文字書きさんに100のお題 -81~99-

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081 ハイヒール

 いつも子供扱いするあなたを見返したくて、思い切ってハイヒールを買った。真っ赤なハイヒール。つま先が二次曲線のようになめらかで…その曲線を受け継ぐように細く鋭いヒールが印象的な…真っ赤なハイヒールを。服もいつもより大人っぽい物を選んであなたとデート、したよね。そしたらあなた、ちょっとだけ目を細めて驚いてた。そして…別れ際に言ったよね…。
 いつもの紗耶香がいいな、って。
 いつもの私は子供の私。でも、あなたはそんな私がいいって言うの。私は大人にあこがれるのに…あなたは今の私が好きなんだって…。

 あなたが望んでいるのは本当の私…。飾りとか拐かしとか惑わしとか必要ない…。本当の私をあなたは望んでいる。本当の私を見せられるのはあなただけ…。だから…あなたの前で飾る必要なんて無かった。そう考えて、私はハイヒールを売り飛ばした。ばいばい、私の未来。何時の日か追いつくから、またそのときによろしくね。
 そう…私の本当の姿が見てほしい…。だから…飾りなんて必要ない。今日は…何を着ていこうかな♪

082 プラスチック爆弾

 片手だけ…それだけあればいい。はんこ一つ…たったそれだけで…あなたと私の関係は何もなかった事になる。そう…スイッチ一つですべてが吹き飛ぶビルの解体のように…あなたと私が積み上げてきた結婚生活もはんこ一つですべてが吹き飛ぶ。後に残るのは記憶というあやふやなものだけ。一年、一年…一日、一日…と積み上げてきた二人の時間に終止符を打つのは一瞬。
「ねぇ、ママ。何してるの?」
 ただ…それを鈍らせる存在が居る。テーブルの高さにちょうど目が届くか届かないかの娘が一人…。まだ、離婚という概念もない娘。この子は…私たち夫婦が一緒にいた時間しか知らない。はじめから三人家族だと思っている。この子にとって私たちは三人で一緒であって、二人や一人という構成を知らないのだろう。これから何が起こるか知らないのだろう。娘は私の手元に来る。そして、何時の日か聞くのだろう。パパは? って…。そう思うとやっぱり胸が締め付けられた。本当にこれでいいのか…私たちの選択は間違っていないのか―――………。

 私はもう一度離婚届を見つめた。そして、はじめてあなたの目を見つめる。あなたはただ…じっと…私の目を見つめ返すだけだった。娘のことは見ていない。ただ、私だけを見ている。
「ねぇ…。」
 ゆっくりと口を開いた私は、夫に一つの提案をした。

083 雨垂れ

 急に降り出した雨は一気に制服を染め上げ、白いワイシャツを半透明へと変えていく。うっすらとキャミが見え始め、もうすぐで下着が映りそうになるところでアーケードのある商店街へと駆け込んだ。入り口では買い物袋を持ち、空を見上げる主婦の姿がちらほら見えている。同じ制服を着ている学生も一人や二人、それ以上の集団で歩き回り、ディスプレイをのぞき込んでは奥の方へと歩いていく。
 時間は放課後午後四時。雨の音が天井で踊り、不規則なリズムを耳へ届けている。楽器屋の前を通りかかったとき、ショパンのプレリュード15番のアレンジが耳へ届いた。
 雨がやむまで待つように…湿度が高いのに制服が乾くのを待つようにゆっくりと商店街を歩き、反対側へ出ると、私は一気にかけ出した。額を伝い、首を伝い、肌を伝い次第に全身をぬらしていく雨。でも、雨宿りをしようとは思わなかった。一度ぬれてしまったのなら最後まで濡れてしまった方がいい。そっちの方が中途半場じゃなくて好きだ。

 根気よく雨は私の体を濡らそうとがんばっている。私が家に帰るのが早いか…あなたが私を水浸しにするのが早いか勝負よ。
 天気は雨。人の心は憂鬱。でも、考え方によっては楽しい一日になりそうだった。

084 鼻緒

 私が迷わないようにそばにいて。私が間違った方向に行きそうになったらそっと後ろから教えて。私が壊れそうになったらぎゅっと抱きしめて、私が壊れてしまってもずっとそばにいて治してほしい。

085 コンビニおにぎり

「383円になります。」
 夜なのに元気のいい店員に指定されたとおりのお金を払い、電子レンジで温められた二つのおにぎりと一本のお茶を受け取って私は店を出た。近くの公園での夕食が私の夕食の場所だった。手をつないだ男女が顔をほころばせながら歩き、スーツ姿の男が駅へ行く道を急いで歩いていた。
 背負っていた鞄を花壇の縁に乗せ、私もそこに座ると、袋を広げ、おにぎりを取り出した。
 今日の塾は難しかった。訳のわからない数式が横に並んでは黒板消しで消されていく…。それをただ書き写して頭に詰め込んでいく…。いい高校に行くためってお母さんは言う。あなたのためよ、ってお母さんは言う。だから私もそれに従ってきた…。でも…お母さんが目指している道と私が目指している道は…どこかずれているような気がした。このまま塾に通っていても自分の行きたい方角からはずれていくばかりで…どんどんと取り返しのつかない方角へ向かっているような気がして…。先生の期待に応えて…親の喜ぶ顔が見たくて………そんな二人も…私の顔は見てくれない…。私が声をかけても…いつも…いつも…後でって………後でって…いつなの? お母さん…。私の話…いつになったら聞いてくれるの? ねぇ…教えてよ…。後って…いつになったらくるの? 何時かって何時くるの?
 いっそのこと、このまま家に帰りたくなかった。でも…携帯に束縛されている。少しでも遅れれば…電話がかかってくる。電話に出るといつも怒られる。どこを歩いてるのって…。
 ねぇ…私って…お母さんの人形なのかな…。私にとってお母さんって…何?

 唯一助けてくれるのは仲のいい友達だけ。困ったときは泊まりに来て言いよって言ってくれる友達。前もお世話になった。またお母さんに怒られた。
 いつからだろう…お母さんが笑ってくれなくなったのは…。いつからだろう…お母さんの顔を見なくなったのは…。

 一つおにぎりを飲み込んで、お茶を流し込む。
 お茶の苦さで涙が出た。

086 肩越し

 肩越しに見える後ろ髪、肩越しに見える頬、肩越しに見える伏せた瞳、肩越しに見える貴方の本当の心。肩越しに背中を抱きしめて、肩越しに髪をなでる。肩越しに唇をあわせ、小さく短く言葉を交わしては、柔らかな場所、奥深い場所へと手を這わせてくる貴方。
 その心は本物なの? 後ろ側に何もないの? 貴方は本当に私のことが好きなの?
 その疑問は言葉に出ることなく井戸の底へと沈んでいく。今はただ貴方の発する言葉を信じることしかできない。でも…それでもいいと思っている。私は貴方が好きで、貴方が私のことを好きでいることを信じているから。

087 コヨーテ

 一人暮らしをはじめて半年。知らない間に泣き出してしまった。気がついたらパジャマが濡れている。目が赤くなって、頬にはまだ冷たいしずくが伝った跡が残っていた。
 寂しさを紛らわすため、一頭の子犬を飼った。遠吠えをよくするらしい。
 遠吠えをする君は私と同じで淋しいのかな?

088 髪結の亭主 (映画のタイトル、また妻の尻に敷かれる夫)

 「これでよし」と更衣室から出てきた夫は私の知らない女の人だった。なで肩でちょっと頼りなくて色も白いことはわかっていた。食べても太らない体質の影響か、おへその上にはくびれがあった。逆三角形というよりも、女性に近い体型だ。
 男性用の更衣室から出てきた女性は一瞬のうちにカメコ(*1)に取り囲まれた。私が認める。貴方はコスプレがうまい。いわゆる汚装ではなく、完全な女装だ。のど仏を隠してしまえば声を発するまで女と気がつかないかもしれない。それほどまでに綺麗だった。
 何時か聞いたことがある。どうして女装なのか、どうしてコスプレなのか、と。貴方は笑って答えた。「子供の頃、アニメのキャラとかアクション物のヒーローに成りたいって思ったことはないか? 男の子なら仮面ライダーかもしれないし、女の子ならキャンディーキャンディーかもしれない。どっちにしても、子供はそういうキャラクターグッズをほしがるだろ? そして、テレビの中のキャラクターと自分を同化させて、ひとときの楽しさを味わう。そんな経験があるだろ? それと同じだ。」
 そして、その後に一言加えた。「役者なんだよ。」って。

 人間は必ず何かに縛られるという。その中の一つに名前がある。特に日本語の名前は英語圏で一般的な名前とは違い、誠実な人であれ、とか、努力を続ける人であれ、とか、三男、とかいろいろな意味が込められている。そう、私たちは名前にですら縛られている。しかし、ひとたびキャラクターになりきることができたのなら、名前をその時間だけ変えることができる。そして、見た目も変えてしまう…。そう…普段縛られている『自分』を開放して、自由になろうとしている。
 自由になりたいという欲求は誰にでもあると思う。ただ、貴方が行き着いた先がコスプレであるだけなのだ。
 だから私は何も言おうとは思わないし、言う資格はないと思った。貴方は自分のやりたいことを周囲の迷惑にならない範疇にとどめておきながらも、しっかり楽しんでいる。一言で言えば、本気なんだ。自分より一生懸命にがんばっている人に対して馬鹿にすることなんてできないし、馬鹿にする資格もない。だから私は見守る立場にした。

 髪を結っている亭主は、いい意味で女々しく、そして、夢を追いかけている少年のようだった。

089 マニキュア

 自分でも笑ってしまうぐらいにぎこちない手の動き。習ったばかりの人形劇のように…ギアのかみ合っていないロボットのようにぎくしゃくした手を君は笑いながら見ていた。
「早くしないと、獲物が逃げちゃいますよ。」
 目の前で手をちらつかせた恋人はやっぱり笑っていた。紺色のセーラー服からわずかしか見えない肌の色は、僕の思っていた色より白に近かった。
「先輩をおちょくるのか?」
「残念です。先輩・後輩というグループ分けより、恋人というグループの方が優先されますから、その発言は却下されました。」
 やっぱり笑いながら彼女が言う。
「あぁ~寒いなぁ~。誰か温めてくれないかなぁ~。」
 認めてしまうのも情けないが、僕は極度の照れ屋で、未だに七海と距離を狭めて歩くのすら恥ずかしい。もちろん、手を繋いだ事なんて一度もない。そんな事を知って七海は僕のことをおちょくっている。
「このままだと一人の少女が凍え死んでしないますよ。」
「どうして手袋をしてこなかった。」
「さて、何故でしょう。」
 …こいつ…。
 しょうがない。清水の舞台なんたらとはこの事か。
「早くしないとおいてくぞ。」
 くるりと向きを変え、後ろ手に七海の手を握ると、大股で歩き出した。初めて触れたそこは、思っていた以上に柔らかくてすべすべしていた。指先まで…爪の先まで手入れが行き届いていることを感じさせた。よくわからなかったけど…とても女っぽい手だと思った。そしてなにより…冷たかった。
 そんな手を温めるように強く握りしめ、風が通り抜ける町を二人赤くなってうつむいたまま歩いていた。

090 イトーヨーカドー (スーパーマーケット)

 子供の頃、デパートの屋上は小さな遊園地だった。お金を入れれば走り出す車に、四人しか乗れないメリーゴーランド。隅っこにはガムが出てくる赤い箱があったし、少ないながらも出店があった。何時行っても親子連れでにぎわい、その時の様子から今の状況を予測できた人が居るだろうか。

 屋上の隅、煙草を吹かす一人の男だけで、ここにいる人の10%を占める小さな遊園地。夏の夜には多少なりとも賑わう以外は、風が吹き抜けるような夢の跡。
 未来に思いをはせていた子供が沢山いた場所は、思いを失った大人が淋しい背中を見せる場所になってしまった。子供から大人になって、青い空は確実に近づいたのに、その色は昔のように鮮やかではなかった。
「おじちゃん。なにしてるの?」
 軽快な電子音を立てている車にまたがった子供が僕の顔を見上げていた。
「空を見ているのさ。」
「空?」
 僕の顔よりさらに上に目線を上げると、わずかにその子は目を細めた。
「ぼく。」
「なぁに?」
「空は青いか?」
「うん。とっても綺麗だよ。」
「そっか。この色を大人になっても忘れるなよ。」
「うん!」
 笑いながら大きくうなずいた顔に満足すると、携帯灰皿に煙草を押しつけ、「じゃあね」と言って、その場を跡にした。
 ふと見上げた空は、少しだけ輝いて見えた。

091 サイレン

 嘘をつく時、口調が丁寧になる君の癖、僕は知っているよ。君は気づいていないけど、僕はきちんと知っている。
 君の言った台詞が頭から離れない。「もちろん好きですよ、政則さんのこと。」
 ………いつも『さん』なんてつけないのに。

092 マヨヒガ (山奥の打ち捨てられた廃屋)

 運命の人を探してここまで来ました。でも、まだ見つけられません。もしかして通り過ぎてしまったのかもしれない。でも、それを知るすべはなかった。すべては、目隠し天使の持つ矢が知るのみだから。
 会社の上司かもしれない。近所の鯛焼き屋のお兄ちゃんかもしれない。中学校時代の初恋の人かもしれない。………それとも、まだ出会っていないのかもしれない。
「運命の人か…。」
 それは探しても見つからないのかもしれない。だって、偶然の出会いなんて何時も突然なんだから。

093 Stand by me (映画のタイトル、曲のタイトル。わたしのとなりにいて、の意)

 一人で映画を見た。貴方と一緒に観るって約束をした映画だった。入り口で大人二人分のチケットを買って見た映画だった。
 今話題の恋物語。貴方が座るはずだった隣の席は最後まで空席だったけど、貴方は確実に隣にいた。
 何時までも私の側にいて。…ううん…お願いするまでもないね。貴方はずっと私の心の中にいるもの。

 少し膨らんだお腹をさすりながら息を吐き出した。
「名前…何にしようかな。」

094 釦 (ぼたん)

 どうしてこんな事になったんだろうか。気がつけば腕の中で女の人が丸くなって眠っている。すうすうと小さい息を立て、眠っている。枕元には脱がせた服や下着が置かれ、ゴミ箱には血が付いたシーツがくしゃくしゃになって捨てられている。すべては、俺たちの行為の末の結果だ。
 愛している、それだけは確かで、愛しているという感情はよくわからなかった。でも、こうして彼女が腕の中にいることで俺は安心できる。そう…落ち着くんだ。
 気がつけばここまで来ていた。まるで、掛け違えたボタンのように、初めのうちは恋に落ちたことには気がつかず、誰かに言われるまで…それとも最終段階に来てから気がついてしまうのだろう。

 髪の毛をなでると小さく鳴いた彼女の横顔を細めた目で眺め、先に眠りの世界にいる人をおうように、俺も目を閉じた。

095 ビートルズ

 町の隅に小さく詰め込まれた喫茶店のドアをくぐると、カランというベルの音と、いらっしゃいませという男の声と、どこかで聞いたことがある音楽が順番に耳に届いた。どれもがきれいに余韻を持ち、セピアなメロディーラインを優しく彩る。
 一通りメニューを眺め、オリジナルブレンドを注文すると音楽に耳を傾けた。なんでも鑑定団のオープニングテーマだったろうか。タイトルこそ思い出せないものの、昔から聞き馴染んでいた声が私を包み込んでいる。
 目の前では一人の男…マスターがネルドリップで、派手な演出こそないものの、夕日が沈んでいくかのように珈琲を淹れている。リズムを刻んでいる訳でもないのに、不思議とその光景にビートルズの主旋律が重なっていた。

 お待たせいたしました、と、音も立てず静かにカップが置かれると、一口口に含んだ。さらり、と、滑らかに流れ込んでくる苦味と同時にわずかに舌を掠める甘味。好みの味だった。好みというより、一目惚れ…一味惚れしてしまう味だった。「おいしいです」と素直に口に出してしまった事を「ありがとうございます」というマスターの声で気がついた。
 たまには、こんな土曜日の昼もいいのかもしれない。

096 溺れる魚

 女なんていらないと思っていた。ただ、邪魔になるだけだと思っていた。例えて言うなら、補助推進ロケットのように要らなくなったら捨てられる…そんな存在だと思っていた。
 そんな自信を真正面から打ち砕いたのは、一人の…女だった。

 ある日突然、その女は俺の目の前に現れ、俺の心を捉えた。ただの仕事仲間だと思っていた。そして、これからもその関係が続くと思っていた。でも、気がつけば、その女なしでは生きられなくなっていた。

「次は何処に行こっか?」
「お前が決めていいよ。」
「それじゃあ―――。」

 俺は水に溺れる魚。お前の存在が俺の中で大きくなりすぎて、いつのまにか溺れてしまった。でも、それでいいと思っている。お前の腕の中で死ぬのなら、それは、それで、本望だ。

 ここにいきたい、と地図の上を指差す彼女。はにかんだ笑いが可愛らしくて、ダメかな? と、聞く彼女は愛しかった。

097 アスファルト

 子供の頃、走り回って、すっ転んで、ズボンを汚して家に帰ったものだ。寝転んだ草っ原は暖かかったし、やわらかかった。何より、土と草の匂いがした。
 この間、息子が泣きながら帰ってきた。何事かと部屋を飛び出して玄関に出てみると、ズボンの膝の部分が破れ、膝からは血が流れていた。肘もほんのりと赤く、鼻にも擦った跡があった。

 暮らしが良くなるようにとアスファルトで固められた地面は、本当に守らなければならない人にとって凶器になってしまっているのかもしれない。

098 墓碑銘

 人は何故、石に文字を刻むのだろうか。地面を選んでもいいはずだ。木を彫ってもいいはずだ。でも、石を選んだ。自分の後世に残すためだろうか…。
 デジタルメディアにとって代わった世界。何かが起きれば一瞬で全てが吹き飛んでしまうという恐怖。それから逃れるために、人間は石を選んだのだろうか…。

 小さな墓地には果たせなかった夢と子孫に託す想いが詰まり、墓石には生きていた証拠が刻まれている。どこの誰かも分からない人が集まり、祈りをささげる場所。そんな厳かな地の片隅に、父の名が刻まれた墓がある。手を合わせ、静かに時間を過ごし、目をあけると、父が俺を優しく迎えてくれた。

 父さん…父さんの夢、きちんと受け継いだからな。安心してくれよ。

 人は死んで名前と想いを残す。墓地は故人の想いに触れ、夢を受け継ぐ場所なのかもしれない。そんな小さな儀式を、碑銘は静かに見守っているのだ。

099 ラッカー (缶入りのスプレー塗料)

 街中の悪戯書きが嫌だった。せっかくの美観が失われるからだ。彼らは何がしたいんだろうと、じっくり考えることもなかった。考えようともしなかった。

 きっかけは単純だった。事故で遅れた電車。それを待つ間に、ふっ、と、目にはいったスプレーの落書き。それを見ているうちに気がついた。もしかしたら、彼らは何かがいいたいのかもしれない。自己主張がしたいのかもしれないと。その場所が壁だったに過ぎない。
 よく見ると、強弱のリズムが心地よく、目を楽しませてくれる。流れるような曲線や、大胆に塗りつぶされた面は目を楽しませてくれる。充分に作品として成り立っている…少なくとも私にはそう感じた。…ただ、場所が悪いだけなのだ。

 生きていることの証を壁に刻む彼らの作品を見ていると、過去のトラウマを塗りつぶして新しい一歩を踏み出してもいいかもしれないと思った。もう一度はじめから夢を追いかけてみようと思った。

 ホームに電車が込むと、何時もと同じようにその電車に飛び乗った。何時もと同じ生活をしているはずなのに、不思議と体が軽かった。

註釈

カメコ
 カメラ小僧の略。コスプレやアイドル、また電車などを被写体にカメラで撮影する人のこと。マナーが悪いカメコはウザカメ(うざいカメラ小僧の略)と呼ばれる。

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初出: 2005年2月15日
更新: 2005年3月13日
原作: 鈴響 雪冬
著作: 鈴響 雪冬
制作: 鈴響 雪冬
Copyright © 2005 Suzuhibiki Yuki

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