コラム

比喩表現の可能性と危険性


皆さんは文章から風景を感じることが出来るだろうか?
ほとんどの人が出来ると答えるだろう。
………ただし、それ相応の表現がされている場合だ。
作者は自分のイメージを文章に置き換えるときに最も悩むかも知れない。
自分と読者のイメージを共有させてこそ、読者は小説を理解することが出来る。
これが、二次創作小説ならば既に持ち合わせたイメージがあるから楽だろうが、創作小説となるとそうもいかない。
作者は常にこのことを頭に置いて作業しなくてはならない。


作者は何時も何時も、このような表現に悩まされているのだろうか。
その答えは違うだろう。
我々作者には比喩という大きな武器がある。
たとえば、ものの大きさを伝えるとき、大きいとするよりは、○○ぐらい、と表現するだろう。
これは日常生活の中でもよく行われる行為だ。
すなわち、比喩表現とは、お互いの共通知識の段階までレベルを落とし、そのイメージを伝える一つの表現方法であろう。


これを上手く使いこなすと、複雑な情景を簡単に表現することが出来る。
たとえばスリップを男の人に教えるときに、『インナーのひとつで肩ひもでつって、胸からひざの上までをおおうもの』とするよりは『キャミソールの薄くて長いやつ』と表現した方が速いしわかりやすい。
例は極端だったが、この点については皆さんは日常生活でよく用いているだろうからこれで良しとする。


しかしながら、一方でかなりの危険性を秘めている。
その中の代表格と言えば、これである。

メロンのような胸…はたしてどれだけの大きさなのだろうか。
実際問題、叶姉妹でも不可能だろう(関係ないが、著者は叶姉妹が嫌い)。

さて、次、カモシカのような脚である。
この世の中にカモシカを見たことがある人はどれだけいるのだろうか。
実物のカモシカを見たことがある人にとっては、カモシカの脚をすぐに想像出来るだろう(作者も見たことがある)。
しかしながら、天然記念物までになってしまったカモシカを見たことがある人は日本全国でどれだけいるのだろうか。
これでは、その脚を想像出来ない。

雪のような白さ…これは結構難しい。
豪雪地帯の人にはすぐわかるだろうが、雪が白いことはまず無いだろう。
往々にして、クリーム色か、みずいろっぽく見えるし、場合によっては薄緑だ。
雪が白く見えるのは遠くから見たときであって、雪を近くで見るとその色は白ではない。
雪と言えば綺麗と思ってしまうが、現実はそう甘くはない。
………北国の人はわかると思うが、朝、道を歩いていると、雪の一部が黄色く染まっているあの現象…(笑)。

つまり、何が言いたいのかというと、作者も知らないような事を勝手な想像で比喩表現にしてはいけないのだ。
『水素のように透明』とか『早鐘のように鼓動が打つ』なんという表現を安易に用いていないだろうか?
透明とはそもそも、空気とその物質の間で屈折率が変化しない状態のことであるから、水素は視覚的には透明でなくなってしまう。
空気中にある物質で我々の目に映る形での透明な物質は、空気という混合物の他ならない。
早鐘なんて既に聞かなくなってから何年が経つだろうか。


こういった比喩表現は読者に混乱をもたらす。
そして、安易に作者が使った場合、そのことをよく理解している人が、作者の間違いに気づいてしまう。
比喩表現というものは利便性と危険性を持ち合わせたものなのである。


しかしながら、比喩表現をたくみに用いた文章はそれぞれの個性を強く主張する。
比喩表現を上手く使いこなすと、それだけで表現の幅はぐっと広がるだろう。

初出: 2004年8月4日
鈴響 雪冬

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