Top > 読み物 > 日記 > 2006年9月 -1冊目-
フォルダ名で怖い物と言えば、友人の目の前で開く作った覚えのない『新しいフォルダ』という人は、少なくないはずです。「新しいフォルダ (5)」などは、恐怖以外の何者でもありません。
さて、毎年この時期は帰省をする時期なのですが、今日はその準備を進めています。我が家に新しいパソコンが導入されたらしいので、それを整備するためのソフトをHDDにコピーしつつ、新しい環境でもサイトを更新できるように、FFFTPやezHTMLといったソフトもコピーしていきます。
あと、未だにダイヤルアップ回線の実家に導入された新パソコンをインターネット回線に繋ぐためにも、不要になっているモデムボードを持って行かなくてはなりませんね。
私にとって帰省といえば、BGMフォルダなのですが、今回もfoobar2000に登録してあるファイルを殆ど全てコピーする勢いでHDDに書き込んでいます。その数、100曲超。デフォルトのプレイリストだけだと物足りないので、プレイリスト「電波」と「水樹奈々」も書き込み。
そして、今回はフォルダとして「上納品」というフォルダを作ったのですが、そのフォルダ名のセンスに自ら脱帽脱衣。
ここぞとばかりに同人活動を推し進める事は帰省の魅力の一つです。田んぼの真ん中に建てられた家の中でのんびりまったりと小説を書く………かなり贅沢な話ですね。それが当たり前になってしまうと、ありがたみも薄れてしまいますから、時々、が丁度いいのです。
同人活動に関するファイルは一つのフォルダに全て収められているので、このフォルダをコピーするだけで何処でも同人活動が展開できるという準備の良さ。
このとき、フォルダ名はサークル名になっているのですが、今回コピーするフォルダは「雪待終夜」。今までは「雪解け水」でしたから、それだけでも感慨深い物があります。
環境の違いによるファイルの取り扱いを心配する方もいるかと思いますが、同人誌という形にするとき以外は、全てプレーンテキストで制作しているので、応用ソフトウェアのバージョンや種類どころか、OSの垣根すら越えて作業をすることが出来るのでその辺りは問題なし。
特に、全ての同人誌制作環境を一太郎に統一してしまいましたから、一太郎がインストールされていない実家のパソコンでは編集作業が出来ないのですが、プレーンテキストなら問題なしなのです。
小説のメモや、アイディアプロセッサ代わりに使っている、TreeDocProというソフトも、保存形式はプレーンテキストですから、こちらも問題なしですね。
環境が違う場所で作業をする可能性があるのならば、それに応じた環境をあらかじめ作っておく。すなわち、他の環境でもファイルを更新できるなど、互換性の高い環境を構築しておくことは、結構重要なことだと思います。また、互換性の高いファイルを作るための知識も必要になるかと思います。
でもまあ…最強に互換性の高いファイルは、紙に書いたメモだと思うのです。アナログ万歳!
どれだけ環境をデジタル化しても、ネタ帳とメモ用紙は手放せない。それが私。
Windowsログホーン改め、Vista。その種類は半年前に発表されたとおり6種類ですが、そろそろどの製品を購入するか、目処を付けておいた方が良さそうな予感。
といっても、1種類は32bitですから、それだけで眼中から外れますし、手軽に手に入らないであろうEnterprise
Editionは除外。事実上 XP-Homeの後継であるHome Basic Editionも除外。
というように、消去法という消極的なやり方で買うべきOSを選定すると、結局の所、Ultimate
Editionか、Business Editionあたりに落ち着くわけです。
後はUEのOEMが何処まで価格を下げるか、といった、値段で全てが決まるのでしょうけど、今のところ、ビジネスエディションが有力候補。
ということで、今現在の予定としては、『Windows Vista Business Edition Service Pack 1』という感じでw 。
もっとも、現実的なお話として、次に手にするOSは、Windows XP Service Pack 3になるのでしょうけど。
今のパソコンをVista対応に改造するのは少しばかり面倒なので、最終的にはパソコンを買い換えるときにVistaを導入するという形に落ち着きそうです。メモリやCPUはギリギリOKですけど、グラフィックボードが、AGPというのは多少なりとも不安ですし。
NECが私達を裏切り、BRドライブを発売したわけですが…そもそも、SONYとNECがドライブ部門を共有しているという構図の時点で何かを間違えているような気がします…。
個人的にはHDDVDを応援中ですが、ここ最近の流れで、次世代DVDフォーマット戦争はBR側が勝ってしまうのではないかという予想を立てています。PCの世界においてのみ、マルチドライブが出て戦いは終了、という雰囲気になりそうですが………。
ただ、一般消費者が何を考えているのかは私にはさっぱり分かりませんので、趨勢がどうなるかは来年春辺りまで見守っていかないと判断できないと思います。
そもそも、「地デジ」ですら認知率が3割を切っている現在において、次世代DVDなんて言われてもパッとしないと思います。(地デジについては、総務省の広報の仕方にも問題があるかと思いますが…。そもそも、「今の放送が地デジに変わります」という文面の何処に、2011年に現行のテレビの大半が使えなくなる、というキーワードが入っているのかと小一時間鳴風みなも風に問いつめたい。)
実際に「DVDに名前が似ているからHDDDVDを購入した」という消費者が出てきても可笑しくないかと思います。今現在、DVDプレイヤーの普及率は5割超ですが、そう言った状況において、Blu-rayと聞いて、どれだけのユザーが理解できるのでしょうか。それよりも、HDDVDのように、「何かDVDに似ているっぽい」身近な存在の方が普及しそうな予感もあったり…なかったり。
とりあえず、HDDVDに書き込めるパソコン用ドライブの登場を首を長くして待つことにしましょう。
一昨日から始めた帰省の準備を、帰省当日になっても続けている、それがゆっきークォリティー。
鞄に荷物を詰め込むのがなまじ得意なので、未だ大丈夫未だ大丈夫、と想い続けてしまうのです。武田鉄矢さんだって許してくれます。人間だし
。
今回はいつもにまして本が多め。鞄に詰め込んだ本の数、7冊。うち3冊が市販品で、4冊が同人誌という展開。あとで、『ReSin-ens
遼なる風、彩りの音、降りしきる雪』も詰め込む予定です。発行してから実に二週間。ようやく真面目に自分の作品を振り返ることが出来そうです。
ちなみに、『光になりたい』なんかは、自分でも読みふけってしまって、本を発行した後で4回ぐらい読み返した記憶があります(ただし、修正を目的とした場合などを除く)。
少し蛇足。
常連さんは「何時もの事ね」、ここ最近から読み始めた方は「これが基準」ぐらいに考えてくださればいいのですが、帰省中は、日記の更新ペースが一日1・2回程度まで減少しますので、ご了承ください。多いときには一日10回更新が半分以下に! そんな、バカのような日記です。
何処かで書いたかも知れませんが、私にとって「日記を書く」という行為は、歯磨きと同等レベルなのです。
神戸といっても、制服が可愛い神戸●の事ではなく、創作オンリーイベント、『そうさく畑』のことです。そうさく畑が東京で行われなくなってから一年以上が経ちますが、4月に行われたそうさく畑(神戸)に引き続き、次のイベントも神戸で行われるようです。
もはや、そうさく畑に期待せず、『文学フリマ』や、『コミティア』への参加を本格的に考えた方がいいのかも知れません。両イベント共に参加したことがないので、まずは一般参加が前提ですが、今後の活動のためにも都心部イベントの感覚にも慣れていた方がよいでしょうし。
すでにお気づきの方もいるかと思いますが、このページ最下部の、「Now BGM is...」において、最終再生時間の出力をしないようにしています。パルフェに比べてサーバー負荷に対して寛容なさくらサーバーですが、予定している検索CGIの設置や、多いときで300回以上起動されるNow BGM is...に使うCGIの事を考えて、負荷軽減策を実行しているというわけです。
そもそも、最終再生時間を出力することにさほどメリットを感じているわけでもありませんし、利害が一致している結果とも言えるでしょう。
さて、今年3月17日の日記で、三巻構成を夢見ていたときは、雪月花でしたから、結構前からこの形式にしようとは考えていました
と書いてあるとおり、冊子版ReSin-ensの巻の名前は、雪月花でわける予定でした。つまり、当初の予定としては「ReSin-ens
遼風彩音 ~雪~」となっていたわけですね。
その後、4巻構成の予定に変更し、この「雪月花」案は破棄しました。だって、3文字ですもの。
このとき気になるのは4巻構成の場合の、4巻それぞれの巻の名前。巷では「雪月風花」辺りが採用されるのではと噂されていそうですが、既に公開したとおり、第一巻は「降りしきる雪」。この時点で、「雪月花説」が否定されます。
しかし、「降りしきる雪」となっているのですから、第二巻は「月」というキーワードが入ってくるのではないか、と考えている人もいるかと思います。それに対する回答は、第二巻に関する情報を正式発表するときにゆだねたいと思います(ただし、第一巻を買って下さった方には第二巻のタイトルが分かるようになっています)。
仮に、二巻に「月」というキーワードが入るとして、第三巻は「風」、第四巻は「花」がキーワードになるのではないかと考える方もいるかと思いますが、あえてここで言います。ReSin-ensでは、雪月風花という巻の名前を使用しません。
例え一巻で雪を使っても、二巻や三巻がそれに準ずるとは限りません。ただ一つ言えるのは、雪月風花は使わないということだけです。
補足ですが、冊子版ReSin-ensは、シリーズの名前として『ReSin-ens 遼なる風、彩りの音』となっていて、「降りしきる雪」が巻の名前になっています。ですから、第二巻は、『ReSin-ens 遼なる風、彩りの音、???』となります。
暑いところ → 涼しいところ
つい先ほど、先日購入した小説を読み終わったのですが、この小説、非常に長い間連載を続けており、今年で13年目になるようです。もちろん、私のような人が13年前にこの小説に出会うこともなく、ここ数年で13年分の連載に追いついたのですが、先へ先へと読みたいと思わせるその物語の構成は、見習うべきところだと思います。もっとも、見習うべきところと書きつつも、長い間かかわっている作品なので、いろいろなところで影響を受けているのですが………。
こういった話題を書き出すと、たどり着くところは結局『ReSin-ens』なのですが、長い話を飽きさせることなく、むしろ、読みたい読みたいと読者の心を揺るがすような文章の書き方や物語の構成は、ReSin-ensを書く上での最大の課題ともいえるでしょう。
ということを書きつつ、頭の中では、『ReSin-ens』を読破する人はさほど多くなくてもいい、と考えているあたり、矛盾しているような気もします。
ただ、話をさかのぼっていけば、ReSin-ensは本当にReSin-ensを読んで見たい人のためだけに書いている小説ですから、下手な小細工をするよりも、自分の思うが侭に動かしたほうがよりよい結果が出るような気がしているのも事実。
へたに読者の気を引くための…言い換えれば、続きを読ませる・好奇心をあおるためだけに挿入された、物語の目的とは関係ない「イベント」を挿入するよりは、もっと純粋に、つまらなくても、ReSin-ensの世界を楽しめるような物語を作っていったほうが、この作品の書き方としては正解なのではないでしょうか。少なくとも私はそう感じ取っています。
概念的な話をしてしまうと、「鈴響雪冬の作品が好き」、「何時も買っているから」といった理由では購入しないことをお勧めすると同時に、純粋に「ReSin-ensを読んでみたい」という人だけが購入することを推奨します
、などと、冊子紹介のページにも堂々と書いてあるわけですから、そういったことを感じ取ってくださると、書き手としてはありがたいかな、と思っています。
もちろん、今までの作品を買っている延長線上でReSin-ensを買うよ、という冒険者もとい、超ド級恒久真性マゾの方も募集しておりますが(笑)。
文体があれなので、読者を小ばかにしたような書き方に見えてしまうのですが、そんなことはないよと、安っぽい言葉でフォローしておきます。
ただ、これだけは明言しておきますが、誰に如何なる評価をされようとも、本当にReSin-ensが好きな人と畳の上で足を崩して語り合うことさえできれば、個人的には幸せなのです。
第二巻へ向けての資料集めや、プロット作りが少しずつ進んでいく中で、予告していた通り、物語の大半が書き変わりそうな雰囲気です。
というのも、原作に見られる流れの唐突さや矛盾を解決するために修正をするより、新しく書いてしまったほうが早いという見通しが影響しています。
頭の中に湯水のごとくわいてくる物語の断片とも言える「場面(シーン)」や、場面の断片ともいえる「台詞」と対話している限り、それらを採用するためには新しく物語を創造するような勢いで書いたほうが、成功しそうな雰囲気なのです。
もちろん、四巻までの流れが出来上がっていないわけではありません。最後を彩る場面なんていうのは半年以上前から完成し、現在も修正を加えてよりよい方向にもっていっています。
ただ、そうして先行的に作り上げた「プロットのさらに前の段階」の状態が、第二巻において、先日ほとんど書き換えたということもあり、新しく書くつもりで挑んだほうが心構えとしては間違いないでしょう。
ReSin-ensをお持ちの方で、十数ページ読んだ方はお気づきになったかと思いますが、遼風彩音ストーリーには、二人の人物が大きくかかわってきます。その一方の話の流れが、当初の予定と最新の予定ではまったく互換性がないものに仕上がっています。それほどまでにReSin-ensは未確定な部分が多いのです。
物語の結末は見えているのにもかかわらず、そこにいたる流れが変わるということは、作品の雰囲気が変化することを意味しています。しかし、変化することによってより私の理想とする雰囲気となるのなら、私は潔く、時にそれが苦痛を伴うものだとしても、受け入れましょう。妥協なしの真剣勝負。それが鈴響雪冬としての、小説への考え方ですから。
ちなみに、本当に未確定なのですが、第二巻に出てきそうな台詞や文章を紹介。
この日記、新しく実家に導入されたパソコンで記述しているのですが、インターネットの世界につなげていないため、フリーソフトですらあさることができない始末。
もちろん、そういったことを考慮して、一部のソフトはUSBハードディスクドライブに突っ込んできているのですが、解答すらできないという悲惨な状況。世の中すべてZIPファイル(7-Zip除く)で成り立っていればどれだけ楽なのか…。
しかしそこは抜かりなく。必要なDLLを自動的にダウンロードしてくれるソフト、Noahを持ってきてあるのです。
うん…気づいたよ…。DLLをダウンロードするのにも、インターネットが必要なんだよね。
しかしそこでへこたれないのが私。すでにDLLがインストールされているパソコンがあるので、そこのシステムドライブから手動で全部のDLLをかき集めてきたのです。
Noahを導入する前は、DLLを手動でインストールしている経験が役に立ちますね。何事もパソコンは経験だと再認識されられた瞬間でした。
こうしてようやく、TeraPADやTreeDocProをはじめとした、同人活動に必要なソフトを導入する用意ができたのです。
バカのように眠い今日この頃。コミケが終わってからというもの、ものすごい勢いで体が侵食されていたことが明らかになってきています。
昨日の夜なんて、奇跡的に12時30分にはとこについていたという始末。しかも、朝起きたら電気がつけっぱなしという展開。堕落した生活に私自身、呆れ顔。
ああ…作品を書かないということはこれほどまでに気楽な生活なのね、と妙に感慨にふけってみたり。
三国無双というゲームに決着を告げるべく、利害の一致した友人とともに、昨日からコントローラーを握っています。私の周りの人は、私がアクションゲームをやっているだけで奇跡などと言ったりしますが、うん。それは認めます(ぉ 。
1-1のクリボーにやられるのがデフォルトの私がアクションゲームなんて本当に奇跡と言えますね。…と書きつつ、ヴァルキリープロファイルやTOEといった、ところどころアクション要素のあるゲームを好むところは、下手の横好きなのでしょうか。
ただ、いずれにせよ、FFやDQに対してはまったく興味がないところを見ると、少しでも動きがある先頭を好むというのは事実のようです。
ちなみに、真・三国無双2で一番好きな戦い方は、ゲーム難易度『難しい』で、一度も使ったことがない武将を使って、コロウ関の戦いでリョフを倒しにいく事。リョフ一人を相手にするだけで20分ぐらいかかったりするのですが、それがまたいとおかし。
補足ですけど、合戦名や武将名がカタカナなのは、漢字変換が面倒なだけです(コラ)。
以下のような文章を書いた後に、カラオケの誘いが来たのでこれまたびっくり。タイミングが微妙なので、誘いに対する返事ではない、ということを、この文を持ってフォローすることにしました。
私も一人の人間ですから、他人の考えが理解できないことも多々あります。その中のひとつが、カラオケ。
これは、理解できないというよりも、自分の考えとそりが合わないという分類になるかと思うのですが、わざわざカラオケボックスに出かけて歌うというその行動自体に、あまりついていけません。
極端な話、これでも音楽を作ったりしている人間ですから、普通の人に比べれば音楽に対して興味を持っていますし、Windowsのマイミュージックフォルダなんて、フォルダ使用量30GBを突破し、ますます意気盛ん。そういったことを含めて、私は音楽が大好きです。 もちろん、例外なく歌うことも好きで、しょっちゅう歌っています。多いときなんて、毎日一時間以上決まって歌っているのかもしれません。
ただ、ここで重要なのが、歌う場所。
私の場合、日常生活に「歌う」という行動が染み付いていますので、家の中や友達の車の中を含め、いろいろなところで歌っています。
そして、冒頭の言葉、「わざわざカラオケに行くまでもなく」につながってくるのです。
そう。つまり、常日頃から歌っているので、カラオケに行くまでもないのです。(もっとも、カラオケに行ったとしても、私達のような人間が歌う曲の充実度なんて高が知れていますからね。)
歌うという行為が理解できないわけでも、カラオケという娯楽に興味がないわけでもありません。ただ単純に、普段からいろいろなところで歌っているので、わざわざカラオケボックスでお金を出して歌うというあの行動にあまり意味を見出せないだけなのです。
もちろん、仲間内で歌いたいという士気が上昇し、一定ラインを超えると仲間を募ってカラオケに行ったりするのですが、それも非常にまれで、一年に二回行けばかなり高頻度といえるでしょう。
ちなみに、私の家族は歌うのが好きなようで、居間でいきなり親が歌いだしたり、私が歌いだしたり、といった行動が多々見られます。そういう時、相手の歌に対して聞き手が「カーン」と、喉自慢のカネを模した言葉を発してあげるのが暗黙のルールだったり…。
そんな私でも、カラオケに行くこともごくまれにあります。ここから先は、同人仲間を含めた、仲間内で行くカラオケについて。
みんなテンションが高い+歌うジャンルがかぶっている+とにかく歌いたい=全員で歌う
一般的なカラオケのスタイルといえば、一人がマイクを握って歌い、周りがそれを囃し立てたりその間に次の曲を入力したりするわけですが、「そんなのありえない!(それちるの希望風)」というのが、私達のカラオケスタイル。
他人が歌うのを聞くなんてそんなお行儀のいいことも、テンションが下がることもできません。カラオケにはみんなで歌いに来ているのですから、歌うときも、曲を知っている全員で歌う、これが、私達流のルールだったりします。
6人程度の有志を募ってカラオケに行くと、一曲に対し最低でも二人は知っているので、その二人がマイクを握って歌うわけですが、Love Destinyのように、知っていることが当然といえる曲は、マイクを持っていない人まで歌いだすわけで…でもそれが楽しくて…。
マイクの順番待ちなんてありえない、それが私達のカラオケスタイルなのです。
BGM: God knows...
出典: 涼宮ハルヒの詰合
歌: 涼宮ハルヒ(C.V.平野綾) with 鈴響雪冬
おおよそのテレビ局にとって、オタクといえばコレクションというイメージがあるようですが、コレクションをするのはコレクターであって、オタクではないということにそろそろ気づいてほしいお年頃。テレビ放送が始まって53年ですよ。もうすぐ定年退職なのですから、社会情勢の一つや二つ(以下略)。
とまあ、もっともらしい出だしでしたが、これは的を射ていると思います。オタクであってもコレクションがないオタクは沢山居ます。特に、その知識や情報量、技術を試される系のオタクはそういった傾向が強いのではないでしょうか。
といっても、オタクとコレクターをAND検索すれば、母集団のほとんどが検索結果として出てくるでしょうから、オタク=コレクターと間違われてもしょうがないかもしれません。
さて、私の場合、オタクというよりもコレクターのほうが属性が強いように自分でも感じています。というのも、昔から収集癖があり、変なものを集めてしまうのです。
皆さんの周りにも居ませんでしたか? 何に使うかわからないほどに給食の牛乳瓶のふたをかき集める人が。もしかしたら、それ、私かもしれません(笑)。牛乳瓶のふたでオセロを作って入院患者さんの間で大流行させれば、今頃私は大金持ちだったかもしれませんが、それは、同じようなことをした過去の日本人に捧げておきます(ぉ 。
そんな収集癖は今でも残っており、代表的ともいえる収集物が、ついに残り二冊で全巻達成するところまでたどり着きました。
片や、江戸川乱歩原作の、ポプラ社が発行した『少年探偵団シリーズ』、全45巻。
もう一方、横山光輝原作の、新潮出版社発行の『三国志』全42巻。
後者も前者も残り二冊ですべてが揃うところまで着ました。両者とも日本国内では爆発的人気を誇り、前者の第一巻に当たる『怪人二十面相』は延べ1億人が読んだとされ、後者はシリーズを通して、三国志を語る最低限のバイブルになっています。
両者ともすでに絶版となっており、少年探偵団シリーズにいたっては、新しくシリーズを構成しなおしたため、今日のシリーズでは読めない作品も出てしまい、私的需要はますます意気盛ん。図書館で一応足りない二冊は読んでいるのですが、やはり手元においておきたいのです。
一方、三国志のほうですが、こちらは今日簡単に手に入る全60巻のものではなく、横山三国志がコミックトムに連載されていた当時に発行された、通称「大判三国志」で、もちろん手に入りません。江戸川乱歩の新シリーズができたのが平成に入ってからですが、三国志のほうは昭和のため、輪を掛けて入手が困難になっています。
三国志のほうは比較的頻繁にオークションに掛けられていますし、過去にオークション(正式にはフリマ)で購入したことも日記で紹介しましたが、三国志ブームによって値段が上がってきているのも事実。一冊1000円ともなると、ネットオークションなど状態確認が難しい方法での入手はためらってしまいます。
もともと第一部が完結する18巻までしかなかったため、それ以降の話はコミック版で補ったので、話はすべて理解していますしもう一度読み返すことも簡単ですが、やはりすべてを大判で読んでみたいのです。
コミック用に縮小された線ではなく、横山光輝氏の力強い線で描かれる人たちを見てみたいのです。
ともあれ、両者とも残り二冊となり、全巻制覇するのも時間の問題かとおもいます。
唯一の救いは、初版本コレクターではないことですね。もっとも、一般的な財力では、重版に重版を重ね、その回数五十を超えた少年探偵シリーズの初版本なんて、到底手に入りませんが。
お隣の県まで出かけてきます。
今日の放送はどうやら総集編という形らしく、それによってあのライブシーンが再び放送されました。
涼宮ハルヒの憂鬱で見てしまった、超技巧的なライブシーンよりも数万倍質的に劣る、個人的にある意味伝説的なライブシーンがね…。
正直、あれを見てからでは、アニメではしばらくライブシーンは見たくなくなりますね。
私は、パソコンの前に向かっている時より、日常的な生活を送っているときのほうがアイディアが浮かびやすい都合上、浮かんだことを直接パソコンに入力しておくのではなく、いったんメモ用紙にメモしておき、あとでそれを参照するという形をとっています。
しかし、メモ用紙はとっさのメモの時には非常に楽ですが、検索性や閲覧製には優れていないと感じているため、そういったメモをパソコン上に保存する作業もどこかで行わなくてはなりません。
そういったこともあり、せっかくメモした内容やメモしたことすらも忘れてしまい、第一巻で使う予定だったネタがメモに残されたままということもいくつかありました。
そういった反省点を踏まえ、第二巻の執筆に臨むにあたり、メモ用紙にメモした内容をパソコン上のネタ帳とも言えるべきソフト、TreeDoc Proに流し込む作業を続けています。
第二巻の物語展開をここに来て大幅に変更しているため、それらを把握・理解するのにも時間が必要となり、執筆開始も構想の形成も大幅に遅れているのですが、これを機会にと、資料の整理に奔走しています。
新しく手に入れた心理学形の資料二冊を読破し、知識をストックするほか、先に書いたように、メモ帳の内容もソフトウェアに流し込んでいます。
筋道を立てながら順列よく物語の展開方法を模索するのもありですけど、こうして周りから要素を並べていって、それによって見えてくる道筋に、「えいっ」といいながら線を引き、物語を構築するのもひとつの方法かなと思います。
ちなみに、ReSin-ensは長い物語なうえに、年単位で携わっている作品のため、中身を自分自身で理解しやすくする、愛着がわいて自然に発生する、といった理由から、特定の場面にイベント名として、名前がつけられることがあります。
「告白」といった単純なものから、「真実の告白」や「音瀬のマジ切れ」といったイベント名まで、十指で数えられる程度ですが、存在しています。中でも、読者の方に馴染み深いのは、日記で何度も取り上げた「月夜に光るナイフ(月夜のナイフ)」でしょうか。
この「月夜に光るナイフ」なんかは、筋道を立てながら…といった方法ではなく、沢山の要素からひとつの道筋を作り上げた場面ですね。
あと、『光になりたい』なんかでは、告白シーンに当たる部分もその方法によって作られています。
両者とも、十数枚に及ぶメモ書きから作られたシーンかと思います。
少しばかり、それ散るに登場する八重樫風にタイトルを作ってみましたが、どうでしょうか。
虚実といえば、テレビを中心にした各種マスメディアで行われる、情報の捏造(なぜMS-IMEは、正しい読み方である「でつぞう」で変換できないのでしょうか)ですが、それについて、大きさ三ミクロンの一石を投じてみたいと思います。
ノンフィクションと明示されていない限りは、すべてにおいて虚実が入り混じっている可能性がある。
マスメディアは視聴率を確保することによって広告収入を得、その身を社会にとどめることができる存在であるのだから、視聴率をとるためであれば、どのような番組でも作成する。もちろん、自らの首を絞めない範囲でではあるが。
そういった場合、番組制作は多くの場合視聴率の確保を目的とした行為であり、企画書だって、視聴率の確保を優先に決められていく。
面白い、言い換えて、視聴率が取れそうな番組の企画書が採用され、面白くない、言い換えて、視聴率が取れそうにもない番組の企画書は破棄される。こうしてテレビ局の運営は成り立っているのである。
だからこそ、面白くない事実をそのままの形で報道しても、面白くないのだから視聴率は確保できない。そういった背景があるから事実を報道するべきニュース番組ですら、占いのコーナーや旅歩きのコーナーなどを作り、面白さをちりばめ、視聴率を確保しようとする。
また、ニュースをひたすらにおい続ける番組でも、番組独自の調査や、専門家を招いた討論などを折り込み、番組的に面白い形にもって行こうとする。
こういった流れを簡単に汲み取ると、面白くない事実をそのままの形で報道するよりも、ある程度脚色して面白くしたて、われわれ視聴者に番組を楽しんでもらおうという考えが出てくるのは当たり前のことである。
こうして行われるのが、事実の捏造である。
さて、テレビ番組は大きく二つの種類に分類できるであろう。ひとつはドキュメンタリー、もう一方は、非ドキュメンタリーである。はじめに書いたフィクションに引っ掛けるのであれば、フィクションとノンフィクションである。
ドキュメンタリーを外来語辞典で紐解けば、作為を加えずに、事実をありのままに記録したもの
とあるとおり、事実以外の事柄を加えることは許されない。
ここで、年に一度24時間にわたり、放送をし続ける某番組があるが(以後、執筆の便宜上、24時間番組とする)、その番組は、冠としてドキュメンタリーとは称していない。
今日の状況を考えるに、多くの番組はドキュメンタリーではないため、業界標準は非ドキュメンタリーにあるとすれば、ドキュメンタリーと称していない限り、24時間番組も非ドキュメンタリーであると解釈するのが当然である。
となれば、24時間番組で事実の捏造や過度の脚色、ヤラセといった事が行われていても、それは事実を淡々と放送することを目的としていない非ドキュメンタリーであるため、許されるのである。
別の見方をすれば、ドキュメンタリーという看板を掲げていない限り、24時間番組は捏造やヤラセを前提に作られている番組であり、われわれはそれを認知した上で番組を視聴しなければならない。
さらに極端な見方をすれば、24時間番組はバラエティーなのである。
こうして24時間番組の方向性も明らかになったところで、われわれもその作り手側の趣旨を汲み取り、24時間番組を楽しもうではないか。いまから来年が待ち遠しい。
私の家は家系的に見て、酒に強いらしいのですが、その実態が少しわかりました。
どう見ても酒豪一家です。本当にありがとうございました。
頭の中をReSin-ensで埋め尽くし、二巻の物語展開を変更したことによる後半への影響を考察しています。ここで変なことをやらかすと、矛盾が発生してしまうので慎重にならざるを得ませんね。
短編と長編を単純に比較できませんが、長い作品の場合は、思いついた言葉をそのまま紡いでいるだけでは、力不足な作品に仕上がってしまいます。
なぜなら、複線といった要素がなければ、長い作品は読み進めれば読み進めるほど話の方向がばらけてしまうからです。
そのため、前半の物語を変更した場合、それに伴って後半の部分が変化していくのは当然ともいえます。
時と場合によっては、文章の言い回し、すなわち表現を変えただけでも後半の物語に影響を与えることがあるので注意しなければなりませんね。
個人的には、ロングスカートが(音瀬みいなの検閲により削除。理由コード:いつもの展開による省略)。
今日は地元の祭りの中日。いけるときは必ず中日だけでも祭りを見に行くようにしているので、今年ももちろん参戦。去年と違って、祭りをみた次の日にUターンという日程ではないので、かなりのんびりと祭りをみることができました。
思わず、来年からはそれを前提に帰省の日程を組もうかなと考えてしまったほどです。
私の街のお祭りは、町内会ごとに山車を作り、太鼓や踊りを通り沿いに展開するという形式をとっています。そして、町内ごとに微妙に太鼓の囃子が違うのが個人的には好きだったのですが、今年から統一されてしまい、少しばかり残念です。
それこそ、各町内が基本となる囃子を元に新しい解釈を組み合わせて、それを競い合うという祭りがあっていいと思うのですが、お上の考えることはよくわかりませんね。
ただ、そんなことを言い出すと、祭りはそもそも、という話に発展するのでやめておきますね。
今はともかく、この『祭り』が『イベント』にならないことを祈るのみです。
少しばかり奮発して、アメリカまで行ってきました。日帰りで(ぉ 。
車換算片道20分でアメリカにたどり着けるわけですから、アメリカもずいぶんと近い国になったものです。
あっ、一応書いておきますけど、アメリカ村、とかそういったたぐいではなく、本当にアメリカです。車で行ける…。
ReSin-ensに関しては、まさに阿吽の呼吸が必要というか、登場人物に共通点があったりするので、打ち合わせが欠かせないのですが、それこそ、知らない人や興味がない人が見たら、引いてしまうほど打ち合わせを重ねます。
場合によっては、作品の打ち合わせを飛び越えて、イベント参加の方法まで打ち合わせをすることがあります。もちろん、イベント参加の方法をはじめから打ち合わせることは多々ありますが、ReSin-ensに限定した形でイベント参加の打ち合わせ、というのは、私の目から見てもなかなかおもしろいものがあります。
ただ、一つだけいえるのは、同人って、セルフプロデュースなんですよね、すべて。
気がついたら眠ってしまっている。そんな日々が始まって早四日ほど。見た目は平凡な生活でも、脳内ではたくさんの思考を行っているせいか、体を動かしていなくても眠くなってしまいます。これもまた、小説を書いているゆえん。
考えることが多いことは、生活にも張りがでるので、個人的には歓迎したいところですが、気がついたら眠っているという事象が発生することは、メリハリがないですね。
最近気がついたのですが、私はどうやらただの黒髪ロング属性ではないようです。もちろん、黒髪ロング属性は自他共に認める属性ですが、自己分析をしていると、普段は違う髪型でも、お風呂上がりに長い黒髪を下ろしている姿にはさらに反応するようです。
ということで、今現在の結論。
普段はお嬢様結び、お風呂上がりにストレート。これが定石。
一言で言えば、一種のギャップ萌えといったところでしょうか。
今ならわかります。キョンのハルヒに対する告白の言葉の意味が。
雪待終夜の同人誌ラインナップに関する考察。
雪解け水の時代を含めると、私の作る同人誌はA5とB5サイズがあり、今日まではB5がメインでした。しかし、今後の活動や、業界標準、今現在の私の考え方をふまえ、今後はA5の同人誌をメインにする、ということは何度か日記に書いたとおりです。
今回は、それに加えて、新しい決心をしたので、それについて少しばかり常連さんにあらかじめお知らせしたいと思います。
値段設定や、紙の質を含め、私の作る同人誌は大きく二つに分かれ、一方は、「創作文芸というジャンルや私の作品に初めてふれる人」を対象にした同人誌、もう一方は「私の作品や創作文芸の同人誌を知っている人」を対象にした同人誌に分かれます。
ちょうど、ゲーム会社ザウスでいう、純米と吟醸の違いとして受け取っていただいてかまいません。
今までの考えでは、前者に当たる通称入門誌は、B5サイズの二段組みで作る、という考えを持っていましたが、数日間悩んだあげく、A5サイズに企画を変更し、段組は一段組にした新しい規格を作ることにしました。
これによって、新しく作る同人誌のサイズはすべてA5に統一され、いよいよ創作文芸サークルらしくなってきたかなという雰囲気です。
思惑や、理由はたくさんありますが、やはり、手にとってもらいやすく読みやすい同人誌を作りたいというのが根底にあります。
買うきっかけがない創作文芸の同人誌だからこそ、少しでもそのきっかけを広げたいな、という考えに基づいています。
一段組にすることで、短編でもページ数が増えるので、一部の人から見ればページ稼ぎともいわれかねませんが、脳内の計算では、同じ文章量でB5サイズの同人誌とA5サイズの一段組同人誌を作ったときの冊単価はほとんど変わりません。
あとは、一段組と、それによって生じざるを得ない上下の余白の広さによって、損をしたように見えるその気分を、どこまで軽減できるか、ですね。
読みやすさを重視するため、フォントサイズはReSin-ensの時に使った8.8ptではなく、9.0ptか9.5ptになりますし、行間も若干広がってしまうので、今までの本よりもすかすかに見えるのが現在の欠点。
ただ、実際に印刷して試してみたというわけではないので、そのあたりはいつもの環境に戻ってからの実験結果を見てみないと判断できません。
どちらにせよ、文字数と値段の比率を新規格と旧規格で比較すると、ほとんど差がないだろう、というのが今現在の考察です。
この新しい規格は、今現在制作を予定している書き下ろしの中編作品で採用するのではないでしょうか。
双方の時間がうまく合致したので、私を同人の世界に引っ張り込んだ張本人ともいえる方とお話をしてきました。
サイトだけではわからない最近の動向を含め、今後の予定も少しばかり話してきました。
今の生活にメリハリがあるのも同人のおかげといって過言ではないので、感謝感謝なのです。
きっと、このサイト、この日記を読んでいる人の多くが、何らかの形で不満に思っていることがあり、それを解決できないことにやきもきしていることかと思います。
日本経済、苦手な上司、そして金欠。煩悩の数は108といわれていますが、1億飛んで8ぐらいあるのではないでしょうか。
先に挙げた事柄は大きな悩みですが、もっと身近に悩みはあふれています。水虫が治らないうえに他人に感染させてしまうとか、ダイエットが長続きしないとか、給料が安いとか、とにかく悩みは周りにあふれています。
そんな悩みの中には、こんな悩みがあるかもしれません。
いつも閲覧しているサイトに不満がある
前ふりが長くなりましたが、今回はそんなお話。
いま、モニターおよび各種アウトプットディバイスによってこのサイトのこの文章を閲覧している人はもちろんのこと、私も一人の閲覧者ですから、WWWという世界に飛び込み、ウェブサイトと呼ばれるページを閲覧しています。
それぞれの人に規模の違いはあるものの、多くの人が複数のサイトを閲覧し、それぞれのサイトに対して不満に思っていることがあるはずです。
それはもちろん私も同じ。毎日十数のサイトを巡り、月に数個のサイトをブックマークに追加し削除するインターネット生活。そんな生活をしていれば、必ず不満が出てきます。
身近な例を挙げるのなら、同人サイト。
イベントで購入した同人誌がおもしろく、その同人誌の後書きに作者の運営するウェブサイトのアドレスが記載されているのなら、幾人かはそのサイトを閲覧します。
そして、作者のことを調べたり、作者が執筆する同人誌に関しての情報を仕入れたりします。その課程で不満に思うことが出てくるのです。
不満の内容は人それぞれです。一般的に考えればそんなことまで不満に思うの?ということまで不満に思う人もいるでしょう。
さて、ここで質問をしてみましょう。貴方が初めて閲覧したサイトに抱いた不満をそのままサイトの管理者に伝えることはできますか?
多くの人は「できない」と答えるでしょう。なぜならその不満は、自分だけが抱いている可能性があるとともに、そういった不満を言う立場にいないと思っているからです。もちろん、ほかにも多くの理由があるはずですが、それらは省略したとしても、不満をそのまま伝える人はそれほど多くないでしょう。
しかし、頭の中にある不満はなかなか取り払えず、ひとはやきもきするのです。
私は一人の閲覧者ですから、多くのサイトに対してこれまた多くの人と同じように不満を持っています。
私は一人の管理者ですから、自分のサイトを思いのままにコントロールする能力も、権限も持っています。
そして、私は一人の閲覧者であり、管理者であるからこそ、多くのサイトに抱く不満を、自分のサイトでは抱かないように構築することができます。
このサイトは、ほかのサイトへ抱いている不満を自分のサイトに当てはめ、それを解決するために改装され、今日に至ります。
メニューが利用しづらい、文字が小さくて文章が読めない、同人誌紹介がない、そういった多くの具体的不満を、少なくとも自分だけでも抱かないようにこのサイトは構築されていきます。
究極の自己満足。それがこのウェブサイトを形作る骨格なのです。
後一月もすればこのサイトはWWWの世界に顔を出してから五年という月日が流れたことになります。
そして、その五年の間、私はほかのサイトへ抱いた不満を自分のサイトでは抱かないようにサイトを構築してきました。
もっと軟らかい表現をすれば、少なくとも自分が満足できるサイトを目指してこのサイトを作っています。
自分が満足すること、これは一つの境界線になると思います。
有名ラーメン店の店長が、満足できないスープができたときは店を営業しないように、自分すら満足できないものをほかに公開することなんてできないのです。
それは私に限っていえば、カッコツケだとか、誇りといったことではなく、やきもきするのが嫌なだけなのです。
皆さんがどう思っているかは知りませんが、少なくとも私にとってこのサイトは、自己満足の結晶で作られているのです。
結論としては、日記の量を短くさせるためには、私がほかのサイトで日記が長いことに対して不満を抱かなくてはならない、ということですね。
少なくとも、文章を読むのが大好きなうちは、それは無理な話でしょうけど(笑)。
パジャマを着ることなく寝る人も結構いるようですが、私は着る方に分類されます。
帰省をするときの荷物を減らすため、パジャマのたぐいは実家の方にもおいてあるのですが、この実家においてあるパジャマがくせ者。
なぜかサイズが異様に大きく、ふつうに着ると袖が親指の爪あたりまで覆い隠すのです。
何この、微妙な長さをよく理解しているパジャマ。
指先だけみると萌えなパジャマですけど、鏡で全体像を確認するのだけは自主規制しておきます。
ニュースで飛び交う話題で、男性の方々が興味がある話と言えば、きっと、「淫らな行為」、「猥褻行為」といった辺りでしょうか(偏見)。
殺人については時としてアリバイや殺し方まで紹介してしまうニュース番組なのに、どうにも性犯罪はお茶を濁している感じがしてなりません。
そこで、日本語を勉強して勝手に脳内補完してしまいましょう。
私の記憶が正しければ、「猥褻行為」は性交なし、「淫らな行為」は性交あり、という感じに区別されていたような気がします。
あとは適当に脳内で補ってください。
性に関する話題は非常に難しく、今でこそ生理用品のコマーシャルが平気で流れる世界ですけど、つい最近までは男はふれてはならず、女の子ですら自分の親からひっそりときいた、という非常に閉鎖的な世界でした。
ましてや、生理用品のコマーシャルを流す事なんて不可能です。
しかし、とある男の人がその閉鎖的な生理用品業界(当時は業界すらなかったでしょうけど)に生理用品を開発し、全国的に認知させたからこそ、今日の社会があるわけですね。
言うまでもなく今日は、性行為に関する若年層と中年層の間にギャップが存在する世界です。
若年層はコミュニケーションとして性行為をとらえ、中年層は愛の確認として性行為をとらえています(特に親は、子供がそう考えていて欲しいと願っているが所詮盲進)。
まあ、今日社会において、50歳以上の人の初めての性交の相手が売春婦である確率は、今日の若者の数倍に上り、実は昔の方が性は乱れていたとか、そういった議論はここでは無視しておきましょう。
マスコミや専門家(という名目の了見の狭い人)が使う「性の乱れ」という単語は、いったい何を指すのか。
少なくとも、子供に対する性教育を親ができず、画一的な教え方しかできない学校に任せてしまっている親が言う権利を持つ言葉ではないことは確かです。
性に関する知識がない、という点では、親自身の性も乱れているという考え方をしても、私が異端者といわれることはないでしょうね。
性の正常化や(何を基準に正常とするかも微妙な問題)、今日の性に対して目をつむり盲信・理想だけを追いかける人達には理解できないでしょうけど、性がオープンになっているのは事実。
問題は、その事実をいかにして排除するのではなく、良い方向に成長させていこうと考えること。
性がオープンになったことは決して悪いことだけではなく、先に挙げた生理用品のように、多くの人が悩む『性』について、気軽に相談できる環境になったと考えれば、それは非常に良いことのように思えます。
性がオープンになり理解者が増えたからこそ、性病の認知件数も上がり、治療件数もそれに伴いのびています。
現実から目を背けることなく、あるべき性教育とは何だろうか、それを考えるのが、親の仕事なのですよ。
今日の性教育のように、ある学年に達したら保健体育で、というのはすでに化石ともいえる教育方法だと私は考えます。
『性教育』は性に対する教育であると同時に、『生教育』であることを忘れてはなりません。
私の主張は一貫して、順番を追った教育であり、未だに「パソコンは自主学習」、「英語は高校の選択授業で」という考えは捨てていません。そんな私が考える、性教育のあり方。
愛されずに育った子供は、どんなに愛や命を教えても、実感できないものである。この時期は(家族)愛や命を実感させるだけでよい。
低学年には性器の話である。といっても、別に卵管がどうとか教える必要はなく、男女の違いは性器の違いだけで、同じ人間であるということを教える。また、性器は大事なところだから清潔にしておこう、という事も教える。このように順を追っていけば、大事だから簡単に下着を脱ぐなともいえるわけ。パンツは最後の砦
なんですよ。
中学年には命を生み出す課程を説明すればいい。お母さんには赤ちゃんを育てるところがあって(この時期に弟・妹が生まれるようならばよりよいかもしれない)、やがて君のように生まれてくる、と説明する。そして、その命の半分はお父さんからもらったものであるとも教える。
高学年には精子と卵子の受精の話や、第二次性徴について説明すればいい。もちろん、現象や変化を説明するだけではなく、第二次性徴が何のためにあるかという意義を教えなければならない。
親がなんと考えていようが、中学生は性的な衝動や欲求が強まる時期。早い子なんて小学生後半から道ばたに落ちているエロ本に興味津々だったりする。極端な話、パソコンとインターネット回線さえあれば海外のサイトを回ってアダルト画像を拾ってくることぐらい、小学生でもできてしまうのだ。だからこそ、正しい情報を教えてやる。
性衝動との向き合い方も教える時期で、どうやって衝動を解消するかを教えても良い。もっとも、男子も女子も、言づてや経験でオの字ぐらいの事だったら、半分以上の人が知っているだろうが。
高校生ともなると、性交経験者5割になるこの時代、今頃になって性教育を始めても遅いことがわかる。しかし、順を追って教育してきた貴方の子供なら問題ない。今までの積み重ねを元にして、性感染症の話や、早期の妊娠についてきちんと説明してしまえば、性教育は完了である。
この時点できちんと教育できていないと、子供をさらって欲求のはけ口にしたりする大人が完成してしまうのである。
極端な意見ばかり並べたが、家庭環境が性に近いところにあるので、そんなには間違っていないはずである。
個人的な話をすれば、息子が中学生ぐらいになったら、父親は息子と一緒にアダルトビデオを鑑賞するべきであると考えている。
そして、このアダルトビデオは作られた話であり、そのほとんどが演技や演出であり、実際に試すのは危険であることを説明する。(ほとんどと書いたのは、実際の痴漢やレイプを撮影したものがわずかでも存在することを配慮した言葉の綾であある)
アダルトビデオの世界がフィクションであることをきちんと説明すれば、映像作品としてアダルトビデオを楽しむことができると私は考える。
正しい性とは、性的な作品に限って論述すれば、アダルトビデオといったいわゆる性的な作品を子供から取り上げたりして偶像化・神格化してしまうのではなく、性的な作品を良い意味で、すなわち官能美を楽しめるようにすることではないかと、私は考える。
一昔前の「薫×由梨絵」でもないですが、使い勝手のいいキャラ、弄りやすいキャラほど、作者自身によって弄られる傾向があります。
彩音ももちろんその例外ではなく、いつも仲間内では、胸なしキャラということで弄られています。
Cカップの音瀬がAカップの彩音の胸を揉みしだくといったありふれたネタから、バストアップ体操をしているところを音瀬に見つかってしばらく話の種にされるというシーンまで、原作には全く関係のないところで、彩音は弄られているのです。
極端な話、彩音は弄られキャラなんですよね。だから、ReSin-ensでは、彩音を弄る側の立場の人がたくさん(以下自主規制)。
三交代のある職場を含め、職員が入れ替わる職場では、前の情報を新しい人員に引き継ぐことを、「申し送り」と言うことはご存じの通りかと思います。
私がちまちまと関わっている某職場でも申し送りが行われているのですが、この申し送り方法が不完全なのです。
それは、「パソコンで作成したデータの申し送りが行われない」こと
関係している職場(以後職場)作業手順を記述した紙などが存在し、それらはパソコンで作られていることが多いのですが、印刷物だけが申し送りされ、元になったファイル(Wordでも一太郎でも)は申し送りされません。
もちろん、印刷物さえ申し送りされればいいやという訳ではなく、印刷されたものに対して修正をする場合、元のファイルがないと面倒なことが発生します。
それは、印刷の元となったファイルと同じファイルを作成するということ。
つまり、印刷物に修正を加えるためには、印刷の元になるファイルが必要になるのですが、そのファイルは申し送りされていないため、新しく作り直さなければならないのです。
ここで、スキャナを使っている方なら、手入力が面倒ならOCRソフトを使って文字列に変換すればいいじゃない、と、マリアン的なネタをかましてきそうですが、何度もコピー機でコピーされて、人間ですらも字の判別が不可能になりつつある印刷物を、パソコンが判断できるはずもなく、悲惨な結果が待っているのです。
今の申し送りが行われるずっと以前の申し送りの時から、印刷物だけを申し送りし続けているのですから、元になったファイルを見つけることはできず、新しく作り直す羽目になるのです。
そしてそのしわ寄せが、身内内でもタイピングが早いほうにラベリングされる私の元にやってくるのです。
状態をさらに悪化させる魔法の呪文
今日、IEを批判し、Firefoxを一方的に勧める人やサイトがあるのですが、個人的にそういうのには否定的。
IEやFirefoxのどちらかを使うのは全て個人の自由ですから、Firefoxの利便性を紹介するのならともかく、一方的にFirefoxを押しつけるのはどうなのかと。
両者とも無料で使用できるソフトなのですから、選択はエンドユーザに任せられているのです。
ということで、パソコンにおけるデータの非互換性が騒がれている世の中、Wordなんていう局所地域的なフォーマットを使用しろと言うのはどうかと思うのですよ。
それこそ、仕様が公開されているPDF形式のほうが文章の保管という点では優れていると思います。様々な人がアクセスするウェブサイトなんかでは、ほとんどがPDF形式を利用し、Wordファイルでデータを公開しているところなんてほとんど(Word・Excelのデータを平気で公開するお役所のサイトは例外として)ありませんからね。
まあ…HTMLを作ることすら面倒で、ほとんど全てのページをPDFで作っているというサイトはどうかと思うのですが。
まあ…明らかにWordで作るべきファイルなのに、罫線が多いからという理由でExcelを使わせようとする多くの企業は、両方のパソコンソフトの存在意義をきちんと勉強し直すか、罫線が使いやすい一太郎を使うようにすることをおすすめしますよ、と。
でもまあ…そんな事を高らかに主張する勇気がないからこそ、こんなネットの片隅で自己主張を繰り返し、実生活ではおとなしくWordファイルで提出するのです。バージョン98で作成しているので、最新のWordで開いたときのレイアウトは一切保証していませんが。
ただ、一つだけ思うのは、企業でパソコンを購入するとき、Word2003といったソフトをインストールするより、一太郎2006をインストールした方が、明らかに安上がりなんですよね。
「丁寧に開設しているサイトがあるからいいや」と、投げ出してしまったこれに関する記述ですが、本当はいつぞやに某氏が「便乗して書く!」っておっしゃっていたのに期待していたのですが、海のもくずになってしまったようです、じゅるじゅる
と言われてしまったので、私の常任理事会が「評価値を上げるチャンスだ!」「これを機に株を上げろ!」とうごめきだしたので、書いてしまいます。
長い前置きだ。
ただし、いつもと違うソフトを使っていることによる煩わしさや、アナログ回線によるスクリーンショットアップの面倒くささなどにより、読みづらいことは覚悟してくださいな。
VSTiを使用するためには、「VSTiホスト」と呼ばれるソフトを用意する必要があります。VSTiホストは、フリーソフトでおなじみの
の辺りを用意すればいいでしょう。もちろんスタンドアロンのVSTiホストをすでに持っている方はそちらを使った方が、動作的には安定するはずです。
さて、これでVSTiをロードする準備は整いました。後はシーケンスソフトから、VSTiホストに向けてMIDI信号を投げてやればいいだけです。
やり方としては、仮想のMIDI in・outポートを作り、そこに向けてシーケンスソフトからMIDI信号を発射、VSTiホストは仮想のMIDIoutから発射されるデータを受信すれば、勝手に音を鳴らしてくれます。
ここまできて一つのソフトが思い浮かんだ方は鋭いかと思います。
MIDI信号を受け取り、そのままスルーして送信するソフトといえば、DTMの世界的に有名なMIDI Yorkを使用します。
VSTiホストとMIDI Yorkがそろえば、ここのステップは終了です。
MIDI Yorkをインストールし、再起動するとディバイス情報から参照できるMIDIポートが4つ(環境依存)ほど増えていることが確認できるかと思います。
このポートは、受信したMIDI信号をスルーする、つまり、このMIDIポートに入力されたMIDI信号はそのままの形で出力される機能を持っています。MIDI-THRUのようなものですね。
MIDI Yorkがインストールされたことを確認したら、次のステップに移ります。
まずはおとなしくシーケンスソフトを起動します。このとき、MIDI信号をはき出すソフトならプレイヤーでもOKです。少なくともT-midiとCherryでは動作を確認しています。
シーケンスソフトを起動したら、設定メニューから、MIDIoutに先ほどインストールを確認したMIDI Yorkを選びましょう。1~4と番号が振られているはずですが、どれを選んでもかまいません。
この状態でファイルを再生しても音は鳴りません。なぜならここでは出力の準備をしたにしかすぎないからです。さっそく次のステップに移りましょう。
次に、VSTiホストを起動します。
このとき、VSTiホストにはMIDI信号を受信するための機能があるはずですので、それを設定するメニュー(MIDIin)にて、先ほど出力先に選んだMIDI Yorkのポートと同じポートを選びます。
それが終わったら、VSTiホストにVSTiをロードします。
ここまで来たら準備は完了です。シーケンスソフトの再生ボタンをクリックするなりして、再生してみましょう。若干のタイムラグがあった後、VSTiを使用して音が流れ始めます。
VSTi前提に話を進めてきましたが、元々これはサウンドフォントをシーケンスソフトから直接再生するときに使う技の応用になっています。少なくとも私はそう解釈しています。
ですので、サウンドフォントを使うプレイヤーがあって、MIDI inが選べるのならば、VSTiホストの部分をサウンドフォント使用プレイヤーに置き換えれば、サウンドフォントも利用できます。
音が切れ切れに鳴るという場合は次の方法を試してみてください。