Top > ウェブ公開作品 > 小説 > 掌編・短編小説 -短編小説- > 第1.1の人生
そのお客さんはいつものように朝の10時に予約を入れてきた。いつもと違ったのは、予約の時間が閉店1時間前ということ。普段は昼頃なのに。そう思いながら私は予約表にその名前を書き入れた。きっと、この人が私にとっての最後のお客さんになる。
半年前のあの事故さえなければ、私は後数年はこの商売を続けていただろう。だが、あの時から全てが変わった。鋏の冷たい感触や、ずっしりとした重量感、一本一本の髪を切っている抵抗感がなかなか伝わってこない。これは全て、あの事故のせいだった。
医者は「下半身麻痺にならなかっただけで幸いですよ」と私を慰めた。しかし、私にとってこの症状は死ぬにも等しかった。だから半年間、藻掻いた。悪あがきをしてみた。
それでも、超えられなかった。
いつも通りの間隔で予約を受け入れていたのに、髪を洗い終えないうちに次のお客さんが来店してしまった。その時私は気が付いたのだ。いつものように作業しているつもりだったのに、実は随分と遅くなっていたと言うことに。気が付いていないだけで、指先の動きは随分と鈍くなっていたのだ。いや、私が鈍くなっていないと思いたかっただけなのかも知れない。
リハビリによって普通の生活は全く問題ないレベルにはなっていた。仕事も何とか続けることは出来る。
しかし、私の要求しているレベルにはなっていない。私の腕を期待してやってくるお客さんに答えられる自信はない。
私の経験が私自身に問いかけをしている。お前はそんな状態で客を相手に出来るのか、と。
その問いへの回答は、店を畳むことだった。
私にとって、セカンドライフやら、第二の人生だなんていうなまやさしい言葉はない。この仕事が人生そのものだからだ。理容師に憧れ、資格を取り、修行をして、一軒の小さな店を持った。人生の全てが鋏と共にあった。だからこの店を畳むとき、私はその人生を終えることになる。そしてそれが、今日、なのだ。
辺りも暗くなり、テレビもバラエティーが増え始める。どこのチャンネルに回しても笑い声ばかりで、その楽しそうな雰囲気に私の親指は自然とNHKへと流れた。良く指導されたアナウンサーが淡々と事実のみを連ねてゆく。しっとりとした声に、落ち着いた口調、プロの仕事だ。
そんなときだった。テレビから流れてくる音とは違う、明るく柔らかいベルの音が店内を満たしたのは。
「いらっしゃいませ」
振り向きざまに私は挨拶をした。そのお客さんは、30年間そうしてきたように「どうも」と言った。
私が店を開いたとき、そのお客さんはまだ子供だった。小学校の卒業も、中学校の卒業も、高校の卒業だって大学の卒業だって、地元発の全国規模の企業に就職した後だって私はその人の髪を切り続けていた。髪型は変わったが、人は変わらなかった。
「いつも通りでよろしいですか?」
「はい」
これもずっと変わらないやり取りだった。彼が家庭を持ち、子を授かり、その子が小学生になっても変わらないやり取りだった。
そのお客さんはいつものように自分の息子や仕事、最近のニュースについて喋った。私も孫の話やニュースについて喋った。
そうこうしているうちに、髪を切り終え、頭を洗い、顔そりが終わる。
そんなとき、お客さんはタオルで顔を拭きながら、
「来月から私はどこで髪を切ればいいんですかね」
と呟いた後、
「物心あるうちからここだったから、他の床屋に行ったときにどうやって頼めばいいか想像すら出来ないよ」
と更に続けた。
鏡越しに窓の外を見つめるお客さんの目。それを直視できず、わたしはすぐに近くの時計に目を逃がした。閉店まであと10分。やはり、このお客さんが最後だ。
「どうも有り難う」
私が何も言い返せないうちにお客さんはそういうと、椅子から立ち上がり、ポケットから財布を取り出した。私が遅れる格好でレジに向かい、レジ越しに3枚の1000円札を受け取る。金額を入力し、決定ボタンを押すと、大きな音を立ててレジが開く。そこにお金を仕舞いながら、「ありがとうございました」と言った。
来たときに羽織っていたジャケットを着ると、ドアのノブに手をかけ、ドアを開いた。
その姿を見て私は、
「またのご来店をお待ちしています」
と30年間続けてきた挨拶をしたことに気づいたのは、お客さんが「ははは。癖になってるよ、おじさん」と指摘されてからだった。
「そうみたいですね…」
思わず息が漏れる。明日から私は鋏を握らない…というより、このお客さんが最後のお客さんなのだ。この人が店を出た瞬間に、私は歩みを止めることになる。失敗を繰り返し師匠に怒鳴られた日々、がむしゃらに走った日々、常連さんが増え始めて安定した経営が出来るようになったとき、お客さんに「いつもアリガトウ」と言われた記憶、それらが全て経験から思い出に変わる。
「あー、そんな顔をしているようじゃ、未練たっぷりみたいだし、まだ店、辞めちゃいけないね」
「えっ?」
「手際が遅くなったら、予約の間隔を開ければいい。昔の感覚を取り戻すのは難しくても、新しい方法に挑戦することは悪くないんじゃないかな。30年間で私の髪型が少しずつ変わったように、おじさんもやり方を少しずつ変えればいい。たったそれだけでしょ? 最初は抵抗があるかも知れないけど」
私は彼が言った言葉をゆっくりと解釈し始める。
「なんて、人生の先輩に対して言えることじゃないんだけど。それじゃあ、また再来月」
そう言い残すとお客さんは開いていたドアをくぐり抜け、外へと出た。
「あの…」という私の言葉はお客さんの背中に届くはずもなく、室内にとどまったままだった。後に残ったのはテレビの音と時計の針の音。その音の中で私は考えさせられることになった。明日からの自分の人生について。
そして出てきた答えは、一つの言葉だった。
「私に口出しするだなんて、生意気になりやがって」