり、解りづらくなってしまいます。そこで、まずは、会社設立の経緯を説明しますと宣言しましょう。
さらに、語句を連続で並べていますが、語句のリズムが悪く、リストとしてはあまりうまくありません。短い単語から徐々に長い単語を使うようにすると、大体の場合はうまくいきますが、試行錯誤してみてください。もう少し細かいところまでつっこむと、『女性だけの職場』は人ではなく物ですから、人で統一されたリストの中にこの単語があることは場違いです。人の形に直しましょう。
四行目に“ビジネス”という単語を用いていますが、ビジネスには悪い意味として、『金儲けのために人情や理想を切り捨て割り切って行う仕事』という意味が含まれます。カタカナ語を用いるのは結構ですが、意味合いが広がってしまい、変にとられてしまう可能性があります。意味を一点集中にするために日本語に出来る場合は日本語にしてしまいましょう。
これらの要素をまとめて完成した文章は以下のようになります。
まず、私が会社を設立するに至った経緯を説明させて頂きます。以前、ある調査をしたところ、女子大生、セックスレスな主婦、女性だけの職場に勤める人、仕事に追われるキャリアウーマン…それら多くの女性が、お金はあるのに出会いがないという欲求不満で悩んでおられました。そのような現状を目の当たりにした私は、そんな女性たちを何とか救うことが出来ないかと思い、昨年、株式会社「ウーマンフリー」を設立致しました。
上のような文章になり、比較的きれいな形にまとまりましたが、まだ間違いと判定せざるを得ない部分があります。“キャリアウーマン”という単語を、上層部で働く女性と勘違いしているようですが、正しい意味としては『仕事を持つ女性、仕事で生計を立てる女性、専門職を持つ女性』です。つまり、『仕事に追われるキャリアウーマン』と記したとしても、それほどかっこよい女性像は描けません。もし、格好良い女性の代名詞としてキャリアウーマンを用いているのならば、別の単語に置き換える必要があります。
二行目の『割り切りで関係を持てる』という日本語の意図が不明です。『割り切った考えで関係を持てる』とするなら意味はわかりますが。この場合の“割り切る”は『考えを決定し迷わない』という意味を使っているはずなのですが、後ろに『関係を持てる』と繋げてしまったので、割り切るという単語の着地先が解らないのですね。
ちなみに、四行目は倒置法を用いていますが、こういう場合には効果がないのでやめた方が良いと思います。
この段落は細かいミスがたくさんあるので、行毎に評価していきます。
『ネットワーク』は複数でしか成り立ちませんので、『女性のネットワーク
』という部分は、『女性達のネットワーク』とするのが良いかと思います。
『女性の会員』という部分は、助詞を省いて単純な言葉にしたほうが良いでしょう。『女性会員』。
“こんなに”という単語は、始点と終点が必要な単語です。“こんなに”が示す規模が現時点で現れていないため、この単語を用いることはあまりほめられたことではありません。次の行に六万人とでているので、その単語を用いてから使うようにしましょう。
『全国各地に約6万人の女性会員様が登録しておられます
』という部分。すらりと読んでみて違和感を覚えた人は鋭い人です。全国各地に六万人の女性会員がいますなら解りますが、ここでは、『登録しておられます』となっています。これが違和感の正体です。
また、社会人(ましてや社長)なら身につけていなければならない敬語の使い方を間違っています。女性会員はメール送信者側にいますから、尊敬語ではなく謙譲語を使わなければなりません。“女性会員様”の“様”は敬語ですから、謙譲語を使う場面では使うことが出来ません。面接などで、自分の母親のことを話すとき『お母さんが』とせず、『母が』としますが、これは謙譲語を使う準備ですね。
ちなみに、もう一箇所指摘するならば、“おられます”も、敬語ですね。
六行目から七行目にかけては、普通はミスをすることすらないミスが見受けられます。もう一度引用するので、ゆっくりと読んでみましょう。
中にはサポート可能な女性も多数いらっしゃいます。しかし、今度は男性会員の数が慢性的に不足するという事態に見舞われました。
さて、気がついて頂けたでしょうか。“しかし”という単語まではいいのですが、その次に、“今度は”を用いた瞬間、すべてが狂ってしまいました。この場合の“今度は”という単語には、『以前とは違って』という意味が含まれています。しかし、このメールでは、過去のことについていっさいふれていません。強いて言うなら、会社を設立した経緯ぐらいです。それに、一文目の脈絡がうまくありません。
ここでは、次のように修正してみましょう。
サポートが可能な女性もたくさんいらっしゃいます。しかし、女性会員が増えすぎた今日、男性会員の数が慢性的に不足するという事態に見舞われました。
『女性会員が増えすぎた今日』という文章は、過去は適切な数だったということを諮詢し、現在のことを示しつつ過去のことを示す文となります。これにより、過去と現在の状況を提示することが出来、今現在どのような状況にあるかを解りやすく説明することが出来ます。
ここでおもしろいのは、十行目の脈絡のなさです。男性が少なく、女性に男性が行き渡らなくなった。しかし、お金をもらっているから男性が足りないとは言えない。だから、男性に限り登録制度を廃止して、敷居を低くした、という意味になるはずなのですが、“そして”を使ってしまったので、脈絡がおかしくなったわけですね。
WEBサイト → ウェブサイト。"website"という単語を分解して訳す意図がわかりません。確かに、"web site"という表記方法が無いわけではありませんが…。
ここで、ようやく迷惑メールらしさが出てきます。貴方の承諾を頂きたくメール致しました次第でございます
と書いてある割には、承諾の意志を記載したメールを送るための返信用アドレスが存在していません。確かに、送信元と返信先が違う場合にはヘッダーにリプライをつけるのが習わしですから、何もない場合は送信元へ返事をします。しかし、あくまで企業から届いたメールです。送信者名、担当部署、連絡先、サイトのアドレスを最後にまとめて署名(シグネチャ)として記録するのが、大原則です。私もよっぽど親しい人以外の場合は見知った人でもシグネチャをつけます。メールの世界でのお約束、マナーです。
マナーに目くじらを立てていると痛い人に思われてしまいそうですが、ここで重要なのは、相手が承諾を求めてきていることです。それにもかかわらず、返信用のアドレスを明確に示していないのはどうなのかな、という点です。
突然のメールでご迷惑おかけしたことを深くお詫び致します。大変失礼致しました。
謝罪の言葉は、繰り返せば繰り返すほど誠意が薄く感じられます。
今回のメールは、本文が長くつっこみどころがたくさんあり、体力が減少してしまったため、例文は提示しません。ただし、『あーん、鈴さんの例文が読んでみた~い(はぁと』というメールが来たら、がんばります。
………書いた直後に気持ち悪さにおそわれるのは何時もの事です。
映画“容疑者 室井慎じ”を見てきました。正直なところ、作り込んであるという事は伝わってきたのですが、何を伝えたいか伝わってきませんでした。話が飛び火しすぎて、ついていけないと言うのが感想です。
見る人が見ればおもしろい映画なのかもしれませんが、私としてはそれほどおもしろくありませんでした。
ただ、一箇所だけ目を見張るところがありまして、カメラワークが人間の視点のような動きになっているのは、昔の映画のようだと思えます。本来ならレールを使ってなめらかに移動するべき場所も、人間がカメラを手に持って撮影していると思わしき動きがあるので、そう言う点では、人間的でおもしろいと思います。
今の家から実家に本を送ったという事は以前の日記に書いた通りですが、その本をようやく整理しました。今まで時間がなかったというのが本音ですが…。
積み重ねると五十センチに及ぶ大量の本を廃棄し、家から送り届けた本を本棚にしまうついでに、ほんの配置も入れ替え、地震に強いようにしました。しかし、今回の整理で本棚の収納能力をそろそろオーバーしそうな気配が漂い始めています。本棚二つでもまだ足りないと…?
日本国内で一番有名な村、村六ヶ所村の人口は、村としては多い一万人超ですが、面積が広いため、人口密度が低いのが特徴です。それに加え、自衛隊の射撃練習場があるため、飛行機が通る区域は国が買い取り、家が建っていません。その家が建っていない部分に私の実家の実家が存在していたのですが、そこに星を見に行こうと思います。ReSin-ensの資料のため、という目的もありますが、しばらくすれば入る事が出来なくなるかもしれませんから、今のうちに行っておこうという個人的な目的もあったりします。
冬でも天の川が見えるという絶好の星見スポット。各地の天体観測を趣味にするサイトでも、山の上などといった場所を推薦し、平野部などは取り上げられる事は多くありません。しかし、平野部でも、星を見るための場所というのは探せばたくさんあるものなのです。これこそまさに、隠れスポット。下手なサイトを見るより、地元の人に聴け、という事ですね。
心配された天気も気合いで晴れ、風もあるので、今日はいい感じです。
項目 | 割合 |
---|---|
100: 貴方という人 | 40% |
待望されているかどうか解りませんが、100のお題、現在進捗率四割です。書き始めて半年が経つ100項目目の“貴方という人”ですが、よい意味でも悪い意味でも私らしい作品だと思います。私の特徴といえば、最後の最後に蛇足のようなシナリオを付け加えて、作品全体のイメージを悪くする事なのですが、今回もいい感じに蛇足ってます(笑)。
ただし、言葉遣いには気をつけたつもりで、タイトルや言葉という部分には、何時もいじょうに気合いを入れています。予想通りかもしれませんし、『あーなるほど』と思うかもしれません。何が何でも今月中には完結させたいと思うので、もうしばらくお待ちください。
不思議な事なのですが、生まれてこのかた、“三沢空港”で行われる航空祭を見た事がありませんでした。三沢米軍基地といえば、インデペンデンスデイに登場するぐらい有名な(笑)基地ですが、その米軍基地が、一日だけ私たち一般市民に対して門戸を開く日があります。それが、“航空祭”です。
航空ショーを始め、日米の米軍家族や親善団体による屋台が並んだりし、来場者数もなかなかのものですが、それに私は一度も行った事がないのです
思えば、実家の実家にいるときは、それこそ戦闘機の音ばかり聞いていた私ですが(近くに射撃訓練場がある)、それだけの接点がありながら、見に行く事がなかったというのはおもしろいとも言えます。
肝心の航空祭ですが、航空祭おなじみの、ピザとケーキ(アメリカ価格)を購入し、撤退しました。
来年の話をすれば鬼が笑う、なんて言いますが、コミケの話に限っては別です。それこそ、募集締め切りが半年前ですから、それに関する打ち合わせはもっと前に行う事になります。ただでさえ、船頭多くして船山に上るような状態で、サークル参加する事になりますから、船頭それぞれの最終目標を一つに絞っておく必要があるのです。詩唄いさんも、幻霧さんも、私も、それぞれサークルに属し、それぞれのサークルで実質的なイベント参加の鍵を握っている重要人物です。そのような人が一つのサークル(希望風)でイベントに参加しようとしているのですから、事前に打ち合わせをしておかなければなりません。 しかも、詩唄いさんと私はお互い“ReSin-ens”という作品を同時に全巻リリースしなければならず、そう言う点でも打ち合わせは不可欠なのです
もはや全ての人がそれぞれの生活を持っているのですから、それぞれの生活の余白がうまく重なる時間というのはそうそうとれる物ではありません。もちろん、メッセンジャーなどを使った打ち合わせもあるかもしれませんが、顔を出し合い、言葉でやりとりした方がよりスピーディーでより確実で、より安全です。だからこそ、このような機会というのは重要だと私は考えます。
それほど多くの同人企画に携わってきたわけではありませんが、共同で行われる同人企画の失敗要因には必ずと言っていいほど“人間関係”と“意思疎通”の問題が入ります。それを知っている私だからこそ、このような機会は見過ごすはずがありません。
結局、三時間に及ぶ話し合いで、夏コミの方向性を確定。サークル参加手法については決まっていない部分が多いですが、なんのために参加するのか、というのは完全に決まりました。
昼間の性格はSなのか、私は往々にして本人がいるところで本人をほめるような事はしません。とくに、それが同人に関わる事ならば、そのような動きは顕著になります。数人で集まったときには、その場にいない人の作品特性を話し合い、これからどのような働きかけをしていけばいいかを決める、そんな流れが当たり前になっています。
本人をほめる事は間違えではないと思います。でも、ほめすぎてしまうと本人が舞い上がってしまい、最悪の場合は、それ以上学ぼうとしなくなる可能性があります。だからこそ、私は本人がいる場所で本人をほめるという事はまずしませんし、どちらかといえば、葉っぱをかけてプレッシャーを与える側に立ちます。万が一ほめた場合でも、欠点も同時に言う、それが、暗黙のルールになりつつあります。
さて、そんなこんなで、適当に葉っぱをかけながら、決まった企画が一つ。これは元々春ぐらいから、私がやろうと思っていた企画なのですが(日記にも書いてあります)、その企画の参加者に、詩唄いさんと幻霧さんを加える事になりました。というか、一人でやるのが寂しいので、巻き込んだとも言います(笑)。
しかし、一つの企画を多くの人でやるという事は、複数人の中で自分がどういう作風を持っているのかという確認にもなりますし、それをもとに目標を決めやすくなります。個性といっても、言い換えれば、他人と違うところですから、他人と違うところを確認しないと個性もなにもないわけですね。
というわけで、10月頃になるかと思いますが、サイトの閲覧者を巻き込んだ、“空の彼方へ”史上、最大の企画をおっぱじめようと思います。
一応、地球上には六十三億人という人がいますが、それだけの人がいるという事は、それぞれの役目が存在するという事です。人間がなんのために生まれてきたのか、という命題はまさに哲学で、その意味を悟ってしまったら人間が地球上に生まれてきた意味が無くなるとも言います。それほどまでに難しい問題なのですが、現在の自分の立場を分析する事によって、自分という個人が周りにどれだけの影響を与え、それによって、自分がどういう存在価値を持っているのか、という事を、現在という時間の中だけで求める事は可能だと思います。
同人という世界において、“創作文芸”と呼ばれるジャンルは、もっとも肩身の狭いジャンルでしょう。世界最大の同人の祭典であるコミックマーケットでも、創作文芸は中央分離帯に利用されるほどのジャンルです。コミックマーケットの参加サークルのジャンル傾向は、同人におけるジャンル傾向の縮図とも言えますが、その縮図で一列に満たないサークル数(作者数)ということは、同人作家をかき集めたときに集まる創作文芸作家が激的に少ない事を示しています。
しかし、言葉を借りるならば、ギフト(神からの贈り物)とも言える私たちの環境が存在します。詩唄いさん、幻霧さん、結城さん、二重影さん、神薙さん、そして私。これら六人の同人作家は全て創作文芸に携わっている同人作家です。そして、その全ての人が近くに住んでいました。同人作家数が最も少ない部類に入る創作文芸の作家が、こんなにもたくさん周りにいる事は奇跡に近い事だと私は思います。
もう少し、数学的話をしておきましょう。コミックマーケットの参加サークル数は合計約33000。そのなかで、創作文芸のサークルは約150です。割合で言えば、0.4%です。これはそのまま、同人作家の傾向にも現れます。つまり、200人の同人作家を集めて初めて1人の創作文芸作家がいるかいないかという確立になるのです。そんな状況下において、六人もの創作文芸作家が集まるというこの環境がいかに珍しい事か、容易に想像できるはずです。確かに、何時も集まるメンバーという点では、四人になってしまうかもしれませんが、それでも珍しい事は明白です。
さて、そんなメンバーの中でも私はすでに古株という位置にいるのですが、そんな私の存在意義とはなんでしょうか。同人に限らず、私の存在する意義とはなんでしょうか。それを冷静に考えると、一つの解に到達します。
私は、自分の人間関係を分類するに、どうも、相談役として見られている事が多いと思います。電話で直接、という事もありますし、みんなで集まったとき、相談する相手として私が選ばれる確立がダントツに高いのです。それに加え、学校生活でも建築に関する事を相談される事は多く、そんな流れを総合すると、どうやら私は姉御肌のようなのです。
そして、相談内容を総合すると、相談者が持つ探求心という欲求を満たすという事が、私の一つの役割のように感じます。私は聞かれない限りまず教えるという事をしません。相手が“聞く”といういう動き、すなわち“知りたい”という気持ち、すなわち、“探求心”を持ち私に相談を持ちかけたときに、初めて私の存在意義が発生したと言えるのです。逆を言えば、探求心を持っていない人にとって、私の存在意義は皆無でしょう。
そしてそれは、同人という関係以外でもほぼ全てに当てはまると言えるでしょう。親戚を抜かした人間関係、すなわち、知人、友人、親友、同じ穴の狢、恋人、全てにおいて、私の存在意義の一つとして、『探求心を満たしてくれる存在』という物が加えられているはずなのです。同じように逆を言えば、探求心を持っていない人にとって、私という存在は眼中にはなく、それこそ、ただそこにいる人間になってしまいます。さらに明確に言えば、探求心を持っていない人は私との人間関係を築く事が出来ない、という事になるでしょう。
連続で小難しい日記ですがご了承ください。えっ? 何時も通り? それはありがたい(ぉ 。
エンターティナー、そして、パフォーマーの方々にお聞きする。皆は自分の活動について考えた事はあるだろうか。いや、もっと範囲を狭めるならば、自分がなんのために、どうして、その活動をしているか考えた事があるか。
むやみやたらにカタカナ語を使うのは嫌だから、言い換えられる物については以後日本語を使おう。
貴方はなぜ、単なる作り手から脱出し、人を喜ばせる活動を始めたのだろうか。
何度も例に取り上げて申し訳ないが、今回もまた、素人と玄人と同人について触れてみよう。
素人と玄人、そして同人の違いはなんだろうか。それは、このサイトではおなじみの結論だろう。素人は自己満足で作品を作り、玄人は他己満足で作品を作るのである。そして、同人はその中間領域にある。もう少し、厳密なところを論じよう。
簡単に上のようにまとめてみた。玄人の意味は『専門家』で、プロの意味は『本職』だから、両者を一つの項目にまとめる事に対して異議を唱える人もいるかと思うが、今回はまとめて話をしようと思う。
さて、上の分類では、“同人”という位置関係が、いかにおもしろいものか解って頂けるであろう。同人は、素人と玄人の中間にあるのだ。もっと別の視点で見れば、動物と神の間に人間がいるように、素人と玄人の間に同人がある。
同人作家は、プロではない。しかし、アマチュアでもない。それが私が、自分の事を、“作曲家”と呼ばず、“音楽書き”と呼び、“小説家”と呼ばず、“小説書き”と呼ぶ理由である。
自分が好きな小説を書きたければ、書けばいい。しかし、ひとたびそれを同人の世界に持ち込もうとするならば、相手も満足させなければならない。同人的視点から言えば、自己満足のためだけに書いた作品はまさに、『そんなのはチラシの裏にでも書いておけ』なのである。
話を本題へ戻そう。この文章を読んでいる貴方はなぜ、ただの作り手で終わることなく、その作り上げた作品を、ウェブという全世界から同時多発的に閲覧可能な空間に公開しているのであろうか。なぜ貴方は、ただのクリエイターから、パフォーマーになったのだろうか。なぜ貴方は、ただのクリエイターから、エンターティナーになったのか。
もしかしたらその理由の中に『より多くの人に見てもらいたい』という願望があるのかもしれない。むしろ、そのような動機を持ってこの世界に飛び込んだ人が大多数であろうと私は推測する。
より多くの人に作品を見てもらうためには、それなりの作品を書かなければならない。自己満足だけでは他の人は見てくれないのである。世の中の二次創作小説のほとんどが、作者の自己満足で書かれているが、その作品はある価値観を持って評価をすると、全く持っておもしろくない。それはなぜか。二次創作小説のほとんどが、そのキャラクター(人格)への愛情をもとに書かれ、そこに、読者が喜ぶ構図が存在しないのである。いや、同じキャラクターを愛する人同士ならば、求めている物が似ているため、読者の喜ぶ構図を考えなくてもすむのである。ほのかが攻めでなぎさが受け、というプリキュアにおける一つのテンプレート的な流れがあるのも、作り手と読み手が求めている物が似ているからである。
しかし、我々は創作作家である。キャラクターへの愛情ではなく、自分の想いを基にして作品を書き上げる。そして、その作品を公開する以上、自己満足だけではなく、他己満足を達成しなければならない。これは、同人活動に似ていると思わないか。
たとえ貴方や私がどんな理由で作品を作り上げたとしても、それを公開した瞬間、読者の欲求を満たす必要があるのである。
はい、まとまりませんでした。自分でも意味がわからない文章なので、つっこまないようにお願いします。
『オタク』? 『秋葉原』? 『萌え』? 『メイドカフェ』? 「なにそれ、きもーい」、そんな流れができあがりつつあるが、実はそうでもない。例を挙げればきりがないが、上に書いた文章を活かしてみたいと思う。
コミックマーケットをはじめとした、全国各地で行われる同人誌即売会は、作り手と読み手のぶつかり合いと行っても過言ではない。作り手が、自己満足と他己満足を両立した作品を作り上げ、読み手が自分の読みたい作品を探す。このような即売会の本質を持ち出したとき、往々にしてオタクはただの一般人よりも優れていると言えるのかもしれない。
同人作家になった瞬間、人は“一般人”から“創造者”になる。自分やその家族の事だけを考え、日々を何となく過ごす人から、人が求めている物をくみ取り、それに見合う物と自分の信念を混ぜ合わせた作品を作り上げる事に日々の時間を割く人になる。
同人誌の読者になった瞬間、人は“消費者”から“選別者”になる。安さと品質だけを考え、ただ何となくスーパーで商品を書う人から、自分の欲求を満たす作品を探し、多くの作品の中からよりよい作品を選ぶ人になる。
上の二つを別の表現で簡単にまとめるならば、同人業界では、人間がもはや当たり前に行うようになってしまった愚の真骨頂である“大量生産大量消費”を、行うことなく、かつて人類が地球という空間の中で穏便に暮らしていた頃の、“手工業”中心の流れが出来ているのである。
そして、オタクという世界では、この一般人から創造者、消費者から選別者という難しい移行作業が当たり前のように行われている。逆を言えば、オタクになる瞬間というのは、これらの行動が出来るようになった瞬間とも言えるかもしれない。
仮に一般人が会社に勤め何かを作り上げたとしても、多くのオタクは一般人がこなす作業に加え、さらに別の物を作り上げようとする。そう、同人作家の多くは、仕事をやりながら同人活動をしている。そして、その同人活動は、自己満足だけでは可能ではなく、他己満足をも達成しなければならない非常に崇高な作業なのである。
そして、そのような作業を当たり前のように行う同人作家と、その作業を当然のように受け止め、さらにその作品の中から良質な作品を探し出そうとする選別者、まとめて言うところのオタクは、一般人が考えるほど馬鹿な存在ではないのである。
元々、かもしれないですが、私は基本的にそれほどまで物事に執着しません。それはテレビも同じで、特定の番組をどっしりと腰を構えて見るという事はさほどありませんでした。特に、引っ越しをして生活の形が変わってからは、テレビを見るという流れがほとんど無くなってしまいました。
しかし、そんな状況でも、見ている番組があります。その中の一つに、日本テレビ系列の“キスだけじゃイヤ”があります。何の気なしに見ていた番組ですが、放送日時が替わる前から見ているところを見ると、結構まめに見ているのではないかな、と思います。
マスコミが我々に供給する情報はものすごく偏っていて、それこそ“ヨン様ブーム”のように、とある雑誌が作り出したブームがあるぐらいですから、マスコミの一つであるテレビを信用するのはどうかと思いますが、少しばかり考える事があります。
それこそ、青森県出身のカップルが出たときは、吹雪の中三時間も彼氏が待ってくれたの、とか、そんな心温まる話を聞く事が出来るのですが、どうも都心部出身のカップルが出たときの話は、ささくれているような内容ばかりです。
そして、何時も思う事があります。
本当の優しさとはなんなのでしょうか。
放送作家が故意に選び抜いた出演者に聞くと、その答えに私は驚く事ばかりです。あるカップルが言いました。『彼・彼女は優しいんですね。では、どんなところが優しいですか?』という質問に対して。
「そうですね…。色々なところに連れて行ってくれるし、ご飯とかおごってくれるところかな。」
そして、これは一つのカップルだけではなく、数多くのカップルに聞いても似たような答えが返ってくるのです。『おごってくれる』、『プレゼントをくれる』、『遊園地に連れて行ってくれる』………そんな物欲を満たしてくれる人にだけ与えられるような価値観がテレビ番組の中で飛び交っています。
確かに、物質的な物事は記憶に残ります。部屋を見渡せば、彼がくれたフォトスタンドがある。それを見て、彼の優しさを認識する。そんな流れがあるように思えてしまうのです。物理的な存在を見なければ、優しさを認識する事が出来ない。物理的な存在を見なければ、彼の優しさを信じる事が出来ない。そんな流れがあるように見えてしまうのです。
確かに独りよがりな考えに基づいていますが、私は恋愛小説を書いています。だからこそ、恋人関係にある人達が持つ価値観には非常に興味があります。そして、その恋人関係の人達が認識している、相手から与えられる優しさにも。
本当の優しさとはなんなのでしょうか。
一応、辞書をひもといてみると、次のような説明がありました。
- 優しい
- 上品で美しい
- しとやかである
- 思いやりがある
- 素直である
- しおらしい
新選 国語辞典 新判 (小学館)
この中で、関連のありそうな語句である『思いやり』をさらに辞書で調べてみました。
- 思いやり
- 思いやる事
- 同情
新選 国語辞典 新判 (小学館)
さらに、『思いやる』を調べてみました。
- 思いやる
- 遠く離れている人や場所について想像する
- 同情する
新選 国語辞典 新判 (小学館)
ここまできて、辞書的な意味での『優しい』という答えが出ました。『優しい』とは、その人に同情し、その人の立場に立って物事を考えられる、という意味になるようです。
このような意味を用いて、彼らの行動を強引に当てはめると、おごってほしいときにおごってくれる都合のいい人、というのが、彼らにとっての『優しさ』になるようです。しかし、そのような行動を示す単語は、日本に別に存在しています。つまり、優しさは、それらとは違う事を意味しています。
では、本当の優しさとはなんなのでしょうか。少なくとも、人間関係の中にある優しさとはなんなのでしょうか。
私が思うに、優しさとは、自己満足で相手に対して奉仕した事が相手に認められた瞬間に発生するものだと思います。
道に躓いて彼女が転んだとき、手をさしのべ、立たせてあげる男性は優しいと言えるでしょう。そして、手をあえてさしのべない男性も、彼女がそれを望んでいるなら優しいと言えるでしょう。
前者は簡単に優しい人と認識できますが、後者は何故優しいと言えるのでしょうか。こんな場面を想像してください。交通事故に巻き込まれ身体機能回復のために歩行訓練中の彼女がいるとします。ある瞬間に彼女が躓き、その場に倒れたとして、貴方は手をさしのべるでしょうか。一部の人は彼女が立つのを手伝い、一部の人は彼女が立つまで手を貸さないでしょう。そして、この場合に限っては、往々にして手をさしのべない方が、客観的に見て優しいと言えます。
歩行訓練は一つの試練です。その試練を乗り越えられなければ日常生活を以前のように営む事は不可能だと彼女自身は悟っています。そして、今自分自身が転んだとき、試練が発生します。その試練に向かって立ち向かおうとしているとき、彼が手をさしのべたとしたら、一部の人は失望するでしょう。私にそんなに手を貸すのか、と。
結局、自己満足なのです。そして、その自己満足作業が相手に認められたときにだけ、『優しい』と判断されます。相手のために思ってやった行動が、相手に認められなければ酷いと思われ、認められれば優しいと判断される。優しさとはそんな物なのかもしれません。
優しさを含めた感覚尺度は、全て立場や状況といった多くの要素によって、時には負の方向に、時には正の方向に動き回ります。同じ行動が、時と場合によっては優しいととられたり優しくないととられたりするのです。
多くの場合、物理的プレゼントをもらってうれしくない人はいません。物理的プレゼントは比較的状況に左右されにくい優しさなのかもしれません。ならば、彼らが物理的プレゼントをもらって、『優しさ』と感じるのは当然の事のように思えます。しかし、裏を返せば、誰にでも『優しい』と感じさせることが出来る、物理的プレゼントという低レベルな行為、すなわち安直な行為によって、自分が浮かれているという事に気がついていないとも言えるでしょう。
高校時代の友人と連れだってボウリングに行きました。爪を損傷しました。最低記録を更新しました。結局、負けました。
でも、ほとんどみんな変わっていなくて、懐かしい気持ちになりました
私の中学時代からの友人に同人活動をやっている人が一人います。はじめはお互い同人活動をしている事を知らなかったのですが、ある時、イベントで出会ってしまったのです。
そして、今日、その人とボウリングに行ってきたのですが、お互い同人の話には触れません。この暗黙の了解が気持ちいいのです。その人の活動ジャンルも知っていますし、その人も私の活動ジャンルを知っているはずです。でも、お互いの持っているサイトのアドレスは知りません。この距離感が心地よいです。
たとえ、お互い同人活動をやっているとしても、暗黙の了解でそのことには触れないこの距離感。お互いオタクだという事は自覚していますし、そのことを認識し合っていますが、ジャンルが違う事や、そのような事を抜きにしてつきあってきた友人同士だからこそ、同人という分野の話はほとんどしません。それこそ、夏コミの締め切りが大変だ、と愚痴る事はあっても、どのような原稿を書いているかなどは教え合う事もありません。
一見おかしな行動かもしれませんが、私は普通だと思います。ある意味、オタクだからこそとれる行動特性なのかもしれません。
私は、他の人のように感動的な物語を作る事は出来ないし、信条に訴えるような物語を作る事も出来ない。もちろん、言葉巧みに読者をわくわくさせる物語を作る事も出来ないし、そもそも、おもしろい物語を他人の視点から見て作っているのかもわからない。
だから、私は、文章表現で読者に何かを伝えようとする試みをする。形容詞をほとんど使わず、主人公の感情を読者に考えさせる物語構成や、あえて三点リーダーを多用した会話文。同じような文章を繰り返し、だんだんと読者を引き込んでいく構図や、時間の緩急。
もしかしたら、それは基本的な事なのかもしれない。プロはそれをいとも簡単になしているのかもしれない。でも、私はようやくそのことに気がついた。私と他の人を分ける確かな事柄に。
だからこそ、一つの文章を書くためにものすごく時間がかかる。何度も修正して、終いには原形をとどめていないことも多々ある。でも、それが楽しい。
正直言って、“ReSin-ens”は難しい物語だと思う。何故難しいか。それを明確に説明する事が出来る。
それは、主人公の感情がどんどん移り変わっていくところだ。
今までの作品ならば、ヒロインを好きになればいい。事件でもいいし仕草でもいい。今までの物語の性格で言えば、ある日突然恋に落ちればいいのである。
しかし、“ReSin-ens”は違う。主人公の居本直哉は人間嫌いだ。そして、徐々に人間を好きになっていく。そして、一人の人に恋をするようになる。しかも、恋をするときも必ず葛藤が付きまとう。そう、一言で言えば、直哉の感情は緩やかに変化していくのである。この緩やかな変化を文章で表現しなければならない。この時が一番難しいのである。
ある日突然恋に落ちるのならば、主人公のその人への見方が比較的急激に変化するから文体を急激に変化させるだけでよい。しかし、緩やかに変化した場合、文体を大きく変更する事は出来ない。となると、少しずつ変化させていく事になるが、五分の曲、二曲を五分間かけてクロスフェードするかのような慎重な作業は、ものすごく神経を疲弊させるのである。
いつかの日記で書いた通り、一日の文章創作能力には限界がある。ここのところ日記の文章が短いのは、他のところで文章を書いているからだ。もちろん、それは、“100のお題”と“ReSin-ens”である。両者とも長い戦いであるが、後者はもうすぐ関わり始めて三年になる超大作である。そんな作品と日記ではもちろん、作品の方が優先される。なぜなら日記は一つのコンテンツにすぎないからである。それに対して小説はメインコンテンツの一つ。常連の読者すら勘違いしてしまいそうであるが、このサイトは“日記サイト”ではなく“小説と音楽のサイト”なのである。いつの間にか、音楽と小説が逆転しているのは内緒であるが。
そんなこんなで、日記の文章量が減るときは、修羅場に入っているか、小説を書いているか、のどちらかに割り切る事がほとんどの場面で可能なのである。
書いている間に話がそれたので戻そう。
やはり、作業能率もふくめ、一日の間にディスプレイと向き合っている時間には限界があるし、脳みその演算時間にも限界がある。感じている人は少ないかもしれないが、日記も含め、文章を考えるのにはものすごく体力を必要とする。あらかじめ入力された文章を右から左にパソコンに入れ直していく作業とは格が違うのである(人間OCRソフトも別の意味ではものすごく疲れますけどね)。
日記を書けば書くほど小説のペースは落ちるし、小説を書けば書くほど日記のペースは落ちる。これが、日限界である。
このようなタイトルを使うのも久しぶりですね。
さて、そろそろ、第一巻の構成をお話ししてもよい頃かと思います。どこで話を切るといった明確なところまでは、演出の都合もあり紹介できないのですが、複数話構成である事だけは確かです。各話のタイトルは決まっていないのですが、作業上の都合でつけている仮タイトルを紹介するならば、以下の通りになります。
今現在は此処までです。この時点でテキスト容量100KB程度。一巻分の文章が埋まるまでのちょうど折り返し地点にいます。果たして残り100KB程度で書ききれるかという心配があるほど物語が大きくなっています。コンパクトにまとめつつ、物語の全容を読者に伝えるという作業はものすごく難しいかと思いますが、挑戦するしかないという事ですね。
十数行の心情描写に二時間近くかかったのですが、ようやく次の段落に進んだ鈴響です。
冊子版“ReSin-ens”は全体的にえちぃのですが、なんか詩唄いさんが茜を脱がしまくっているようなので、こちらも対抗して脱がす事にしました。………直哉を。
とりあえず、着替えのシーンかな。
大丈夫。過去にはこんな文章も書きました。
ごくりとつばを飲む。二人の距離が無意識に縮まる。目の前に南山の顔がある。まつげの数ですら数えられそうだ。南山のはき出した息が、頬をかすめ、そっと、俺の髪を揺らす。目線が交錯する。見つめ合う二人。
Happy Birthday to Me!!!(Not OSたん) ~プルプルやかまたんと12人の進藤行進曲~ (みずいろしょんぼりミュージアム)
今日も日本テレビ系列で、学力低下の話をしていました。まぁ、子供の学力低下の原因の七割以上は親の原因だと思うのですが、いかがでしょうか。
上のような親がはびこっている日本で、子供がまともに育つとは思えないのですが、どうでしょうか?
という事を書くと、一部の教育熱心な親から『貴方って言う子はしつけがなってないザマス』とかいうメールが来そうなので、別の可能性も指摘しておきましょう。
子供達の学力が低下したのは、教科書と教育手法の影響である。
グローバルスタンダードというなの、お役所の手抜き教育が始まって久しいが、このグローバルスタンダードという流れはおもしろい。カタカナ語にしてしまえばかっこいいが、所詮直訳すれば、全世界的な標準である。全世界的な標準とはなんだろう。つまり、万国に共通して言える事、という事になるはずだ。
しかし、日本人ですらその起源には大きく分けて四種類あるというのに、世界中の人間に共通して言える事があるのだろうか。強いて言うなら、霊長類である、という事ぐらいではないか。文化も違うし、生きてきた歴史も違う。歴史が違えば考え方も違うのである。そんな63億の生命体が持つ共通点なんて、探せるのだろうか。
皆さんは、自分の住んでいる地域の成り立ちを知っているだろうか。年号単位で覚えている必要はない。どのような流れで今この地が成り立っているのかを、だ。たとえば、私が住んでいるのはご想像の通り群馬県であるが、群馬県の成り立ちについては、そこらの群馬県人より詳しい自信がある。それを証明するために、古墳時代あたりまでさかのぼって、『群馬』と呼ばれる理由を日記につらつら書いてもいいが、建設的ではないのでやめておこう。此処で重要なのは、地元の人が地元の事についてあまりにも知らなすぎるという現状だ。
さて、学校は新学期が始まる前に教科書を選択するが、その教科書がどうもよろしくない。おもしろい事に、全く別の場所で育った人達が、同じ教科書を使って勉強するのだから、昔の話をしたときに共通の話題が出来てしまう。
「英語の教科書はなんだった?」
「えっと、ニュークラウンだったかな」
「あっ、私と同じだ。トムとかムカミとか出てきたよね♪」
そんな会話が出来てしまう。
実はこれが、学力低下の原因だと思えてやまない。
私は、地域密着型の教育手法をとるべきだと主張する。論調の順番が逆だが、この手法がいかに優れているかを次に述べてみよう。
まず、小学校低学年には、自分の住んでいる町を歩かせるべきだ。この行動によって、学校の周りに何があるのかを把握させるのだ。
そして、中学年になったら、自分の住む町の歴史を調査させるべきだろう。町に長く住んでいる人を呼んできて話を聞かせるのもよいし、児童自身に調査させてもよい。複数人のグループになってもいいし個人でもいいから、町の事を調査させるのである。きっとそれらの事は、児童にとっても先生にとっても新しい発見の連続であろう。教科書は先読みが出来てしまうが、町の歴史は自分でたどらないとわからない。そんなあやふやな地盤の上で子供達に作業をさせるのがよい。子供達は、自分の町に興味を持つようになり、もしそうでなくても、自分たちが歴史上のどの位置にいるかを無意識のうちに把握してしまう。子供はそのぐらい頭がいい。
さて、高学年になったのなら、調査範囲を県ぐらいまで広げてもいいだろう。そうすれば、自分が住んでいる県から見て町の位置関係や、その存在意義が見えてくる。自分の立場が、県という一つの世界において、どのような位置にあるかを無意識のうちに理解できるようになる。
いよいよ、小学校を卒業して、中学校の生徒となる。このぐらいになると、頭もさぞかし回転がよいだろう。いよいよ、生徒達の思考は日本全体や世界へと向けられるようになる。そのことによって、世界という広域から日本がどのような立場にあって、県がどのような立場にあって、町がどのような立場にあって、自分がどのような存在にあるかわかるはずだ。
そう。今日の教育は、前にも例を挙げた通り、『包丁の使い方を覚えさせず、フランス料理を作らせる』ような物なのである。
一説によると、現在の小学五年生の半分は、北海道の存在を知らない。日本列島を構成する四つの大きな島は何か、という問題で、虫食いにした北海道を答えられたのはわずか半分にも満たない。それは何故か。自分たちの立場を知らないからである。自分たちを客観的な視点から見つめられないからである。主観には限界がある。主観は、自分の見ているところしか見えない。せっかく、たくさんの児童・生徒が集まる学校なのだから、他人の持つ視点を見るべきであろう。そのためには、全ての児童・生徒に同じ授業をするのではなく、それぞれがテーマを持って自分のやりたい事をやるべきなのだと私は思う。
この手法は、子供達自身に、調査の方法を考えさせる事が重要である。数学も、計算ではなくその考え方が後々役に立つのと同じで、この方法も考え方が重要なのである。将来、何らかの困難にぶつかったとき、その困難をうまく乗り越える方法を、このような多角的な視点から物事を見つける必要がある教育方法によって学んでいるならば、どんな困難だって解決できるはずなのである。
しかし、今日では、授業時間が短くなり、教科書の範囲を全て終わらせるだけで精一杯というのが現状である。これでは問題の解き方を教えるのに精一杯で、物事の考え方を教える時間がないのである。『ゆとり教育』名前ばかりはかっこいいが、実は、子供達が物事を深く考える時間を短くする、『せっぱ詰まった教育』なのである。
最近は透明な教育を目指して、親が学校に来る機会が多くなった。どの親も基本的に子煩悩だから、自分の子供がどのように活躍しているか知りたくなるものである。教師もそれに答えるため、子供の作った作品を教室の壁面に数多く飾るようになった。そしてその結果、壁から追いやられた物がある。それが、世界地図と日本地図だ。
学校から地図会社へ発注される地図は年々減少しているという調査結果があるのはご存じか。これは、学校に充分地図が行き渡ったからではない。学校で地図を教室に貼らなくなったからである。社会や地理の時間だけ、地図帳を開かせるようになった教育では、何の気なしに地図を見るというあの楽しみが無くなってしまうのである。男の子が、『クリスマス諸島』や『エロマンガ島』を見つけたりして、きゃっきゃ騒いでいたあの日々が、今の小学校の教室には無いのである。
私たちの世代は、教室に地図が貼られていて、無意識のうちに世界の地形を覚えた物だし、桃鉄で日本各地の地名や名産を覚えた物だ。しかし今日、教室に地図はないし、ゲームへの風当たりはよろしくない。親のために、子供のために、と言いながら、教育委員会や教師が実施してきた事は、実はほとんど無駄で、意味をなさない事なのである。
だからこそ、外向的で、保護者に対して子供のがんばりを主張するような学校ほど、教育には失敗する。壁には時間割だけが飾られ、残りは生徒の作品。教育に必要だった地図や九九の表は、資料集や教科書の付録という形に追いやられ、知識を無意識のうちに蓄積する貴重な空間が無くなった。
人間は基本的にめんどくさがりな動物である。よっぽど必要にならない限り地図を開かないし、九九の表だって開かない。だからこそ、壁に飾っておいて、いつでも見られるようにする。しかし、それを親も先生も拒んだ。その結果、子供が馬鹿になったのである。
原作“ReSin-ens”はゲーム用のシナリオで、今書いているのは冊子用ですから、物語の流れから始まって書き方も全て変更する必要があります。実質的にも本質的にも現実的にも全て書き直しているのですが、その課程で大きく文体が変化する事になります。
たとえば、以下に三つの文章を引用します。全て、遼風彩音が直哉と再会した場面の直後、直哉が彩音について考える部分で、全て同じ場面を示しています。上から順番に、原作、冊子版、冊子版推敲後、の順番に並んでいます。
あの時以来、人とは深く関わらない様にしようと生きてきた。
遼風彩音…どこまで俺に関わってくるのだろうか…。
そういうと彼女はここまで自分が押してきたであろう本を積んだカートを押しながら立ち去った。彼女とは不釣り合いなほどに古めかしい音を立てるカートの音は、次第に遠ざかっていった。
遼風さんが立ち去った後のテーブルは何故か色を失っていた。突然俺の前に現れ、そして、再会した少女。一度目は丘の上。二度目は学校の図書館。同じ学校の生徒なら今までもどこかですれ違っていたのだろう。しかし、平行線をなぞっていた二つの線は、突然ねじ曲がり、ふれあってしまった。俺も彼女も、お互いの存在を知ってしまった。またこうして、俺は一人の人と知り合ってしまったのだ。 整理しきれない心を断ち切るかのように音を立てて本を閉じ、俺は図書館を後にした。
思えば、クラスメイト以外の異性と会話をしたのは何ヶ月ぶりだろうか。もちろん、その会話だって必要最低限の内容だ。間違っても趣味や好みを話した事はない。だからこそ、非日常的な遼風さんという存在に心を乱された。何故、俺に話しかける。何故、俺なんだ。何故、そんなに近づいてくる。 あの事件。あの事件が全てを変えた。全ては俺のせいだった。俺のせいで仲間を皆殺しにした。お母さんまでも殺した。もう…傷つけるのも傷つくのも嫌だった。だから、仲間を作らないようにした。人と関わらないように生きてきた。端から見れば寂しい人なのかもしれない。でも、俺にとってはそっちの方が気楽だった。人と関わらなければ、気持ちが高ぶる事もない。気持ちが高ぶらない限りなら、自分の力をコントロールできる。
そういうと彼女はここまで自分が押してきたであろう本を積んだカートを押しながら立ち去った。彼女とは不釣り合いなほどに古めかしい音を立てるカートの音は、次第に遠ざかっていった。
彼女の言葉通り、俺達は再会した。彼女の別れ際に発した言葉通り、俺達は再会した。一度目は丘の上。二度目は学校の図書館。同じ学校の生徒なんだから、今までもどこかですれ違っていたのだろう。だけど、お互いの事を知らなかったからこそ、その存在には気づかなかった。しかし、俺達はその存在を認知してしまった。お互いの存在を認めてしまった。
そして、彼女は再び、『また』という再会を意味する別れの言葉を口にした。ただの社交辞令なのかもしれない。図書館を管理する側としての当たり前の礼儀なのかもしれない。しかし、二つの線が一時でも重なり合ってしまったのは事実だった。
整理しきれない心を断ち切るかのように音を立てて本を閉じ、俺は図書館を後にした。あの事件。あの事件が全てを変えた。全ては俺のせいだった。俺のせいで仲間を皆殺しにした。お母さんまでも殺した。もう…傷つけるのも傷つくのも嫌になった。一生分の傷を負った。そして、一生この傷を背負っていくことになった。
だから。
仲間を作らないようにした。人と関わらないように生きてきた。
あの瞬間。あの瞬間に全てが変わった。感情が高ぶったせいだった。自分を押さえきれないせいで仲間を皆殺しにした。お母さんまでも殺した。もう…自分を見失うほど感情が高揚するのが嫌だった。一生分の傷を負った。そして、一生この傷を背負っていくことになった。
だから。
人と関わらないように生きてきた。人と関わらなければ、気持ちが高ぶる事もない。
端から見れば寂しい人なのかもしれない。でも、俺にとってはそっちの方が気楽だった。人と関わらなければ、気持ちが高ぶる事もない。気持ちが高ぶらない限りなら、自分の力をコントロールできる。
無視しようと思えば出来たはずだ。『貴方には関係ない』と言えば済む事だった。なぜその言葉も、その態度も浮かばなかったのだろう。後輩だからか。図書室を管理している人だからか。見知った仲だからか。遼風さんだからか。その全てが可能性であって、正解ではない。でも、無視できなかった存在である事だけは事実だった。だから俺は彼女の質問に答えた。………いや、会話を早く切り上げるために彼女の質問に答えたのか…?
特筆すべき事は、ゲーム版から冊子版ではなく、冊子版から推敲版への間です。推敲版の方が、文脈がわかりやすく、主人公の心情がよく現れていて、私としては好きなのですが、皆さんはどうでしょうか?
ほんの出来心でタイトルを『デジタル』でなくて『ディジタル』と書きました。深い意味はありません。
私が小説を書き始めるとき、その構想は大体ノートに書く。100パーセントデジタル処理という珍しい作品である“アクロス・ザ・タイム”等をのぞけば、物語の半分以上はいったんノートに記している。これは、電車に乗っているときやイベント会場で売り子をやっているときに物語を書く事が多いからだ。しかし、もちろん、パソコンに直接入力する事もある。
そして、この二つの作業が後々問題になる。
たとえば、今回の帰省がそうだ。リムーバブルHDDに“ReSin-ens”に関するファイルを全て詰め込んで、この地に舞い降りたわけだが、ばっちりと紙に書いた構想を置いてきてしまった。紙に書いた事をパソコン用のデータに置き換えるなんて言う面倒な作業はまず行わないので、ちょうど半分の資料を置いてきたような物である。しかも、物覚えが悪いからメモをとるのに、そのメモを置いてきたとなると大問題である。
そんなこんなで、紙に書いた事を思い出しながら小説を書くという作業は、なかなか難しい。一言で表現すると、フロッピーに保存したデータをフロッピーを参照することなく入力し直す、という感じか。しかし、健忘症予防にはもってこいなのかもしれない。
やらなければいけない事はスケジューラーソフトに入力し、思いついたソースコードをメモ帳(ソフトウェア)に保存する…と言った作業を繰り返すSEよりは、ましなのかもしれない。
さて、デジタルデータの利点の一つに私は『並び替えの自由』と『挿入削除の自由』があると思う。もちろん、できあがったデータは工夫を凝らさない限り、どのような箇所を変更したかがわからなくなるが、並び替えの自由と挿入削除の自由はデジタルデータにとってなってはならない特性である。
たとえば、二つの場面があり、その場面の順番を入れ替えたいと思ったとする。前にあった場面をそのまま描写するのではなく、後々回想という形で描写する場合などがこれに当たる。このとき、選択範囲を指定して、マウスでドラッグしてしまえば、簡単に文章を移動する事が出来る。これが、並び替えの自由である。
挿入の自由の例を挙げるならば、一つの場面を書いたところを想像してほしい。その場面の前に挿話を入れたくなったら、改行を適当に入力して、行間をあけ、そこに書き入れる事が出来る。これが、挿入の自由である。
削除の自由に至っては、デリートキーで全てが解決する。
このように、デジタルデータというのは物語を形作る上での試行錯誤にはもってこいのデータである。もちろん、プロットカードというような場面を一つずつ書き出したカードを並び替える事で、このような作業をアナログで再現する事も可能だが、自由度はデジタルデータには遠く及ばない。なぜならアナログデータの利点は、改変の歴史が残ると言うところにあるからだ。
パソコンは、繰り返し作業に特化していると言われるが、やはり、並び替えの作業にも特化していると言えるだろう。そして、この特化している点が、小説を書く上では無くてはならないのである。
少し食堂でおもしろい光景を見たので、それを紹介するがてら、私の考えや、それが適用される作品ついて触れていきましょう。
あるレストランに入ったときの事でした。お店の隅に、四人がけのテーブルに座っている四人の人達がいたのですが、その四人の人達は会話をすることなく座っていました。そして、会話の代わりにおもしろい事をやっていたのです。全員が携帯電話を取り出し、それぞれが別の人とメールのやりとりや、サイトの閲覧を行っていたように見えました。
思い返してみれば、このような光景は、結構見受けられます。学食にいる友達同士が、お互い話すことなく、携帯で別の人とメールをしているような光景です。スタバ、ドトール、マック、モス、吉牛、松屋、その他諸々。
そのような光景に私は違和感があります。なぜなら私は、誰か友人と一緒にいるときにメールをする人間ではないからです。ものすごい極端な例を挙げれば、友人が一緒にいるときに、その友人の前でセックスをするような光景であるといえるかもしれません。
何が言いたいか。それは、心そこにあらず、という事です。せっかく友人同士で集まっているのに、その友人と会話をすることなく他の人とメールをやりとりしている。見方を変えれば、友人の目の前で他の人と電話をしているようなものなのです。メールのやりとり、すなわち、言葉のやりとりですから、会話ととる事はそれほど無理な事ではありませんね。
たとえば、メールの相手が上司や仕事に関わる事ならばそれでいいのかもしれません。自衛隊や救急隊、病院に、一般的な会社、何時呼び出される変わらないと言う会社は世の中にたくさんあります。そう言うとき、重宝するのが携帯電話ですから、友人の目の前にいたとしても、それらの連絡は受け取るべきでしょう。
しかし、相手が別の友人となると、やはり私は首をひねります。たとえば、メールの相手が、両者に共通する友人ならば、用件によっては容認されるでしょう。用件によってはというのは、『今から、そっちに行くよ』というものや、二人で話し合っている内容に、友人が直接的に関わっている場合です。それ以外の場合、メールをやっている人は、目の前の友人と、携帯の向こう側にある人に意識を割かなければなりません。
このような考えを持っているからこそ、私は、同じテーブルを囲む人達がそれぞれに携帯電話を取り出して、別の友人とやりとりをやっている光景に疑問を投げかけたくなるのです。あなた達は何故集まっているのかと。
このような行動は、ものすごく失礼な事だと私は思っています。単純な文章でその理由を表現するならば、先ほどあげた、『心ここに在らず』だからです。
だから、私は、友人がいる前でメールをすると言う事をまずしません。もちろん、誰が送ってきたかは着メロで確認したり、受信画面で確認をすると言う事はしますが、目の前にいる友人としている会話と関わりがないと判別した場合、そのメールへの返信は友人と別れてからします。さらに言えば、目の前にいる人が友人よりも大切な人だと判断した場合、携帯電話すら取り出しません。いえ、サイレントモードにしたり、電源を切ったりして、意識がそちらに向かないようにします。これが、その人に対する誠意だと私は思っています。もちろん、たまに携帯をとりだして親などから連絡が来ていないか、ぐらいは確認をしますが…。
インターネットの世界でも、これに似たような行動、すなわち、同時に複数のチャットルームにはいる事はマナー違反とされています。意識が分散し、話に集中していないと思われるからです。MSNのようなインスタントメッセンジャーはプライベートな空間なので、多少容認されますが、チャットルームのような場所では、それらの行動はとても嫌われます。
だからこそ、先に書いた通り、このような行動を当たり前のようにしている人が沢山いる事に、私は違和感を覚えるのです。
私の作品を全て読んだ人ならばすぐにわかると思いますが、私の小説では、短編小説を含めて、友人の前で携帯電話を取り出して別の友人とメールや電話を始めるという行為を一度も描写した事がありません。“光になりたい”のワンシーンでは、友人の目の前で電話をするシーンを描写していますが、それは電話の相手が友人全員の共通の友人で、その友人が遅く来ている事に対して確認をするための電話ですから、今回取り上げたような例には入りませんし、“アクロス・ザ・タイム”でも、目の前にいる人の親からの電話ですから主人公は受け取っています。それ以外の全ての場面で、目の前に友人が入るにもかかわらず、携帯電話を取り出して、メールや電話をするような光景は描写していません。
暗黙的ですが、私の作品の登場人物はほとんど全て携帯電話を持っています。しかしながら、それらの人物が、他人の前でメールをやりとりすると言う行為をしないのは、そのような行為自体をおかしいと思っている…厳密に言えば、はじめからそのような行為が頭に入っていない作者(私)が書いているからです。作品は作者の鏡ですから、当たり前と言えば当たり前です。
わかりやすい事例を挙げましょう。
【直哉】「ちょっ…おい、しっかりしろ!」
周りに居た人も何事かと集まってくる。
【直哉】「…電話っ!」
確か彩音は携帯を持っていたはずだ
【直哉】「どこだ?」
ちょと後ろめたい気持ちになったが、彩音の体を触りつつ携帯を探す。
胸ポケットから携帯が出てきた。
えっと…確か…。
うろ覚えの携帯電話の使い方…。
電源が…切れてる…。
ものすごくネタバレ的な解説をしてしまいますと、さらりと読み飛ばしてしまいそうなこの部分に、彩音の直哉に対する感情が表れています。この場面は、直哉と彩音がデートをする所です。彩音は直哉とデートをするから誰にも邪魔されたくない、と言う事で、携帯電話をマナーモードやサイレントモードにするどころか、電源そのものを切っています。これが何を意味するかはすぐにわかるはずです。
彩音にとってデートは楽しい事です。だからこそ、大親友の紗に出すら邪魔されたくないと言う感情を持ち、携帯電話の電源を切ってしまいます。このような場面は作中に一切描写していませんが、この一文で彩音の感情を示すような作りになっています。
私はこれが普通だと思っています。だからこそ、彩音は電源を切りましたし、他の主人公は携帯電話をポケットから取り出さないのです。
携帯電話というなの情報端末はものすごい勢いで普及し、すでに生活の中になじんでしまいました。だからこそ、その扱い方でその人の人間性が簡単に見えてきたりします。他人の前でセックスをするような事、貴方は平気でしていませんか?
しかし、このような考え方は、その人の年代によって大きく異なると思います。きっと私より大人な人は私と似たような感情を持つでしょうし、私より子供というひとは反感を持つでしょう。
どうも都会の祭りは、祭りと言うよりはエンターテイメントとかカーニバルと呼ぶにふさわしい、人を呼ぶためだけの催し物になっているが、地方の祭りはそうでもない。
我が町で秋を感じると言えば、夜な夜な太鼓の練習の音が響く事だが、今日から三日間、その練習の成果を示すためともいえる、秋祭りが行われる。もちろん、秋祭りと言うぐらいなのだから、豊作を記念・祈願して行われる。最終日には町の中心にある稲荷神社から始まるのだが、やはりこのあたりが地元に密着しているといえるところであろう。実のところ、合併して初めて行われる祭りだから、少しばかり期待している。
私の町のお祭りは前夜祭も含めれば四日間に渡って行われるが、やはりメインとなるのは、三日目の山車の夜間運行と、最終日の駒踊りであろう。我が町の山車は超合金合体変形とまでは行かないが、山車が変形するのが特徴である。電線がある地域で組み立てられた山車は、祭り運行区域である通り(電線地中化が完了している)に出た瞬間、空高く変形し、横にも広がる。計四車線の道路をを占領するぐらいだから、なかなかの大きさだろう。それに加え、煙を吐き出したり、その場で回り始めたりとするのが密かに自慢だったりする。ただしその構造上、ものすごく重くなるため、山車のほとんどがエンジンを搭載しているのは何とも技術と伝統の国、日本らしい。
これらの事を書き出すと、催し物として見られてしまいそうだが、実は案外そうでもない。馬の町らしく、山車のほとんどは馬をテーマにしているし、手踊りの県らしく手踊りを山車の上で披露しながら進むのもある。ほとんど全ての町内会が参加し、町内で一つの山車を作るところはまさに、市民の共同作業であると言え、密かに楽しみにしている行事である。
祭り期間中は人口が五倍にふくれあがる所をみれば、周辺市町村の中でもかなり大規模な祭りになるであろう。県内の祭りを規模の順番に並べるならば、青森ねぶた、弘前ねぷた、八戸三社大祭の次にくるぐらいであろう。例外をあげれば、青森、岩手、秋田の合同で行われる巨大な祭り、国境祭りなんていうのもある。
東北地方の祭りは全国にもないぐらい数も多く残っていて、田舎と言ってしまえばそれまでだが、伝統を継承しているという点では、最大級の評価をされるべきであろう。我が町は開拓村から始まっているため、比較的新しい町ではあるが、そんな新しい町なのに歴史を継承した祭りがあると言う事は、誇りに思っていいのではないかと、市民に投げかけたい。
確かに、神社に常設の巫女さんがいないから、四日目の行進には神主さんしか出てこないとか、色々不満はあるが、それでも、良い祭りだとは思う。
実のところを話してしまうと、人口三十万人都市である前橋市や高崎市の祭りに参加した事があるのだが、私の町の祭りよりずいぶんと規模が小さい。出店の数は半分所か四分の一ぐらいしかないように思えるし、市民の盛り上がりも期間も規模が小さい。そんな都会の祭りより、地元との祭りの規模が大きいというのは何となく自慢にもなるのである。
しかし最も重要な事は祭りの規模より、ただの催しに落ちぶれることなく祭りとしての形を保っているところである。それは、祭りとしてはもっとも難しく、そして、本質的な部分である。
事実上の全編書き直しになる“ReSin-ens”は、私の最新作と言っても過言ではありません。ですから、“光になりたい”や“冊子版・光になりたい”、“窓辺に座る小さな妖精”、“冊子版・アクロス・ザ・タイム”で生み出した技法の他にも、新しい技法をふんだんに取り入れています。私の作品は何時も実験的です。ですから、この本を読んでくださる方がどれだけいるかというのはすごく心配になります。なにせ、一癖も二癖も在りますからね。
そんな技法の中で、新しく生み出した技法が伏線に関する技法です。今までは、始点と終点を一つのセットとして使ってきました。しかし、今回用いた伏線の技法は、視点が複数有り、それが一つの終点にたどり着くと言う使い方です。それに加え、明示的な始点と暗黙的な始点を作りました。
これが何を意味するか。物語の背後にある伏線の量が爆発的に増える事を示しています。死に神の正体という“ReSin-ens”最大の伏線を覆い隠すかのように張り巡らした多くの伏線。その伏線を全て見抜いて、死に神の正体にたどり着く事が出来る人がどれだけいるでしょうか。
死に神の正体を見破る事はそんなに難しい事ではありません。サイトに公開している“ReSin-ens”は、五人のヒロインを全て攻略して死に神の正体を見破る事が出来るように作っていた当時のシナリオですが、今回は二人のヒロインの話を読むだけで死に神の正体がわかってしまうのです。わかりやすく言えば、難易度が下がったのです。だからこそ、死に神の正体を隠すために、沢山の伏線を作っているのです。
技法も数も今までとは違う冊子版“ReSin-ens”。もしかしたら、今までに前例のない物語になるかもしれません。
しかし、見方によっては難易度が上がっているかもしれません。描写をすべき場面を伏線の中に隠した部分もあり、普通に作品を読んだだけでは、何故今このような展開になっているのかとわからなくなってしまう可能性があります。つまり、原作では本文中にしっかりと描かれていた場面が、主人公との会話の中に隠れていたりして、詳細な描写をしていない場面が在るという事です。それらの伏線を見つけ出し、描写をしていないところで何が起こっているのかを理解しながら読み進めないと、“ReSin-ens”は、難しい物語になってしまうかもしれません。
実は、作品を書くのが楽しい理由の中に、こういう伏線を造る作業が楽しいという物もあったりします。読者と作者の真剣勝負なんですよね、伏線は。
18時に始まり25時に終わる詩唄いさんとのサミット×約14日分=84時間に及ぶ、同人サミットが終わりました。内容的にはほとんど全てが“ReSin-ens”についてなのですが、来年の夏コミや、同人に足を踏み入れたばかりの人達にどのような方針を示していけばいいか、等という事をひたすらひたすらひたすらひたすら(以下、エラーバッファオーバーフローになるまで繰り返す)話し合ってきました。おかげさまで、当面の目標もやるべき事も決まったので、よしとしましょう。その影響で、微分積分の勉強がほとんど出来なかったのは内緒ですが(最低だ)。
さて、昨日も書きましたが今日はお祭りでした。祭りの会場へ移動し、開始の合図である花火が上がった瞬間、雨が………ザー。土砂降りで、簡単に表現するなら関東地方のスコール。そんな雨の中、祭りをやるのはある意味根性です。荒天決行(結構)というものでしょうか。踊る阿呆がそれならば、見る阿呆もそれに乗る事になります。「えっ、なに? 今雨降ってるの?」と笑いながら、祭りを見て回りました。途中、雨での影響でチョメチョメチョメな浴衣にみんなで萌えながら、カラスの濡れ羽色の髪っていいなぁと一人で萌えながら、闊歩してきました。
途中、とりあえず恒例になりつつある“ベーコンハム鯛焼き”を購入。雨宿りをしながら食べました。
今年で十年目になる“西茜会”によるソーラン節ですが、雨の中、水に濡れた旗を振り回した瞬間、バサッ! という音とともに、水しぶきが舞うんですよ。あれがものすごく格好良くて、踊っていた殿方にも姫方にも萌え(燃え)ました。メモリーカード256MBを消費して、フルコーラスで録画しました。
そういうの(ネタバレ的な解説あたり)を探りながら読むというのも面白そうだなと思いました。
特に、プロではない人のオリジナル同人系のもの。
筆者の内面が出てそうで面白そう。たまにこういう自分では思いつかない何かを得られることがあるので、ついつい訪れてしまいます。
匿名希望のメールより
そのように言って頂けると、ネタバレをしたかいがあるというものです。新しい発見を得られるからついつい訪れられるとの事ですが、このサイトの場合は、文章量の割に新しい発見を得られる確立が極端に低いので、ご注意を(苦笑)。
ちなみに、イベントに参加するたびに、創作文芸の同人誌を数十冊買いあさってくるのですが、やはり同じ作者が書いている作品は、テーマが違っていても、主人公に共通する動きがあります。そう言うところは、作者の内面が現れている部分といえるのでしょう。私の作品の場合は、共通する動きどころか、共通する性格なので、もっと書き分けないといけないなと何時も感じています。
明日には逆帰省します。