5月の日記

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2015年5月2日(土曜日)

初めての

 詩唄いの引っ越し手伝い一日目が少し早めに終わったので、夕ご飯を食べる予定の店がある錦糸町駅までのんびり歩いて向かうことに。折角だからと、もう来ることも無いであろう下町をIngressをしながら進んでいきます。
 ふと気がつくと、目の前にスカイツリーが現れました。
 建設中から何度も写真を撮ってきたスカイツリーですけど、そういえば夜の写真を撮ったことが無かった…と、カメラを構えます。

アクリルを使って作った表札の写真
α5100(ILCE5100) + SEL1018(E 10-18mm F4 OSS)
1/50sec, F6.3, ISO10000, 0EV, 35mm equivalent focal length 18mm
Development in Adobe_Lightroom, Edit in Adobe_Photoshop

 本当は三脚を使った方が綺麗にとれるのですが、引っ越しの手伝いをしに来ているのに三脚を持ってくるようなことはしていないので、簡単に手持ち撮影で。
 確かスカイツリーは基本色が二色あって、片方は雅と言うのですが、もう片方の名前は忘れた上に、どっちの色が雅かも分からないので、その場にいた全員で「結局、なんていう色なんだろう」と、答えの無い問いかけをしながら眺めていました。

2015年5月4日(月曜日)

COMIC ZIN新宿店のレイアウト

 2日3日と詩唄いの引っ越しの手伝いをしていて、5日はCOMITIA、6日はオクフェスということで、丸一日自由な時間は今日だけでしたので、とりあえず所沢方面にIngressをしに行って、今度は学芸大学方面へ買い物しつつIngress、そのまま歩いて目黒駅まで移動して今度は電車で新宿へ…ということで向かったのはCOMIC ZIN新宿店です。

 正直なところ、COMIC ZIN新宿店のレイアウトが好きでは無いのですが、度を超してきているので、ちょっと日記に書こうかなと思います。
 どういう所が気に入らないのかを箇条書きしてしまうと、

多くの同人誌が一般的な書店のように背を向けられた形で並べられている
 同人誌で背にタイトルを書いてある本は余り多くないので、メロンブックスやとらの穴のような同人誌書店は、そのほとんどの本を平積みか、本棚に入れる場合も表紙が見えるように配置しているが、COMIC ZINは背を向けている本の割合がそれらの書店に比べて多い(ように思う)。
平積みした本の上に、互い違いにして別の本を平積みしている
 昔は余り無かったと思うのですが、ここ一年か二年でこういう扱いを受けている本が増えたように思えます。それでもちょっと前までは二種類までだったのですが、今日見たら四種類ぐらい互い違いに本が重ねられていました。
本棚の棚の部分に平積み(もちろん表紙は見えない)
 以前お店に行った時から気になっていたのですが、本棚の棚の部分に本を平積みにしているエリアが一ヵ所あります。低いところならまだしも、私の身長より高い、本棚でも上の方の本に対してそういった陳列を行っているため、目の前に立っただけでは表紙が一切見えません。

このような感じで、一言で言うと、本をぞんざいに扱っているようにしか見えないのです。
 「探す楽しみがある」と仮に言われたらそれはそうなのかもしれませんが、本の扱いと探す楽しみはトレードオフになるべきものでは無いと思うのです。

 COMIC ZINにおける創作系同人誌の取り扱いに対する力の入れ方は評価できますし、創作系同人誌を作る事も買うことも多い私にとっては非常に嬉しいです。しかしその一方で、それらの本に対する扱いの悪さが凄く気になるのです。
 同人誌の売り上げだけで書店を維持できないがために一般コミックをおいているのかなと邪推しつつも、もう少し同人誌の陳列エリアを広げて、ゆとりを持たせてもらえないかなーと、一利用者としては思います。

2015年5月6日(水曜日・振替休日)

お台場オクトーバーフェスト

 先月の秋葉原オクトーバーフェストの日記から一ヶ月、私はお台場オクトーバーフェストに来ていた

 ということで、今年もオクフェスシーズンが始まります(いろいろおかしい

2015年5月17日(日曜日)

自説「紙の新聞紙 デジタル文化についていけないか」

 活字文化が、狭義の活字の意味である活版印刷を指すのでは無く、いわゆる「出版」全体を指すのであれば、デジタル教科書の普及と活字文化の衰退はイコールでは無いと思うんですよね。
 以下、ちょっとしたツッコミ。全部に突っ込めそうなツッコミが追いつかない社説ですけど、全文引用すると怒られるので、この辺で。

社会のデジタル化が進んでも、子供たちが紙の教科書を読み、鉛筆で文章を書くことの大切さは変わらない。

 紙で教科書を読むことと、電子端末で教科書を読むことの違いが私にはさっぱり分からないので、ここにあえて「紙の」と入れた意図も理解できないのですけど、読売新聞にとっては何か大事な違いがあるのでしょうか。
 紙の教科書の利点と言えば、その場で書き込むことができるというのがあるかもしれないですけど、現状の電子書籍でも栞やアンダーラインは書くことができますし、ソフトによってはレイヤーを重ねてその上に書き込みができるような物もあったと思います。「その場で書き込める」という紙独自のメリットは、技術革新によってデジタル環境でも同等の物が提供されるようになるでしょうし、デジタルのメリットである検索性を考慮すれば、紙のメリットを上回ることは容易に想像できます。

 利点の話に終始してしまいましたけど、そもそも、紙の教科書を読む大切さって何でしょうね。

 教科書がデジタル化された場合、子供たちは情報端末を自宅に持ち帰るようになる。家でも端末操作に熱中するなどして、生活のリズムが変わり、本を読む機会が減ってしまわないか心配だ。

 教科書が紙の場合でも教科書は自宅に持ち帰るでしょうし、家で勉強をしないような子供はそもそも教科書を自宅で読まないでしょう。教科書が紙だろうがデジタルだろうが、自宅で読む人は読むでしょうし、読まない人は読まないと思います。端末操作に熱中するのだって、現代技術に触れるという点ではとても大切なことです。
 むしろ私はこう考えます。
 紙の教科書と自宅にゲーム機(タブレットとかでもOK)がある場合、(一般的に)楽しいと思われるゲーム機の方に心が触れますけど、教科書がデジタル化して「コンテンツ」として楽しめるようになれば、ゲームのプレイ時間の一部が教科書に向けられる可能性があると。
 紙の教科書はあくまで教材でしかないですが、デジタルの教科書はコンテンツとして楽しめるレベルに昇華されていくでしょう。そうなった時、紙の教科書のメリットはデジタルの教科書に取って代わられる事になります。

デジタル教科書の導入が、「活字離れ」に拍車をかければ、活字文化の衰退を招きかねない。

 現状、若年層の読書時間はむしろ増えており(主に学校の読書の時間の影響だと言われていますが)、活字離れをしているのは視力低下を理由にした高齢者です。デジタルの本は文字と行間のサイズを自由に調整することができるため、高齢者の活字離れの低下に一役買っているでしょう。むしろいつまでも紙でやろうとすることが、活字文化の衰退に近づいていると言えます。
 活字文化を出版として捉えた上で、電子書籍も広義の出版と捉えれば(むしろウェブサイトやブログだって広義では出版ですよね)、世はまさに大活字時代と言えるでしょう。大活字時代の一躍を担っているデジタルな活字を否定すれば、それこそまさに活字文化の衰退に繋がることに、どうして気がつかないのでしょうか。

 日本では、教科書の作成を民間会社に委ねている。内容が学習指導要領に基づいているかどうか、政府が検定を行うことで、質を担保している。動画や音声の厳正なチェックは可能だろうか。

 どうして厳正なチェックができないと考えているんだろうか。

 義務教育の小中学校で使う教科書は、国費で購入し、無償配布されている。情報端末の購入費や維持費などを、すべて国が負担するのかという問題も出てこよう。

 きちんとした検証とその結果が求められますが、9年間で使う教科書の印刷費や輸送費などの諸々のコストと、9年間(端末は3年ごとに更新するとして)で使う端末の開発費と電子書籍の配信コストって、どっちが最終的に安いんですかね。
 教科書販売で生き残っているような本屋があるという反論があるとしたら、本屋でコンテンツのアップデートをできるようにしておけばいいんじゃないですかね。

 情報端末を授業に導入した米国の一部地域では、ソフトの不備や教師の習熟不足などのトラブルが相次いだ。デジタル教科書の試験運用を進める韓国でも、目の疲れを訴える声が出たという。

 ソフトの不備は開発段階でしっかり解消してもらうとして、教師の習熟不足はデジタルじゃ無くても紙でも起こりえますし、むしろデジタル時代を生きる先輩としてしっかりと学習してもらいたいところですね。
 目の疲れを訴える声はバックライト型の液晶を使っているからこそ起こる問題だと考えられるので、フルカラーの電子ペーパーを使えば簡単に解消できますし、端末制作コストを考えたらバックライト液晶を使うより電子ペーパーのほうが現実的なので、これについてはもう懸念する必要も無いと思われます。

様々な課題を踏まえれば、デジタル技術の活用は、補助教材にとどめておくべきではないか。

 様々なデジタル教科書のメリットを踏まえれば、デジタル技術の活用は大いに推進すべきであって、紙の教科書は電子化しづらい情報を提供する補助教材にとどめておくべきではないか。

2015年5月20日(水曜日)

なんだかなあ

 お世話になっている会社のスタッフがタブレットの画面を見せながら「今もこの内容で変更無いですか」と聞いていたので、社内で確認するので「印刷できますか」と聞いたら「印刷できません」と言ったので、その画面をデジカメで撮影するという苦行。
 タブレットを使って社内の都合はよくなったかもしれないけど、そこから先のサービス提供のレベルが下がってて意味ないなーと思った一幕。

 まあ、車移動前提ならUSBやBluetoothでモバイル(インクジェット)プリンタを持ち運ぶぐらいはしておかないと、社内の自己満足で終わってしまうのかな、という一幕でした。顧客情報を持ち歩いているのなら、その場でPDFに変換してメールを送れるぐらいのシステムになっているぐらいじゃないと、デジタル化したメリットを社内でもあまり享受できていないような気がします。

2015年5月30日(土曜日)

委託終了に向けて

 2009年2月より、「文真堂書店」が手がける、コミック・ラノベ等に特化した書店「アニたま」に対して同人誌を委託してきましたが、現在委託の解消をお願いしています。

 「アニたま」の同人誌委託スペースは、群馬県の同人作家を応援する・紹介する為に設けられたスペースであり、群馬県から離れた私の同人誌をいつまでもおいてあると、貴重な棚のスペースを不当占拠していることになるからです。「光になりたい」や「恋の from A to Z」が現役の頃ですから、長いことお世話になっていましたし、心寂しい部分もあるのですが、そろそろ引き時かなと思います。
 仕事が一段落し、親が人生の節目を迎え、詩唄いが引っ越しをするなど、身の回りで起き始める節目に絆され、ここ数年考えていた「アニたまへの委託の解消」という事柄をいつまでも放っておく訳にはいかないと、ようやく重い腰を上げた次第です。

 「なぜ今頃」という疑問に対してここで触れておこうと思います。
 一言で言えば、「委託スペースに対する不信感から、連絡を取るのが億劫になっていた」という言葉に集約されると思います。
 (事の経緯を文章でまとめられなかったので、箇条書きで)

 委託開始直後にこういったことがあり、その後一度も連絡を取り合っていないまま今に至っているが故に、連絡を取るのが億劫になっていたのです。

 不信感についてもう少し詳細に書いておくと、見本誌が見当たらない事について質問したところ、どうやら販売用に回してしまったという回答が頂けたのですが、その後のやりとりで「自分はエスパーでは、ナイので、どれが"見本誌”が判別がつかず、そのまま店舗へ送付してしまいました」と言われ、その瞬間、私の委託への熱は冷めてしまったのです。
 確かに明確に「見本誌」と書かなかった私も悪いです。ですが、当サークルの本は(サークルスペースに来た方は)ご存じの通り、見本誌と頒布する本はそれなりに見た目で判断がつくようになっています。

見本誌
透明のブックカバー(全ページ閲覧可能)、冊子の中身の概要と値段を書いた帯
頒布する本
透明のビニール袋(当時はセロハンテープで口を閉じている)、帯などは特につけていない

 見本誌が大量にあるならともかく、見本誌の仕様になっているのは一冊だけで、それ以外は頒布する体裁だったにも関わらず起きた事件なので、当時はきっと「えっ!?」とでも思ったのでしょう。
 尤も、見本誌については、荷物に対して一筆添えておけば起きなかったであろう事なので、言い訳めいたものはやめておきます。
 しかし、それを差し置いても、この「エスパー」という表現が、当時の私には「カチン」と来たのは確かなのです。

 見本誌については、売り物から一冊見本誌にするという話があったのですが、光になりたいの上下が各7冊、AtoZが10冊、ショコラが4冊という状態でのスタートで、そこから一冊を見本誌にしてしまうと頒布する本が更に減ってしまうという心配や、そもそもその当時もっていた在庫をほとんど全て送ってしまったということもあり、間違って販売していない見本誌がどの程度残っているか確認した上で足りない分を増刷して送付しますので、見本誌の状況を教えてください…というところで話が止まってしまい、それ以降疎遠になっていたのです。
 二店舗に委託されるということをあらかじめ知っていたら、見本誌の量を増やしていたのでしょうけど、ショコラの4冊を二店舗に割り振ったら各2冊、そしてそこから1冊ずつ見本誌にしたら頒布する本は1冊になってしまいますから、見本誌の確認は当時の私としてはどうしても押さえておきたかったんですよね。
 思えばこのとき、見本誌として使うのを二つ返事でしていたら、少しは違った未来があったのかもしれません。歴史にIfは無いとはいいますけど、ここで私が突き放してしまったがために、今のような事になっているのかなと思います。

 一連の文章を書き終わった後、当時のメールのやり取りを今一度見てみると、「私もガキだなあ」「もう少し冷静になっていればなあ」と思う部分が多々ありました。また6年経った事による記憶違いも相当あり、半分程度書き直してしまいました。
 そんなガキを相手にした先方は、私に対していい思いをしていないでしょうし、連絡なんて取りたくないとは思うのですが、いつまでもそのような状態でいるわけにはいかないと、6年ぶりに担当者にメールを送ったところです。

 思えば、冒頭に上げた「委託スペースに対する不信感から、連絡を取るのが億劫になっていた」というのはむしろ一方的な私の空回りであって、今回の委託の解消は、私の過去の過ちの精算と言うことになるのでしょうか。

 今の私は、あの当時と比べてすこしは大人になれましたか?

東北六魂祭

 東北地方太平洋沖地震のあと、なぜか祭りの自粛が相次いだ関東を尻目に、東北はいち早く祭りの開催を宣言。それはいつしか「東北六魂祭」という、東北の夏祭りを一ヵ所に集めて行うという大規模なイベントになっていました。
 実はその影で「国境祭り」という青森ねぶた・黒石よされ・八戸えんぶり(青森)、大湯大太鼓、秋田竿燈、花輪ばやし(秋田)、岩崎鬼剣舞と盛岡さんさ踊り(岩手)の北東北の祭りを一度に楽しめる祭りが終わっているということは、その祭りが好きだった人間としてここに触れておこうと思います。六魂祭が開催されると同時に、国境祭りはそれ以降開催されていないんですよね…。

 まあ、そんなことはともかく、東北の夏祭りは期間が集中して一年で全部見ようと思うのがほぼ不可能(全部の祭りを全部バスで回るという強行軍ツアーもあったと思うけど…)ですが、六魂祭でならそれはできるんですよね。なにせ集まってくれますから。

 六魂祭は今のところ毎年各県が持ち回りで開催していて、今年は秋田県です。年度をまたいで仕事ものんびりしている時期ですし、ねぶたも10年以上見てないですし(まあ、青森=ねぶた・ねぷたというのは津軽の発想であって、南部は三社大祭ですしね!)たまにはこういうのもいいかなーということで、ちょっくら秋田行ってきた。

大型ねぶたの出陣! 夜間運航仕様で中からライトアップされてるので綺麗。
α5100(ILCE5100) + SEL1670Z(Vario-Tessar T* E 16-70mm F4 ZA OSS)
1/60sec, F4.0, ISO250, 35mm equivalent focal length 38mm
Development in Adobe_Lightroom ,Edit in Adobe_Photoshop

高さ15m以上はある竿に40個以上取り付けられている竿灯が立ち並ぶ風景
α5100(ILCE5100) + SEL1670Z(Vario-Tessar T* E 16-70mm F4 ZA OSS)
1/60sec, F4.0, ISO250, 35mm equivalent focal length 54mm
Development in Adobe_Lightroom, Edit in Adobe_Photoshop

初出: 2015年05月02日
更新: 2015年05月30日
著作: 鈴響雪冬
Copyright © 2015 SUZUHIBIKI Yuki

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