Top > 読み物 > 日記 > 2006年4月 -1冊目-
この日記はエイプリルフール更新を行った後に書いた日記です。
個人的メモをかねて。
今年のエイプリルフールネタはWBCでみいなが優勝。
この日記を皆さんが読んでいる頃は、4月2日かと思いますが。
ひとまず、お楽しみ頂けたのなら幸いです。本当はトップページやインデックスページにやろうかなと思ったのですが、ネタが微妙にアダルトなので、日記で公開することにしました。
アダルトと言うよりも、多少なりともマニアックなので、サイトの常連さんが楽しめればいいや、と言う形にしました。
お楽しみ頂ければ幸いです。
この文章には『ReSin-ens 遼なる風、彩りの音』の文章を紹介しています。ネタバレ要素がありますのでご注意下さい。
昨日の日記で、文章を入力するときは改行を使って推敲途中の文章を後ろに追いやっていく、と言う記事を書きました。本当あの文章の最後には、実際にそれを実行しているところをウェブ上で再現しようと思っていたのですが、予想外に原稿を書くのに時間がかかってしまい、たった今、掲載しようと思っていたところの文章が完成しました。
ですので、一日経ってしまいましたが公開。入力途中の文章をスクリーンショットなどと言う形で紹介してきたことはあるかと思いますが、推敲途中の文章を公開するというのはこれが初めてだと思います。書き途中の文章を公開することもありましたけど、あれも文章として纏まっている段階ですからね。
一番上の文章が完成した文章。それに続く文章は、最終的に完成した文書を作るために推敲した文章の形跡で、下に行くほど古くなります。(これは改行をして古い文章を最後の方に押しやっていくため)
もし、入力した順番に読みたいというのなら、一番下から上に辿っていくと時系列に並んでいます。
学校から遼風さんと別れるところまで、一キロもない道のりを並んで歩く。そして何時もの交差点で、またね、と言って手を振る。始めに手を振るのは遼風さんで、私はそれに返事をするように小さく手を振る。その後は一人で駅に向かい、十分ほど電車に揺られ駅に降り立ち、アパートに戻ってくる。何時もならここで〝音瀬紗〟と〝恥じらい〟に別れを告げ、〝さつき〟となって自分の仕事場へと向かう。でも、今日は月曜日。週に三回ある休業日の一つだ。買い物と料理は水曜日に回して、今日は土日の疲れを取ることに専念しよう。
元々の私のアパートは三中【河流第三中学校】の近くにある。その辺りは河流市郊外独特の古い家と新しい家が混在する地区で、そのアパートは前者に当てはまった。古いという事を除けば八畳の居間にベッドルームがあり台所もトイレも風呂も付いていて三万というのはかなりお得だった。築二十年以上経つ木造のアパートで、床板が所々軋むと言うことを除けば。
何時か私はあそこに戻ると思うけど、そうすれば、遼風さんを呼んで一緒に遊べるのかな。
あの事件以来、一層自分の体の状態には気を配るようになった。コンビニ弁当に逃げがちだった食生活も自炊に戻している。食材を買い込んで作る一週間分の総菜は自分の事ながら、上手くできていると思う。料理が苦手な友夏里さんにはお裾分けをすると喜んで貰える。
そんな精神的余裕からか、私は考え事をすることが多くなってきた。
電車に十分ほど揺られ河流駅に辿り着くと、私は自分のアパートまでの道のりを歩き始めた。高さも面積も小さな古ぼけた商業ビルが所狭しと商店街の裏通りには乱立している。その中を私はただ一人、歩いていた。
同じ道なのに、どうしてこんなに違うんだろうと思う。さっきまで遼風さんと歩いていた道も、所狭しとは言えないまでも、河流市外縁部独特の古い家と新しい家が混じり合いながら建ち並ぶ風景と、その間を縫うようにして広がる道。そんな道を、学校から遼風さんと別れる交差点まで、一キロもない距離を並んで歩き、またね、と言って手を振る。始めに手を振るのは必ず遼風さんで、私はそれに返事をするように小さく手を振って。
たったそれだけの違いなのに、どうしてこんなにも色が違うんだろうと思った。
アパートの階段を上り、二階の自分の部屋に入る。元々のアパートは三中【河流第三中学校】の近くにある。今は仕事の都合でこっちに住んでいるけど、そのうち私はあそこに戻ることになる。そうすれば、遼風さんと一緒に遊べるのかな?」
高さも面積も小さな商業ビルが所狭しと商店街の裏通りには乱立していて、私はその中をただ一人歩いていた。同じ道なのに、どうしてこんなに違うんだろうと思う。学校から遼風さんと別れる交差点まで、一キロもない道を並んで歩き、またね、と言ってバイバイと手を振る。始めに振るのは必ず遼風さんで、私はそれに返事をするように小さく手を振る。
学校から遼風さんと別れる交差点まで一キロもない道を並んで歩き、またね、と言ってバイバイと手を振る。始めに手を振るのは必ず遼風さんで、私はそれに返事をするように小さく手を振って。
電車に十分ほど揺られ、河流駅にたどり着くと私は
その場所は河流市から見ると郊外、古い家と新しい家が丁度切り替わる辺りにあった。遼風さんの家がどっちに入るかは分からないけど、北には中森山や河流川があり、緑も沢山で純粋にうらやましかった。
今私が住んでいるアパートは河流駅のすぐ側。商店街の外縁部にある小さなアパートだ。
南の中心部に対して北には中森山と河流川があり、済むには都合がいい。私が本来住んでいるアパートは三中【河流第三中学校】のすぐ側にあるけど、今は河流駅のすぐ南側、商店街の隅に置かれたアパートだから、こんなに静かな街に憧れてしまう。
始めは、二人で並んだ道の描写の後に一人で歩いた道の描写をして、遼風がいない事による喪失感を描こうと思ったのですが、どうにもうまくいきませんでした。ですので順番を入れ替えて、道を一人で歩いている場面で二人で歩いたことを回想し、喪失感を演出しようとしました。
でも、途中まで書いていて、あまりにも説明がくどすぎるような気がしました。そこで、今の文章となりました。
と、ここでこんな事を書いておきながら、いいアイディアが浮かんだので、そちらの文章を書いてみようと思います。まずは、改行改行改行、っと。
で、できあがった文章がこちら。
遼風さんと何時もの場所で別れ、新河流から河流まで電車で移動し、自分の住むアパートを目指す。商店街の裏通りは、高さも面積も小さい古くからの店が所狭しと並んでいる。古くからの情緒を残す街と表現すれば評価は上がりそうだけど、コンクリート化されたビルが中途半端に混ざり合っているのを見ると、どうしても灰色に見えてしまう。
同じ道なのにどうしてこんなに違うんだろう。
さっきまで遼風さんと歩いていた道も、所狭しとは言えないものの、河流市外縁部独特の古い家と新しい家が混じり合いながら建ち並ぶ風景と、その間を縫うようにして広がる道だったのに。通りの狭さと建物の種類以外、違う事は何もないはずなのに。
何が違うんだろう。
一キロもない学校から何時もの交差点までの道と、一キロもない駅からアパートまでの道。今日は仕事もお休みで、アパートに帰ったら存分に休憩できる。そう思うだけで帰り道の心は軽くなるはずなのに、今の私の心は最悪にブルーだ。
結局、二つの道を描いて心情の対比を量ると言う構図を復活させましたが、前回よりは回りくどくないストレートな文章になったと思います。
同人誌とかプレゼン用のパネルとか、そう言うのを四色分解で作成可能なソフトで編集している人には、もしかしたら便利かも知れないインクチェックシートを作ってみました。完全な自己満足ファイルなので、全てのニーズに応えるとは言えないのですが、一応公開してみます。
解凍して出てくるファイルはTIFFファイルです。色情報は、Adobeで言う、Japan
Standard v2で作っています。解像度は600dpiです。0.3ptの部分に色が付いているのは、350dpiでいう出力可能限界点が0.3ptだからです(この辺は記憶なので、本当かどうかは忘れましたけど)。
なお、0.2ptまでは、600dpiでも正確な値を入力できないので、擬似的表現になっています。この辺の値が欲しい方は、1200dpiのファイルを自分で用意した方がいいと思います。
簡単な使い方の説明。
プロファイルの不一致等という画面が出てきたら、画像の持っているプロファイルを使う
基本的には、ソースカラースペースはファイルのものを、出力カラースペースはプリンタと紙にあったものを選択し、プリンタドライバがわの色調整機能はOFFにする
ソースカラースペースをファイルのもの、プリントカラースペースは『プリンタ側で調整』にして、エプソンやキヤノンのプリンタドライバでの色調整を『自動』にすると、プリンタがどれだけ色を誤魔化して(素人受けするような色調整をしているか)印刷しようとしているかが分かると思います。(普通紙に出すときにはこの色調整が結構便利なんですけどね。)
たぶん、彩度が調整されて色鮮やかになるはずです。デジカメプリントなんかで異様に色が濃くなったりするのはこれのせい。
他にも、普通紙とファイン紙での色の違いの比較なんかも、結構面白いです。シアンマゼンダ(紫)やブルーは結構面白いですよ。
個人的には、720dpiで作りたかったのですが、業界標準とか、メモリとかを考えると、600dpiになりました。プリンタには、360系列と、300系列があります。EPSONのような、最大解像度1440dpi!と言うようなのは、360の倍数ですから、360系列。キヤノンのような、最大解像度1200dpi!というのは、300の倍数ですから、300系列ですね。今となっては、2400dpiと2880dpiですが。
私の場合、プリンタはEPSONですから、720dpiで作るのが一番適正と言えるのですが、まあここはきりのいい数字で600dpiで。
彩音いいよ、彩音。
(;´Д`)ハァハァ
状況説明。
冊子版ReSin-ensの執筆中に、発情したようです。
「あたしですか?」と、目を丸めた遼風さんは、すぐに何時もの柔らかい顔に戻って、「あたしでよければ何時でも」と続けた。
遼風さんの笑顔になんだか恥ずかしくなって私は前に向き直り、遼風さんを視界からはずした。はずしたはずなのに、眉に弧を描いて、目を細めて、ほお紅を差して、口元を緩めた、100パーセント混じりけのない笑顔が頭から離れることはなかった。
人によっては役に立つかも知れない文章。
部屋の掃除をしていると、本が出てきて読みふける…というのは当たり前すぎるので書きません。
部屋の掃除をしていると、昔自分が作ったものが出てきて落ち込みます。これが文章をメモしたものだったらまだしも、イラストなんかが出てきた日には泣きそうになります。ただし、出てくるのは私のものだけではなく、他の人のも出てくるので、後々脅しのネタに使えるわけですよ。
みんな、過去の作品は胸を張って作品といえるけど、恥ずかしいのには変わりないんですよね。
ひとまず、もうすぐ新学期ですから、去年の分のプリントや設計や勉強に使った大量の紙類を片づけなければなりません。トレーシングペーパーとかデザインペーパーとか………本当に大量ですからね。
たぶん、私の部屋は火が回るとあっという間に燃え広がると思います。本だけでも相当なのに、スケッチやデザインに使った紙だけで押し入れが埋まっているぐらいですから。
パソコン関係で質問をされたとき、その質問内容がぐぐるたんですぐ検索できるような内容だったとき、私は何時も「目の前の箱を使いなさい」と言います。箱とはもちろんパソコンのことですね。もっと簡単に言うと、目の前のインターネットで検索しなさい、と言う意味です。
さて、私の即売会での販売スタイルは、見本誌にブックカバーを掛けてそれをスペースに陳列すると言う方法をとっています。つまり、見本だけをテーブルの上に置き、実際に売る本は手元に置いて、下さいと言われたら手元から本を取り出す、と言う形式を取っています。これはまあ…本の種類が多いので必然的にやらざるを得ない、と言う状態から生まれたやり方だったりします。
このとき、見本誌に付けているブックカバーは、近くの本屋さんで買った教科書カバーです。流石に教科書カバーだけあって厚地で丈夫なのですが、ビニル製なので透明度が低く、中の本が色褪せて見えてしまいます。
特に、表紙を使って人の気を引くという戦略(なんか生々しいなあ)を取っている私としては、表紙が色褪せては本を手にとって貰えません。そこで、かなり前から色々なお店を行き来して、今のブックカバ並みの厚さで、透明度の高いものを探していました。
一応、LOFTに理想的なブックカバーがあったのですが、あまりにも安っぽかったので購入を諦めていました。
ですが、きょう、ふとしたきっかけで、「目の前の箱を使え!」と自分に突っ込んでしまいました。
それは、某巨大掲示板で行われているスペースの飾り方を議論しているスレッドのまとめサイトのリンクをクリックしたときでした。ブックカバーではないのですが、この商品いいよ、と言った具合にアドレスが紹介されていたので、早速そのアドレスをクリックしました。
出てきたページは、巨大ショッピングモール『楽天』。
そうか、楽天があった!
まさに、そんな気分でした。そう言えば、ブックカバーについてはネットで一度も検索をしていないと言うことに気が付いたのです。まさに、目の前の箱を使え、ですね。
何でもかんでもネットショップですませるのは危険だと思います。特に、質感が関わってくる商品については危険以外の何物でもありません。楽天内部では、多くの店が一般業務の片手間でサイトを公開しているので、お世辞にもサイトに力を入れているとは言えず、商品名と値段しか書かれていないページが非常に多いです。
そう言った情報が少ない状態の商品を信用すると言うのは難しいですが、頼りになるときだってあります。早速、これから検索してみようと思います。
いざ、ブックカバーを探すとなると、透明なものではなく、布製や和紙というのが多いですからね。楽天のショッピングモールにかけてみたいと思います。駄目だったら…アニメイトのあれかなあ…。
パソコン出荷時の色温度はおよそ9300Kに設定されています。これはテレビの色温度がかなり高いため、違和感なくパソコンのディスプレイになじめるように、と言うことで9300Kになっているそうです。
ですが、この設定が実は大問題。一般的なデジカメで使われているカラープロファイルはsRGBで、設定されている色温度は6500K。すなわち、デジカメで撮影した本来の色をパソコンで見るためには、ディスプレイの色温度を6500Kにする必要があるのです。記憶の色とディスプレイに表示された色が違うと思った方は今すぐディスプレイの色温度をチェック、ですね。予想以上に赤っぽくなると思いますが、人間の感覚なんて相対的ですから、10分も見ていれば見慣れます。それどころか、ぎらつきが無くなって、目にも優しいのですよ。
さて、私の場合、色を扱う関係上既に6500Kにしてあるのですが、これもじつは妥協策。DTPの世界では5000Kが標準とされています。この色温度は紙の色温度とほぼ同じだそうです。なるほど。そうすれば辻褄がありますね。
そう言うこともあり、ディスプレイの色温度を調節することにしました。それは何故か。どうもディスプレイで見た画像よりも、印刷物の色が赤っぽく出てくるからです。(プリンタ独自の色調節機能を使わない状態での)印刷物が赤っぽく感じると言うことは、本来の色に比べてディスプレイの出力している色が青に近いと言うことを示しています。(色の三原色と光の三原色はひとまず無視。)
これは、青色の印刷物を売り物にしている私にすれば死活問題。早速、部屋の電気を消して色調整を始めました。
本来なら、ディスプレイの色温度と室内照明の色はあわせるべきです。一般的蛍光灯は7000Kぐらいだと思います。昼光色なら9000K程度あるかも知れません。ちょっと色を意識している人や、暖かみのある色を好む人は私と同じ3200K程度の蛍光灯を使っていると思います。
3200Kの蛍光灯を使った状態で、6500Kと言うディスプレイ設定。この辺の影響もあって、できあがった印刷物とディスプレイに表示される色の差が出てくるのでしょう(これでも、調節しているだけ大分マシですが)。
ひとまず、20分ほどかけて色調整が終わりました。早速問題の画像を開いてみると………表示された画像と印刷した画像の色がほぼ完全に一致しました。やっぱり、6500Kと言う設定も危ないようですね。
ということで、まとめ。
DVDとかが見たい人は工場出荷時の設定で。デジカメ画像をよく加工するという人や、目に優しい色を追い求める人は6500Kか、sRGBモード。グラフィッカーさんが作る萌え画像を作る側と同じ環境で見たい人や、色を扱う人は5000Kにしましょう。
グラフィッカーを含め、イラスト系同人誌を作る方なら、殆どの人が印刷に適したディスプレイ設定になっているかと思うので、業界標準とも言える5000Kに設定すると、その人が本当に意図した色になるはずです。つまり、今まで知らなかった本当の画像に出会えるのです。さあ、オタクならレッツトライ!
蛇足ですけど、個人的にガンマは2.2にしておいた方がよさそうな感じです。
とあるソフトを使っていると、掲示板に発言した内容が全部記録されて、テキストに保存されています。何気なくそのファイルを開いてみたら1MB間近でした。
1MBって…凄い量ですね。たぶん、殆どがUDの日報だと思うのですが。
べつに値段が高い、と言うわけでもないのですが、私が使っているパソコンのマザーボードは結構使い勝手がいいです。プライマリからサーダリをサポートし、IDE*2、S-ATA*2(+2)といった構成。この辺りは、S-ATAが出た当時で、移行期にぶつかったマザーボードならでは、と言う感じでしょうか。
既に、マイドキュメントしかおいていないDドライブの容量も限界。夏コミが終わった頃に160GBのドライブにでも交換して、同時にS-ATAに移行してみたいと思います。流石に、3Gbps対応ではありませんけど、現時点で、DMA-100ですから、それだけでも速度は1.5倍、ですからね。
仲間内ではいち早く次世代パソコンを組み立てたのですけど、まだまだ現役です。流石にPCI-EXを使ったグラフィックボードには敵いませんが………。
そう言えば、NorthwoodのCPUを探しているのですけど、流石にPresscotに総入れ替えされている感じですね。熱い男は使いたくないのですが…。CPUは中古でも比較的安心できる部品という認識なので、いざとなったら中古をあさりたいと思います。
USB2.0キーボードとマウス、なんて言うネタが身の回りで流行ったのですが、今度は、USB2.0対応外付けフロッピーディスクドライブ、というのはどうでしょうか。二倍速FDDでも使う価値は無いですけど。
やっぱり、FDDは必要だと思うんですよね。BIOS飛んだときとか、システムが起動できなくなったときの緊急用などに…。
携帯電話と利き手の関係に関する文章を作るため、以前行ったアンケートをもう一度読み返してみたのですが、その中に以前読んだときは見逃していた記述がありました。
このページを文字サイズ「小」で見ましたところ文字が完全につぶれ、読むことができません。文字サイズ設定をご再考をいただけますと幸いです。
『文字サイズ「小」』なんて言う記述があるブラウザは私が知っている中ではIEだけですから、早速IEを起動して、サイトを読み込んでやってみました
ちょっと、IE!
ただ、こういった現象は、IEの内部演算が狂っているだけで、私にはどうしようにもなりません。文字サイズの設定も、CSSを使う上では極めて見る側にとって使い勝手のいい、font-size: 1.0em
となっていて(ブラウザの標準設定に従う)、これ以上の対策が不可能です。
たぶん、IEの方で、CSSの拡大解釈が行われ、いわゆるCSSの計算を間違っているのでしょう。Gecko系ブラウザのように、最低文字サイズを決められるブラウザならいいのですが、IEとなるとそのような設定はありませんので、IEのバグとして片付けさせていただきます。
東工大で国内最速のスパコン、実に、85Tflopsのスパコンが動き始めたそうです。85Tflopsと言われてもいまいちピンと来ないので、簡単に計算してみました。
私のパソコンは、Pentium4 2.6GHz(Northwood)の、同期周波数が800MHzというしろもの。早速フロップスを計算したところ、470Mぐらいだそうです。簡単に置き換えて、0.45Gflops、Tに直すと、0.000045Tflops。と言うことは、85÷0.000045で、1,888,889となります。と言うことは、私のパソコンが、およそ188万台必要、と言うことになりますね。ううーん…これでも未だ分かりづらい感じ。とにかく、凄い、と言う事ですね。
民間用パソコンなんて、本当に、パーソナルコンピュータと言う感じですね。
ターミネーターで出てくるスカイネットは、ターミネーター3で明らかになりましたけど、60テラフロップス。これもまた凄い数字です。
日本人が密かに親しみ深いスパコンと言えば、日本が世界に誇る『地球シミュレーター』。これは実に35.8Tflops。ただ、この地球シミュレーターが世界一の座に君臨したのは僅か2年ほど。2004年にIBMのスパコンに追い越されてからは、話題にも出てきません。
ちなみに、そのIBMのスパコンは現在でも世界最速で、その演算能力280Tflops。もはや数字の意味が分からなくなってきそうです。
ついでに。この東工大のスパコンは最終的に200Tflopsを目指すそうです。
さて、スパコン大国米国。その米国は来年か再来年までに、1Pフロップス、つまり、1ペタフロップスの世界に飛び込むとされています。ついに恐れていた事態、脱力単位の世界が目前に迫ってきましたね。
脱力単位、おさらい。
やっぱり嫌だなぁ…1ペタとか…。
じゃあ、私達のパソコンは1ペタにも満たない上に、ペタの世界から見たら無いも同然で、事実上、0ペタ。0は「無」の象徴なので、「無いペタ」とでも呼んでおけばいいでしょうか?
無いペタフロップス(;´Д`)ハァハァ
ツッコミどころ満載で、ツッコミ始めたら原稿用紙10枚分ぐらいはつっこめるんじゃないかというスパムメールが届いたのですが、記述内容が18禁なので、自称健全サイトで扱えないのが残念。
もったいない…もったいない…もったいない………!
途中で視点が勝手に切り替わるは、想像してねといいながら想像力をかき立てる文章ではなく直球勝負の文章…その他諸々。
そう言えば、と思い、脳内に記憶してある看護師もののドラマを回想。
看護師長=年配、看護師=若輩、と言う構図がほぼ確定していることに気が付きました。
もちろん、会社でも同じですが、何年働いていても平社員、それなりの素質がある人は昇進、するのと同じで、病院も、上に行かずに最後まで看護師として働いている人も居ます。中には、看護の最前線に立つために、昇進を拒む人も居ます。上に行けば行くほど、事務職も増えていきますからね。60歳で看護師の人もいれば、看護総師長(今は看護局長という病院も増えてきました)になるひともいます。
まあ、この辺はテレビ的演出なので、あまり気にしないでおきましょう。
ただ、急患が出たといって、ストレッチャーに患者を乗せて全速力で廊下を走るのも、演出というのは分かりますけど、確実に具合が悪くなるので止めた方が………。普通、何処の病院でもそんな手荒なやり方はしませんよ。
先日、少し用事があって、病院の裏に入ってきました。看護師と業者が出入りする部屋とか、そう言う中間的な場所ではなく、手術に使った注射器などを消毒する部屋です。消毒に使う薬品はエチレンガスだそうですが、これってナチスが人を殺すときに使ったガスなんですね。
人殺しの兵器にも、人を救う兵器にもなる。何でも物事は両面性を持っている、まさにそんな感じでした。
自分で書いていて思ったのですが、第一巻の前半は比較的原作に似通っているのですが、後半に行くに従って削除や書き下ろしなどが増えています。これにはきちんと理由があって、遼風彩音に出会うと言うシーンが原作ではあまりにもご都合主義だったからです。
冊子版では、彩音と直哉が出会うシチュエーションこそ同じものの、それにはきちんとした理由が存在しています。
こういった変更を重ねられながら、ReSin-ensは物語として組み立てられていくのです。
そんなことを繰り返しているうちに、後半は殆ど全て書き下ろしという状態。第一巻でこの状態だから、第二巻なんて………と思うと、執筆速度が落ちてしまうので、今は無視することにしましょう。
校正というレベルではなく、ほぼ新規で書き下ろしている状態なので、目の前のテキストエディッタが文字で埋もれていく様は、見ているだけでも楽しくなっていきます。単語と単語が行を作り、行が段落を作り、段落が物語を作っていく姿、そして、そのための思考を働かせていることに生き甲斐を感じますね。
自分の脳が物語を生み出し、それが実際に文字として保存されていく姿は見ているだけでも楽しくなっていきます。こういう自分を見ていると、やっぱり自分は同人作家なんだなあ、と強く意識しますね。
ちなみに今は、文化祭準備の場面を執筆中。ここまでで文字数は11万文字。なんかもう既に………ネット版の『光になりたい』を追い越しそうな勢いです(11万5000文字)。このままだと、原作の『ReSin-ens』は14万文字ですから、第二巻の半分も行かないうちに原作の文字数を超えてしまいますね。まあ、予定では、合計800KB、すなわち、40万文字の物語ですから、このぐらいのペースで当たり前と言えば当たり前なのかも知れません。
………第一巻の時点で予定より50KBも増えているのは内緒です。これでもいらない場面は削除に次ぐ削除なんですが………。
さて、今回も少し、書いている途中の原稿を紹介します。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃい、居元さん、月詩さん」
「こんばんは」
「こんばんは」
スーツとドレス、マスターと奥さんのそれぞれのお出迎えに挨拶を返しながら、テーブル席に座っているであろう義明を捜す。
「直哉、こっちだ」
一番奥のテーブル席で手を挙げている義明を見つけ、茜と一緒にそのテーブルに向かう。
「悪い。絵を用意するのに手間取って」
「まあ、遅刻した訳じゃないし、気にすんな。1分遅刻する毎に100円請求する予定だったけどな」
「金の亡者め」
「タイムイズマネーだ」
何時ものやり取りに、俺の隣に座った茜が「良くあきないよね」とツッコミを入れる。
「で、何枚持ってきたんだ?」
「茜にも選ぶのを手伝って貰ったんだけど、とりあえず、二十枚ぐらいかな。それぞれの季節に四、五枚というかんじだ」
「結構沢山あるんだな。しかも大きいし。お、これは河流川だな」
テーブルの上に乗せた絵を一枚一枚捲りながら義明が呟く。
「まあ…水彩画は完全に乾くと、独特の色味が出にくくなるからな。それを狙うならともかく、色を塗るなら一時間ぐらいで終わってしまうし」
「なるほどな。でもまあ、これだけあれば十分だろう。同時に二十人の人が来ても全員違うことになるからな」
「そう言って貰えると、俺も絵を出した甲斐がある。とりあえず、なんか頼まないか?」
これも書き下ろし。モカ珈房での文化祭打ち合わせシーンです。
基本的に、もう一人の作者、詩唄いさんとはストーリーに関しての打ち合わせはしていません。ですので、文化祭の出し物が喫茶店という事は同じでも、メニューやイベントについては基本的に異なっています。この辺の違いも、おもしろさにはいるのではないのでしょうか。
そもそも、詩唄いさんのシナリオは茜に、私のシナリオは彩音にスポットが当たっているわけですから、直哉の行動も、それによって起こるイベントも全て替わって当然ですから、当たり前と言えば当たり前の事柄ですね。
普段から結構な割合で音楽を聴いています。そのため、パソコンを使っていなかったとしても、巨大な音楽プレイヤーとして活動して貰っています。
サーバーのログに全部残ってしまうので分かるのですが、平均的に一日延べ百曲ぐらいは音楽を聴いていると思います。ですが、課題や同人を始めるとパソコンに向かう時間が長くなるので、必然的に音楽を聴いている時間がもっと長くなります。
今年は一つの節目の年ですから、音楽を聴く時間は今までにないぐらい長くなるでしょう。
ということで、久しぶりにJAZZのCDを引っ張ってきてパソコンで再生しています。個人的にはJAZZは音楽の中でも好きなジャンルで、流石に愛好家と呼ばれる人達なみに聞いていると言うわけではありませんが、CDを三枚ほど持っています。
ギャルゲーソング、いわゆる、AKIBA-POPばかり聞いているイメージがある私ですが、レゲエなんかも好きですし、クラシックも地味に好きだったりします。サイバートランスも好きこのんで聞くと言うレベルではありませんが、たまに変化球として楽しんでいます。まあ、殆どが聞きかじっている、と言うレベルですので、詳しいとかそう言うわけでもありませんが。
JAZZに関してはあのリズム感や、セッションが好きです。たまにテレビに登場するJAZZピアニストによる演奏や独奏は思わず聞き惚れてしまいます。
レゲエは友達が貸してくれたライブカセットで落ちました。あの会場が一体となった雰囲気がとても好きです。この辺はJAZZと通じるところがあるかも知れません。
サイバートランスは文字通り変化球。ずっと聞いているとやっぱり飽きが来てしまうのですが、気分を変えるときにはいいパートナーです。
変化球と言えば、日本を代表する和太鼓演奏集団、鼓童は私の好きなアーティストの中でも異色の存在。ただ、過去二回ライブに行ったりと、ライブ出現回数ではトップです。一度も聞いたことがない方は、毎年全国を巡っているので、一度会場で聞いてみることをお勧めします。もう戻ってこられなくなりますから。
クラシックはボーカル有りの音楽に聞き飽きたときに。テレビで珍しいアレンジがかかったりすると、パソコンと繋いで録音する癖があります。タイタニックメインテーマのフルート四重奏はコレクションの一つ。
クラシック繋がりで言えば、モダンな弦楽四重奏を奏でるbondが結構お気に入り。彼女たちの代表曲、『VICTORY』を初めて聞いたときは鳥肌が立ったものです。そんなこんなで、女子十二楽坊も気になっていたのですが、著作権関連でごたごたがあったので、食わず嫌い状態です。もったいない。
まがいなりにも音楽を作る環境を構築しているので、スピーカーはDTMとしては最低限という感じですが、一般のステレオコンポよりは高品質。下手に脚色されず無駄に5.1chに拡張されず、原音に忠実な、横文字で言えば、HiFiな音質で聞くことができる環境にあります。そう言った環境で聴く音はとても美しいのですが、美しい音楽には中々巡り会えません。
音楽が空気のようになればいいのに、と思ったことが過去にあるのですが、少し道をそれて、音楽が大量消費される時代になってしまったのには少し残念です。多種多様なアーティストが登場して、それぞれの音楽を奏でることに全く異論はないのですが、掃いて捨てられるのだけは見ていて胸が痛くなってきます。一曲一曲を大切に出来る人になりたいと最近では思っています。
BGM: エリーゼのために JAZZアレンジ
作曲: L.V.ベートーヴェン
編曲: 不明
思えば小学校や中学校、高校に至まで、夏休みの宿題、読書感想文にはとことん悩まされました。文章を書くことの難しさ、自分の感じたことを書くことの難しさ。今でも指定図書を買って感想文を書いたことは忘れられない複雑な思い出です。
あの原稿用紙という四百のマスが書かれた薄っぺらい紙が、私にとって大きな壁でした。学年を経る毎に指定された枚数は増え、最終的に四枚を超えたとき、私は溜息を出さざるを得ませんでした。
たったの2000文字。その2000という数字に私は苦しめられたのです。
しかし時は流れ、鈴響雪冬、○○歳。今となっては2000文字の恐怖は何処吹く風。感想文ではないものの、2000文字という文字を消費するのは意図もたやすくなりました。
今日もReSin-ensを書きながら、見せ場となるコーヒーを抽出する所を描写していたのですが、そのために消費した文字数、2500文字。あのころ苦しんでいた2000文字の壁を一瞬にして突破、たった一つの動作だけで2000文字を超えられるのです。
描写は長さが大切というわけではありません。ただ、あの当時、一週間かけて悩みに悩んでひねり出した2000文字と、数時間という時間を掛け悩んで作り上げた文章では、品質という点において比べものにならないものになりました。
成長というのは恐ろしいものです。
今日が燃えるゴミの日だと言うことに気が付いたときには午後一時、鈴響雪冬です。
連日ReSin-ensを書いているのですが、既にトランス状態という感じです。三時に寝ようと思って原稿を打つ手を休めてベッドに入っても、打ちたい、という感情に負けて結局五時まで。昼夜逆転が始まっているので、少しずつずらしています。この辺の逆転のしやすさは二部の学生、と言うのもあるのかも知れません。夕ご飯を食べると、そこから二時間逆算して、最低でも二時以降に寝なければなりませんからね。
頭の中では既に第二巻のストーリーの構成を始めています。それに沿うような形で一巻からバトンを渡さなければなりませんからね。
さて、4月1日に、トップの画像を差し替えましたが、そのトップの画像も、ReSin-ensのヒントになっています。前回は雪で、今回は月。あと二回変更する予定ですけど、それが一体何処に結びついてくるのか、とか。
あと、文字、ですね。前回は、『認知することから物語は始まる』で、今回は『望んだ帰趨と願わなかった終焉』です。帰趨の意味を調べてみると、言いたいことが分かるかと思います。
今日は、何時もお世話になっている紙の問屋さんに、表紙に使う予定の紙のサンプルを送ってもらうように手配しました。早ければ明日か明後日には届くでしょう。如何せん、お隣の県ですので。近くて私もびっくりでした。
蛇足ですが、トップ画像はほぼ毎回、関連するページにリンクできるように設定してあります。巫女本の表紙をトップ画像にしたときは、巫女のスヽメの紹介ページにリンクしていましたし、AtoZの時は、AtoZの目次へリンクしていました。ただし、今回は、それ相応のページがないのでリンクを張っていません。
画像がリンクであることは通常のテキストリンクと同じように青色の線が描画されるようになっているので、殆どの方がご存じかと思いますが、一応、この話題を取り扱ったことがないので取り扱っておきました。
ずれた間の悪さも それが君のタイミング
UDが罰金状態で、事実上CPU利用率0%。これはもうデフラグをやるしかない、と思い立って、TuneXPを起動したら、いつの間にかUDの罰金が解除されていると言う展開。タイミングの悪さに苦笑しつつ、デフラグ断行。
やっぱり、ブートドライブのデフラグには、TuneXPですね。
情報機器を使ったコミュニケーションで、ここのところ忘れられがちなのは、自分の環境と相手の環境が常に同じとは限らないと言うこと、だと思います。数MBのファイルをメールに平気で添付してきたり、文字数制限を超えた長文メールを発射したりと、結構な頻度で、この人は自分の環境が全てなんだろうな、と思う節があります。
すべてのひとがADSLとは限りませんし、ISDNですら来ていない地域があります。国はIT革命と言いつつも、NTTは光ファイバーを引いて欲しければ200人の署名を集めろ等と言い出しますし、そもそも、光ファイバーの増設工事が遅れたことを誤魔化すためにADSLを展開しているというお粗末な展開。そう言った状況において、情報による恩恵もすべてのひとが均一に受けているとは限りません。
代表的なのが、i-mode。携帯電話は一年か二年に一度取り替えると言う大量消費文化の下に成長していますが、これによって、それぞれの人が受けられるサービスに大きな差が生まれています。例えば私の携帯電話は、i-mode1.0対応携帯。全てのファイルの最大受信容量は10KBに制限されていますから、今時のi-mode対応サイトを歌うサイトには殆どの場合接続できません。一番辛いのは、着メロのファイルサイズ。こちらももちろん10KBまでですが、最近の着メロは余裕で20KBオーバー。親切な管理人さんは、20KBバージョンを作りました、と言いつつ、私の携帯は10KBまでしか受信できません。幸い私は耳コピが出来ますから、自分の着メロは殆ど自作でまかなっているので問題ありませんが、私と同じ時代の携帯電話を持っていて、耳コピが出来ないという人は万と居るでしょう。そう言った人は、満足なサービスを受けることが出来ません。
もっとも、機種を買い換えればそれで済むと言う話ですが、はたしてそんな大量消費世界でいいのかと。既に十年以上前に「持続的な発展を遂げることが出来る社会」と言った目標を国際的に立てたのにも拘わらず、使うことが出来るものを簡単に破棄していいのか、と思います。
またDocomoの携帯電話は、主要携帯電話メーカーの中でもメールの文字制限が厳しいと思います。私の携帯電話は全角250文字制限という何とも懐かしい代物ですが、これが災いしているのか、自分以外の機種が存在していると言うことを把握できないのか、明らかにオーバーフローを起こすメールを送ってくる人も極々希に存在します。
もちろん、文字制限があるんだから短くしろよボケ、なんて言う馬鹿なことは言いません。ただ、個人的な観点からものを言うと、メールの容量は出来るだけ軽くする、と言うのはネットワークが生まれたときからのマナー、だったように思えます。
似たような事例で話を次に引き継ぐと、パソコンでのメール。勝手に名付けますが、XP世代の人間はどうも、世の中のインターネットは全てブロードバンドだと思っている節があるようで、平気で5MBのメールを送ってきたりします。数年前なら、プロバイダーの送信・受信制限でカットされますよ、と。
始めの話を展開すれば、ADSLはともかく、ISDNも敷設されていない地域があることを考えると、こういった行動は普通出来ません。もっとも常識的な話を展開すると、100KB以上のファイルを添付するとき(そもそも、ファイル添付を行うとき)は、事前に相手に確認する、それがルールだったような気がします。
情報機器とはものすごいスピードで進化している分野ですから、つい相手のことを忘れがちですが、自分と同じ環境にあるとは限らない、むしろ、自分と同じ環境であると言うことはあり得ない、と言うことを自覚する必要があるように感じます。
そもそも、携帯電話歴7年で今使っている機種が2台目という私からすれば、世間一般の携帯電話を買い換えるペースは、馬鹿じゃないのか、と思うのですが。
こういったことはきっと、サイト作りという面でも表れてくると思います。こういったことは情報バリアの分野ですし、既にコラムの欄でも書いてしまっているのですが、いくらIEの利用者が多いからと言って、IEだけでしか見られないサイトを作ると言うのは、制作者としてはどう思うんだろう、と。
MACから見たドラゴンクエストのファンサイトのタイトルが、『ドラゴンクエスト鬱』とか、そう言う笑い話で済めばいいですけど、ある一定のことをやってしまうと即座にブラクラになってしまいますし、運が悪ければディスククラッシュというレベルまで発展しますから、是非とも慎重な検討を行って欲しいと思います。
私のサイトはIEの利用者が7割、Geckoの利用者が2割5分ぐらいですけど、そのどちらにしか見えないサイトを作っても、ものすごいバッシングがあると思います。個人的にはGeckoひいきですから、Geckoだけにしか見えないサイトを作ってもいいですし、そう言う技もありますからやろうと思えば出来ます。
ですが、インターネットという公共の世界にこうしたサイトを構えている以上、やってはいけないことなんですよね。市役所なのに車椅子で入れないという議論と同じレベルといえます。
ハートビル法にかけて、ハートウェブサイト法とかを作ってみるのも面白いですね。世の中の八割ぐらいのウェブデザイナーは面白いことになるんじゃないかと、邪念を抱いています(笑)。
* { _display: none; }とか。
男女の色恋関係において、次の三文字は非常にそれを的確に示しているように思えます。
この三文字、男女の色恋の熱を測るときに用いることが出来ます。さあ、このサイトをごらんの二次元から三次元を脳内でマウントできるオタクの皆様、想像(妄想?)してください。
臼、と言う漢字。眺めていると………布団の中で男女が向かい合って寝ている様子に見えてきませんか?
比、と言う漢字。眺めていると、布団の中で一方が背を向けて寝ている様子に見えてきませんか?
北、と言う漢字。ついに、男女がそれぞれ背を向けて寝ている様子に見えませんか?
そう、この三文字、寝ているときの二人の姿勢を示す感じに見えてくるのです。これをトリビアに投稿した場合は、一万年と二千年恨みます。
ただし、比の文字においては例外がありますのでご了承下さい。それは、一方が背を向け、それをもう一方が体を密着させる形で抱き合っている場合です。この場合は、男女の距離が最も狭まる姿勢ですので、上に述べた法則は当てはまりません。
個人的選りすぐりでは、後ろから抱きついている姿勢が好き(聞いてない)。
決して、比の様な、片方が背を向け、それを寂しそうに眺めるという構図ではなく、背を向けて、それに抱きつくという構図です。
この辺は非常に微妙な解釈ですが、恋と愛の違いが、会話のあるなし(恋はおしゃべり、愛は無言)にあるとしたら、向かい合わせはおしゃべりをするために向かい合うから恋の段階、一方が背を向けてそれに抱きつく構図は会話がしづらくなるから愛とも言えそうですね。
ただ、先日も日記に誰かの言葉を引用しましたが、
と言う考え方は、なかなか上手く表現できているな、と思います。恋と愛の違いについては色々な議論がされていると思いますけど、こういう尺度もあるんだなと実感。
ちなみに、ここで私の“恋と愛の違い”についての考え方を書いてしまってもいいのですが、それでは恋愛小説を書く意味がないので、止めておきます。
宮崎駿さんも仰いますけど、作品を書く度に自分を丸裸にしている気分になります。ああ、私のスレンダーなボデーがあらわに…。
でも、ダメージは通ってる。プラン変更は無しだ!(03:54)
今までにない文章を作っているからか、ReSin-ensは変更に次ぐ変更で、第一巻においてはこれで何度プロットを汲み立て直したことか。結局、200KBぐらいでさくっと終わらせる予定だったのにも拘わらず、現時点で、273KB。あと20KBで原作を超えそうな勢いです。
一巻と言うこともあり長くなるのは分かるのですが、70KBもはみ出すのは流石にまずいだろうと思い読み返してみても、削れるところがありません。と言うより、足りない部分が沢山見つかって、逆に付け足さなければいけない始末。
このままのペースですと、300KBに届くか届かないかと言うところで、一巻の原稿が一区切り、と言ったところでしょうか。目標は、今日中に、一巻の原稿はまず完成、と言うところでしょうか。
このペースが続くようならば、ReSin-ens全体で1MB。すなわち、50万文字を超える超大作になりそうな雰囲気です。原稿用紙に直すと………えっと…1250枚。改行を含んで計算すれば、さくっと2500枚分ぐらいはなりそうですね。
本来ならば、いらない描写を削って物語の濃度を上げていくのが本筋なのでしょうが、これで十分と思っていても、実はまだ足りなくて、濃度を圧縮する以前の問題にぶつかっています。これでも削りに削っているのですが………。
一巻は全五章構成の予定でしたが、既に六章構成に変更。なおかつ、描写しきれなかったのは第二巻に回したり、カットしたりという状況。そんな状態において、第一巻第一章は二部構成だったのにも関わらず、三部構成に変更と、長さにおいて致命的問題が勃発しています。
長くなりすぎて削れないと言うのは、無駄な描写が多いからだと言われるかも知れませんが、どう見ても削れない部分ばかりなんですよね。
流石にこれはまずいと、第一巻が書き終わる前に、第二巻、第三巻、第四巻のプロットを先行的に作成。第四巻のプロットに至っては、最終章のタイトルまで決めてしまいました。
流石に、二巻三巻が第一巻並の長さになると言うのは考えられませんので、物語が膨張しすぎると言うことは無いでしょうけど、第四巻がどれだけの長さになるか恐怖におののいています。
ただ、私が見る限りでは、現時点で起承転結としては破綻がないようですので、その点は一安心と言ったところ。
しばらくイベントに出る予定が無いので、そのことも考慮して、サイトの通販の送料割引期間を特別に用意しようかと考えています。始まる時期はまだ分かりませんが、四月五月中に、一度やってみたいと思います。期間としては二週間ぐらいが妥当かなと思っています。
脳内の思考が纏まり次第、日記と通販ページでお知らせしたいと思います。
通称「イオナズン」という攻撃が某巨大掲示板に行われるようになって、数日。イオナズンは何故発生するのかと言うことを徹底的に解析しているスレッドがあります。
そのスレッドに集う人達の頭がいいこと。結局、
と言う手順になっている模様。
結局、その意味不明な数字がどのようにデコードされるのかと言うこともまで突き止め、実際にその検証が正しいのかをテストすると言うことで、わざと、その解析を行っているスレに攻撃が及ぶように仕組んでみたところ………。
爆撃開始、数分でスレッドには1000件まで投稿が押し寄せ、そのスレッドが使えなくなりました。
ただ、ウイルスの挙動を完全に察知したという点では、凄い成果だと思います。数秒単位で書き込みが続き、一レス記事が投稿される度に、暗号がドンドン解読されていくと言うあの流れは、目で追っているだけで興奮していきます。
今現在毛布と布団という組み合わせで夜の生活を営んでいるのですが(なんか卑猥だ)、そろそろ暖かくなってきたこともあり、布団を薄いのに取り替えようかなと思い始めています。そう言うこともあって、布団を収納しているベッド下の押し入れを開けてみてびっくり。
入る容積がない。
押し入れの中で溢れている幾多もの模型達。基本的に、課題などで作った模型は部品単位までバラバラにして、次の模型の材料に再利用しているのですが、出来がいい模型や費用がかかっている模型はそのままの形で残してあります。一つの模型を作るのにも万単位でお金が飛ぶときがありますし、そう言った模型は簡単に壊すのも忍びないですからね。
そんな中、ひときわ大きいのが、縮尺五分の一の階段模型。デザイン系の授業で、階段をデザインすると言うときに作った模型ですが、その縮尺も相まって布団二つ分ぐらいの容積を占めています。いざとなったら壊してしまってもいいのですが、この模型には並々なる想いが込められています。この模型、インフルエンザで倒れ、思考が回らない中、文字通り体温計を咥えながら作り上げた模型で、捨てるのには相当な思い切りが必要なのです。
結局、作ってから三年経った今でも、この模型を壊すことが出来ないまま、押し入れの中で鎮座しています。
あくまで自己診断ですけど、比較的ものを捨てられない性格なので、こういったものが沢山部屋の中に溢れています。一応、一年に二回ほど読まなくなった本を含め実家に送っているのですが、それでも部屋の体積は物で埋まっていきます。本当なら、模型も実家に送ってしまいたいのですが、ダンボールに入るサイズならとっくの昔にやっているんですよね…これ。
結局、日に日に部屋の中は荷物で溢れていきます。日本人は世界的に見ても家の中にある物の数が非常に多い民族と言われていますけど、私もその末端にいるようです。
ここのところATOKの変換が少しおかしいようで、『買う』と変換しようとしても『飼う』と変換されてしまいます。ATOKの変換は前後の文章を自動的に解析して、そこに当てはまる漢字変換を自動的に行うシステムを搭載しているはずなのですが、『パンを飼う』だとか、『クッキーを飼う』等と、とんでもない変換がされています。
そんなこんなで、複雑な心境で変換をしているのですが、ますます私の心を複雑にさせる変換が登場しました。
チリドッグを飼う
…うーん………。ホットドッグの辛口バージョン、チリドッグを変換しようとしたのですが、「チリ、ドッグを、飼う」、と単語分け表示がされていたところを見ると、チリを無視して、ドッグを飼う、と言う認識をしたらしいです。
確かに前の単語を参照して変換しているけど…変換しているから強く言えないんだけど…チリドッグが商品名なんだよ、ATOK。
ちなみに、「見る」という単語と、コーヒーの豆を挽く機械である「ミル」があるのですが、ここのところのReSin-ens執筆の影響で、ミルばかり使っていたためか、「~を見る」という文章なのにも拘わらず、「~をミル」と変換されてしまいます。
引用文は怖い。それが文字書きの私としての見解の一つである。
論文などを書く上で、引用を行い、その引用を一つの根拠として用いる場合があるが、実は結構怖いことなのである。と言いつつも、論文などと範囲を限定しなくても、他人の言葉を使うと言うことは常に一つの問題がつきまとっていると考えるべきだろう。
その問題を一つの恐怖と捉えて、私の日記ではあまり引用を行わないようにしている。一般的にニュースにリンクする際も、記事を紹介する目的で引用しているのであって、それを語りの根拠にして話を展開すると言うことは出来るだけしないようにしている。もちろん、この場合、そもそも引用をすると言うことが嫌いだという私の性格も関連しているのである。
さて、引用文の恐怖の代表例は、意図の食い違いだ。ある作者が、○○と言うことを発言したとしよう。その作者の発言を誰かが引用して、「Aと言う作者も○○と言っている。これは私の意見を後押ししているのだ」等という形で文章を書いたとする。
このとき、一つの問題が発生するのだ。それは、Aと言う作者が書いた文章は、Bという引用を行った作者の文章の意図と食い違う可能性があると言うことだ。
もっと端的に書けば、私はそんなつもりで書いていないのにあの人が変な解釈をした、と言うことである。変な例で提示すれば、エイプリルフールネタを本気で受け取られた、と言う様な感じに似ている。
このようにして、引用文には一定の恐怖がついて回る。
この引用文の恐怖が如実に表れる物として、統計による数字を例に挙げてみようと思う。
今年の頭に発表された記事で、2005年の人身売買の被害者数が117人で過去最多になった、と言う記事がある。皆さんも覚えているだろうか。
覚えている方の中には、「人を売ることがこの世の中に蔓延していてそれが過去最高になるなんて世も末だ」、等という感情を抱いた方もいるだろう。しかし、その感情を抱く前に、一つ冷静になって欲しいのだ。
確かこの記事は、警察庁が発表した数字がもとになっている。そして、その数字をもとにして新聞社がそれに関連する記事を作っていることになる。そして、そのような記事を読んで私達は、「ああ、去年は人身売買が過去最高だったのか」と認識する。
しかし、よく考えていただきたい。警察はこの世の全ての犯罪を把握し、それを全て逮捕・検挙という形で、事件に終止符を打っているのだろうか。それは多くの場合、間違いである。
我々人間は良くギャグの一環として「見つからなければ犯罪じゃない」と言うことがある。まさにこの言葉通りなのである。例えば、窃盗(万引き)が多発しているお店があったとしても、犯人が分からなければ警察にその人を突き出すことも出来ない。仮に防犯カメラの映像で犯人が分かったとしても、捕まえられなければそれは逮捕には繋がらない。
きっと、富士山の樹海に絞殺死体を放置しても、犯人がきちんと対処を行えば、自殺と言うことで片が付いてしまうかも知れない。
このように、世の中の事件は明るみに出る部分と、闇に閉ざされたままの部分が存在していると言うことを把握していただきたい。
警察庁が発表するデータは、逮捕者だ。一年間でこれだけの犯人を捕まえましたという結果報告だ。そしてそのデータを注意深く読むことによって分かるのである。そのデータには犯罪発生件数という値は何処にも出ていない。
先に紹介した事件に話を戻すと、昨年の被害者数は117人らしい。しかし、よく考えてみると、この数字にも裏がある。この117人という人数は、被害を受けた人が警察に被害を届け出た件数と等価である。つまり、被害にあっても届けなかった人、今現在も売られた場所に軟禁状態で届けられない人の数は含まれていない。
言い換えれば、117人という数字は確かに過去最高になったかも知れないが、人身売買の件数が過去最高になったとは言えず、人身売買の被害を訴えた人が過去最高になったのである。
ここに大きな問題が発生したことになる。それは、警察側の発表と、我々の受けた印象が異なると言う問題だ。
警察側は、「被害を届けた人は117人で過去最高でした」と言う意図を持って発表したのに、私達は、「被害者が117人で過去最高でした」というように捉える。これがこの問題の正体だ。
サラリーマンの平均年収が300万だとしても、全員が同じ環境にあると言えばそれは違う。収入が0の人もいれば、何十億も稼いでいる人が居る。
夜にふらついている若者の逮捕者数が増えたと言っても、それは補導から逮捕に方針を切り替えただけで、ふらついている人数は昔に比べて減っている可能性がある。(ちなみにこれは可能性ではなく歴とした事実である。)
性病の感染者数が増えたと言っても、それは病院に訪れた人が増えただけであって、実際に感染者数が増えたとも限らない。それどころか、関心が高まったため病院で検査をするようになったことによって、感染者と認められる人が増えたと言う、実は良い数字なのかも知れない。
このように例を挙げると、数字によって我々がいかにに騙されているかを感じ取ることが出来る。
瞬間最長視聴率だって、視聴率を調査している会社は1分単位で割り出しているのにも拘わらず、我々はあたかも本当の一瞬だと勘違いするし、マスコミも1分の中で最も美味しい画面を紹介している。日本がWBCで優勝したときや、みいながWBCで優勝したとき、マスコミはこぞって監督が画面の中にいるシーンを瞬間最長視聴率だとして発表したが、本当の瞬間最高視聴率はそれを含む一分間の何処にあるかは分からない。マスコミが発表した場面とは異なっている可能性があるのである。
こうして考えると、我々の感情すらもコントロールできるのだから数字は怖い物だ。
数字というのは一般的に印象が強烈で、頭に残りやすい。それ故、数字だけが先走りして食い違いが発生する可能性も高くなる。それが上に挙げた諸々の事例・考察である。
数字データを読み取るとき、その数字に本当はどのような意味があるのかを我々はよく考えなければならない。
我々は発表された数字や文章などを良く理解しなければいけないし、理解しない限り安易に引用することは避けた方が賢明である。何故なら、間違った解釈で文章を引用することによって、その文章が間違った感情を読者に与える可能性があるからである。
特に、犯罪の場合は、警察が摘発に力を入れた種類の事件において検挙数が比例して増えるのだから、逮捕者数は犯罪件数ではなく、警察が力を入れた事件の種類として認識するのが賢明である。
先日まで空いていた隣の部屋が埋まり、新しい人が引っ越してきたようです。私がこのアパートに来て隣の人が変わるのは三回目ですが、今回初めて引っ越してきた方が挨拶をしに私の部屋を訪れました。
うーん。隣の人の顔をおがむと言うのは今回が初めてですけど、挨拶って大事ですね。あっ、不用意なフラグを立てるつもりはありませんので、その点は期待なさらず。
今回の改変でものすごいアニメが始まりましたが、時代はいよいよ質より量という雰囲気でしょうか。赤字になるのが目に見えているからこそ、DVDの発売が先行的に決定していて、なおかつ2話で6000円等という法外な料金を設定する流れも、複雑な心境です。
かといって、ノイタミアのように、スポンサー契約もしっかりと行って、広告収入をがっちりと固めた上で放送すると言う方針を打ち出した物の、処女作品のハチミツとクローバー以後、減速気味と言えば減速気味。
こんな時代だからこそ、アニメだから、メイドだから、と言った、後付けの記号処理的な事をやれば売れると言う考えを打ち砕くために、自分の趣味に見合った、十分なクォリティーを持った作品だけを見るようになりたいですね。
そんな私の、今現在のチェックリスト。
以上、三作。準チェックリストとして、Fate。『ひぐらしの鳴く頃に』は、ゲームの方が楽しめるだろうと言うことで、そもそもチェックしていません。
ストロベリー・パニックは、第一話で、百合要素およびスリップを確認したので、確定。スクランは面白いというお勧めにより、決定。うたわれるものはかつてから期待していたのでもちろん確定。と言う雰囲気です。
執筆や課題作成によって削られるテンションを補ってくれるアニメが放送されているだけで何とかなりそうです。アカギとエンジェルハートが同時に終わってしまったので、見るのがないと思っていたのですが、今期も問題なさそうです。
とあるところで、フライトシミュレーターの話が出ているのを見つけて思い出したのが、PC-9821でプレイしたフライトシミュレーター。当時のマシンですからもちろんグラフィック処理は貧弱で、画面もコマ送りだったことを思い出しました。
グラフィックと言えば、グラフィックメモリ4MBで、最低16MB動作のサクラ大戦をやったことも思い出だったりします。技名を言い終わったのに、画面では未だに必殺技の描画処理中というずれ具合には笑ったものです。タイミングが命のミニゲームでは軒並み泣かされましたけど。
そんなグラフィック処理も今となってはFF11。店頭デモンストレーションを見る度に凄い時代になった物だと実感します。もっと前の世代では、カラー出力をするためにうん十万もする機材を買っていたそうですから、それもそれで凄い話ですよね。
ちょっと似たような話題なので、話を振りましょう。先日、私にとっての初代自分専用パソコン、PC-VE40H/75Dを買ったときの保証書が出てきたのですが、同時に買ったプリンターの値段に………。
2880dpiと言ったプリンターが2万円弱、安いプリンターなら1万円を切る値段で買えることに驚きを隠せません。
まあ、凄いスペックの商品を安く売れば沢山売れるというわけでもないですけどね。Xbox360とか、PSPとか(以下自主規制)。
とりあえず、Intelマックのパソコンが、今年か来年中に、「Intelマックが64bitになってパワーアップ」と言った謳い文句で登場する事を、心待ちにしています。64bitから32bitになった時点で退化したと感じたのは私だけではないでしょうし。