Cyg art GalleryでART BOOK TERMINAL TOHOKU 2022が始まりました。私の大槌町の星空写真集「Lumturo en la nokta ĉielo ~大槌の星空~」も取り扱って頂いています。
ABTTは「東北がテーマの作品」ではなく、「東北にゆかりのある作者の作品」というところが面白いテーマだなと毎回思います。ここで言う「ゆかりがある」というのは、東北出身、東北に住んでいるという意味です。だから作品の舞台が東北じゃなくても東北にゆかりがあれば出展することができます。といっても、個人的には東北で販売するので,東北の作品の方がいいかなと勝手に思っていますが。
さて、会場で購入される場合はそのまま購入して頂ければと思いますが、もしCygの通販ページから、私の作品だけを購入する場合、私が直接販売しているBOOTHのページから購入して頂けると幸いです。ABTTの手数料はすごく高いので、9割以上が私に還元されるBOOTHのほうが助かります。
もちろん、他の作者の作品も含めてCygで購入すると言うことであれば、Cygの通販ページの方がお得になると思いますのでそれを引き留めたりはしません。
というのも、ABTTの手数料って販売価格の4割(作者には6割)なので、元の値段が3000円の本を売る場合、ABTTでは5000円で販売しないと本来の収入にならないんですよね。それに加えてABTTへの送料、参加料、在庫の返品送料が発生するので、実質的に半分しか作者に還元されないのです。
なので私の作品だけならBOOTHのほうが嬉しいです。
といっても、ABTTは私のことを知らない人に届けるために出展しているという側面が強いので、ここを読んでいる方はわざわざABTTで購入する以前に同人誌即売会やBOOTHで購入して頂いているとは思います。ありがとうございます。
アルファベットのタイトルやイベントはどんなに中身が簡単なものであっても読み飛ばされるものだという認識なので、告知画像では「アートブックターミナル東北」とカタカナ表記にしていて、ツイートでも最近はカタカナ表記を多用しているのですが、Cygの公式アカウントでもカタカナ表記になっていて、ハッシュタグだけABTTになっていました。
公式アカウントではアルファベットもカタカナも混在しているのですが、やっぱりカタカナの方がわかりやすいですね。COMITIAの用に1単語ならまだしも、単語が連続するとどうしても視認性に劣るので、カタカナでいいと思います。
ちなみに今回販売している「Lumturo en la nokta ĉielo ~大槌の星空~」も、日本語が後ろに入っていますが、これも同じような理由で日本語を後ろに付け加えています。
もちろん、前の方は英語ですらないので読めない人が多いですし、個人的には飾りのようなものという認識です。後ろに「大槌の星空」と付け加えることと、表紙の雰囲気で写真集であると伝えていて、前の方はおまけです。
アルファベットだけでもタイトルの意味としては必要十分ですが、タイトルとしてのわかりやすさを考えたらこれでいいと思っています。
先月作ったアバターですが、テクスチャの権利の問題があるので、自己紹介ページにアバター紹介ページを作り、そこでテクスチャについて紹介することにしました。人の商品を使わせて頂いてますし、商品紹介のためにも独立した方がいいかなと言う判断です。
仮にTwitterで紹介するときもリンクとしてまとまってると楽ですしね。
去る8月25日、Twitterのタイムラインに衝撃が走りました。
「アートブックターミナル東北2022」での8/6-21の販売数TOP5を発表します!
9/14の会期終了まで順位に変動はあるのか注目です。
実際のランキングは「ART BOOK TERMINAL TOHOKU2022 たくさん売れた!ランキング ー中間発表ー」をご確認ください。
最初にツイートを見かけたときの反応は「えっ?」でした。Twitterでフォローしている方で私の他に二人がABTTに出品しているのですが、二人とも同じ反応でした。当該のツイートには今(8月28日11時19分)時点で2件の引用リツイートが紐付いており、そちらも同様の反応です。
もちろん、ランキングの発表を好意的に受け止めている人はこういった反応は取りませんので、可視化されるのは疑問に思っている人だけになりますが、少なくとも何人かの人は私と同じような感想だったので少し安心しています。
ABTTは主催者であるCygが本を集め、展示し、販売するイベントである事は揺るぎない事実です。公式サイトにも東北にゆかりがあれば出品可能!「本」の形の表現を展示販売するイベント
と謳われています。販売数のランキングも、確認できる範囲では少なくとも2018年から行われており、私自身はその存在も知っています。
ですが、少なくとも2018年から行われている販売数ランキングの発表は、
対象年 | ランキング発表日 |
---|---|
2018年 | 2020年6月5日 |
2019年 | 2020年6月8日 |
2020年 | 2021年8年28日 |
2021年 | 2021年9月7日(会期は8月31日まで) |
という具合に、いずれも会期が終わってからの発表で、またその発表時期も2年分まとめてというように、思い出した頃に掲載するという感じで、やる気を感じるものではありませんでした。少なくとも、今回のように前のめりに発表するという雰囲気ではなかったように思います。
それが今回、突如として、ランキングが会期中に発表されました。それだけでも驚きましたが、個人的に気になっているのは会期終了まで順位に変動はあるのか
という煽り文句です。これがなかったらイメージは全然違ったと思います。
ABTTが本の販売イベントである事は紛れもない事実です。6冊(見本用1冊、販売用5冊)の納品が義務づけられており、1点ものの作品は出品できないことからも、販売に主体が置かれていることはわかります。
しかし、イベントの実情は異なるという認識でした。
一部人気の作品は会期の前半で完売してしまい、そういった作品は再納品を求められるようですが、そういった作品はほんの一握りで、出品作品の大半は一箇月という期間でも5冊も売れていないのが実情でしょう。過去2回参加している私の場合、3冊、4冊、今回は現時点で0~1冊という具合です。
さらに、個人的には、芸術作品を取り扱うギャラリーが主催である事、東北にゆかりがある作者による作品という、商業性よりも作者の出自によって作品を集めていることなどから、こういったランキングとは縁が遠いイベントだと思っていました。そういったこともあって、ランキングの発表も忘れた頃にやっているのだと認識していました。
今回のランキング発表について疑問に思った方が、Cygに問い合わせを行っており、そのやりとりがnoteにまとめられています。
「ART BOOK TERMINAL TOHOKU 2022」における売上ランキング発表についての問い合わせと回答
ざっくりと要約すると、
という感じで、Cygとしてはあくまでも広報活動の一環であり、会期中のランキング発表も、これまで会期後に発表してきたランキングの延長線上であるという認識のようです。
広報活動の一環という点においては、ランキングという今までと違った形で本を紹介することで、今までに刺さらなかった層に届けるという効果はあるかもしれません。一方で、会期後のランキング発表と、会期中のランキング発表については、考え方の隔たりを感じます。たとえて言うなら、年末番組で「今年の人気作品はこれでした」というのと、通販サイトで「今これが人気です」という感じでしょうか。同じランキングであっても受け止め方は大きく異なると思います。
8月6日の日記にも書きましたが、個人的にABTTは「東北が舞台の作品」ではなく「東北にゆかりがある作者の作品」という、少し違った切り口のイベントである事が特徴であると思っています。
2020年11月15日の日記で、同じ地域に住まう人の作品という視点について触れています。
あと、レベルとは別に、同年代の同じ学校に通っていたというレベルで同地域の子が同じ地域をどのような目で見ていたのか、というのが在校生の同人誌から伝わってきたらとても面白いんだろうなあと思います。まさに多様性、多様な価値観。
同じ地域に住み、同じ景色を見て育ったけど、考え方(作品)が違うという事がわかる。個人的には、それがABTTの醍醐味だと思っています。どうせならこういう視点からアピールして欲しかったなあと思わざるを得ません。
個人的に、ABTTに参加するのは今回が最後だと思っていたのですが、まさかその最後でこういうことが起こるとは思ってもいませんでした。今まであったカタログがチラシに置き換わっただけでもかなり残念でしたが、また一つ残念が増えてしまいました。まあ、カタログについては、過年度のカタログが売れ残ってるのを見ると仕方がないとは思うのですが。
とりあえず、公表してしまったのは仕方がないですし、会期は9月14日までと、あと後二週間強あります。その二週間で何か挽回があればと望みます。
8月に入ってからというもの、AIによる画像生成サービス(Midjourney、#StableDiffusion、mimic)が様々な意味で話題になっていますが、その中には、典型的な、技術と法律と感情を分離して考えないといけない案件(理解はできるけど感情が許さない、など)も含まれており、良くも悪くも盛り上がっているという印象です。特に今回は技術と法律と感情以外にも、手順をそれぞれ分解して(例えば機械学習のサンプルデータの部分、出力された成果の扱い、操作した人の権利)議論が必要なので、感情論が先走ると、制御(法整備)できることも制御できなくなってしまうので注意が必要です。
幸いにも、私達はこういうときのために、与野党に対してコンテンツ産業や表現、著作権に強い議員を送り込んで居ますので、彼らを通して及第点を模索していくしかないでしょう。
技術の進歩というのは基本的に不可逆なので、その技術がある前提で、どうやってそれを使うか、制御するかを考えないと、ガラパゴス化、あるいは海外のサービス(とくに倫理観皆無のお隣の半島や大陸)にすべて奪われかねないと思います。個人的にはmimicがNHMとかByteDanceじゃなくてよかったな…って思ってたりします。
さて、イラストはもちろん、この手の技術的な側面について私は何か物申せるほど知識がありませんので、別の話をしようと思います。AIの悪用だとかいろいろ危惧される部分はあるのですが、それはもう仕組み(利用者の登録方法や出力解像度の制限)で解決するしかないと思うのでここでは触れません。現実的にmimicは不正利用を防ぐ仕組み(作者以外の人がデータを入力できる)が不十分だったとして、公開を取り下げています。
私は2016年から立て続けに大槌町の復興記録写真集を発行してきましたが、この写真集は「写真とは」あるいは「個性とは」を考えるきっかけになりました。
写真は感光体(CMOSセンサー等)に光を当てることで作られるものですが、光のあて方は機械的(絞り、ISO、露光時間、画角、フィルターなど)に制御することができるので、たとえどんな作品であっても、カメラの設定や設置方法を模倣することで、別の人が全く同じものを作り出せるという特性があります。もちろん、ある瞬間に全く同じ場所にカメラを設置することは物理的制約によりできませんので、ほんのわずかに構図は変化しますが、望遠側になればなるほど(景色を切り取るほど)再現度は高くなります。
平たく言うと、やろうと思えば誰でも再現できてしまうのが写真です。
これが顕著なのが鉄道写真における編成写真でしょう。何人もの人が同じ場所に集まって同じ方向にレンズを向けるという端から見たら奇妙な光景は、支柱によって車体が遮られないだとか、フロントガラスに影が入らないだとか、そういう構図に重きが置かれているからであって、個性よりも記録的な側面が強いのです。むしろ個性を殺しているとも言えるでしょう。
閑話休題。
ではなぜ写真家という職業が成り立ち、あるいは写真集という作品が人気を博するのでしょう。
今から書くことについてはいろいろな意見があると思いますが、あくまでも個人的な見解として受け取っていただければと思います。
私としては、写真の個性というのは究極的に言えば、その瞬間、その場所にいて、その方向にレンズを向けている、ことにあると思います。これはポートレートや物撮りではまた違った答えになると思うのですが、風景写真はこの答えにたどり着くと、今の時点では思っています。
風景写真を生業にするいわゆるネイチャーフォトグラファー(風景写真家)は、偶然の要素も多少はあるでしょうけど、知識と経験により、思い描いている風景を狙って行動し、実際にそれを写真に収めることができる人だと思っています。もちろん、偶然を必然にするだけの撮影枚数や行動もあってのことですが、素人が本当にたまたま美しい景色を撮ってSNSでバズったとしてもそれっきりですが、彼らは黙々と美しい写真を積み上げていくのです。
風景写真集、特に星空の写真集はカメラの設定や撮影地が記述されていることがありますが、撮れるものなら撮ってみろという挑戦状のように私は受け取っています。「設定は教えたけど、果たしてお前は望む景色が現れる瞬間にその場に居ることができるのか?」という(笑)。
私の大槌町の復興現場の写真は、構図や設定にこだわりはほとんどなく、24-105mmのレンズでISOオートでF8からF11で撮り続けたものです。誤解を臆せずに言えば「誰にでも撮れる写真」です。さすがに表紙や中扉を飾る写真は多少気合いを入れて撮っていますが、それ以外の写真は9割はこういう写真でしょう。明るければF値を大きくしますし、暗ければF値を小さくする、その程度の安易な設定です。
ですが、誰にでも撮れるからと言って、謙遜はまったくしていません。悪い言い方をすれば、イベントがあるときにしか来ない新聞社やテレビ局には作れまいとふんぞり返ってすらいます。
なぜなら、写真そのものは誰にでも撮れるけど、日頃から2万枚に及ぶ写真を撮影し、選別・編集し(キュレーションし)、写真集にまとめ、発行することができるという部分に、作品としての、あるいは私としての個性が宿っているからです。
あの写真集を構成する1枚1枚の写真は誰にでも撮れるでしょう。何も考えずに、強いて言えば、前に撮ったときと変わったかなと思ったところにカメラを向けてパチパチ撮っただけの写真です。ですが写真集として成立させることができるのは私しかいないでしょう。
こう言った経緯から、前述した「その瞬間、その場所にいて、その方向にレンズを向けている」という私の中での答えができあがりました。大槌写真集の場合は、その場所に居続ける(継続的に撮り続ける)と言い換えることができるかもしれません。
写真は、誰にでも同じものが撮れる以上、カメラの設定よりも、被写体への観察眼、向かい合い方が個性に繋がっています。この観察眼が最終的にどういう設定をする事で被写体を活かすことができるか、という思考(設定)に繋がっていき、写真の出来映えに繋がっていきます。カメラの設定なんていうのは二の次で、それ以前の部分から個性の土台は始まっているのです。
写真の話題はここまでで、画像生成AIについてちょっと追加。
イラストにおける絵柄はカメラの設定とは違って修練の積み重ねです。AIによってそれを模倣されることは、今までの努力が根底から覆されると感じる方も多いでしょう。写真で言えば、設定をまねされるのではなく、思考を模倣されていると言われているのに等しいでしょう。こう置き換えると私も相当嫌悪感があります。
しかし一方では、自分の絵柄なのに自分の絵ではない、自分の思考を越えた作品を目にすることで、新たな境地が開ける可能性は大いにあるでしょう。
陸上競技には、ゴムで引っ張るなどして、自分の走る速さよりも少し早い速さで走る「スプリント・アシステッド・トレーニング」という、まだ見ぬ境地を体に覚えさせるトレーニングがあるように、あるいはもっとわかりやすいところで、自分よりほんの少しうまい同級生の存在が自分を高めてくれるということもあるでしょう。
画像生成AIが人々にとってそんなパートナーとなれるような発展を遂げてほしいと、私は思います。