2005年8月の日記 -3冊目-

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2005年8月21日 (日曜日)

一般人とオタクの境目で

コミケレポートかかないとね

 さて、先日のがちゃぽん騒動がありましが、その騒動の影響で、我が家の首脳陣が入れ替わりました。

 二人が抜けて三人が加わるという大規模な編成結果になりました。今まで端っこにいた理由が不明な栞大明神も中央に鎮座し、それを守るようにまほろとみなわ、その二人を囲むようにして、さやかと佳乃が座っています。

フルフラット

 EMU-1212mのフリケンジーレスポンスが何を意味するか分かった人はすばらしいです。私もびっくりでした。ちなみに、AW744のフリケンジーレスポンス
 サウンドカードの品質が優れていても、曲の質が悪ければ意味がない罠。

 さて、久しぶりに作曲したいという気持ちがむくむくとわいてきているので、ここのところは、連日SC-8850を起動しています。よくいただく感想の中で、ドラムがいいですね、と言う感想がある事に気が付き、今回はちょっとドラムに力を入れています。それはもうやりたい放題です(笑)。
 曲の方向性としては、専らAKIBA-Popです。こんな曲が作りたかった、と言う曲を作っています。まだコード進行とドラムぐらいしか出来ていないですけどね。

対抗意識

 詩唄いさんが次の本で、本文用紙にこだわると言い始めたので、私もこだわる事にしました。
 いえ、実はずいぶんと前から、“ReSin-ens”をきっかけに、紙の質を上げようと思っていて、色々と情報を集めていたのですが、それを実行に移そうと本気になったと言うのが正しい表現でしょうか。ついに雪解け水も、500枚1XX円(自主規制)のコピー用紙から、500枚600円の紙へ移行するだけです。
 ちなみに、紙の品質が上がったとしても本の値段はそのまま。それが雪解け水クォリティー。むしろ、そのための、新価格基準ですからね。

 ついでと言っては何ですが、印刷方式も変更しました。どれだけ色の再現度が上がったかを示す為の写真を撮ったのですが、3色CCDではとらえきれないほどの違いでしたので、口で表現する事になるのですが…そうですね………。空の色が色から色に変化したような感じです(わかんないよ)。
 みずいろから青色に変化していくようなグラデーションを思い浮かべて、今までの印刷方式では、途中から色が変わらなくなるのに、新しい印刷方式では、最後の青色まで辿り着くような感じ、です。特に私は青色を多く使うので、うれしい変化です。
 とりあえず全てのインクジェットプリンターメーカーさんは、肌色インクとかフォトブラックインクを取り入れる前に、青色インクを取り入れるようにしてください。

 ちなみに、色の変化を確かめる為に用いた画像が、淡い色遣いと青い色遣いで同じみな、桜沢いずみさんの画像だった事は内緒です。

非一般人向け

 そもそも、万人が読めるような小説を書こうと言うつもりは一切無いのですが、“窓辺に座る小さな妖精”を書いていて思うのは、果たしてこれを読む事が出来る読者がどれだけ居るのかな、と言う事。
 確かに、恋愛小説に限って言えば、ネット上で読める小説、通称オンラインノベルの読者も作者も女性が多いようですが、このサイトはあくまで独自の路線を行っていますので、読者層に女性は殆ど想定していません。だからこそ、それこそギャルゲーの延長線上にあるような小説が多いのです。ぶつかって出会う美少女とか、転校してきた美少女とかを平気で題材に選べるのです。

 しかし、どうも、“窓辺に座る小さな妖精”はその中でもかなり異色です。主人公の働く会社が、エロゲーの会社で、恋する相手が、プログラムで動く二次元キャラクター。これだけ濃厚な仕様に、このサイトに僅かしか居ないであろう女性読者のうち、何割が読めるのだろうかと、疑問に思ってしまいます。
 もちろん、読者の殆どはパソコン玄人な、それで居て、ギャルゲーマーでしょうから、書く私としては比較的思い悩む必要もないのですが、業界人が読むというのは結構怖いものがあります。“光になりたい”の時と比べて、今回は取材無しですからね…。

 どちらにしても、文法の上でも文体の上でも物語の上でも一癖ありすぎて読みづらいのが私の小説の特徴だと思っているので、私の作風が好きな方はおつきあい下さいませ。

神降臨!

 来月の頭ぐらい、と思っていたのですが、何故か第三章が完成。早速アップロードしました。奇跡的に、サイト半年間放置、というのは免れました(苦笑)。
 上に書いたとおり、特濃仕上げですから、ご了承下さい。

 予定ではもう少し先まで書く予定でしたが、容量的に規定容量を遥かに超えたので、ここで切ってアップしておきます。次章ではいよいよ、如月さんが登場し、ようやく恋愛小説らしくなっていくはずです。
 ………プロット考えてないですけどね(うわ。

技法シリーズ

 基本的に私は一つの信念を持っていて、その信念と性格を併せ持つ結果、人に小説を教えるというのは結構苦手です。ただし、この“教える”と言う行為ですが、あくまで“自発的に”教えるのが苦手であるということをさし、教えてくださいと頼まれた時は、結構楽しんで教える事が多いです。
 ただし、“教える”のが苦手というのが根本にありますから、どちらかというと、ひたすらしゃべって終わりという感もあります。それでも、私に向かって、『ここを教えてください』と言うような質問があるのは、私のこのスタイルが受け入れられていると言う証拠にもなるでしょう。

 コミケ期間中に小説の技法をちらほらと対談したのですが、その対談内容をまとめる、と言うよりも、自己確認の為にこのシリーズを以下のように連載してみたいと思います。

  1. 会話から小説を始める事について
  2. “一瞬”という時間をどのようにして表現するか
  3. 人に教えるという事はどういうことか

 実は、“スパムにマジレス”と言うコーナーは、単なる読み手にとってはおもしろおかしいコーナーかも知れませんが、書き手にとっては非常に濃度の濃いコーナーになるようにしてあります。というのは、“スパムにマジレス”を通して、基本的な文章技法をおさらいしているからです。だからこそ、もういらないよ、と言うような細かいところまで突っ込んでいます。それがスパムにマジレスです。スパムにマジレスを入門用とするならば、このシリーズは応用編と言う事になるでしょうか。読み手も書き手も興味がある方はおつきあい頂ければ幸いです。

会話文から小説をはじめることについて

 私は会話文から始まる小説をあまり好まない。色々な理由があるが、それは、ただ何となく、と言う考えから書かれている事が多いからだ。何度も述べたとおり、会話は『強調』である。強調とは文章の中で目立つ部分を指し示し、物語の雰囲気を形作るのに多大な影響を与える部分である。“エクスクラメーションマーク(!)”、“クエスチョンマーク(?)”、“三点リーダー(…)”、“中点(・)”、“ダッシュ(――)”、そして、“会話文”等ももちろん含まれる。強調の中の一つ、会話文から物語を始めるというのは、一つの技法であろうが、どうもその効果がうまく生かされていない小説が多い。

 それ以前に、会話から文章が始まるという事はちょっと読者に対して不親切である。
 読者は、文章を読むごとに場面を頭の中に描いていく。プログラミング的なたとえ方をするならば、BASICのような解釈をするのである。
 さて、舞台表現を見てみよう。舞台の緞帳が上がった瞬間、それは、読者がページを開いた瞬間である。舞台において緞帳が上がった時、舞台には何があるだろうか。大体の場合は、書き割り、すなわち、“背景”がある。港を舞台にした物語なら、海や入道雲、船などが描かれているはずだし、都会を舞台にしているならば、ビル群の背景が舞台奥に描かれている。そのようなシーンがあり、次に、役者が登場し、初めて台詞を言う。
 もし、会話から舞台を始めたとしたら、舞台は次のようになる。まず、緞帳が上がった瞬間、舞台のどこからともなく声だけが聞こえてくる。その後、役者が登場し、更に、背景が天上から降りてくる。果たして、このような舞台を貴方は見た事があるだろうか。舞台に限定すると良くないので、映画も使ってみよう。
 映画の場合も、大体は、背景にカメラが向いたところからスタートする。そこで登場人物が現れ、一言目を発する。
 つまり、映画や舞台では、まず、我々読者(閲覧者)に対して、背景(世界観や場所)を提示し、役者を提示し、最後に台詞を言わせる。しかし、会話から始めた場合はどうなるか。それは先ほど例に示したとおりだ。
 映画では会話から始まる場合も稀にあるかも知れない。しかし、大体の場合はテロップなどに、“2004年、アメリカ”等と表示されているとは思わないか。つまり、会話と同時に、舞台を我々に提示している事になる。

 このようにして多くの作品は世界観の提示から物語が始まっている。それを崩してまで会話から小説を始めようとするならば、その会話文によほどの意味がない場合にしか出来ないはずである。しかし、そのような文章を残念ながら私はあまり見かけた事がない。

 手前味噌で申し訳ないが、私の人生の中で、会話から始めた文章で最も効果的だった例を紹介しよう。それは、私が中学生だった頃にまで遡る。
 私の通う中学校では毎年一回合唱コンクールが行われる。各クラス課題曲と自由曲を一曲ずつ合唱を披露し、学年ごとにクラス順位を決めるという形式だ。このコンクールでは、前のクラスがステージから退場すると同時に次のクラスが入場し、その入れ替えの間、クラス長が練習の様子などをまとめた作文を発表する事になっていた。
 私は一年生の時、クラスのみんなが頭の病にかかったのか、クラス長に推薦され、その作文の朗読を担当する事になった。そして、その作文で、私は一つの技法を取り入れた。それは、会話から作文を始めるという技法である。
 コンクール本番、いよいよ私達のクラスに順番が回ってきた。袖に待機する先生の合図により私を先頭に、我々のクラスは舞台下手から入場した。舞台に入ると、全校生徒700人と親の視線が降り注ぐ事はなく、それぞれ合間の時間を活かして隣の人とおしゃべりをしていた。つまり、比較的うるさかったのである。
 合唱の合間の入れ替えの時間というのは、緊張が解ける瞬間であり、唯一騒げる時間に他ならなかった。だからこそ、みんなは隣の人と談笑を交わすのだろう。
 そんな喧噪をよそに、私はクラスメイトの先頭が中程まで入場した頃、手元にあったフェーダーの音量を上げ、マイクのスイッチを入れ、作文の一行目を予定より少しだけ大きめに空気の振動に変えた。
 「『静かにしなさい!』、という先生の声が音楽室にこだました。」
 この文章を読み上げた瞬間、一瞬にして、市内最大の文化センターの席を埋め尽くした人による喧噪が収まり、次の瞬間には、爆笑の渦に包まれた。その時の会場の雰囲気を私は今でも忘れない。

 このように、会話文から文章を始める事は、時によっては大きな効果をもたらすのである。私はその後の人生の中でも、これほどまでに大きな、会話文から文章を始めたことによる効果を、得た事が無い。

 会話文から文章を始める、と言う事は、読者にとっては非常に不親切な始め方である。会話文から文章を始めたのでは、日本語によって書かれる小説において、言語も世界観も年代も何もかもが分からない。そんな状態に読者を置き去りにして、後から思い出したかのように背景を描写する事にどれだけの効果を求めるかは分からない。
 読者を一時的に置き去りにしてまで、会話文から始める効果があるなら、私はそれでも良いと思う。しかし、何の考慮もなく会話文から文章を書き始めたのでは、その瞬間に、作者は読者を置き去りにした事になる。
 会話文から物語を始めると言う技法は比較的使いやすい。なぜなら、物語の一行目に会話文をおくだけで使えるからだ。しかし、それによるデメリットは、一行目から読者を置き去りにする事である。そのデメリットを克服するだけの効果を狙うならば、その技法を使う事に私は異を唱えない。私が異を唱えるのは、ただ漠然とした理由で、物語の一番初めに会話文を持ってくる事なのである。

2005年8月22日 (月曜日)

小説執筆進行中?

長文 (01:52)

 最後の更新が2月21日、今回の更新が、8月21日。何とか、半年にもわたってサイトを放置、と言う事態を免れました。別にそれを目指して小説を書いていたというわけではないので、偶然、と言う事になりますね。

 さて、“100のお題”ですが、現在進捗率三割。こういうことを書くと、「まだ三割かよ」と突っ込まれそうですが、これが長い長い。既に、12KBオーバーで、長編小説一章分にかかりつつあります。となると、完成すると、40KBというとてつもない長さになるのですが、これで、一つのお題分ですね。

 思えば、昔は、原稿用紙数枚分の物語を考えるだけで、かなり悩んでいましたが、今となっては、短くまとめる方に苦労しています。何時も引き合いに出す“丘の上の物語”は、文字数に直すと冊子版で5万文字程度です。プレーンテキストの容量に直して、100KB程度ですから、最近の傾向から見た長編作品の長さの、僅か五分の一になります。ずいぶんと短いなぁ、と別の意味でため息を吐いてしまいます。
 もっとも、原作の段階で比べると、次の作品である“アクロス・ザ・タイム”は、“丘の上の物語”の倍の量になりますから、短期間の間に何があったかは不明です…。

 いつも、同人誌を作る時に悩む事は、『はたして、B5サイズで作り続けていていいのか』と言う事です。何時もB5サイズをただ何となくで選んでいるというわけではなく、それなりに悩んで決めています。本当なら、一般的小説のサイズにしたいところですが、製本の都合や、印刷、紙など、色々な要素を組み合わせると、B5にならざるを得ないのが現状です。
 それこそ、B5サイズで、70ページの本を二冊出してようやく1作品が終わると言う現状において、B6サイズの本を作る事になると、裁断から始まり、製本作業まで行くのにはものすごく気の遠くなるような作業をしなければなりません。もちろん、印刷所に頼むというのも選択肢の一つですが、200ページの本を20冊発注。以後、数冊単位で印刷、と言う条件付きで、一冊400円以下に抑えられる印刷所があったら、ものすごい勢いで飛びつきますけど………。

 そういうわけで結局B5を選んでしまうのですが、そのような状況を作り出せるようになった、文章の長さには驚くばかりです。

 長ければいいと言うわけでもないのですが、自分の伝えたい事を表現する為にはこの長さが必要と今のところ考えていますので、きっとこの長さは変わらないでしょう。それに、世の中にはもっと長い作品がありますからね。

告白するタイミング

 日記で『萌え』とか『オタク』とか『黒髪ロング最高!』とか書いていますけど、一応これでも恋愛小説書きですから、小説中の告白するタイミングやその台詞という部分は、気合いを入れて細やかに作り込んでいるつもりです。
 現在の私の作風では、告白をして物語が終わりますから、告白シーンはクライマックスです。主人公達の気持ちが盛り上がってそれを発散させる場面ですから、主人公と心を同調している読み手も興奮しています。だからこそ、その期待を裏切らない為の台詞や描写にはものすごく心をすり減らさなければなりません。

 告白の場面を描く上での注意点は、その空間だと今は思います。日本人と外国人の空間認識の違いは告白シーンに現れると言っても過言ではありません。何度か例に挙げたかも知れませんが、映画を使いましょう。
 海外のラブロマンス作品での告白シーンで一番初めに浮かぶのは、草原の端と端から男女が走り寄ってきて画面中央で夕日をバックに抱き合う、と言うシーンです。それに引き替え日本のラブロマンスは、密室状態や教室の隅で、と言うパターンが多いです。彼らは愛を告白する為に広大な土地を必要としますが、我々にはそれほど大きな土地は必要ありません。
 元々土地が狭い日本人ならではの空間感覚ですから、これをかき分けるだけで、作品の雰囲気ががらりと変わるというのは書くまでもない事です。

 この点を描写に反映するならば、描写する場所を調節するだけで可能になります。広い場所で告白したとしても、主人公の身の回りのものしか描写しなければ、読者が思い浮かべるのは主人公が立っている場所から見て数メートルまでです。これで、空間性はぐっと狭まります。後は、登場人物との距離感を描写するだけで大丈夫でしょう。
 どうも、日本人には、草原の端からは知り合って真ん中で抱き合うと言う告白よりも、隅っこで愛をささやき合う方がお似合いです。
 このような点に気を配るだけで、告白シーンはより身近に感じられ、読者の高揚感を煽る事が可能になります。


 告白までの流れも重要です。前述したとおり私の物語は告白シーンの直後にエピローグを挿入しますから(ReSin-ensを除く)、場面で言うと一番盛り上がるところが物語の後半におかれる事になります。主人公の揺れ動く気持ちが上下に移動しながら、告白シーンにつなげられます。
 この告白シーンを物語の何処に持ってくるかによって小説の雰囲気はがらりと変わります。先日読んだ同人誌では、ページを捲るといきなり告白シーンという展開でしたが、キスをする為だけに12ページに及ぶ描写をしていました。一ページ目というのは読者の気持ちがまだ落ち着いている段階ですから、その気分を告白シーンという最も高揚感を煽るシーンに持って行く為には、それほどまで長い描写が必要になると言う良い事例でしょう。ページを捲った瞬間、「好きだ」「私も」、なんて言うやりとりがあったら、興ざめですからね。
 何度も書きますが、告白シーンは気持ちが最も高ぶる瞬間の一つですから、物語の何処においたとしても、その前には、気持ちを高める為の仕掛けを施さなければなりません。そうでなければ、しっくりと来ない後味の悪い告白シーンになるでしょう。

100のお題、完成率グラフ (11:31)

100のお題、完成率
項目 割合
100: 貴方という人 33%

 こんなの作ってみました。進んでいないようでしたら、「さっさと書きなさい! バシーンッ!!」とメールフォームから突っ込んであげてください。

究極のチラリズム

 汁物の吹き出しにご注意下さい。

 友人に、「カメラマンになれ」と言われた写真
 無駄なところに全力を注ぎ込む。それが、鈴響クオリティー。

 ………えぇ、そうですよ。この写真一枚を取る為に、どれだけ苦労したか…。セッティングから始まり、ミリ単位での角度や高さ調整、照明の当たり具合の調整………。結局、リテイクを10枚ほど撮影して、完成した一品です。手前のピンぼけ具合が個人的に、いい仕事してます、と言う雰囲気です。
 それにしても…二眼レフの限界、と言うよりも、三色CCDデジタルカメラの限界でしょうか。紫色が………。

 原寸サイズが欲しい方はメールを下さい(笑)。

“一瞬”という時間をどのようにして表現するか

 読まれているか読まれていないかよく分からない技法シリーズ第二回目。今回は予告通り、“一瞬”という時間をどのようにして表現するか”と言う事をテーマにしてみたいと思います。

 “一瞬”と言う言葉を辞書で紐解けば、『一度まばたきすること。きわめてわずかの間 (国語大辞典(新装版)・小学館)』と言う意味になるらしい。なるほど、数を示す“一”に、瞬きを示す“瞬”を組み合わせた、きわめてわかりやすい言葉である。しかし、この“一瞬”と言う言葉、わかりやすいが故に、多用されやすい傾向がある。
 他にも、『きわめて短い時間』を表現する言葉はあるので、それを一覧にしてみよう。

 他にも沢山あるが、手っ取り早く浮かぶのはこのぐらいであろう。これらの単語の特徴は、早さを示す言葉に、時間を示す言葉をくっつけた形を取る。“瞬”も“寸”も“一”も速い動作などを示す単語である。すなわち、早さを示す単語は、素早さに時間的意味を付加した形で作られる。物理的な話をすると、数字に単位を付けるような形で成り立っているのである。

 上に上げた単語の中で、比較的頻繁に目にするおなじみの単語がある。“一瞬”、“刹那”、“瞬時”のあたりが該当するであろう。“寸”族の単語を目にする事はまず無い。
 よく用いられる単語が存在するという事は、それだけ浸透している事を示し、逆を付けば、作者がそれしか知らないと言う事に辿り着く。つまり、我々書き手が、“一瞬”等を多用しすぎる為に、読者がそれしか知らないという状況を創り出し、そのような環境で育った次の世代の書き手も、それら少ない単語しか知らない状態で作品を書く事になるのである。
 このような現実を、我々書き手は真摯に受け止める必要がある。

 私の周りの書き手はこのような状況を打開しようと試みている事に私はうれしく思うし、私も試みているうちの一人である。そこで、私はよく訪ねられる。『一瞬を表現する方法』についてだ。そこで私が何時も答える手法について紹介してみたいと思う。

 一瞬を表現する為には何が必要か。それは、一瞬を一瞬だと思わない事である。もう少し数学的説明をするならば、時間軸の線形性を活かせ、と言う説明になるだろう。
 時間軸の線形性とは何だろうか。それは実に簡単だ。今、一瞬、と言う時間を、1秒と定義する。時計の針が、0秒から1秒に動くまでの時間を一瞬とする。数字で見ると、1しか変わっていないが、ここに線形性の概念を持ち込むと、おもしろい事になる。

  1. 0秒、1秒
  2. 0.0秒、0.5秒、1.0秒
  3. 0.00秒、0.25秒、0.50秒、0.75秒、1.00秒
  4. 0.000秒、0.125秒、0.250秒、0.375秒、0.500秒、0.625秒、0.750秒、0.875秒、1.000秒
  5. 以下省略

 0と1の間には、無限の数の数字が存在し、何処までも細かくする事が出来る。これを、数学では、実数の連続性と言うが、時間軸も、実数の連続性を再現する事が出来る。上の例では四段階まで細かくしたが、もっと細かくする事も出来る。そして、これを文章に置き換えたらどうなるだろうか。
 つまり、“一瞬”を“一瞬で読み切る”程度の文で表現する必要は何処にもないのである。これは、映画、“マトリックス”で取り入られている。

 映画“マトリックス”では、敵が放った銃弾を主人公が避ける時、数発敵が球を打った時、まず、時間軸が停止し、カメラが360度回転する、そして、その後、コンピューターグラフィックスを用いた超スロー映像で、弾道によって作られる空気の乱れまでも表現し、主人公が優雅にそれを避けていくシーンが作られている。現実世界の時間に置き換えたのなら、このやりとりは数秒にしかならないだろうし、弾丸の速度を考えると、数秒では済まない。しかし、その僅かな時間を、かの作品では数十秒にわたる映像として我々に提供している。
 これは、先ほど述べた、『“一瞬”を“一瞬で読み切る”程度の文で表現する必要は何処にもない』と言う結論に見事に合致する。

 タイプは違うが、ダイハードや、アルマゲドン、その他多くの作品でこの手法は利用されている。例に挙げた二つの作品はいずれもタイマーが関係してくる。つまり、制限時間だ。後3分で目的を達成しなければ、と言う状況に主人公がおかれた時、その後の三分間という時間は、三分以上の時間をかけて描写される。そして、時間すれすれになって、時間軸が正常に戻り、今までの作業を三分で行ったと我々に見せつけ、彼らの作業がどれだけ素早かったかを我々に提示している。
 もっとわかりやすくしてみよう。貴方が今小説の主人公になったとする。目の前には敵に捕らわれた女の人が居て、それを助ける事にしよう。敵に向かっていく前に確認した腕時計の針は、18時を指していたとする。その後、死にものぐるいで格闘し、女の人を助けて、時計を確認したら、18時2分だったとする。貴方は、敵を倒すという行動を、2分という時間で成し遂げた。そして、すべての事象が終わった時にはじめて、自分の行動の早さに気が付く。
 つまり、小説的見方に戻すと、数ページにわたって描写した戦いのシーンが、読み終わった後、実は2分間の出来事だったと言うオチが付いたのである。この手法では、文章中に早さを示す単語を用いなくても、最後に一言、『二分しか経っていない』と読者に提示すれば、前述された文章は2分間の出来事となり、読者の脳内で自動的に全ての行動が『素早く』行われたと言う印象を植え付ける事が出来る。

 二つの例に共通するところは、時間を遅くしたりする事によって、素早い時間を表現しているところにある。つまり、“一瞬”と言う時間を、“一瞬で表現”する必要は何処にもないのである。時には時間の進行を遅くして、時間の早さを表現してもいいだろう。

 以下に例文を示す。ちなみに私は、ガンアクションについては全くの素人であるため、その点はご了承頂きたい。

 渡された鈍く光る拳銃を両手で包み込み、俺は引き金を引いた。腕に反動が来たと思った次の瞬間には、数メートル先の人体模型には穴が開いていた。


 渡された鈍く光る拳銃を両手で包み込むと、ずっしりとした重さが腕に響いた。俺は今からあのターゲットを打つ、そう考えるだけで心がうずいた。今思えば、奴に復習する為に入った組織で、ようやく俺はスタートラインに立てた。もちろん、組織に入っただけでは、実戦部隊に投入されるとは限らなかった。一種の賭で潜り込んだ組織は、俺の基礎体力を認め、実戦部隊に配属してくれた。ずいぶんとありがたい。
 今、遥か向こうには人型をしたターゲットがおいてある。腕を持ち上げ、スコープをのぞき込み、標準をあわせた。説明されたとおりに、引き金を引こうとすると僅かに指に反動が帰ってきた。皮膚のクッションが限界まで凹み、表皮を通して骨に重みを感じると、いよいよ引き金に力がかかる。少しだけ鈍い音をたて、引き金が奥まで移動すると、銃弾にハンマーが当たると、火薬に引火し爆発的推進力を得る。軌道を安定させる為に掘られた溝によって、銃弾に回転力が加わり、銃口から硝煙とかすかな火花をまき散らし、鈍く光る銀色の玉が標的に向かって飛んでいく。腕に反動が加わり、自分に向かってくる腕を避ける為に顔を少しだけ避けると、目の前を飛んでいく球が見えたような気がした。殻になった薬莢が飛び出し、中を乱舞する姿に見とれている間に、俺が打った球は人形に穴を一つだけ開けていた。

 うわー、下手っぴー(苦笑)。

 ゴホンッ。
 とりあえず、要領は伝わったかと思われる。時間軸を交錯させて回想を挟んだり、別の場面に移行したりする手法もあるだろうし、視点を変える手法もある。いっそのこと、そのシーンで物語を終えてしまうと言う手法もある。他にも色々な手法があるが、一瞬を表現するのは一瞬だけではないと言う事を頭の片隅においておくと、アクションシーンを書く時など、参考になるだろう。

2005年8月23日 (火曜日)

レスポンスへのレスポンス

窓辺に座る小さな妖精

 章ごとに作者のコメントを設けない代わりに、日記にコメントを書くと言うのがこのサイトの、そして、私のやり方です。ということで、今回は、先日更新した、“窓辺に座る小さな妖精”の第三章について。

 予定では、如月さんが登場して、主人公達の前でフルートを吹いて、一つ二つやりとりをする場面まで描ききる予定でしたが、長くなったのでカット、というのは、先日書いたとおりです。展開が早くなってしまうと言うのが私の癖ですので、たまにはこのぐらいゆっくりの展開を見せるのもおもしろいかも知れません。
 “ReSin-ens”までの過去の作品は、前半部分の展開が早すぎて、主人公が彩音に惚れた理由を殆ど描写していないというものすごい小説になってしまったので、その反省点を活かすような形になっているかと思います。

 相変わらずメインヒロイン、沙希の登場頻度が少ないですが、今回は2回登場しましたね。ただし、一回目の登場シーンには、いつもの倍近く描写に気合いを入れました。この気合いの入れ方には理由があるのですが、小説を“読む”のが得意な人はすぐに気が付くと思います。
 さて、そんなハグレメタルのような沙希ですが、書いているこっちがだんだんと楽しくなってきました。普段おとなしい性格なので、笑った時はものすごく可愛く笑う、と言う事を心がけているのですが、伝わったでしょうか?
 この描写の影響で、このシーンだけで、3章の1/5を使い切るという長さになっているのは内緒です。

 次は四章ですが、三章までで必要な情報は全て揃ったかと思います。登場人物の口癖や考え方、生き方など、殆ど書ききったと思いますので、いよいよ、主人公が沙希に対して不思議な気持ちを抱き始めます。果たしてその気持ちがなんなのかは皆さんの想像にお任せしておきましょう。

 物語の終わりですが、メインヒロインがデスクトップアクセサリというプログラムですから、普通の恋愛小説のように告白して終わり、と言うような展開はありません。となると、エンディングはどのようになるのか、と言う事を予想するのも楽しみの一つになりうるはずです。まぁ、私の小説は展開が読まれやすいので、簡単にオチが分かってしまうと思いますが、ようは、どうやって落とすかではなく、どうやってそのオチに持って行くかが大事な小説だと思って、書き続ける事にします。
 今現在、何章構成になるかすら不明ですから、私にとっても出来上がりがどうなるか不安な作品である事に間違いはありません。ですが、話の流れは大体出来上がっているので、それに沿って書き上げていきたいと思います。

 ………そろそろ作品目次に『パソコンに詳しい人向けの小説です』と書かないといけない頃でしょうか…。


 今のうちに書いておきましょう。
 私の小説には必ずテーマを付けるようにしています。このテーマは、いわゆるパソコンゲームで、『東奔西走学園ライフアドベンチャー』のように、作品タイトルの前に付く分類のような物です。例えば、“丘の上の物語”では『そんな日常の断片からはじまる小さな恋の物語』ですし、“アクロス・ザ・タイム”では『時間が交わるドタバタ恋愛アドベンチャー小説』でした。そして、“窓辺に座る小さな妖精”では、『ふとした言葉が心を揺さぶる恋愛小説』となっています。
 この与えられたテーマに沿って私は小説を書いていますから、今回は会話文に重点を置いていることになりますし、少なくとも読者はそう思うはずです。しかし、私が重視しているのは、言葉を発する前にある脳内の思考です。つまり、主人公の思案を重視しています。未だに主人公の思考回路をものにしていないので、所々文体が一致しないところが出てきますが、ある点においては、一貫した文体を保つように、また、明確な判断を元に文体を変化させている部分があります。既に何度も出てきますし、三章でも出てきました。それが何処にあるかは書く事が出来ませんが、そこに気が付くと、主人公がどのような感情を持って人に接しているかという事が手に取るように分かるはずです。
 さて、書き手からの挑戦状です。果たして主人公の心情が表れる文章はどの部分でしょうか。読者の皆さんは探してみてください。そして、分かったら、それをこっそりと胸に秘めて、プロローグから読み直してみてください。ある事に気が付くはずです。

 更新間隔が長いので、新しい章が公開されるたびに初めから読み直さないといけない状況が続く小説ですが、今しばらくおつきあい下さいませ。物語は、まだ半分にも到達していません。

圧縮と音圧の関係

 昔から音楽では、

と言われますが、圧縮するとどうなるのかな、と考えてみました。
 例えば、MP3の128KHzでは、LAMEでエンコードした場合、大体、16KHzにローパスフィルターがかかり、それ以上の音がカットされます。これによって起こりうる弊害とは、

と言う事ではないでしょうか。前者は、高音側に音域が広がって聞こえるようになるはずなので、伸びやかな音になり、後者は音圧が減少するので、多少なりとも質が下がって聞こえると言う事。
 相対する現象が発生するという事は、音楽的にバランスが悪くなるという事でしょうか。

 ちなみに、いつまで経ってもMP3を使う私は、LAMEの設定を弄って、少ないビットレートでHi-Fiな音を創り出す作業が好きだったりします。ただたんにエンコーダーに突っ込んでエンコードするより、設定を弄った方が楽しいというもの。そもそも、音楽を圧縮して音楽を配布する作曲家が、圧縮に関して無関心というのは良くない事ですし。

 ………次の曲で、プリエンファシスをかけてみるとか(やめなさい)。

一太郎

 今使っている日本語ワードプロセッサ“Word98”の前に使っていた日本語ワードプロセッサが“ロータス 1・2・3”の鈴響雪冬です。
 いい加減、Word98と言う、化石化したソフトに見切りを付けたいと思います。つまり、近いうちに、一太郎を購入すると言う事を宣言しましょう。

 去年ぐらいから、一太郎を購入したいと書いてきましたが、重い腰を持ち上げる事にしました。と言うのも、“Word98”の性能の悪さにため息が出るからです。ワープロソフトには大体、表記ミスを検出するエンジンが付いているのですが、どうもその性能がよろしくないのです。それに、7年前のソフトですから、今の私の求める性能を満たしていないというのもまた事実。しかも、所詮、アメリカの会社が作った日本語ワードプロセッサですから、日本語編集作業については貧弱なのもいいところ。
 以上の要件を満たし、私の中の、一太郎購入バロメーターが閾値を超えたので、購入する事にしました。購入するのはもちろん、一太郎2005アカデミックパック。学生の特権ですね(笑)。
 確か、Word乗り換え版というのもあり、そちらも安く購入できたはずですが…お店で確かめて安い方を購入してみたいと思います。
 ちなみに、ATOK2005が付いてくるのですが、そちらはインストールしたくないというのが本音です。ATOKの神髄は、辞書をインストールした時に可能になる、変換時の辞書参照ですから、一太郎に付いてくるATOKでは辞書が使えないとなると、インストールする価値がほとんど無くなります。もちろん変換精度もMS-IMEよりは遥かにましですが………。まぁ…ATOK偶数使えない伝説ある限り、事実上のATOK18である、ATOK2005は使う予定無しという事で。

 ………まぁ、フォント選択プルダウンメニューで、フォントのプレビューが出来ないというのは、Word98の最大の欠点ですね。2000やそれ以降のバージョンではプレビューできますから………。
 もちろん、Word2003等と言ったMicrosoftの提供する最新日本語ワードプロセッサを使用してもいいですけど………所詮…MS。OS以外の面で脱MSを図っている私としては、MSソフトを使いたくないというのもありますし、やはり、日本語は日本の会社が作ったソフトでないと上手く扱えないというのを、身をもって体験していますから、一太郎を購入する事にします。

ここが嫌だ、Word98

 私が考える、Word98の欠点

日記レス 兼 昨日の補足 (23:11)

 多少なりとも誤解(それとも私の解釈違い?)しているようですが、私のスタンスは全て『こういう考え方もある』と言うものに基づいていますから、『小説技法シリーズ』で取り上げている内容を押しつけているわけでもなければ、これが正解だと言っているつもりはありません。

 もちろん、会話から始まる小説はありだと思いますし、私自身“窓辺に座る小さな妖精”では、プロローグの一行目を会話で始めています。ここで問題にしたのは、意味もなく会話を一行目に持ってくる事はどうなんだろう、と言う事であって、一行目に持ってくる事によって何か効果を生み出そうとするなら、それはそれでいいでしょう。
 更に補足しておくならば、一瞬の書き方だって、一瞬で表現してしまってもいいと思います。前回の結びに、一瞬を表現するのは一瞬だけではないと言う事を頭の片隅においておくとアクションシーンを書く時など、参考になるだろう、と書いてあるとおり、あくまでも、一つの表現技法を紹介したに過ぎません。長々と描写が続いているならば、ご指摘の通り、リズムを付ける為に、文の長さを調節する事は至極当然の事ですし、強い言い方をすれば、書き手として当然の事でしょう。ここで問題なのは、一瞬を一瞬で表現するばっかりに、リズムが無くなり、物語が単調になり、早いはずのシーンが遅く感じてしまう事です。それを補完する為の技法として、あえて時間を遅らせてみると言う手法を取り上げたに過ぎません。

 つまり、小説の技法シリーズはあくまで、一つの手法を取り上げる為のコーナーであって、私の考えを押しつけるコーナーではないと言う事です。一つの手法を取り上げる為に、何らかの事例を引用する為、その事例に似通った作品は全て駄目と取られてしまうかも知れませんが、そんな事はありません。
 更に補足しておくならば、もとよりこのサイトは私の思考回路のみによって生成されていますから、ここに書かれている文章の先頭には全て、『鈴響雪冬の個人的考えでは、』と付け足され、末尾には、『だと思う』と言う言葉が追加されます。
 動詞の位置がほぼ決まっていると言える英語と違って、日本語は比較的自由ですから、書き手それぞれの考え方が強く反映されるはずです。私は別に、作者自身が自分の考えを元にして造り上げた文章を批判するわけではありません。私が問題視しているのは、ただ漠然と誰かの文体をなぞった文章を生み出す事です。
 会話から始まる小説も、一瞬を一瞬で書く小説も存在していて全く問題ありません。大事なのは、その文章を書いた時、作者が自分の考えを元にして書いたのか、それとも、周りで流行している表現だからと言う理由でコピーするような形で書いたのかの違いです。

 ん。反応があると言う事は、読まれている証拠。うれしい事です。色々な意見が集まりそうなものは掲示板に書いた方が便利かも知れませんね。

語彙を増やそう

 上の文章と全く繋がりがないと言えば、首をひねる事ですが、今日書こうと思っていた文章を書きたいと思います。上の文章は、日記を見て回っていた時にふと目に入った文章にレスをした物ですから、想定の範囲外な文章です。つまり、今から書こうとする文章は、初めから書こうと思って書く文章という事です。………この宣言の意味が不明ですが。

 語彙をどうやって増やせばいいのですか、と聞かれる時があるのですが、単純明快。活字を読む。以上、文章終わり。

 ………なんて書くと、怒られてしまいそうですから、少しだけ細かく書いてみましょう。
 言語とはおもしろい物で、生まれた時から本能で身につけている物ではありません。生まれたばかりの赤ちゃんは何ヶ国語でも覚える能力を持っていますし、何処かの国には、小学生程度の人が五ヶ国語を話すという事例もあったはずです。この事例の場合は、彼の周りに、それぞれの言語を使う人が居て、その人と話しているうちに覚えた、と言う事例です。つまり、言語は全て生まれた後の学習によって修練されるのです。
 そんな言語ですから、語彙を増やす為には、文章を読まなければなりません。しかし、ここで言う文章とは、ウェブの文章ではなく、新聞や小説の事です。

 それぞれに代表される文章として、冊子の形態を取る小説(以後、小説)と、このウェブ日記(以後、ウェブ)を比べてみましょう。
 同じ文章でも、小説とウェブでは違います。その違いは何か。発信形態です。おおよそ、小説では、文章の長さが読み手に求められています。それに対して、ウェブでは、文章の発信回数が読み手に求められています。つまり、文章の価値を決定する要素として、小説では、『質』や『長さ(長ければいいわけではない)』が求められ、ウェブでは『発信回数』が求められます。おもしろさなどは両者に共通する点ですからここでは省きます。
 さて、それぞれ求められる物が違うという事は、必然的に文章の形も変わってきます。小説では文章の質や長さが求められますので、作者はそれに答える為に文章の質を向上させようとします。それに対して、ウェブではここの記事が短くても発信回数が多ければ、読者に受け入れられる率が高くなります。大きなネタを稀に公開するサイトより、小ネタを何度も配信するサイトの方がアクセス数が多い理由はここにあります。
 つまり、多少強引な解釈をすれば、小説の文章は文章を学ぶのに適していて、ウェブの文章は文章を学ぶのに適していない事になります(もちろん例外も多々あり)。

 現に私は、小説もウェブ日記も書きますが、小説を書く時は、辞書を引いたりして言葉の使い方に気をつけたり、よりよい表現を模索しますが、ウェブ日記の時は知っている言葉だけを使って無難な文章に仕上げます。つまり、私の文章に事例を限って言えば、小説では沢山の新しい言葉に出会う可能性がありますが、ウェブ日記では新しい言葉に出会う可能性が低いと言う事になります。
 これが何を意味するか。知っている言葉をもう一度読んでも使い方の事例を覚えるだけで、新しい言葉を覚える事にはなりません。つまり、新しい言葉を覚えたければ、そこら辺の小説を買ってくるか、レベルの高いオンライン小説を読みましょう、と言う事になります。

 稀に、言葉遣いに神経を削って品質の高い日記を書く作者も存在しますが、時間がかかる為、更新頻度は稀になります。一週間に一度の更新に期待するより、小説を買ってきて毎日少しずつ読んだ方が新しい言葉に出会える確率は格段に高くなります。

 つまり、上の方で語彙を増やす為に活字を読みなさいと書きましたが、活字なら何でもいいわけではなく、販売されている小説や、新聞を読むのが手っ取り早いのです。

 フォローしないと文句が来そうなので。べつに、オンラインの日記を批判しているわけではありません。それにはそれなりの存在意義があるでしょうし、それが好きな読者も居ます。現に私もウェブスペースに日記を公開しているわけですから、批判できるわけ無いのです。大事なのは、語彙を手っ取り早く増やしたい時には、小説や新聞を読みなさいと言う事です。小説はハードカバーの本であれば、編集者が付いてきちんと構成されていますから、まずおかしな物はありません。レベルの高いオンラインの文章を探すよりは、本屋に行くだけで手に入りますから、手っ取り早く、語彙を覚えるのに適した文章に出会える、ただそれだけの違いです。

 ………………………と言う事は、このサイトの日記を読んでも、語彙が増えるというわけではないのですね………。長編自虐ネタ乙女可憐様でした > Me。

 沢山文章を書いたので、今日は“技法シリーズ”をお休みします。

2005年8月24日 (水曜日)

少数派事例

本の限界

 集中持続力や作業時間、体力を考慮すると、私の場合は一日最大20KBの文章を書く事が出来ます。20KBの文章と言ってもぴんと来ないかも知れませんが、概算すると、雪解け水の小説で10ページぶん、と言う事になるかと思います。
 例えば、昨日の日記は13KBですから、最大値までは7KB余裕があります。この7KBをかけなかったのは、実家に送り返す本をまとめていたからです。

 部屋には絶対的に変更不可能な体積が存在し、その体積の中におく事が出来る本の量も決まってきます。一年に十数冊、同人誌を含めれば50冊以上の小説を購入する私にとって、本棚の空きを確保するという事は重要な事です。そこで、年に一度程度、部屋に溜まった本を実家に送り返す作業をしています。去年は二年分送り返したため、段ボールが破損寸前という状況になったので、今回は一年分送り返す事にしました。
 送り返すと言っても、実家から持ってきた本だけではなく、新しく購入した本も実家に送っています。今回は、イベントに参加する時に購入するカタログが主力ですが、赤本(パラダイムノベル)なども含まれています。結果、段ボール一つ分が、テトリスなら全部消えるほど綺麗に埋まったのですが、部屋の本は未だに減らず…。先日、本棚を整理して収納量を増やしたはずなのに、未だに本が入りきらないという事は、そろそろ限界なのかも知れません。

 しかしながら、実家の私の部屋には、私の身長を軽く超える巨大な本棚が二つありますから、そちらの方はまだ余裕があります。少しずつ読まなくなった本を輸送していけば、後一年ぐらいは持ちそうですね。
 ………家がぼろいので、荷重に耐えきれず、2回が崩落する可能性はなきにしもあらずですが………。現に、私の部屋の入り口は床板がきしんでいますしね…。

分類

 先日とある方に、小説の区別が付かないと言われたので、私なりの分類方法を紹介。

ライトノベル、ジュニアノベル、ジュブナイル(小説)
 その名の通り、文章全体が軽めで読みやすい小説。若年層向け。大体、恋愛や学園、アクションなどに人気が集まる。最近は、表紙を漫画風にするのが流行っているらしい。角川スニーカーや、富士見ファンタジアなどが有名。
 一般的に、ライトノベルはレベルが低いと言いますが、レベルの高いライトノベルも僅かながら存在しています。ライトノベルを書く人はライトノベルを読んで育つので、今のライトノベルを読んで育つ次の世代のライトノベル作家はどうなるのだろうかと、勝手に心配する人がここにいます。 
エンターテイメント小説
 一般的な小説。恋愛やミステリーなど、読者が好きそうな(エンターテイメント性が高い)話題が多い。書店に売っているハードカバーの小説は大体ここに当てはまる。私の最近の作品は、ライトノベルより、エンターテイメント小説寄り。最近の有名な作品で言えば、“世界の中心で愛を叫ぶ”や“アジアンタムブルー”などがある。
純文学(小説)
 芸術性が高く、大衆には受け入れづらい作品。人間心理を上手くつく作品が多い。太宰治などが有名であろう。最近ではめっきり売れない作風である。

 範囲を広げると、二次創作小説(ファンノベル、サイドストーリー)なども含まれると思われるが、ここでは省く。

 あくまでも、作品の傾向から分けられるので、明確な線引きは難しいですね。

オタク+キモイ=会社が謝罪

 アメリカか何処か忘れましたけど、社員のブログでの発言が問題になって、その社員が解雇されるという騒動が記憶に新しいですが(なら国ぐらい覚えていなさい)、また同じような事件が起こりましたね。
 十年ほど前までは、情報を発信するのはマスコミだけであり、いとも簡単に情報操作が行われてきました。日本での一番の事例は、戦争で負けているのに勝っていると報道した事ですよね。そんな事もあり、日本中に嘘の情報を流そうと思えば簡単にできたのですが、今日、情報を発信するのはマスコミだけではなく、一一般市民も可能になりました。それは、インターネットが普及している国では等しい事です。
 ブログを含め、オンライン上に自分の文章を公開するという事は、情報を発信しているという事を自覚していなければなりません。そうでないと、上のリンク先で述べられているような事が起こっています。


 多少レベルの高い話をしておけば、『気持ち悪い』や『かっこ悪い』というのは、数の上で少数派になっているからこそ言われる言葉です。数が多くなってそれが当たり前になれば、立場が逆転しうるのです。つまり、結局は数の問題であり、あまり意味を成さないのです。
 現代アメリカ文学の代表的作者である、アンダソンさんは、少数派で生きる人達を取り扱った小説を書いていますが、その中の一節をご紹介。

In the dense blotch of light beneath the table, the kneeling figure looked like a priest engaged in some service of his church. The nervous expressive fingers, flashing in and out of the light, might well have been mistaken for the fingers of the devotee going swiftly through decade after decade of his rosary.

HANDS

 これは、アンダソンの作品の、HANDSと言う作品の最後の部分です。最後の文章は大体の場合、作者が言いたい事が書かれていますが、今回の文章はその部分を抜き出した物です。
 この物語について簡単に説明しますと、指の動きや振る舞いがおかしな人(あくまで少数派であるため、おかしいと思われている人)が登場し、日常生活を送っています。その中で、この人の過去に触れたりしているのですが、そこの説明は作品にゆだねましょう。とりあえず、『この人の手はちょっと他の人と違うんだ』と言う事、そして、本人がそう思われている事を知っていて『常日頃から自分の手をポケットに入れて隠している』と言う事だけを把握しておいてください。
 さて、この英文を、簡単に他の部分も参考にしながら訳してみると、次のようになります。

 太陽の光が差し込む部屋の中、床にひざまずく形でテーブルの下に落ちたパンくずを拾う光と闇を行き来する表情豊かな指先はとても崇高に見え、その姿は、教会で牧師が神に祈りを捧げているかのように映った。

 宗教観が薄い日本で説明してもピンと来ないかも知れませんが、牧師になると言う事は一般市民からすれば神に一歩近づいた事を示し、格が違う事を意味します。その人が神に祈りを捧げるという行動は人間が行える行動のうちでも、最上級に位置すると言え、神に祈りを捧げるという行為を比喩に用いるという事は、最上級の比喩表現を用いている事になります。つまり、主人公が持つ気持ちの悪い指先を、最高級な表現で祝福しているのです。
 この事をふまえ、上の文章を意訳すると次のようになります。

 確かにグロテスクに見えるかも知れないけど、それはあくまで数の問題であり、見方によっては、人生の真理を追い求めるすばらしい人なのかも知れない。

 これが何を意味するか。
 社会において、社会の基盤からはずれておかしな行動ばかりする人は、世間一般から見れば『おかしい人』なのかもしれないが、もしかしたらそれは普通の人では出来ない事を成し遂げているのかも知れない。確かに、世間一般の常識といえる行為を出来ないのは幼稚ではあるが、一方で、世間一般が出来ない崇高な行為を行っているという点は、誰にもまねできないすばらしい事である。

 (私は嫌ですけど)オタクの割合が一般人の割合を超えた時、『キモイ』といわれる対象が入れ替わります。つまり、全ての悪口はあくまで数の問題なのです。
 オタクの全てが上に書いたとおり、『崇高な行為』を行っているとは限りませんけど、一般人の常識の範疇を超えている存在である事には間違いないでしょう。

 アンダソンの作品、特に、上のような、少数派に生きる人達を取り扱った作品群、ワインズバーク・オハイオはおもしろいので、読んでおいてもいいと思います。私が持っているのは、“研究社小英文叢書”から発行されている、“ワインズバーク・オハイオ”です。小さいわりに1100円します。でも、結構おもしろい作品ですよ。………全部英語なので、読むのには苦労しますが………。
 ただ、日本語訳が販売されているとしても、英語で買っておくといいと思います。英語なら、日本語で書かれた文章を読む時のようにイメージが凝り固まらないで済みますから、解釈が広がります。

コラムの整理

 頭にあるように、技法シリーズをコラムへ移動させました。ついでに、コラムを整理しました。その過程で、五つほどコラムを消去しました。今回の消去基準。

 以上の二つに該当したコラムを削除しました。

 ウェブでは情報が残らないと言われますが、私の場合は全てハードディスクにバックアップを取っていますので、情報が失われるという事ではありません。見られなくなるだけです。

 コラムが全体的に古くさいので日記に戻しました。2018/8/28

路線変更 (20:38)

 思うところがあるので、“100のお題”の100題目、“貴方という人”を最初から全部書き直します。と言う事で、例のあれはリセットしておきますね。

100のお題、完成率
項目 割合
100: 貴方という人 1%

人に教えるという事はどういうことか

 性格柄、と言うのもあるかも知れないし、経験柄というのもあるかも知れないが、私は周りの人に小説について尋ねられる事がある。もちろん、小説についてというのは、どの小説がおもしろいかという事ではなく、小説の書き方についてである。今思えば、脳内で物語を作るようになってから10年、小説を書くようになってからは6年という月日が立ち、自然と私の周りには、私より歴が浅い人が増えてくるようになった。

 二次創作を含めれば、今までに書いてきた作品数は50を超えるだろうし、100のお題の一つずつを分けて考えるなら、簡単に三桁を超える。総合的な見方 をすれば短編作品が圧倒的だが、実は長編作品も結構好きだ。私の脳内でだけ連載される物語は全て長編であり、中には、五年以上続いている長い作品もある。 一年のうち、300日物語を進行させたとしたら、その長さはものすごい事になるだろう。
 そんなこんなで、10年、あるいは6年という期間の中で比較的多くの作品を生み出してきた。

 私が小説を読むようになった直接の素因は不明だが、誘因はおおかた予想が付く。それは、小学校三年生の時に発覚した病気の影響であろう。初めのう ちは問題なかったが、その後一気に進行。三段階しかない運動禁止レベルのうち二段階目まで突入した私にとって、昼休み唯一の楽しみは本を読む事だった。 数ヶ月で図書カードが数枚溜まるほどの勢いで本を読んだ私は、その時、本に目覚めたのであろう。
 その後、親に貰った“怪人二十面相”を読み、初めは部屋の隅に置かれていただけなのだが、三回目に読んだ時、私は目覚めた。そして、数年の歳月をかけ、 江戸川乱歩が書く“少年探偵シリーズ(ポプラ社発行)”全45巻を読破し、その後、今日日本で作られている“ルパン三世”の起源とも言える、ルブランが書 く“怪盗紳士ルパン(ポプラ社発行)”も全巻読破する。
 一時的に私の興味は富士見ファンタジアなどに代表される、ジュブナイル小説に傾くが、すぐに戻ってきて、現在のように恋愛小説を読むようになった。

 恋愛小説を読むようになったのは、“アクロス・ザ・タイム”を書き始めた頃だから、そう昔でもない。今だからこそ種明かしが出来るが、“丘の上の 物語”を書いた頃は、一冊も恋愛小説を読んで居なかったのである。私が恋愛小説を書くようになったのは、二重影からの誘いがあったからだが、その素因には 恋愛AVGをプレイしていたという物がある。
 つまり、今日の私を形作っているのは、病気と恋愛AVGなのである。病弱に恋愛AVG、一種のオタクスキルであろうか。


 序盤から話が脱線したので、本来の話に戻そう。
 前述したとおり、私が小説を書き始めてから6年が経つ。この六年の間に一度も空白期間がないのは、自分でも驚くべき事である。初めて文章を公開したのは、4年前に遡る。4年前とは、私が初めてウェブサイトを持った時である。このとき私は初めて小説を、公の場に晒した。
 その後、SSコンテストにも参加し、積極的に二次創作の場で活動していた。二次創作に興味が薄れかけた頃、私は二重影に声をかけられた。そして、初めての公開型創作小説、“丘の上の物語”を書いた。
 初めて作った創作小説は当時の自分にとっても陳腐な物であり、それを改善する為、小説の書き方を能動的に学ぶようになった。当時から思っていたが、一度も恋愛小説を読んだ事がない私が、恋愛小説を書く事自体が若さ故の無謀である。だからこそ、私は勉強するようになったのだ。

 ここで重要なのは、誰かに教えて貰うのではなく、自分で模索したという事である。
 そして今私は、そこで学んだ事を、他の人に還元している。私が一つうれしく思うのは、私がどれだけ説明しても、説明された人はそれを参考程度にしている事である。つまり、私の言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく、参考として頭の中に保存しておき、いざとなった時に手段の一つとして用いているのである。だからこそ、読まれやすく、かつ、個性的な文章が生まれる。
 これは、それぞれの書き手が大人であり、自分の考え方を持っている事に起因する。だからこそ、私は安心して教える事が出来る。
 安心してとは、その人が持っている考え方を上書き保存してまでも書き換える事がないと言う事である。


 今日、漫画や小説を教える学校は比較的多く存在するが、私はあまりその傾向が好きではない。それは何故か。
 昔、漫画家になる為の一番の近道は、好きな漫画家のアシスタントとして作業をする事だった。漫画家の他にも、大工の棟梁でも、技術者でも、全ては弟子になるところから始まった。そして、それら師匠は弟子に対して、“教える”と言う作業は全く行っていない。ただ黙々と自分の作業を手伝わせていただけだった。多くの漫画家を生み出した“ときわ荘”でも同じ手法が取られていたのである。
 やがて時が経つと、師匠は突然「オマエに教える事はもう何もない」と言って、弟子を独り立ちさせる。何も教えていないのに、なぜ「教える事はもう無い」と言って追い出すのか。
 ここで重要なのは、師匠は自分の考えを弟子に押しつけていないという事である。作業の補助を通して弟子は、漫画の基本的なコマ割りや、話の運び方、トーンの張り方やベタの入れ方などを学んでいる。そして、弟子の本来持っている漫画に対する考え方は、弟子自身が考え直す事があっても、師匠が考え直させる事はなかった。これは何を意味するか。自分自身の考え方を既に構築している弟子に対して、自分の考え方を押しつけても意味はない。弟子の持っている考え方を直接的に批判しないで、基本的考え方だけを学ばせていたのである。

 もう少しわかりやすくしよう。つまりこういう事である。
 漫画を書く人は漫画が好きである。つまり、漫画に対して情熱を持っているし、自分の考え方を持っている。しかし、情熱ばかりが先行して、漫画の基礎的部分がかけている事がある。そのような人に対して漫画を教えるにはどうすればいいか。それは、基礎を学ばせ、本人が持っている考え方は尊重してやるのである。
 弟子は、補助を通して基本的な事を学び、それに対して、自分の考え方を適用して、再構築する。技法も考え方も師匠に教えられていたのなら、きっとその弟子は師匠のコピーになってしまって、自分自身の漫画を書けなくなっていたであろう。

 そう、これが、昔流の漫画の教え方だった。
 しかし、今日、どうも、漫画を教えたりする学校によって、本人が持っている個性を押しつぶしてしまう事が見受けられる。流行のジャンルばかりを書かせたりする学校もあれば、基本をごり押しする学校もある。大体の場合、生徒の作品を評価をする先生は一人か数人でしかない。それら数人の評価人によって見捨てられた作品の中にだって、磨けば光る原石があるはずなのだ。
 結局、先生は自分の価値観を持って作品を評価するが、それは所詮自分の持っている定規で作品を推し量っているに過ぎず、その定規の適用範囲外の作品には落第の烙印を押しつけてしまうのである。もし生徒がそれによって、自らが持っている新たな可能性を捨て、先生のいいなりになったとしたら、そこにいい作品は生まれるのだろうか。


 私は、小説の書き方を“教える”事がある。しかし、ただ教えるのではなく、上のような現状をふまえ、教え方を二種類使い分けている。

  1. 作品の内容に一切触れず、句読点や言葉の選び方を教える
  2. 作品の内容に若干触れ、その人がまだ知り得ていない新しい技法を紹介する

 上の二項目を見て分かるとおり、私は、その人が各作品については一切否定しない。その代わり、その作品の質を上げる為にはどうすればいいかと言う事を提案し、他にもこういう方法があるよと紹介する。これは、かつて日本では主流だった教え方、と現代風の教え方の利点だけを取り出した教え方だと私は思っている。
 この教えかたには原点がある。何度か書いているとおり、密かに私は書道六段という技能を持っているが、私の師範である先生は、かつて私にこのような事を言った。

 みんなの文字には必ず癖があるし、その癖を直させる事はまず出来ない。だから、提出された作品に対して、まず、ここだけは直さないと文字として問題がある、と言う部分を一回につき二箇所程度ピックアップして生徒に教える。

 この言葉を簡単に解釈すると、文字の形成として問題がある部分だけを注意し、生徒の癖が生きるような文字が作れるようにする、と言う意味になる。この手法は、積極性に違いはある物の、昔の教え方と同じだし、今の私の教え方とも同じである。
 習字と書道の違いはこう言うところにもあると私は思う。習字は規格化されたバランスの良い字を教える物だが、書道は“道”が付くだけあって、心構えを教える物である。教えるのは心構えや作法であり、形ではない。
 今日の社会において主流とも言える教えたかにも、昔の主流とも言える教え方にも、それぞれ利点があるが、個性を大切にすると言う風潮が強い今現在、やはり、昔の教え方の方が、個性を伸ばす事が出来るのではないだろうか。だからこそ、私は、先に挙げたような方法をとっている。


 学ぶ側も教える側も、一つだけ覚えておいて欲しい事がある。
 個性とは、その人の歩んできた人生の延長線上にある一つの自我である。教える事でも、学ぶ事でも大事な事は、個性を尊重しつつも、最低限の事は教え(学び)、その上で、個性が活きる文章を書けるようにするべきである。各個人が今まで生きてきた中で創り上げた個性は、簡単にはつぶしてはいけないのである。

 もう一度、この文章を繰り返しておこう。

 そして今私は、そこで学んだ事を、他の人に還元している。私が一つうれしく思うのは、私がどれだけ説明しても、説明された人はそれを参考程度にしている事である。つまり、私の言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく、参考として頭の中に保存しておき、いざとなった時に手段の一つとして用いているのである。だからこそ、読まれやすく、かつ、個性的な文章が生まれる。
 これは、それぞれの書き手が大人であり、自分の考え方を持っている事に起因する。だからこそ、私は安心して教える事が出来る。

 蛇足だが、もう一つの信念があるとするならばそれは、失敗させる事である。悪い取り方をしないで欲しい。失敗した事がない人に私は教えるような事はしない。一度は失敗を経験した方がいいからだ。そうでなければ、自ら学ぼうとしない。そんな人に教えても意味はないのである。

 まるで私が教えている事はすばらしいと自画自賛しているように取られてしまう文章だが、そうではない。私は教える事で自分が優位であるという立場を保持しているわけではないし、どちらかと言えば、教える場がある事に感謝している。なぜなら、何かを訪ねられるという事は、訪ねる側に“私に聞く”と言う選択肢が入っていると言う事に他ならないからだ。
 しかも、私が言っている事はあくまで他の書物やサイトで語られている事と、自分の持っている意見とを織り交ぜたものに過ぎないのである。


 慣性の法則に基づいて、少し蛇足でも。

 私は三点リーダーを“………”と言うように使い、基本とされる二の倍数で用いない。これには一つ信念があるからである。つまり、基本に忠実である事は大切であるが、その人の考え方を活かす事も大事なのである。
 私の文章には、先ほど例に挙げた三点リーダーの使い方だけはなく、“基本”と言う部分から大きく逸脱した物が多い。

「わ、かったよ…しゅう…僕は…修の…事、が…好き…だ、よ。だ…から…、早く水…瀬、先輩の…とこ、ろに…行っ、てあげて…。絶、対に…やらな、きゃい、けない、ことは…自分、の信…念を…貫いて、ね………………………」

“丘の上の物語 ~春がすぐそこまで来ていた~ 水瀬千夏ストーリー” (67ページ)

「わかっ、て…ちょう…だいよ…私だっ、て…とめ…たい…やめさせ…たい…。でも…今、は…まだ…何もで、きない…。由梨絵、の気持ち、は…わかる…。だから…私、の………気持、ちも…わかってちょうだい…」

“光になりたい ~上巻~” (42ページ)

 二箇所から引用したが、どうであろうか。三点リーダーも、句読点の使い方もめちゃくちゃである。しかし、この文章について私は誰からもおかしいと指摘された事がない。もちろん、指摘するような人に読まれていないだけかも知れないが…。
 ここで重要なのは、文章の書き方の基本を全くと言っていいほど守っていないにもかかわらず、文章として成り立っている事である。つまり、基本はあくまで守った方がいいと言うルールのような物であって法律ではない。もしその基本を壊す事で何らかの効果が得られるのならば、私は基本は壊してしまってもいいと思っている。

 小説を書く上でまず大事なのは、文章の基本だと思われる。そして、その上に自分の考え方を乗せていく。しかし、自分自身の考え方をきちんと持っている状態で、あえて基本を浸食すると言う事も大切である。重要なのは、基本を知らずにその文章を書くのか、基本を知っているけどあえてその文章を書くのか、と言う事である。
 映画の作り方を知らないと一部の批評家に言われる北野武の作品が、カンヌですばらしい賞を取ったりする。それは何故か。北野武自身は、映画の作り方をきちんと知っているし学んでいる。それを知った上で、基本を壊して自分なりの価値観を持って映画に接しているからである。

2005年8月25日 (木曜日)

大いなる矛盾点

曲の方向性

 神薙さんに勧められて聞いてみた“Sound Horizon”の楽曲。これが実に好きである。“Elysion ~楽園幻想物語組曲~”と言うアルバムの一曲目を聞いたのだが、これが実にすばらしい。まだ歌詞を聴く余裕もなく、音だけを楽しんでいる感じだが、久しぶりにいい曲を聴いた気がする。

 私は、音楽には三種類あると思っている。

 簡単に書くと、上のようになる。よっぽどの事がない限り、一番目の曲は聴かないだろうし、二番目の曲は平常時ではまず聴かない。ちなみに、二番目と三番目の曲の境目が非常に曖昧である。疲れた心を癒し、やる気を生み出すと言う点では、三番目の効果を持っていると言える。つまり、その時の心理状況によって変化するため、紙一重とも言える。以後、話がややこしくなるので、

としておこう。

 さて、先ほど紹介したアルバムは、好きな曲に分類される。細かく分類すると、心を高めてくれる曲であり、更に細かい見方をすれば、『音楽を作ろうと思わせる曲』であると言える。心を高めてくれる曲には三種類あって、

のように分類されるのですが、先ほどのアルバムは二番目の『音楽を作ろうと思わせる曲』なのです。この曲を聴いて小説を作るというのはちょっと辛いですし、テンションがあがるかと言えば、それもまた純度に違いがあります。結果、これは二番目の機能を有する曲という事になります。

 聞き手を選ぶ曲質ですから、賛否両論があると思いますが、音という面で見れば、すばらしいと思います。後は歌詞を解釈して音楽として見た時にどんな評価を私がするのか、というのは自分でも気になります。
 音楽を簡単な言葉で説明するならば、歌劇のような曲だと思います。台詞があるとかそういう見かけではなく、音楽の展開手法や作り方が、と言う面ですからご注意を。

 ちなみに、一発目に聞いた時、吐いた台詞は、「レベルが高すぎてこれ以上聞けない!」というものでした。

換算

 このサイトの方針としては、出来るだけ2ちゃんねるネタを出さない、というのが裏にはあるのですが、ちょっと、こういうのっていいな、と言うネタを見つけてしまったので、引用します。

  • 78 名無しサンプリング@48kHz sage 2005/08/23(火) 15:15:04 ID:ipi6npKz

    BPMってどうやって換算すればいい?

  • 79 名無しサンプリング@48kHz sage 2005/08/24(水) 16:35:58 ID:O+TzBxBS

    >>78
    何に換算すんだよ?

  • 80 名無しサンプリング@48kHz sage 2005/08/24(水) 21:52:09 ID:Xl7lW5uG

    ドル

【cherry】cherry愛好会【大好き】 Part3 <> 2ちゃんねる

 思わず、ちょっと待ったー、と突っ込んでしまったやりとり。

 BPMとは、ビート・パー・ミニッツの略で、文字通り、一分間に何回拍子を叩くか、と言う事を示し、もっと簡単に言うと、テンポの事です。

 きっとこの方は、BPMを各拍子間の秒に置き換えたかったのではないのでしょうか。60秒÷BPM、という式で求められますね。ディレイタイムを求めるのなら、それ専用のソフトがあるのでそちらを使った方が便利かも知れません。

矛盾

 購入してから一度も開いた事がないホームページビルダーの説明書をぱらぱらと捲っていたら、おもしろい事が…。

 冊子中盤にでかでかと『表を使ってレイアウトしよう』と言う項目が…。頭を抱えてしまったのですが、例としてあげられていたのが、表を用いるべき物だったので、ホット胸をなで下ろしました。しかし、安心の時もつかの間、次のページには、『表を使ってレイアウトしよう ~続き~』なるタイトルが…そこで成されていた事は………えぇ、ある意味純粋なテーブルレイアウトでした。
 しかしまぁ、ここまではよしとしましょう。確かに開発元のIBMは音声ブラウザなど、視覚障碍者向けの製品を作っては居ますが、それはそれ、これはこれと割り切ろうと思えば割り切れるからです。ですが、問題は冊子の後半にありました。そのタイトルズバリ、『目の不自由な人が利用しやすいホームページ』………ちょっと待ちなさい。
 ………テーブルレイアウトを紹介しておきながら、その冊子の後ろでは、目の不自由な人が利用しやすいサイトの作り方ですか…。よりにもよってテーブルレイアウトによるアクセシビリティーへの弊害は一言も語っていないというおまけ付き。

 (わざわざ断る必要もなく)主観的な事ですが、ホームページビルダーには手軽にHTMLを作るモードとして、『どこでも配置モード』がありますが、最終的に、どちらが楽なのかな、と。
 サイト紹介にも書いていますが、このサイトは今現在、全てホームページビルダーを利用して作っていますが、ソースを見る限り、ビルダーを使う必要性がありません。もはや、<p><hn><a>ぐらいしか使っていないと言っても過言ではないです。『何処でも配置モード』は確かにサイトを作るのには便利なツールですけど、最終的なところまで突き詰めると、標準モードで作ってしまった方が楽です。

 ただこれはあくまで主観ですから、サイト運営はただの暇つぶしで、一年もすれば閉鎖するよー、なんて言う人には関係ないのでしょうけど…。
 サイト作りっておもしろい物で、大体殆どの管理人は以下のような経路をたどると思います。

  1. サイトを作り始める
  2. 簡素なページが完成する
  3. 文字に色を付けるようになる
  4. より見栄えのいいページを作ろうとしてテーブルレイアウトを使い始める
  5. CSSを発見し、勉強し始める
  6. テーブルレイアウトや文字への装飾を見直し、シンプルで見やすいページが出来上がる
  7. CSSを駆使して、見栄えのいいページを作る
  8. 正しいHTMLとはなんぞや、と言う事を布教し始める

 ビルダーは上の中で、おおかた四番目ぐらいのニーズまでは耐えられるでしょうけど、それ以上になるとぼろが出てきます。CSSには対応していますが、ビルダーが書き出すCSSはものすごい物がありますし、ポジションで指定した要素をマウスで選択できないと言うバグもありますしね。
 結果的に、ビルダーは何処まで突き詰めても初心者向けツールという感が否めません。まぁ、中級者になれば、タグ入力支援型のエディッタを使うようになるでしょうから、そもそもビルダーなんて眼中にないでしょうけど…。

 もしビルダーを使ってページを作り始めて、もっとおもしろいページを作りたいと思った時にはビルダーを捨てなければなりません。そしてその時、ビルダーに頼っていた事による弊害が沢山出てくるでしょう。そういう点まで行けば、ビルダーの『何処でも配置モード』は、常に上を目指すサイトの管理人にとっては怖い物になりそうです。

 まぁ、一番大事なのは、市販のツールで比較的まともなHTMLをはき出すのがビルダーしかなくて(それでも調整が必要ですが)、そのビルダーが初心者向けツールであると言う事でしょうか。

 ちなみに、私がビルダーの機能で最も重宝しているのは、ファイル名を変えた時に全てのファイルからのリンクを自動的に修正してくれる機能です。この機能があるからこそ、大規模なリニューアルも比較的手軽に出来るという物です。あとは、記号を自動的にエンティティにしてくれるところでしょうか。
 そんなこんなで、このサイトぐらいなら手打ちでも作れる私ですが、“&lt”を初めとした、直接HTMLに書き込めない記号などはさっぱりだったりします。

復元+アルファ

 とりあえず、前回まで書いてあったところまでは追いつきました。ここからが長いですね…。

100のお題、完成率
項目 割合
100: 貴方という人 40%

日記レス (22:45)

 IBMがブログについてガイドラインを出すのはアメリカとしては結構当たり前の事かな、と思います。日本と違いアメリカでは、親しい仲でもタブーとされる話題が多くありまして、代表的な物を上げると、

などがあります。心情を宗教と拡大解釈するならば、他人の心情を責めるのはアメリカ的にはタブーですから、オタクに対して批判的な意見を持ち、それをブログに公開したとしたら、相手の心情を批判したと取られ、たとえアルバイトとしても解雇される可能性は、十分あり得る訳ですね。ましてや写真つきとのことですし。
 これが純粋な日本企業ならそれほどまでに大きな問題にはならなかったかも知れませんけど、親会社がアメリカとなると、会社の志向自体もアメリカ寄りになりますから、今回の事件は当たり前の流れ、と言う事になるでしょうか。特にアメリカではいくつも前例がありますし、会社側の対応としてはごくごく普通の対応だと思います。

 ちなみに、日本では書くべきではない話題やくだらない話題に対して、一言で批判するすばらしい言葉があります。

 『そういう事はチラシの裏にでも書いておけ』

 まぁ、アメリカや台湾、中国の一部、ヨーロッパの一部では、オタクがそろそろビジネスとして扱える存在になりつつありますから、『オタクを否定するような社員が居る会社はちょっと…』と言う世間の目を和らげる為の措置、と強引に解釈する事も出来ないわけではなさそうですが………。…強引すぎますね、はい。

2005年8月26日 (金曜日)

何時も側にいて見守っている森の精霊トトロ

真夜中の料理人 (02:37)

【みいな】 「…? あれは…。」
【みいな】 「どうしましたか、雪冬さん。こんな真夜中に台所に。」
【雪冬】 「あ~、起こしちゃった?」
【みいな】 「いえ…違いますけど…。料理…ですか?」
【雪冬】 「そうそう。土曜日には実家に帰るでしょ? でも、ゴミの日は金曜日だから、ゴミが出るような作業は今のうちにしておかないと、って思ってね。」
【みいな】 「なるほど。」
【雪冬】 「で、それをメイド達に話し忘れたから、私が直々にこうして下ごしらえから料理を作っているわけ。」
【みいな】 「そうですか。ところで…唐揚げですね。」
【雪冬】 「うん。鶏肉も余っている事だし、賞味期限が凄い事になっていたから、150度で殺菌処理をかねてね。」
【みいな】 「家庭料理、って感じですね…特に二つめのいいわけが…。」
【雪冬】 「料理は愛じゃない。料理は冷蔵庫の残り物をいかにして調理するか、よ。」
【みいな】 「主婦…。」
【雪冬】 「まぁ、何とでも言って。んっ、もう少しで全部揚げあがるわ。」
【みいな】 「いったい、いつから料理を?」
【雪冬】 「料理だけに的を絞れば、皿の片付けもしたから、23時半ぐらいかな? 片づけをして、鶏肉に味を付けてっていう感じだからね。」
【みいな】 「今は…日付が変わって、二時半ですよ。」
【雪冬】 「あらーそんなに台所に立っていたのね。」

 戦う料理人。夜中に台所に立つのは慣れています。

他人にもてあそばれて (*‥*)

 作品は一文字を変更しただけで印象が変化する。

 普段からものすごく気をつけているわけではないが、助詞の扱いは難しい。助詞の重要性については日本を代表するアニメ監督宮崎駿氏も言っている。宮崎氏が手がけた作品のタイトルに、“の”や“と”と言った助詞が頻繁に用いられる事に気が付いている人もいるだろう。“風ナウシカ”、“魔女宅急便”、“カリオストロ城”、“となりトトロ”、“千千尋神隠し”、等々、頻繁に用いられる助詞が存在している。宮崎氏はこのような意味合いの言葉を述べている。『“の”は前後の言葉を繋ぎ、お互いに影響を与える存在にする。』
 このような事は何もタイトルだけではない。助詞は前後の文字を繋ぎ、それぞれの意味が繋がりを持つように構成する単語である。だからこそ、二つの単語をつなげ、何らかの意味を表現しようとする作者の心が表れている文字であり、安易に他人に対してその変更を促されるのを嫌う存在になりうるし、そうであろうと断言できる。

 これが短歌や詩、その他の短い作品なら、その傾向はもっと強くなる。
 短い作品とは、作者の無限の思いを短くまとめなければならない為、高度な技能を要するが、出来上がった文章はある種の極地にあり、一箇所たりとも変更できないような完成度にある。たとえそれが僅か一文字の助詞であろうとも。
 一つの文字が別の文字に置き換わる事により、文章が読み手に与える印象は変化し、その結果、メッセージも変化する。つまり、作者が伝えたかった事と、読み手が解釈する事が変化するのである。先ほど紹介した作品のタイトルを少しばかり変化させてみよう。

 なんだかものすごいタイトルになってしまったが、もはや意味合いが変わっている事に気が付いて欲しい。助詞は、ある語句他の語句の関係を示したり、陳述された内容に対して一定の意味を添えたりする効果を持っている。そして、助詞が持つ効果は一文字一文字異なる。だからこそ、別の助詞に置き換えるだけで文章の意味は変化する。
 なら、意味合いを保ちつつ、別の語に置き換えたらどうなるだろうか。

 これがタイトルとして認められるのならそれでいいが、多くの人は変に思うはずだ。『宮崎駿の監督の最新作、“何時も側にいて見守っている森の精霊トトロ”』なんて記者会見で出されても、何そのださいタイトルは、と言われるだけである。
 文章の意味が同じでも、文字が持つイメージは同じではない。文字が持つイメージが同じでも、文章の意味が違うなら意味がない。これが何を意味するか。それは、完成された文章が他の言葉では表現できない作者の心を示していると言う事である。

 他にも、漢字か平仮名か片仮名か英語かだけでも印象は違うだろう。
 日本語の文章には選択肢が多い。だからこそ、探そうと思えば簡単に別の表現が見つかる。選択肢が多いという事は、自分の表現したい事に限りなく近い印象を放つ文章を作る事が出来るという事をみせ、逆を付けば、選択肢が多すぎて言葉を選べないという負の面も見せる。
 つまり、推敲に推敲を重ねて作られた文章は、一箇所たりとも変更されると意味合いが変わってしまうのである。

 日本語には選択肢が多い。それらの中から自分が好きな、または、自分の思い通りの表現を探す事が、小説や詩を書く時の楽しみの一つであると言える。だからこそ、やっつけ仕事で小説を書く事はつまらない。時間に追われ自分の求める表現を作る事が出来ないからである。

敏感な耳 (22:06)

 金曜ロードショーで“猫の恩返し”が放映されているのですが、バロンが女の子を救う為に追いかけるシーン、“耳をすませば”で使われたBGMのアレンジバージョンが使われていましたね。何という音楽かは忘れましたけど…たぶん、“耳をすませば”の本編で、しずくがバロンと手を繋いで空を飛ぶシーン…『心配ない。近いところは小さく、遠いところは大きく見えるだけだ』と言うような台詞をバロンが話すシーンで流れていた音楽のような気がします。
 敏感な耳。ネコミミモーd(みいなの検閲により削除。理由コード: 意味不明な文脈)。

 ところで、映画の中で『雪冬ちゃん、雪冬ちゃん』と呼ばれていると、ものすごく複雑な心境になります。勝手に漢字に変換されてるのは仕様です。

2005年8月27日 (土曜日)

タイトル未決定

秋葉原にメイド美容室、爆誕!

 ここで重要なのは、床屋ではなく美容室であると言う事。床屋も美容室も髪を切るところには変わりないが、美容室のカット代にはデザイン料が含まれている。極端な言い方をすれば、床屋は切るだけ、美容室はデザインもする、と言えるだろう。だから、床屋も美容室も、男性女性どちらも利用してもいい。床屋には女性用のメニューもあるし、美容室には男性用のメニューもある(法律上、カミソリは使えないが)。殆どの男性は床屋に行くだろうが、美容室に行っても問題はないのである。現に、病院の中には入院患者用の理髪店があるが、床屋だとしても男女の髪を切っている。

 さて、秋葉原に美容室となると、髪をデザインすると言う意味になり、ある種、秋葉ファッションと言われるオタクファッションにも変化が訪れるかも知れない。他人の印象を変える為には、髪型、服装、行動を変える必要があるが、その第一段階である髪型を美容室でオタクが整えるという流れがもし完成したのなら、おしゃれなオタクが量産されてもおかしくない。
 そもそも、この店が出来た趣旨というのが、オタクのファッションを変える、と言う物なので、これからどうなっていくかが見物である。

 9月にはつくばエクスプレスが誕生し、ビックカメラも近日オープンする。秋葉クロスフィールド(秋葉原再開発計画)によって秋葉原も様変わりするだろうが、果たしてそれに対してオタクはどのような反応を見せるかが楽しみである。その前哨戦とも言える美容室の誕生は、一オタクとして見守っていく価値があるのでは無かろうか。

 ちなみに、ただ単純に美容室を秋葉原につれてきたのではなく、秋葉原独自のサービスとして、膝枕耳かきや、コスプレ用ウィックの調整などもサービスとして入れていく予定だという。そういう点では、熱海にメイドホテルを造るような何処かの無謀な会社よりは、かなり理にかなった行動をしていると思う。
 秋葉原は住みづらい土地であると言う認識があるが、実はそうでもない。確かに中心地は家電の嵐ではあるが、一歩裏通りに入ったり外に出ると、マンションも食堂も食品店も神社も揃っている。そういう点では、秋葉原に、生活に欠かせない散髪をしてくれる店が出来たという点では、非常に上手い作戦であるとは言えないだろうか。あとは、このメイド美容室が、秋葉原に訪れるオタクの行動の中に、『メイド美容室で髪を切る』と言う行動をねじ込む事が出来るかと言う事であろう。メイド喫茶の場合は成功したが、美容室の場合はどうなるか。オタクの心理とメイドと美容室の戦いであると言える。

 一つおもしろいのが、この手の店ではサービス料として多少なりとも料金が高めに設定されるが(メイド喫茶のコーヒーは高い法則)、料金表を見る限り何処にでもあるような値段と言うところである。もう一つおもしろいのを挙げておくと、オプションの中にコスチュームチェンジがあり、ナース、セーラー、チャイナまでは分かるが、袴というのは変化球だろう。巫女ではなく袴というのはどういう意図があるか理解しがたいが、それはそれでおもしろい。
 で…店員さんはどうやって確保するのでしょうか。
 慣性の法則で蛇足しますが、こういった店の店員は二種類に分かれます。純粋にコスプレが好きな人とコスプレをやってみたい一般人です。大体この手の店では両方を確保しておかないと、イベントがある時にコスプレイヤーが居なくなり、人手が減ってしまいます。ということで、何処のメイド喫茶でも両方のタイプの店員を雇っているはずですが、このお店はどうやってレイヤーを確保したのか、ちょっと気になるところです。だって…美容師の免許を持っていてコスプレをするなんて言う人は珍しいじゃないですか。801じゃなくてノーマルカップリングの恋愛AVGをプレイする女性並みにレアキャラですよ。

ではでは (01:24)

 ではでは、熱い世界から涼しい世界に行って参ります。簡単な言い方をすれば、帰省します。

おおっと (08:07)

 ちょっと書き忘れました。書き忘れたと行っても、先生が授業終了のチャイムが鳴ったのに『もうちょっとで終わるから』と言って発言を続けるような重要な語句すなわちテストに出るような語句ではありませんのでご注意を

 古いテープから音声データを取り出して、CD-Rへ書き込むと言う作業をすることがあるのですが、先日、“かぐや姫”の音楽を編集していたら、何となく懐かしい気分になりました。
 もちろんこの作業、音質の補正も行うのでただ録音すればいいと言うわけではありません。録音したデータをまずは一括でノイズ除去。その後、一曲一曲定位を調整します。古いステレオテープから取り出した音はだいたいチャンネルの音バランスが狂っているのですが、今回は3db近く違っているところもありました。そういったところを調整したら、音圧をそろえます。今日のJ-Popの基準は平均-10db、私は音圧レンジを広く取りたいので-13dbを目安にそろえるのですが、今回は生演奏という部分もあるので、-15dbをセレクト。-15dbと言ったら、“トランペット吹きの休日”で使ったぐらいでしょうか。
 そういう久しぶりの選択を経て、45分近くのデータの編集が終わりました。後は、腐っても太陽誘電のCD-Rに8倍速で書き込んで、任務完了。親の元に本日届けて参ります。

 かぐや姫…やっぱりいいね…。

2005年8月28日 (日曜日)

たまにはまじめに学生的な活動

ちょっと建築をみに

 秋田の武家屋敷、弘前の神社。それらを見るために少し旅に出ます。昔見たときは全く興味がなかったのですが、今となってはそれが不思議でしょうがありません。せっかく青森に帰ってきたので、卒業論文のための下準備とまでは大きくないですが、それら二つを見学する旅に出てきます。
 それでは、しばし日記の更新は停止致しますので、ご了承ください。
 今回の帰省は背中を伸ばす、と言うよりは、自分自身にプラスになるような行動が多くとれそうです。

追伸。ATOK15搭載…いいね♪

一日目

  1. 移動: 青森→岩手→秋田(角館)
  2. 見学: 武家屋敷
    • 小野田家
    • 河原田家
    • 青柳家
  3. 移動: 角館→鹿角
  4. 宿泊: 大湯温泉

青森→岩手→秋田(角館)

 今回の旅は時間に縛られたくないという面を持っていますので、すべて自動車による移動です。
 そして、早速重大なミスを。武家屋敷があるところは鹿角(秋田県北部)だと思っていたのですが、前日に地図を見てびっくり。角館の間違いでした(秋田県中部)。鹿角ならば車で一時間半程度の道のりですが、角館となるとそうはいきません。一番簡単なのは、いったん盛岡で高速道路をおり、その後西へ移動。田沢湖の南側にあるのですが、その距離、200キロ。朝八時半に出発したのですが、現地に着いたのは昼に近い頃でした。

武家屋敷

 さすがに日曜日ということもあり、武家屋敷は人でにぎわっていました。武家屋敷といっても住宅街の真ん中にあるようなものですから、一般市民も歩いているかのように見受けられました。
 『重要伝統的建築物群保存地区(伝建地区)』に指定されているため、指定された地域に新しく民家を建てる場合は、既存の建物と同じような意匠にしなければいけないのですが、その影響もあり、全体的に統一感があって整った町並みだというのが第一印象です。しかしながら、観光に特化しているため、おみやげ物屋や、観光客が多く存在していたため、重厚感に欠けているのが残念でした。
 しかし、腐っても有名な伝建地区。資料の数も建物の数も豊富にあり、写真も数十枚撮影。授業のスライドで見るのよりも遙かに現実的な素材である、『本物』に叶うものはなく、色々と得るものがありました。古色塗りを施されわざと古めかしくなっているのかもしれませんが、黒色に着色された木造の塀が並んでいる様は、なかなか趣があります。
 三時間ほど滞在して、一日目の見学はここで終了なので、すぐに宿泊先に移動することになりました

湯煙美人、鈴響雪冬殺人事件 ~家政婦は見られた~
鹿角と角館を取り違えた家政婦は、大いなる陰謀に巻き込まれる。次々と起こる殺人事件。はたして、家政婦は一つの答えにたどり着けるのかっ!

【雪冬】 「湯加減はどう?」
【みいな】 「そんなことを雪冬さんに言ったとしても、雪冬さんが調節できるわけではないですから。」
【雪冬】 「気分の問題よ。それにほら、撮影中なんだから、変なところでつっこまない。」
【みいな】 「はーい。」
【雪冬】 「それにしても、まさか武家屋敷が鹿角じゃなくて角館だったなんてね…。」
【みいな】 「いくら似ていると言っても移動時間が全く違いますから、今後は気をつけてくださいね。」
【雪冬】 「まさに、“大事の前の小事”ね。」
【みいな】 「そういえば、帰省するときに“慣用句辞典”無くしてしまいましたね。」
【雪冬】 「JRの失せもの預かり期間は一ヶ月ぐらいあるはずだから、それを信じることにするわ。」
【みいな】 「もしかして、所々抜けてますか?」
【雪冬】 「自慢じゃないけど、生まれたときからネジが十本ぐらい抜けている自信はあるわよ。」
【みいな】 「さいですか。」

2005年8月29日 (月曜日)

懐かしの…

時の流れは人の考え方をも変化させる

  1. 移動: 秋田(鹿角)→青森(弘前)
  2. 見学: 弘前市仲町
  3. 見学: 弘前城
  4. 見学: 禅林街
  5. 見学: 最勝院
  6. 移動: 弘前→黒石
  7. 見学: 中町こみせ通り
  8. 移動: 黒石→黒石(落合温泉)
  9. 宿泊: 落合温泉
仲町

 宿泊先の鹿角から山を越えて一気に北上、学術都市として全国的にも名高い弘前市へ向かいます。弘前市場の近くにある弘前大学は私にとって懐かしいところでもあります。弘前大学付属病院には二回ほど入院したことがあるからです。それに、弘前には医学部を持つ大学があり、それに加え、学術都市と言うこともあり、本屋さんが多く存在しています。その本屋さんを目当てに数年に一度、本を買うためだけに弘前に訪れることがあり、今回は三年ぶりぐらいの来訪でした。
 しかし、数多く弘前市に来たことがある中、当時の私は建築にさほど興味を示していなかったため、弘前城程度は見たことがありますが、伝建地区や禅林街、五重塔がある最勝院も訪れたことがありませんでした。それら弘前に存在する伝統建築の中核を担うものを一度に見られる機会というのはそれほど多くはないと思います。そういうこともあり、非常に楽しみにしていました。

 弘前に着いたのは、鹿角を出発してから一時間半がたった頃、11時でした。まず、弘前城北部にある『ねぷた村』の駐車場に車をいつものように止め、弘前城北部にある伝建地区である仲町へ移動しました。平日、そして、閑静な住宅街の中にある武家建築は、ここの規模という面では角館のそれに負けますが、雰囲気という点では非常に重みがあり、個人的満足において方言を用いて表現するならば、『おごらみがある』といえるでしょう。角館のように観光地として売っているわけではなく、そこに住む市民が自主的に自分たちの歴史を守ろうという姿勢が見え、それが趣のある雰囲気を作り出しているかのように見えました。

禅林街

 弘前城を見学した後、禅林街へ移動します。禅林街は、兵を伏せるための拠点として用いられ、数十もの寺院が道を取り囲むという見方によっては多少なりとも不気味な雰囲気のある通りです。悪いことではないのですが、禅林街に立ち並ぶ寺院はすでに私生活というレベルにとけ込んでいるため、境内にはいると子供が使うのであろうバスケットゴールが設置してあったり、車がおいてあったりと雰囲気にかける部分はあるものの、やはり、歴史を感じる通りではありました。
 しかし、後のためとはいえ、数十枚に及ぶ写真を撮影したため、一枚ほど、霊的存在が写り込んでいると思われる写真を見つけてしまいました。勘違いかもしれませんし、そうではないとも言えません。もしもその写真に意味があり、彼らが私に何らかの動きを見せたのならば、近いうちに神社にでも行くことにしましょう。今回訪れたすべての場所は少なからずとも過去に血が流れた場所でしょうから、どちらにしても神社に行くことに意味がないとは言い切れませんね。

最勝院

 本日訪れた寺院の中では内部をゆっくりと見学することが出来た建物であり、寺院巡りの最後を飾る寺院でもあります。日本の芸術とも言える木塔、五重塔を撮影し終わった後、今回の旅の説明とその際に犯した行為について反省する目的を含め、御参りをし、弘前を後にしました。

こみせ通り

 伝建地区でも『こみせ通り』で登録されているものは黒石市のこみせ通りだけです。期待は失望を(以下略)という言葉がありますが、予想よりも見劣りし、規模も小さくはありましたが、現代に残るこみせの名残は、当時の人たちの技術を感じさせます。雪と日光をさけるために作られた、木造のアーケード。そして、冬の間、風が吹き込むのを防ぐための板(蔀)を射しこむ溝。馬をつなぎ止めておくための金具。それらが、当時の面影を語っていました。武家屋敷、仲町と同じく、墨色に着色されたこみせ街は、やはり厳格な雰囲気を漂わせていました。
 この地区も伝建地区に登録されているため、新しくたてたり建て直したりする住居は、周りの住居に合わせなくてはなりません。そういうことを考えると、十数年後、当時の形が復活する可能性は大いにあると思われ、今後を期待したい場所でもありました。

湯煙美人、鈴響雪冬殺人事件 ~家政婦は見られた~
鹿角と角館を取り違えた家政婦は、大いなる陰謀に巻き込まれる。次々と起こる殺人事件。はたして、家政婦は一つの答えにたどり着けるのかっ!

この記事は編集中です

2005年8月30日 (火曜日)

私は還ってきた

旅の終わり

  1. 移動: 黒石→実家
ソロモンよ、私は(以下略)

 総移動距離500キロにおよぶ建築勉強のための旅もいよいよ終わりを告げようとしています。まさに本来の意味の修学旅行(学を修めるための旅行)とも言える三日間でしたが、撮影した写真は300枚超。選定して残した写真だけでも199枚にも及びます。そのほぼすべてが建築物にまつわる写真ですが、日本再発見という感じがします。
 今年履修したばかりの建築史3の分野は、日本建築でしたが、その影響もあり日本の建築には素人に教えることが出来る程度の知識を有しているはずです。そのような知識を持った状態で、今一度日本の建築を見つめてみると、その建物が建てられた時代背景や精神性まで読みとることが出来ます。まさに、児童文学を大人になってからもう一度読むような体験でした。

2005年8月31日 (水曜日)

タイトル未決定

テスト勉強

 二週間後に控えた微分積分の再テストへ向けて勉強を始めました。最後に勉強したのが一ヶ月前でそれ以降一度もふれていないのですでに半分以上忘れてしますが、これから急ぎ足で脳内の数学能力を再構築していきたいと思います。
 この再テストで60点以上の点数をとることが出来たならば何とかC判定はもらうことが出来、後期の履修に『微分積分概論』をとらなくても良いことになります。すると、色々な面で有利になるのです
 さぁ、今一度がんばろうではないか。

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初出: 2005年8月21日
更新: 2005年8月23日
著作: 鈴響 雪冬
Copyright © 2005 Suzuhibiki Yuki

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