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ねぇ、パパ。どうして制服を着ないといけないの?

個性を盾にした私服論への反発

 個性などを含めて日本では制服を廃止する学校が増えていますが、個性だけを考えると、制服を廃止するのはあまりよくないのでは、と思います。確かに私服を導入すれば個性を主張することは簡単ですけれども、個性ってそういった外見だけで判断していいものなのかな、と。どこかのリクルートスーツの会社が『これからはスーツで個性を主張していくべきです』とモニターに話したところ、『個性は中身で主張するもので、スーツで主張するものじゃない』と逆にモニターに怒られたという話があります。

 個人の内面の個性を強調するためには、一つの考え方では、外見は統一してしまって、中身の方に視線を集中できるような環境を整えた方がいいような気がします。まぁ、ファッションというのも個性の一つかもしれませんが…。学生が持ち出す個性のほとんどは安っぽい物ではないでしょうか。たとえば、髪の色を変えたりピアスをつけてみたりするのは『人がやっているから自分もやってみたい』という欲求の消化方法で言うと同化(?)に値し、それを正当化するために『個性』という単語を持ち出していることがほとんどでしょう。
 つまり、彼らの個性とは、ほとんどの場合がいいわけにしかあらず、本当に個性を主張したいと思っている人はごくわずかでしょう。そのようなうわべだけの個性を主張してしまった場合、視覚における情報収集量はほかの器官より遙かに多いことはご存じかと思いますが、見た目にほかの情報が隠れてしまい、内面的、あるいは、本質的な個性が隠れてしまうのでは、と思います。

 上記の点をふまえると、個性を主張させるために制服を廃止するのはちょっと考えてもらいたいところでもありますね。海外では制服が見直されつつあり、制服を改めて導入する学校が増えていますが、その点をふまえて、制服の文化をもう一度考えてみる必要があるのでは、と思います。
 犯罪防止のために、女子生徒のスカートを廃止するべきだという声もあるようですが、それは単なる日本が大好きな厚化粧の定理(その場しのぎのために修正パッチを当てていくこと)です。犯罪を防止するために女子生徒のスカートを廃止するのではなく、男のモラルを上げる方が先決なのです。電車の中で手ばっかり出すと、制服が拝めなくなるかもしれませんよ、男性諸君。
 多少論点がずれますが、ブルマーも似たような経緯で廃止されましたよね。ブルマーが絶滅寸前まで陥ったのは、ブルセラショップでブルマーが取引されるようになり、ブルマーに対する悪印象がついて回った結果、廃止の傾向に拍車がかかったようなものですからね。
結局、これも、男のせい、なわけで…。

 ちょっとした補足事項になりますが、制服を廃止した私立学校に通う生徒の一部は、一般の被服メーカーが出している(ニッセンとかセシールでも購入できますね)スクールウェア(制服とは違うのでカタカナ表記しておきます)を購入して、それを着た状態で登校する生徒もいるようですね。

日本人

 郷に入っては郷に従え、なんていう言葉がありますが、いかにも日本人らしい発想でしょうか。江戸時代が日本人を日本らしくしたと言いますが、長い鎖国を含め、日本は島国ですから、自分たちの知る範囲を超えた物や人に対して非常に多くの警戒と興味を抱く生き物です。
 都会では皆無になりつつありますが、引っ越してきた人に対する質問攻め(転校生に対する質問攻めは残ってますね)は、その人の地位や考え方などを聞き出し、その後のつきあい方に考慮するためです。
 こうして、日本人は、自分たちのグループに加わる新たな人に対して予備知識を得ると同時に、その人とのつきあい方を自然と調節してしまうのです。
アメリカ的に言えば、プライバシーの侵害、日本的に言えば受け入れ準備、と言う言葉になるのでしょうか。

 つまり、新参者に対して自分たちのグループにどれだけの影響を与えるか、と言うことまで考えてしまう、それが日本人的な思考でしょうか。
 日本人は和を大切にする部族とも言われています。江戸時代の町民はみんな長屋に住んでいましたし、夜遅く町や通りを通り過ぎるときは、門番(不適切な表現)がなり子を鳴らして、一人今から通りますよ、と知らせて、出口でもう一度鳴り子をならし、通り抜けました、と町内(不適切な表現ですが、町屋の集まりという意味で使用します)に知らせていました。これは、今から、あなた達の見知らぬ人が通り抜けますが、あまり気にしなくても大丈夫ですよ、というサインであると同時に、大きく犯罪防止に役立ちました。このことから見ても、日本人は和になじめないものに対して嫌悪感を抱くことがわかるでしょうか。

 郷に入っては郷に従え、という言葉は、入る人と受け入れる人の両方について回るような気がします。入る人はなじめるように努力し、受け入れる側はきちんと受け入れてあげなさい、そんな意味に感じ取ることが出るでしょうか。つまり、秋葉原に行く女性がオーバーにーソックスをあえて選ぶと言うことは、秋葉原にいる人たちの趣味趣向を理解し、秋葉原という空気になじもうとする、表の理由はどうあれ、本能的な作用があるようにも思えます。
 東京を含め、全国にはその場独特の雰囲気があります。名古屋や長崎、京都は非常に顕著ですが、それ以外にもありますね。服装をその場の雰囲気になじむようにするだけで、その人はその場に景観上はとけ込んでしまうのですから、不思議な物です。

所属欲

 いただいた意見の中に、制服は人間の欲求の一つの『所属欲』に関連するのでは、と言う物がありました。人間の欲求は五段階あります。(心理学者の見解によって違いますが、ここでは五段階に分けます。)

  1. 生理的欲求
  2. 安全の欲求
  3. 愛情と所属の欲求
  4. 承認の欲求
  5. 自己実現の欲求

 もっとも低次元な欲求は1番で、高次元な欲求は5番です。(個人的ですが、私は6番目の欲求として『他己実現』があってもいいと思っています。)つまり、命が確保され、住む場所が確保されたなら、次は所属と愛を求める、と言うことになります。この所属には、家族への所属を含め、地域社会も含まれます。つまり、『学生である』と言うのも、一つのグループに属している事であります。そして、学生服は所属を示すためのシンボルですから、学生服を拒絶すると言うことは、所属を拒否することに値します。
 大げさに表現してしまえば、人間の第三欲求の『愛情と所属の欲求』を拒否することに他ならず、それを実現しないまま、第4・第5の欲求を実現することは不可能です。

 学生服を拒絶してしまうと言うことは自分の立場を自ら曖昧にしてしまい、社会から隔離されることにつながります。前述した『制服を廃止した学校にあえて制服のような格好で登校する』と言うことは、本人の意識では『制服がかわいいから』と言った物があるかもしれませんが、個人的無意識や普遍的無意識のレベル(ユングさんの定理ですね)では制服を着ることによって所属欲を満たしたい、と感じているからなのかもしれません。

 人間の成長と同時に、欲求のレベルが高くなってきます。中学校や高校で制服を導入することは、お上の考えはいろいろあるのでしょうけど、結果的に、人間の第三レベルの欲求を満たすことを手助けしていることになります。つまり、制服を着て所属を示すことは、人間的にある意味当然のことであり、それを破棄することは(以下略)。

 私服に切り替えたら、今度はモラルに関して問題が出てきそうですけどね。
 見た目じゃ、学生かどうかなんてわからないものですから、それなりに出るところに出て行けるでしょうし……。
 結局の所、自分の首を絞めるだけのような気もします。

黄泉比良喫茶店 [2月18日の日記]

 それに加え、上記引用文で懸念されていることも大いに起こりえます。視覚情報がその人を判断するための大きな情報になりうることは前述した通りですが、見た目が二十歳を超えていても、制服という情報により、その人が未成年と判断され、パソコンゲームを購入できない(まぁ…例外もありますけどね…)のは、制服を着ている=学生という方程式ができあがっているからであり、制服を着ていることにより、制服を着ている本人への社会の見方が変わります。
 裏を返せば、平日の真っ昼間に制服を着ていない生徒が歩いていれば、学生とはかけ離れた存在になってしまい、指摘されている通り『それなりに出るところに出て行ける』と言うことになってしまうのでしょう。制服は、地域レベルでの防犯に役立っているわけですね。

最後に

このように、日本人の性格や人間の欲求、防犯、青少年の健全な育成(お上が大好きな言葉(笑))のためには、制服を導入することはもっとも手っ取り早く、そして確実な方法であり、着る側も着させる側も利益があるため、このように制服が日本に浸透したのでしょう。
 制服という文化は、日本人的であり、かつ、人間的であり、これを否定することは、人間が本来持っている欲求を満たすチャンスを自ら破棄することに他なりません。それに、制服が嫌だとか、どうして制限されていけないの、と言っている学生諸君。実社会はもっと理不尽なルールでいっぱいですよ。

原文: 2005年2月19日
初出: 2005年2月22日
更新: 2005年2月22日
著作: 鈴響 雪冬
制作: 鈴響 雪冬
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