Top > 読み物 > 日記 > 2005年2月 -3冊目-
あの巫女服に萌えますか…。う~…そういわれると確かに萌えるような………。とりあえず、もう少し袴を長く…。
ちょっと要望がありましたので、書いてみました。javascriptを使用していないとき、インフォシークのアクセス解析は想像以上に大きいサイズの広告を出してきますが、その広告をカットする CSS です。
/*アクセス解析(javascriptを実行していないときの広告)*/ script[src*=".infoseek.co.jp/bin/"] + noscript > a[href*=".www.infoseek.co.jp/bin/"], /*script[src*=".infoseek.co.jp/bin/"] noscript a[href*=".www.infoseek.co.jp/bin/"],*/
真ん中の行だけで基本的に排除できるはずですが、私のサイトのように途中に
<p> などを入れていると排除できない場合があります。そのようなサイトがあまりにも多い場合は、一番下の行のコメントアウトを解除してください。………ふつうは配布されているソースを貼り付けたままですから、真ん中だけで対応できるはずです。
インフォシークのアクセス解析はサーバーが複数存在して、スクリプトを呼び出すためのサーバーも沢山あるので、汎用性を持たせる代わりに、小セレクタなどを用いて、間違ってほかの画像などを消したりしないようにしてあります。
ついでに、アップローダー巡礼者最適化広告カット CSS (名前が微妙に変わってる)の最新版。
当初の目的は、アクセスランキングなどの広告を排除していたのですが、アップローダーを巡ると、広告リンクが多くて、その中に隠されているアップローダーへのリンクを探すときとても面倒です。ですから、それも排除するようにしました。結果的に、アダルトサイトの逆アクセスランキングを排除することになったので、アクセスランキングの広告を排除していることになるので、よしとしましょうか。
ちなみに…サイトによってはアップローダー以外のリンクがすべて排除されるものがあったりして、なかなか壮観です(笑)。
私の場合、ふつうにウェブを巡回するときは Mozilla を使い、嫌な予感のするサイトや広告が多いサイトは
Firefox で巡回しています。 Firefox だけに広告カット CSS を導入しているので(倒置法)。
13KB にも及ぶ広告カット CSS の効果は抜群です(ぉ 。
ライブドアと言えば堀江社長ですが、彼の発言の中に『インターネットで何でもできる』という物がありました。一つ考えてみると、確かにインターネットは何でもできるかもしれません。データベースの検索を始め、テレビを見たりラジオを聞いたり、ファイルをとばしあったり…。となると、堀江社長の言うことは比較的間違っていないことになります。
ただ、何でもできる、と言う物はあくまで可能性であって、使う人によってはその利用できる可能性が減る可能性があります。普及率が
100% 近いテレビと違ってインターネットの利用環境の普及率はまだまだというイメージも否めませんし、何しろ、テレビなどと違って複雑です。テレビなんて、指一本で電源を入れて映像や音声を得ることができますが、パソコンでのインターネット環境の場合、パソコンを指一本で操作するのは至難の業ですね。
インターネット上ではただサイトを閲覧することしかできない人や、情報配信に回る人、チャットをする人、テレビを見る人、買い物をする人、クラッキングをする人が存在し、それぞれが得られる情報の差は雲泥です。つまり、情報格差…いわゆる、情報バリアに出会うわけです。
堀江社長の『テレビが国民の財産であるのはインターネットによって崩れた』と言う台詞は、インターネットを誰もが自在に扱える(微妙な表現ですが語彙能力による物です)と言うことが前提になっていますが、そうでない人も数多くいます。インターネットを使って自分の得たい情報を手に入れられている人は、その利用者の半分を超える囲えないぐらいではないのかな、と。人によってはウイルスに感染してしまいますし、場合によってはパソコンがソフト的に駄目になる場合もあります。また、その複雑なインターフェイス構成により、インターネットを利用できない人も数多くいます。
ということは、テレビやラジオ、新聞と言った堀江社長に言わせる旧メディアはまだまだ必要な存在であり、インターネットによってその支配力が崩れたとは到底いえません。
戦争が起こり、軍隊が領土に侵入してきた場合、まず一番始めにねらわれるのはテレビ局です。それはテレビ局がその国の情報配信を担っている中枢であるからです。この考え自体を堀江社長は古いと批判しますが、私はそうでないように感じます。未だにテレビ局は軍隊やゲリラなどの進入をさけるため複雑な建築的構造に成っています。次の次の時代を予測して建築物を建てる建築家がそのようなテレビ局を設計するということは、まだテレビ局は国の情報配信の中枢であることを証明しているように思えます。
また、テレビ局が情報配信の中枢でなくなっているにしても、その国の大事な部分であることには変わりなく、それは『心』なのではないのでしょうか。私たちはテレビというメディアを仲介して、世界の情勢を知り、感動を共有し、多くの議論を発生させます。つまり、テレビは単なる情報配信のメディアではなく、コミュニティーを形成するツールであり、やはりそれは『心』という言葉に置き換えることができるのではないのでしょうか。
国の心は国民にとっての財産であり、よりどころである今現在。堀江社長の台詞は読みの甘さから導き出された台詞であると否めません。
インターネットの情報バリアについてはコラムで触れているので割愛しますが、テレビやラジオ、新聞はやはり一人の人や外資に独占されてしまっていいような軽い物ではありませんし、それをやろうとする堀江社長はやっぱり個人的には嫌いな人物なのかな、と。っていうか、堀江社長ってなんか………生理的に駄目ね。
ライブドアの社長が『僕に愛する妻が居て、世界で一番大切だ』と言っても『命の次に大切なお金』という発言を過去にしているので、説得力がないように、私が『私はオタクではありません』とどれだけ主張しても説得力がありません。
人間というのは、その外見や態度、発言や身分など多くの要素によって判断され、その人が発する言葉の説得力もそれに従って上下します。
お風呂上がりのお話。ポストにチラシが入っていたので取り出してみた。人材派遣会社立ち上げスタッフ募集というタイトルとともに、『会社にはいることが安定だと言いますが、それならばなぜリストラという単語が存在するのでしょうか。決められた枠にはいるのではなく、一緒に枠を作っていきませんか?』と言うような言葉が書いてあり、業務内容やシステムが書かれていました。そして肝心の連絡先…携帯電話と携帯電話当てのメールアドレス。はい、説得力皆無。
ちなみに、このチラシ…もっとおもしろいことがありまして、スパムにマジレスを展開してもいいのですが、本文を打ち込み直すのが面倒なのでカットしておきます。一言だけ言っておけば、前半で『立ち上げスタッフ募集』と書いてあるのにもかかわらず『2~3ヶ月この仕事をやっている人が…』という文章が後半にあります。………立ち上げていないのに…仕事をやっている? ほらね、矛盾点。やっぱり説得力皆無ですね。
日本テレビで『どうして2月に道路工事が集中するの』と言うような質問を取り扱っているのですが…これって有名じゃないんですね…。期間中に国から地方に払われる補助金を使い切らないと、来年から減らされるからに決まっているじゃないですか。いわゆる、数字あわせ♪ うちの部活でも、私が部長の時はやらせて頂きました(散れ)。
もうしばらく言及するのはやめようかなと思っていたのですが、何時やっても変わらないので、今日あたりにでも。
最近日記の量が減ってるけどどうしたのかなぁ…と思っている方、賢明なる読者である証ですね♪ ………ごめんなさい冗談です。減ってません。むしろ増えてます。
実はここ最近、とある方の紹介から紹介制コミュニティー・ミクシィに参加して、そちらの方にも日記を書いたりいろいろなところを回ってみているのですが、当初の予想通り私のタイプに合わないかな、と。
ミクシィは一言で片づけると Blog そのものであり、その Blog を日記として利用する場合がほとんどです。住人はほかの人が運営するすすペースに移動してコメントを書き加えたり、メールアドレスを元に新たな住人を紹介することができます。まぁ、このようにしてミクシィは文字を中心としてコミュニティーを形成する場所であるようですが、私の考えとは馬が合わないようですね。 何回も書いていて、ミニにたこができる田代正もびっくりですが、文字を中心として扱うコンテンツなのに、それが見えてこないわけです。小説サイトなら文字を見せてくれと何度と無く書きましたけど、ミクシィのフォントサイズは一部の人にわかりやすく言えば、 0.8em 程度。もう少しわかりやすくすれば、 <small> でくくったようなサイズ。さらにわかりやすく言えば <font size="3"> 程度と、いわゆる標準より一回り小さいサイズです。文字を大きくするのはブラウザなんかで簡単にできますが、固定幅レイアウトですので、スクロールバーが縦に伸びるのびる…。結局、コミュニケーションの中心となる日記が非常に見づらいのです。それに加え、行間もデフォルトのままですから、私のような人が長文日記を書くのには全くと言っていいほど適していません。
管理側に要望を出してもいいのでしょうけど、私はそこまでミクシィの参加へは積極的ではなくなりました。元から積極的ではないのですが…。
まず私が、積極的なコミュニケーションを望んでいないことにあります。ミクシィの全体の雰囲気を見るに、非常に積極的な…つまり、能動的なコミュニケーションを望んでいるように見え、それが私にはありません。
既にお気づきの方もいるかと思いますが、私は外に出て誰かと会話をするというのはあまり好きではありません。別に引きこもりというわけではないですよ? そのため、誰かに電話をすることも少なければ、自分からメールを送ることもありません。私のサイトの周りの管理人さんは気がついていると思いますが、私が掲示板に書き込むことは…きわめてまれと言ってもいいのではないのでしょうか。相互リンクをくんで、日記レスをしているのにもかかわらず、掲示板に書き込んだことがないサイトも多くあります。私が気づき上げるコミュニティー(以下、交流関係)は比較的受動的です。詩唄い氏を勝手に例に取り上げますが、氏は私の家に3桁以上確実に遊びに来ているのにもかかわらず、私が氏の家に遊びに行ったのはわずか1回だけです。地理的条件もあるかと思いますが、この差は極端ですね。氏、以外の人も同様です。どちらかと言えば私は遊ぶ場所を提供する側であり、友人が遊びに来るという形の方が遙かに多いです。つまり、私の交流の形成の仕方は、受け入れる側にあって、自分から交流に参加するという形ではありません。
私は比較的孤独を好む性格で、そろそろ誰かとだべりたいな、と思った頃に、友達から電話がかかって来たり、遊びに来たり、と言ったパターンが多いです。これは私と友達の間に作られた暗黙のタイミングであり、日本語的に言い表すとあうんの呼吸です。それを無視してくる友人に対して私は容赦なく、予定がないとしても予定を作り上げ、その人と会うことを拒みます。また、そのような人は自然と私の雰囲気に耐えきれず、その距離を置き、やがて私の脳みそから名前すら忘れられてしまいます。
その結果、私に対する初対面の感想の中で最も多い『取っつきにくい』といったものや『話してみると雰囲気が全然違う』と言う回答が得られるようになるのです。
つまり、私は自分から積極的に出て行くことはなく、強いて言うならばあえて他人との距離を置き、その壁を乗り越え、かつ、私の心地いい間合いを保てる人に、非常に親近感を覚え、長いつきあいを形成します。その過程で私とその友達はお互いの距離を探り合い、結果、ごくまれに濃厚でかつ長い時間を遊んで過ごしたりします。
普段は人との距離を置き、2・3ヶ月ぶりぐらいに友達と話してみたり、そんな期間の空いた交流の仕方が私は好きです。
裏を返せば、積極的にメールを送ってきたり電話をしてきたりする友達は私にとって、自分の作った空間に足を踏み入れる侵入者であり、生活を脅かす敵でしかありません。まぁ、そのような友達は自然と私の雰囲気に押しつぶされて消えていきますが…。それ以前に友達ではないですね(苦笑)
もちろん、このような意見は現実世界での話であり、インターネットのような物理的に距離が離れていて、かつ赤の他人の場合、この限りではありません。
さて、前述したとおり、ミクシィは閉ざされたネットワークでありますが、交流の中心は能動的な会話です。相手の日記にコメントをお送り、それに対して返事を加えていく。ミクシィに参加している人はすべて自分のコンテンツを持っているため、相手の所在地がわかります。つまり、掲示板に書き込む初登場の人とは違い、調べようと思えば相手がわかってしまい、そして、日本人的な
DNA が、相手のスペースに返礼をせよと訴えかけてきます。
これは能動的なコミュニティーを私に望んでいることに他なりません。
私にとってこれはちょっと取っつきにくい部分です。それが私がミクシィを倦厭する結果となり、ミクシィに対して居心地の悪さを感じる結果となりました。
ということで、紹介してくれた方には申し訳ないですけど、ミクシィの方は近いうちにおさらばして、 HTML の世界に戻ってきます。 Blog 等は、その手軽さからか、いわゆる厨房のたまり場となり、使える人は高度に改造すると言った二極化が目立つようになってしまいます。
やっぱり、私は、沈黙のオーディエンスに向かってただひたすら HTML に文字の羅列を書き続け、たまにもらう感想に一喜一憂して、気が向いたらほかのサイトの掲示板に書き込むと言った、一方方向性毒電場送信装置的なウェブサイトライフを送っている方が好きなようですね。
あぁ~、結局メディアに踊らされていたのは私自身なのかなぁ、と。堀江社長の支持派に回りそうな勢いですね(笑)。全面的に賛成というわけでもないですけど、堀江さんのやり方は多少なりとも強引ですけど、いい雰囲気です。彼もあれですね、小泉首相と同じで、自分の言いたいこととメディアの報道が大きく異なるかわいそうな存在。
同情するわけではないですけど、『今日のニュース』で堀江社長に日本テレビが出した10の質問に対して、堀江社長は『くだらない』と答えましたが、私も笑ってしまいました。本当にくだらない質問ばかりを日本テレビはしますね。その質問のほとんどに対してノーコメントと答えた堀江社長は、誘導尋問に引っかかるような、低レベルな人ではないですね。
どうしてか、今日の夕方あたりから頭が痛いです…。早く寝ようかしら………。選択の余地なしですね。今日は早く寝ます。
例の携帯電話のアンケート…。ネット上の小説周辺の情報…いわゆる、オンラインノベル周辺情報を取り扱う複数のサイトに、このサイトでやっているアンケートを掲載してほしいとメールで打診をしたのですが…しばらく待っても返事なし…。
…ふっ…。親知らずが痛むぜ。
…2ちゃんねるにさらしてくるぞ(コラ)。
いよいよ後半戦、ですね。いい具合にシリアス方向に走り出しています。個人的には AIR 大好き人間ですから、毎回食い入るように見つめています。しかし…やばいぞ…美鈴たんの株価が鈴響証券取引上内部でぐんぐん上昇中。
書き込みフォームとかはいらないから、作ったソースをそのまま貼り付けられる Blog の CGI たほしい(無理を言わないでください)。
掲示板に投稿しても良さそうなのですが、内容が内容ですし、長くなるので、日記レスをしつつ、持論を展開。
確かに、人間は物質の固まりですから、それらを原子や陽子、電子と言ったレベルまで分解して、転送してしまえば、テレポーテーションは可能なように思えますし、理論上は可能なようにも思えます。しかし、それは、哲学で言う『唯物論』が正しいとしたときの答えにすぎないです。
唯物論(世の中のすべては原子から構成されている)が成り立つならば、人間のタンパク質などのデータを原子レベルまで分解して、それを光ファイバーなどで転送し、それを現地で再構築したり、ハードディスクに記録することができるならば、今の技術力できなくても、近い将来可能になるかもしれません。しかし、この意見に物心二元論を盾にして私はあえて反対してみようと思います。
唯物論は一般的に決定論と強く結びついています。決定論は単純に書いてしまえば、以下のような手順です。
もし、人間がすべてタンパク質などの原子などで構成されているのであれば、唯物論が成立し、同時に決定論が成り立つことになります。決定論が成立した場合、犯罪ははじめから起こることがわかっていることになりますし、イチローが新記録を打ち立てることも決定していたことにすぎず、決定していたのならば我々がそれに対して感動を含めた感情を抱く必要はなくなり、最終的に、我々人間の持っている善悪の区別が無くなってしまいます。それに、地球が生まれたのも太陽系が生まれたのもあくまで自然法則に基づき生まれたことになるため、そこに宇宙の神秘など存在せず、はじめから決定していたことになります。
たしか『哲学の謎』という文献だと思いますが、『アインシュタインの脳(マインス・アイより)』の日本語訳(と言うよりも、説明)が記述されています。
人間の脳の中には1000億のニューロンが存在し、そのニューロンに関する情報(AニューロンがBニューロンにつながっている等と言った接続情報、ニューロンがどの程度の電流に反応するかと言った閾値、ニューロンの接続回路の抵抗値、電流を受けて変化する閾値や抵抗値などを記録した構造変化数)をすべて記録できたとするならば、それは一人の人物の脳を再現したことになります。つまり、このシステムに、音声入出力装置を付け加えると、質問をしたら、答えが返ってくるわけです。脳がすべて最終的に電子の振る舞いで決まるとしたら、このようなシステムは理論上可能になります。アインシュタインは自分が死ぬときに後世のために自分の脳を寄付していますから、彼の脳みそのニューロンに記録されている4つの情報をすべて本に記録したら、一つの信号(音声でも光でも)が入ってきたとき、ページを言ったりきたりすることによって、彼がどういった反応をすることができるだろうということを、現世で知ることができます。
唯物論は、決定論と表裏一体であり、我々の思考も与えられた刺激に対して脳の中で電子が行ったり来たりするだけであり、我々が思考しているのではなく、物理的な法則に基づいて動いているにすぎなくなります。
つまり、前述した方法でテレポーテーションが可能ならば、その条件は、我々がすべて原子の固まりであることが前提であり、我々がすべて原子で構成されているのであれば、原子の動きは物理法則で決まっているため、我々の行動はすべて法則で決まっている事になり、我々が普段持つ感情もすべて宇宙が生まれた瞬間…物質がこの世に存在した瞬間に決まっていたことになり、我々は自由ではなくなる…すなわち、自由に動いているように感じるだけで、自由ではない、と言うことになります。このことから、テレポーテーションが可能という条件を満たすためには、唯物論と決定論を養護する立場に居なければなりません。
量子力学の知識を持っている方ならば、物理法則で動いているわけではないと反論することもできるかもしれませんが、一つ考えてみましょう。古典力学では物質の動きは決定されていました。しかし、古典力学を用いると、原子核を回る電子の動きをとらえることができません。そこで、量子力学が発生しました。量子力学の世界では電子の動きは確率で求めることしかできず、古典力学のように決定的ではありません。量子力学は確率なのです。
確率的ならば、我々の思考も決定しているわけではなく、確率で決定していることになります。一見自由に行動しているかのように見えるこの現象も、古典力学でいう『決まっている(必然)』の域を抜け出して『決まっていない(偶然)』に到達したにすぎず、偶然の産物ならば、そこに我々の思考は介入していないことになります。イチローが記録を出したことに我々が喜ぶかどうかは確率で決まっていることであり、果たしてそれは我々が自由に感動していることになるのでしょうか。答えは否です。
量子力学の現代になっても、唯物論を唱えた瞬間に決定論が成り立ってしまいます。
唯物論と決定論を養護した上でテレポーテーションが成り立つ事を主張することはできますが、決定論を主張した時点で我々が『自由ではない』という事が成り立ちます。我々が自由ではないと言うことが成り立つ場合、我々が普段の生活で行っている自由な選択は自由ではなくなり、我々が作り出した法律もはじめから決まっていたことになります。つまり、我々人間が生活を送る上で暗黙のうちに了解している『我々は自由の上で生活をしている』という地盤を覆すことになります。
人間が人間を見る見方は『我々が自由である』という前提に置いてここの自由であり、人間が物質で成り立っているという見方は『人間は自由ではない』という事になり、これら二つの事象がぶつかり合うことは矛盾です。
これを解決するためには、我々の住む世界には科学だけでは証明できない世界、すなわち、超科学の世界があることを私たちは認めなくてなりません。超科学を認めることにより、我々の世界は科学の法則だけで動いている訳ではない、と言うことが成り立ち、我々は科学の法則を多少無視しながら自分で自由に選択をすることができるようになります。
超科学が存在すると言うことは、科学で説明できない物が生まれることになり、それは、物質以外にも『心』といったものが存在することになります。我々が生活を送るために暗黙のうちに了解している自由を成り立たせるためには、超科学の存在を否定することはできません。
さて、テレポーテーションの話に戻りましょう。提示したテレポーテーションの方法は、人間を原子レベルまで解体し、ネットワークを返してほかの場所に転送し、現地で再構築すれば人間のテレポーテーションが成立するというものでした。これは人間が『原子の固まり』であることを前提としています。しかし私が展開した理論に基づくと、人間は原子の固まりではなく、原子の固まりに加え、超科学的な物を持っていなければなりません。これがなければ人間は自由ではなくなります。
つまり、人間を原子レベルまで解析し、その情報を転送することができたとしても、肝心の『心』を転送することはできず、転送してできあがった人間は単なる機械です。果たして人間は機械でしょうか? それは前述した長い文章によって否定してきました。人間は単なる原子の固まりではなく、超科学てきな物を持っている存在であると。つまり、これが人間の定義であり、その定義に基づくと転送された人間は人間の形をした原子の固まりです。
ということは、原子を転送しただけではテレポーテーションは成立しないことになります。テレポーテーションを成立させるためには、原子の情報と一緒に心も転送しなければなりません。
これが、私が『原子を転送する方法でテレポーテーションができるか』という問いに対して導き出した答えであります。これは物心二元論の立場に立った上で、なおかつ私が考えて導き出した結果でありますから、多少なりともあなたが提示した方法とは違います。私が求めた答えはあくまで『原子情報だけを転送する方法ではテレポーテーションは成立しない』というものであることを、お気をつけください。
ちなみに、考え方としては非常に好きですし、一つ大事なこと(みいなの設定の矛盾点)にも気がついたので、ちょっとうれしかったり(笑)。
私が抱く世界像について。私が抱く世界像はこのようなものです。まず、唯物論は成り立ちません。私は自由に行動していますし、私は自由に考えています。ですから、私は決定論を信じることはなく、物心二元論の立場に立つことになります。(物心二元論とは、この世界は物理要素と心の要素でできているもであり、科学だけでは説明できない、という哲学的立場です。)一つの原子にはごく微量の心が宿っているのではないのでしょうか。それがある一定の量、ある一定の形を持つことにより、ごく微量の心が一つの思考を持つことができるようになり、それが多く集まると、より複雑な思考ができるようになり、やがては、人間が持つ思考力につながっている、というものが、私の持つ世界観です。これは日本人が元来持ってきた神道であり、すべての物には神が宿るという考え方に非常に酷似しています。
つまり、私の考えは、すべての物質には心(魂としてもいいでしょう)が宿り、それがある一定の形や数になったとき、思考回路として成り立ち、最終的に人間的な思考を持つようになる、と言うものです。
To Heart 2 …東鳩2と書いた方がいいのでしょうか? ともかく、発売されて以来、至る所で壁紙が作られ、アップされていますが…みんな…忘れちゃいけない。アスペクト比…修正してから作ろうね♪
と言うことで、先ほどミクシィを抜け出してきました。ミクシィのために独自に改変したコラム『ねぇ、パパ。どうして制服を着ないといけないの?』をサイトのコラムへ移動しました。
うむ、 HTML マンセー(ぉ 。
プラスティック爆弾が難しい…。やっぱりこれは…いつもののりで行くしかないのでしょうか…。
母さん…。どうやら私の辞書に…社会復帰という言葉は存在しないようです。
添い寝………(;´Д`)ハァハァ…。
関係ないですが、最近透過処理がマイブーム。
思いつきと勢いだけで作った。完成すればどうでもよかった。今はすがすがしい気持ちで胸が満たされている。
現代的ですね(笑)。ちなみに、本体以外はロゴマークも含めてすべて自作です。イオカード
Suica をお持ちの方は、自分のと見比べてみてください。
…夢中になれる物があるって…いいことなんだね♪ かといって、3時間近く時間をかけて作り上げた物が定期券…というのはどうなんでしょうか、と、小一時間鳴風みなも風に問いつめたい。
完成時で使用しているレイヤー枚数は、29枚。テキストレイヤーはほとんど乗算で重ねることにより、本物の
Suica のように、背景が銀色のところは青っぽく、緑色のところは黒っぽく成るようにしています。はじめは塗りのパーセンテージをいじっていたのですが、薄くしか成らず、レイヤーモードを乗算にしただけでうまくいったので、乗算の方を使用しました。
基本的に、定期券の写真を背景にして文字の位置を決め、文字とロゴマークの位置と色が決まったら、修復ツールで定期券本体のロゴマークを消して、本体だけにします。この時点で、緑色と銀色しか残らず、本体にあった文字やマークは全部消え、自分で作った文字やロゴが残る形になります。あとは微調整をして完成。作業時間2時間40分程度、使用レイヤー数29枚、使用したレイヤー効果はロゴマークを作るのに使った『グラデーションオーバーレイ』と『境界線』だけで、後はマスクなどを使っているだけです。ペンギンマークのところに名無しの少女でも入れようかなと思いましたが、さすがに嫌な予感がしたのでやめておきました…。
それほど高度な技術は使いませんが、文字の調整などは時間がかかります。使用している文字は、日本語部分は
“OSAKA-UI” 英語部分は “Tahoma” です。持っているフォントの中で一番そっくりだったので使用しました。
定期の有効期限が2月14日なのは明らかに何かをねらっています(笑)。
結構真面目に作っているところが重要です(ぉ 。
普通、2ちゃんねるのログは HTML として保存する人がほとんどかと思いますが、私は逆で、
dat ファイルのまま保存してしまいます。そっちの方がいつも使っている2ちゃんねるブラウザで閲覧できますし、管理が楽ですからね。既に取得できなくなった…平たく言えば
dat 落ちしてしまったログを間違って削除してしまうときがあるのですが、そういうときも、2ちゃんねるのログを
HTML で保管しているところから dat 形式で取得して、2ちゃんねるブラウザのログファイル置き場に放り込んでしまいます。
今日も、 dat ファイルに変換して間違って削除したファイルを復旧していました。夢の音楽館の掲示板のログも一部ながら保存しておいたおかげで、同サイトが復活したときにログを提供することができたのですが、ファイルを一度保存するとなかなか捨てられない人なので、ハードディスクの残量がどんどん減っていきます。
ファイルの管理もきちんとしないと…駄目ですね。でも… dat ファイルだけで、120MB
ほど消費しているのですが…ちょっときついかな…。大容量 HDD はすばらしいですね。
最近、関東地方で地震が多いですね。本格的な関東大震災が起こる前に、埼玉県から東京の境目にかけて比較的強い地震が起こるという予想がありますが、果たしてどうなることか…。神戸の地震の時、一ヶ月の期間にわたって、東北・関東・神戸と地震の震源が下っていきましたが、このような傾向がある場合、茨城県南部で起こっている今の地震もそのうち下に下がっていって…という可能性も否めませんね。
あくまでも、勝手な予想ですが。
とりあえず、新耐震設計法が成立する(昭和56年)以前に建てられた建築物にお住まいの方。その建築物は強い地震に耐えられない可能性が強くなります。早めに耐震診断を行うか、家具の固定をすることをおすすめいたします。少なくとも、自分たちが避難するまでは家具で押しつぶされたりすることがないようにしておいてください。
今日の建築物の方針は、数年に一度の割合で起こる中規模の地震には十分耐え、数十年・数百年に一度の割合で起こる大地震には人間が避難するまでの間に壊れないようにする、という物になっています。積水ハウスなどが全力を挙げて取り組んでいる、免震構造などでない限り、壊れる可能性が残っていますので、新しい住居といっても油断しないようにしてください。免震構造でも十分壊れる可能性がありますが、一般的な住宅よりは安全でしょう。
ただ、一番重要なのは、建築物の構造計算(安全かどうか確かめるための計算)は水平の力に対して求めているため、直下型地震のような上下に激しく揺さぶられる地震(阪神大震災など)には大して力を発揮しません。
つまり、避難の準備は整えて起きなさい、と言うことです。
勝手な思いこみですけど、地震の力の流れを傍観すると、茨城南部で地震が起こったとしても、東京を綺麗に飛び越えて、飛び地のように神奈川県東部でも揺れが強くなる傾向があるようですね。
地震が起こるなどとマスコミが取り上げますけど、今住んでいる家は大丈夫なのか、と言う情報は自分で手に入れるしかありません。一つの目安としては昭和56年です。その前後では建物の強度は大きく異なります。
気がつきました。脳は1000億のニューロンで構成されていますが、ニューロンは一つの神経細胞にしかすぎません。すなわち、脳を構成する原子の数はさらに増えることになりますね。
原子は原子核といくつかの電子によって構成されています。原子核の周りを浮遊する電子は、古典力学では一定のコースを回っていると思われていましたが、量子力学では電子がある場所に存在する確率が高い、という程度でしか求められません。不確定性、でしたっけ? アクロス・ザ・タイムでもちょっと触れましたね。
さて、ほかのニュース番組で取り扱ってしまう前に、このサイトで取り扱ってしまいましょう(笑)。ここが建築家の腕の見せ所(ぉ 。ほかのニュース番組が取材をしていろいろとインタビューをするという手間がありませんしね(笑)。
自分でできる耐震診断はいろいろなところでダウンロートできます。代表的なのは、東京都、日本建築学会、静岡市です。さすがに地震に対しては敏感ですね。今回紹介したのは静岡市の自己耐震診断です。なぜって? それは、ダウンロードページがすぐ見つかったからです(笑)。
さて、上で紹介したどちらかの方法を用いて自分の家を耐震診断してください。チェックが済んだら出てきたメッセージを元に、改修に乗り出すのもありですね。
ここから先で紹介するのは、自分でできる避難導線の確保です。つまり、揺れてから揺れがある程度収まるまでかぐが倒れることなく、余裕を持って避難できることを目的としています。
手っ取り早く以下の点をチェックしましょう。
上から三つぐらいまでは理由がわかりますね。観音開きの扉は地震の揺れで開いてしまい、家具が倒れなくても中身が落ちてきます。ガラス張りはガラスを割って中の物が飛び出てきますね。上の方に大きな本が多いのは重心が上にあるので、倒れやすくなります。これらに行うべき対策は、
このぐらいは半日もあればできてしまう対策です。やり終わった後は、家具が倒れてこないように突っ張り棒でも取り付けておきましょう。壁に固定してしまうのもありですが、壁内部の木の部分にきちんとねじが届くようにしてくださいね。だいたいの場合、ちょうどいい高さに木が無いですけど…。
和室に沢山の物を置いているという場合は危険かもしれません。和室は本来、荷物を少なくする事が目的のため、和室と洋室を比べると、和室の方が床を支える木材の数が少なくなっています。つまり、それだけ重さに耐えられないと言うことです。地震の揺れによっては床が抜けてしまう可能性がありますので、和室にたくさんの物を置いている場合は要注意です。だいたい賃貸住宅は和室が物置にされてしまいますから、チェックですね。マンションの場合はコンクリートですから安心できますが…。和室は和室であって物置ではありませんよ。
とりあえず、一日程度でできる対策でした。気になる人は専門家を呼んでアドバイスを受けてくださいね。
まさかここまで100のお題の話題を日記に書くことになるとは、企画を始めたときにはつゆほどもお思っていませんでしたね(笑)。期間が長引いていると言うのが一番重要な要素でしょうけど。
ただいま、83題まで完了。残り17で、宣言した2月末まで残り4日程度。さてさて…有言実行となるのでしょうか。
ちらっ、と、85題目以降の単語を見ていたのですが…なんですか、これ。前半とは比べものにならないほどの単語たちが並んでいます。一部の人にわかりやすく言えば、30万の軍勢で100万の軍勢を打ち負かせといっているような感じですね。天変? 風変? 連環の計? 火計? 諸葛亮? ふっ…まぁ、いいとしよう(毒を受けて混乱中)。(ちなみに、史実では8万と20万程度だったはずです。)
土壇場でとあるサイトに協力して頂けることになり、アンケートの募集期間を延長します。今回を期にアンケートの内容を微妙に変更しましたが、前回答えて頂いた方は改めて回答する必要はありません。質問項目が微妙に細かくなった程度ですので、統計には影響がないと判断したからです。
…これで女性からの回答も増えてくれるはず………。
日本と言えば右利き文化ですが、本来ならば五分五分なんですよね、確率は。最近では矯正することもなく、自由奔放に生きているようです。
アンケートの結果でおもしろいのが、矯正して右利きになおした人達の回答結果です。たいていの細かい作業ならどちらでもできてしまうと言うのが彼ら(彼女ら)の見解のようですね。右手左手両方使ってしまうと言う回答結果が多いです。
そんな私の親も矯正して右手に移動した立場でして、完全な両利きです。ご飯を食べているとき右手にフォークを持っていて気がついたら左手にスプーンを持っていたなんていう事もありますし、毎回フォークとナイフの持ち方が変わります。そんなこんなで、親自身、フォークとナイフの持ち方を正確に覚えていません。どっちでもいいですからね(笑)。そういう環境を見て育った私は、右利きながらも右手にフォーク、左手にナイフです(ぇ
。
両利きが周りの人にも影響を与えるいい例ですね。きわめてまれでしょうけど。
ふぅ…マナーなんて周りの人に不快感を与えない物。形はどうでも不快感さえ与えなければそれでオッケー。
…う、こうやって日記を書いている間にもアンケートの回答が…。答えたアンケートは常時開封して中身を確かめています。それにこうすることで最終的な答えが出てしまう前にだいたいの傾向がわかりますからね。あれです、選挙の出口調査(ぉ 。
サークルの作品紹介のページ、リニューアル完了。前々から気になっていたのにもかかわらず半分放置されていたコンテンツなので、結構時間がかかりましたが、リニューアル完了しました。今回のリニューアルでようやく表紙の見本をすべての作品に導入できました。よかった…。
ついでにファイル名も統一。うん、すっきり(ぉ 。
ふと思い立ってフラッシュムービーを整理しました。見たいときに必要なファイルを参照できないのはちょっとつらいので…。とりあえずダウンロードしたままのファイル名を付け替えつつ全部見直しながら分類していたのですが、いい分類が思い浮かばず『2ちゃんねる』というフォルダを作った瞬間に、半分以上のフラッシュがそこに行くことに…。満足すると同時にちょっと複雑な心境になりました。
それにしても…2ちゃんねる産のフラッシュってどうしてあんなにレベルが高いのが多いのですか?
先日友人の家に遊びに行ったとき、その友人はパソコンのファイルの整理をしていました。MP3を聞きながらフォルダに分類していくという作業なのですが、彼の整理する内容がアニソンフォルダにさしかかったとき、私の耳が確実に曲をとらえていきます。
気がつけば、曲が1秒流れる前に曲名がわかってしまうと言うことは…それだけ私の依存度が高いのでしょうか…。今の私の能力では『DANZEN!
ふたりはプリキュア』と『げっちゅきっちゅSummer』を数瞬で聞き分ける自信があります(何の役に立つかは不明)。
日本放送株問題…そんなに株で支配されるのが嫌だったら株式会社にしなければいいのに…、と思った人は私だけですか? インターネット上でウェブサイトを公開しているのに、リンクしないでくださいと言っているような物ですね(比べるのもあれですが)。
そういうリスクがあることをわかって株式会社にしているのですから、今更ぐたぐた言わないこと。それと、今回の追加株発行ですけど、やっぱり企業は企業で、消費者を無視しているのかなぁ、と。株を追加で発行すれば株一つあたりの価値が落ちます。一般投資者に戻ってくるお金(単語忘却)も減るわけですね。会社を守るために個人を切る。その結果、会社が死ぬ。微妙なバランスです、株も。
普段辞書として使う物と言えば、 google ですが、必要な情報がないときに紐解くのはパソコンソフトとしてインストールしてる
Bookshelf ver2 です。今回も “文字書きさんに100のお題” を書くために使用したのですが、ふと気になって、新しいバージョンがないか調べてみました。
Ver3 が発売されていることがわかったのですが、調べてみると検索可能な辞書数が
Ver2 の7冊から、3冊へと大幅に減っていることがわかりました。このことについて
FAQ で答えているのですが、小さなサイズでハードディスクにインストールしたいという要望が多かったため、という趣旨の文章がありました。ちょっと遅れているかな、と。今のご時世、ハードディスクの容量をそこまで細かく気にする人はいるのでしょうか…。もちろん、何世代前かのパソコンを利用している人は敏感かもしれませんが、だいたいにして、
Ver2 って…辞書のファイルをパソコンのハードディスクにコピーして使うタイプのソフトではなかったですよね? 個人的には同時に複数の辞書を早く検索できるのが電子辞書の一番の機能なのに、それを削ってしまったとなると、魅力も半減です…。前のバージョンが発売されたのが3年前、その当時のハードディスク容量と今のディスク容量…どれだけ違いがあるのでしょうか…。
辞書を選択してインストールできるようにすれば双方のユザーを満足させられたはずなのに、ちょっと残念ですね。次は違うメーカーの辞書にしようかな。
ちなみに、いちいちディスクを入れるのが面倒なので、ハードディスク上にイメージを保存してしまって、必要なときだけ仮想ドライブに突っ込んで使っています。
ポットが命を救った、大予想。給湯したことが通信で誰かにわかる装置がついていて、給湯しないと、使っていないとなり、使えない状態になった可能性があり、事故の影響があると推測される。
こんな装置…ありましたよね? 毎日お茶を飲む人にとっては便利な装置。
さぁ、当たるか。
そういえば、つららで人をさしてポットの中で溶かしてしまうというトリック…どこかの推理小説で読んだような気がします。
これで見るのは二回目ですが、ふと気がついたことがあります。スカイネットって…
Winny のネットワーク構造によく似ているようなきがします。インターネットも含めて、我々が利用しているコンピューターはすべてつながり、中央など存在せず、実態のないまま動き続けています。世界のインターネットの中心が十数台のルートコンピューターで動いているとはいえ、インターネットを形成するのはただのケーブルでつながったパソコンであり、中枢装置ではありません。狭い範囲のネットワーク…いわゆる
LAN は、スター型ネットワークを形成することにより、中央を作ることができますが、インターネットはそうではありません。スカイネットも同じなのかな、と。
Winny のネットワークは A というパソコンが B に近づいたり、 C に近づいたりすることによってグループを形成し、その中で通信を行います。この通信にはつなぎ手は存在しますが、中央という物は全く存在しません。詳しい方ならご存じかと思います。
知識がどれだけあろうとも、インターネットの世界は不思議だらけで、誰にも実態をつかむことはできません。それがインターネットの本当の怖さなのかな、と。もしルートサーバーがすべて死滅したのならば、プロバイダーのキャッシュに残っている
DNS によってしばらく通信を維持することができるでしょうけど、次第にゆっくりとネットワークは消えていくことになります。これがまさにインターネットの終演であり、スカイネットの終わりかたなのでしょうか。
次のルートサーバーは中国に作られるようですが、日本と中国といった非常に近い範囲にルートサーバーを複数設置するのは怖いようなきがしますね(アメリカに沢山あるよというツッコミは無し)。
ところで、ターミネーターという名前ですけど、 SCSI 機器をつなげたとき、最後の機器につける器具であることは知っている方は知っているかと思いますが、映画のタイトルのターミネーターにもそういう意味が含まれているのかもしれませんね。
第三次世界大戦はインターネット上で行われるという予想がありますが、ターミネーターを見る限り、あながち間違っていないような気もしてきます。
と、昔、授業中に『第二次世界大戦』を『第二回世界大戦』とどこかの安っぽいゲームのタイトル風に書いてしまった鈴響雪冬の戯れ言でした。
一文字違っただけで雰囲気が違ってしまうというのは日本語のおもしろいところで、英語だとスペルミスだと突っ込まれて終わりかもしれませんが、日本語の場合、時によっては文章の意味がまるまる変わってしまいますね。
ひらがなとカタカナもおもしろい例がありまして、『パニックルーム』という映画がありますが『ぱにっくるぅむ』としただけで、ギャルゲーっぽくなってしまうのは私の脳内が犯されているからですか? 3LDK
の続編(笑)? 狭い、狭い、狭すぎるっ!
BGM: 恋のぱにっく☆るーむ
出展: 3LDK ORIGINAL SOUNDTRACKS
歌: YUKKA
久しぶりにおもしろい特許を見ました。想像してください。ナプキンにタンポンがくっついています。タンポンの構造についてご存じの方はいろいろな意味で多いかと思いますが、基本的に神経の少ない、すなわち、内部に異物があっても違和感を覚えない膣の奥の方に挿入することで、痛みを感じることなく使用することができるのです。しかし、この特許製品…ナプキンにタンポンがくっついていますから、膣のもっとも神経の多い場所にタンポン本体が来るようになります。使えるかっての。
ちなみに開発者…ブラウンという名前だそうで…たしかブラウンって…男性の名前でしたよね? だれだ、特許を許可したのは?
私の一方的見解もあれですから、使用感を試してくれる人を―――みいなの検閲によりサーバーアップ途中に削除されました。
…で、使う人は自分で両方用意してしまうと。メーカーによる違いもありますしね。
個人的妄想で片を付けますと、尿道と膣は別々にありますから、タンポンを挿入した状態で排泄行為を行うことが可能です。このように二つをくっつけてしまった場合、トイレに行くたびにタンポンを入れたり出したりすることになるので、ちょっとどうなのかな、と。それとも、交換の頻度から考えればトイレに行くたびに交換するとなると、それほどまでに問題にならないのか…。どちらにしても、謎が多い特許です。売れるのでしょうか…。
ちなみに女性器の入り口には痛覚の神経があるそうで、こんなところにタンポンを入れたら…痛くて歩けないと思うのですが…どうなのでしょう。
皇太子様の発言で一つの詞に出会いましたので紹介します。
批判ばかりされた 子どもは 非難することを おぼえる
殴られて大きくなった 子どもは 力にたよることを おぼえる
笑いものにされた 子どもは ものを言わずにいることを おぼえる
皮肉にさらされた 子どもは 鈍い心の もちぬしとなる
しかし、
激励をうけた 子どもは 自信を おぼえる
寛容にであった 子どもは 忍耐を おぼえる
賞賛を受けた 子どもは 評価することを おぼえる
フェアプレーを経験した 子どもは 公正を おぼえる
友情を知る 子どもは 親切を おぼえる
安心を経験した 子どもは 信頼を おぼえる
可愛がられ抱きしめられた 子どもは 世の中の愛情を 感じとることをおぼえる子ども (ドロシー・ロー・ホルト)
なんだかんだ言って、すべてがここに集約するような気がします。特に一番最後、親の育児放棄が目立つ中、育児放棄する親は自分が育児放棄されて育った経験がある可能性が極めて高いそうです。結局、親の影響は大きい物ですね。
前も書いたような気がしますが、自分から進んで勉強する子供の親は子供の前で新聞を読んでいる割合が高いそうで、やっぱり、子供は親の背中を見ているのかな、と。子供は親の鏡、とも言ったりしますが、子供の育ち方は親に頼る部分が多いのでは、と。反面教師と成りうる場合もありますけど、その割合がどれだけ多いのか見てみたい物です。
スエーデンの教科書に載っていますが、こういう詞を乗せられるのはすごいなぁ、と。日本の教科書もカラーページを増やすことよりも中身を濃くしてほしいですね。で、中身を濃くするとゆとり教育の影響ですべてを終わらせることができなくて…ほら、ゆとり教育のしわ寄せが(笑)。
あいた土曜はやっぱり地域学習の導入を………。コラムにまとめましょうか…。
ただ、やっぱり、教師が強くなる必要はありますよね。些細なことでも体罰になってしまうこのご時世、先生を裁くのは体罰全盛期に育った人のはずです。ちょっと不思議ですよね。先生は上に立つ人であって、先を生きる人、つまり、師匠でなくてはなりません。生徒は先生にあこがれを抱く必要があり、また、全幅の信頼を置いて先生の命令にある程度従わなければ成りません。先日どこかの馬鹿な男が、駐車料金の100円を巡って大騒ぎしましたけど、我々の心はその程度のゆとりもなくなってしまったのかな、と、深く考えてしまったものです。
関連する話題で。
昔は多くの人が一つの夢に向かって歩んでいました。量子力学ではありませんが、多くの要素が同じ方向を向いたとき、Σベクトルはより強くなります。これが昔の日本ではないのでしょうか。景気復興を含め、一つの方向に向かって歩んでいた日本はやっぱり強かったのではないかなと思います。今の世の中になり、一人一人の夢はバラバラになりました。しかし、それは悪いことでしょうか。我々は個々の人間であり、それぞれの夢があります。そして、人類が共通で目指すべき目標を知っています。その目標の上で一つの夢を持つことができるのならば、人類全体は同じ方向に動いていると言ってもいいのではないのでしょうか。
ただ、個々の人が個々の夢を追いかけるとき、その夢を追いかける力は昔に比べて落ちてしまったのではないのでしょうか。なぜこうまでして職人が減ったのではないのでしょうか。吸収合併による大企業化における個々の意見の軽蔑視、技術者の減少による技術力の低下…。大きくなるときには何かを失う必要があると言いますが、失った物の中にもしかしたら大切な物があったのかもしれません。
やはり今の日本人に必要なのは、一つの夢を追いかけ続ける力であり、その力を支える愛であったり友情であったり信頼であったり………。我々は人間としてもっとも大切な物を進化の過程で失ってきたのかもしれませんね。
新しい気象衛星が打ち上げられようとしていますけど、名前がアルファベッド………。日本の人工衛星って比較的日本語の名前が多かったような気がしますけど、どうなんでしょ。ひまわり2号とかでもいいと思うんですけどね。
ここでは単位を使いますが、単位次元と置き換えた方がより正確かもしれません。ただし、そのような知識は一般ではないと判断し、単位を用います。
もし貴方に恋人ができたとしましょう。そして、オタクならば必ずぶつかる壁があります。それは、『アニメのキャラと私、どっちが大事なの?』という恋人の質問です。いわゆる『仕事と私、どっちが大事なの』という質問のオタクバージョンでしょうか(笑)。この質問をされた貴方は非常に困るに違いありません。しかし、困るのが普通なのです。簡単に答えてしまえた方がおかしいのです。そう、この質問、答えることができないのです。答えることができない質問は質問として成り立ちませんから、この質問を出した人の資質が問われることになります。
ではここから先は『アニメのキャラと私、どっちが大事なの?』と言う質問はなぜ答えられないかについて考察をしてみるとしましょう。
小学校低学年の頃の算数を思い出してください。 “3+5” “10-5” “5*9”
“8/2” などなど、数字から数字を和差積商をすることで求めました。我々の国語力的に言い換えれば、四則演算ですね。この小学校低学年の四則演算で、重要なことが一つあります。この数字、単位が存在しない数字です。つまり、小学校低学年の数学とは単位を考えることなく、ただ数字としてしか意味がない数字を足したり引いたりすることで答えを求めてきました。そして、年代があがるごとに、単位がキロメートルになったり、時間になったりしていきます。我々はこのような流れの中から、自然と、別の単位を持つ物からは直接数を足したり引いたりできないと言うことを学びます。
四年生頃の授業を思い出してください。『始めに時速20キロで出発した電車を追いかけ、10分後に分速500メートルで追いかけました。何分後に追いつくでしょう。』という問題があったかと思います。このような問題を見たとき、私たちは、まず単位をそろえることを教わっています。後から発車する電車を時速に置き換え、計算し、出てきた答えは『時』という単位で出ますから、これを60で割ることによって『分』に置き換えます。
つまり、我々は数字と単位を与えられたとき、単位を一つにそろえ計算することによって答えを導き出しています。これを別の言葉に置き換えると、単位をそろえることができない数字は一般的な知識では計算できないと言うことになります。60分から5リットルを引くことができないように、単位が違う数字から単位が違う数字を引いたり足したりすることはできません。足し引きできないと言うことは、大小関係を比べることができないことを意味します。60分と5リットルどちらが大きいでしょうか、という問題を出されても困ってしまいますね。
さて、ここで本題に戻ってきましょう。単位が違うと計算できないというのは我々が小学校で学んだことであり、単位が違う計算を出すこと自体無意味であります。このことを念頭に置いて先ほどの質問を見てみましょう。『アニメのキャラと私、どっちが大事なの?』という質問でしたね。
ここでは『アニメ』と『私(恋人)』を『大事』という単位で大小を比べなさい、と問われています。アニメの単位は平面ですから『二次元』、恋人の単位は『三次元』です。単位が違うので単位をそろえることにしましょう。次元を減らす手っ取り早い方法は微分してしまうことです。『三次元』を構成する要素は『XYZ』の三つですから、これを微分して二次元にするためには、Z軸を微分する必要があります。しかし、微分をすると言うことは、正確性を失う代償を支払った上で、ある点でのグラフの方向性を求める行為であります。すなわち、三次元を微分すると、三次元の傾向が二次関数のグラフに置き換わってしまいます。三次元を二次元に強引に置き換えてしまうと、三次元である恋人が恋人の傾向を示したただのグラフに成ってしまい、恋人としての本質が失われていまいます。つまり、中身がまるっきり変わってしまうため、そのような数値を使っては計算結果が粗悪な物になり、使い物になりません。ということで、三次元を微分して二次元に置き換えるのはやめましょう。
反対に、二次元にたいして第三軸つまり、Z軸を与えることで三次元にすることを考えてみます。これは考えるとすぐにできそうですね。アニメのキャラクターに対して厚みを加え、三次元にした場合どうなるでしょうか。アニメの本質はテレビと言った平面的メディアに映し出されることにより成立します。これはたとえ3Dテレビが普及したとしても、触れることができないため、やはり我々が住む次元とは違う次元にアニメのキャラクターは存在します。つまり、アニメのキャラクターを強引に三次元に置き換えることはできません。キャラクターショーではアニメのキャラクターそっくりの着ぐるみが動き回っていますが、あれはアニメのキャラクターに近似した三次元の存在であり、アニメのキャラクターそのものではありません。つまり、アニメのキャラクターを三次元に置き換えることも、本質が変わってしまうため、できません。
単位を置き換えると言うことは『分』と『時間』といった、可逆性が成り立つ単位ならできるのです。
つまり、私たちの一般的知識では『三次元』と『二次元』の大小関係を比べることができないことになります。
このまま計算できないとして結論を出してしまうと何となく説得力が薄いような気がしませんか? なぜなら一つの方法でしか試していないからです。次元を減らしたり増やしたりする方法以外の単位換算法を用いて計算してみるとしましょう。
さて、別の単位換算方法としては、『同様の機能を実現するために必要な現存するほかの物の価値に置き換える、“代替法”』、『その場所に行くために必要な交通費用を時間を合わせた旅行費用を元にする、“トラベルコスト法(旅行費用法)”』の二つを用いてみるとしましょう。これらの方法は、都市計画や建設計画などで公園を建てるときその公園の価値はどれほどあるのかと言う物を求めるときに調べる方法です。公園の価値は五種類存在し、自分が使うことによってえられる価値、自分以外の人が使うことによって自分に巡ってくる価値、未来の人が使うことによって発生する価値、遺産的価値、存在的価値です。これを求めるためには、公園を建てた費用だけではなく、その公園がどれだけ周囲に影響を与えるかを求める必要があります。そのとき、お金の計算だけでは限界がありますから、一旦すべての価値をお金に置き換え、計算するのです。ここでもこの方法を用いて計算してみましょう。
まず、『代替法』による計算です。恋人の役割を果たす現存するほかの物は何でしょうか。抱き枕とかダッチワイフがすぐに浮かんだ人はオタク認定です(笑)。確かにそれらは恋人の役割を果たすかもしれませんが、声を発したり自ら意志を持って動き出すことはできません。では、トヨタとかホンダが作ったロボットはどうでしょうか。彼らもメンテナンスが必要であり、残念なことに柔らかさや生殖器を持ち合わせていない上、心はコンピューターです。ざっと眺めてみて、恋人の代わりになりうる物はありません。つまり、代替法を使うことができません。よって、この方法によって両者の大切さを比べることはできないようです。
次に、トラベルコスト法を用いて計算してみましょう。トラベルコスト法はそのものが存在する場所まで移動するために必要な時間と費用を求めて計算する方法です。
恋人が近所ならばトラベルコスト法によって得られる答えは、0円と10分というような値になります。
アニメのキャラクターの場合はどうでしょうか。今日が月曜日だとして、アニメが金曜日にはいるとしましょう。テレビを見るとき私たちがCMにだまされて商品を買わない限りは、またはNHKでは無い限り、費用は発生しませんから0円です。そして、月曜日から金曜日までは4日ありますから、求められる答えは、0円と4日となります。
両者とも0円で、必要な時間が10分と4日に成りますから、おや、アニメの方がこの計算では上になりましたね。どうやらトラベルコスト法ではアニメの方が優位に立つようです。
さて、最後の計算です。両者とも金額と日に置き換えることに成功しましたので、与えられた条件に基づいて計算してみましょう。今回の問題は『『アニメ』と『私(恋人)』を『大事』という単位で大小を比べなさい』というものでしたから、『どちらが大事か』という尺度に置き換えて計算することにしましょう。0円・4日、0円10分、どちらが大事ですか? 計算によると、4日の方がより時間がかかりますから、アニメの方が価値が高いことになりますね。結論は、アニメの方が大事、と言うことになります。
しかし、別のパターンも考えられます。もし貴方がアニメをビデオに撮っていたならば、0円0分の所要時間でアニメのキャラクターに出会うことができます。また、恋人がやってきた場合も0円0分で出会うことができます。両者とも同じ条件、すなわち、最短で計算しなくてはそれこそ不公平ですから、両者とも最短の結果である0円0分が答えになります。この答えは計算するまでもなく同じ値ですから、アニメと恋人は両方同じ価値と言うことになります。
さて価値を求めた上で『大事』かどうかを判定します。トラベルコスト法は価値を求める方法ですから出てくる答えの単位は『価値』であり、これを『大事』という単位に変換する必要があります。しかし、猫に小判・豚に真珠・馬の耳に念仏といったことわざがあるとおり、どれだけ価値が高くても人によっては無意味であり、そこに『大事である』という感情は生まれてきません。計算方法が同じなのに人によって答えが違うと言うことは数学では許されないことですから、価値を大事に置き換えるという計算はできないことになります。先ほどの0円10分と0円4日を比べることも、実はできなかったと言うことになります。
つまり、トラベルコスト法を用いたとしても、『アニメ』と『恋人』の大切さを計算できないことになります。
『アニメのキャラと私、どっちが大事なの?』という質問は最終的に『大事』という単位に置き換える必要があり、大事かどうかは人によるため、答えがまちまちになってしまいます。またそれ以前に、『アニメ』と『恋人』では住む世界が違うため、比べることが不可能であります。細かいことを言えば、トラベルコスト法は三次元でしか利用することができませんから、トラベルコスト法でも価値を求めることができません。
つまり、『アニメのキャラと私、どっちが大事なの?』は解を求めることができないため、『アニメのキャラと私、どっちが大事なの?』という問題の答えは『解無し』と成ります。この質問には答えが存在しないことになります。
答えがない質問に対して答えを請求する人は、自分の出した問題についてあらかじめ計算して答えが出ないことを調べていない人か、知っていて問題を出して虐めている人のどちらかになります。
『アニメのキャラと私、どっちが大事なの?』という質問は、問題を出したとしても答えが得られないことが証明されましたので、この問題を出すことは哲学的尺度をのぞいて無意味です。つまり、『アニメのキャラと私、どっちが大事なの?』という質問は、質問する意味がなくなり、一言で表現すれば愚問です。
『アニメのキャラと私、どっちが大事なの?』に加え、『仕事と私、どっちが大事なの』という質問は、単位の互換性のなさから答えを見つけることができず、また、答えがないことが答えになります。ですから、問題を出すこと自体、意味がありません。しかし、相手がそのことに気づかず、もしこれらの問題を出されたならば、貴方は堂々と「解無し」と答え、証明は以上の手順を踏めば OK なのです。間違っても『両方大事だよ』と答えてはいけません。その答えを発した時点で、貴方が計算をしていないことがばれてしまいますから。
すいません、100のお題、間に合いませんでした…。宣言してたのにできないのは最悪だぁ。とりあえず、自分の意地にかけて早めに書き上げて、ReSin-ensとか窓辺妖精に移行したいところ。私の頭に HT は搭載されていませんから。
気になったので、前々からやりたかった作業をやっているうちに一時間経過…。驚きです。
さて、何をやったかと言いますと、 CSS の微調整です。このサイトでは色を整えているのですが、色を指定する構文が様々なところにあるため、とある色を調整したとき、ほかの要素に対しても同じような指定を与えないと行けないため、面倒です。一発置換系のソフトを利用してもいいのですが、変更を確認するたびに置換するのも面倒です。
そこで、一カ所で全部指定してしまえばいいと言うことに気がつき、前々からチャンスをうかがっていたのですが、気になりだしたので、やってしまいました。いつもの管理メニューから見ることができますので、気になる方はどうぞ。
CSS ファイルの先頭部分に色の指定がまとめてあることがわかるはずです。
色関係を一カ所にまとめるとその分量が減るのですが、無駄な構文も増えるので、容量の増減は無しに…。しかも、1バイト増えました(笑)。
サイト運営に疲れた管理人が集う場所がネットの片隅にあるのですが、とあるサイトの管理人の元に『私もサイトを作りたいんだけどどうするの?』というようなメールが来たとか…。あの…管理人さんと個人的つきあいがあるんじゃないから、そういうメールは…というより、少しは本でも買ってください………。
いつも閲覧して頂きありがとうございます。恋愛小説同盟からのリンク、特に主力作品のリンクをすべて直リンク型に変更したので、セカンドページのアクセス数は減りましたけど、サイトを閲覧している方が居ることには変わりないので、相変わらず平和なサイト運営です。
宣言したとおり、今月は小説関係の更新が続いていますが、来月もこの方向で行こうかと思います。結局、新作同人誌に乗せる短編小説は一つも進んでいないのが痛いところ。
来月の中盤は帰省して ReSin-ens や、今年全体のサークル活動(希望風)の方針を話し合うので、更新が手抜きになるかもしれません。とりあえず、100のお題は上旬で片が付くことをお祈りいたします(祈るな)。
来月から『今月のアクセス』というよりは、『今月の総評』みたいな感じに成っていくと思います。アクセス数を取り扱うのはこのぐらいにしておいて、来月の予告や日記の更新記録を取り扱うコンテンツへ変更する予定です。アクセス数に興味がないって言っておきながら、アクセス数について日記で言及していると説得力が無くなりますからね。私がアクセス数を取っているのは、更新や更新内容、サイトの中身の変更、ほかのサイトでの紹介がどれだけサイトに影響力を与えるかと言うのに興味があるだけですから。
ということで、サイト開設から1232日目、日記連続更新記録652日、記録更新継続中。