恋の from A to Z -F~J-

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Forget-me-not
勿忘草

 夜、ベッドの上に寝ころんで、目を瞑ってみても思い出すのは十夏のことだけだった。どんなに忘れようとしても、十夏の表情がよみがえってくる。そして、思い出すのは何時もあのシーンだった。

「ふーん。彼女かと思ったよ。」
「違うって。そんなのいないよ。」
 おおよそ自分に縁のない単語を口走った十夏に対して全力で否定する。
「よかった。」

 このやりとりだけが、壊れたレコードのように僕の頭の中を反復するようになってから二週間。別に、好きだと言われた訳じゃないけど…そんな香りを感じて僕の心は揺さぶられていた。

 「好きだよ」と言われたことは何度かあった。でも、それは他愛のないやりとりで十夏が巫山戯ていった言葉だった。お互いその言葉で笑って、すぐに忘れてしまっていた。でも、そんな言葉よりも、遥かに重みのある言葉が存在した。
 もしかしたら、巫山戯ていたと思ったのに、十夏はずっと僕のことを好きだったのかも知れない。そんな風に考えると、急に十夏のことが頭の中を巡り始めた。留め金のはずれた観覧車のように…。
 肝心の十夏はと言えば、あれからは何時も通りのやりとりが続いている。昨日見たドラマの話だとか、天気とかニュースとか趣味とか、そんなドーデモいいようなこと。今まではそれが当たり前だったのに、なぜかそれが何時もと違う光景のように映ってしょうがなかった。

 十夏のあの言葉にはどういう意味があるんだろう。
 それが聞きたくて。聞けなくて。
 予想通りなのかも知れない。勘違いなのかも知れない。

 ついこの間までは仲のいい友達だと思っていた。
 なのに。
 たった一言でその関係は僕の中では崩れ去った。いつもの笑顔が眩しく見えて、いつもの台詞が艶があるように聞こえて、いつもの仕草が可愛らしく見えた。

 気になるなら、聞いてしまえばいい。

 でも、もし、勘違いだったら…。そんなことを考えると僕は聞けなかった。聞いた瞬間、ギリギリの位置で保っていた関係が一気に崩れてしまいそうな気がして。たとえ勘違いでも、今まで通りの関係に戻るのには時間がかかるだろう。もしかしたら、無理なのかも知れない。少なくとも僕にはそんな気がしていた。

 もう一度天井を見上げた。無機質な天井は僕の心とは対照的に白く、そして、明るかった。

glitter
煌めき、輝き、華やかさ、光彩

 告白の向こう側には何があるの? 希望? 絶望? 天国? 地獄?
 予想をすることは誰にだって出来る。ただ、その予想通りの結果を導くことが出来るのはごく僅か。まだまだ回り続ける私の心。ブレーキを掛けることも躊躇い、ブレーキを掛けても止められない。私は、このままぐるぐる回り続けるしか道がないのかな。

 こんな気持ちになったのは初めてだった。ううん…初めてなんかじゃない。もっと前から気がついていた。それが大きくなっただけなんだ。こんな気持ちになったのは…そう…一ヶ月ぐらい前。この気持ちは、その延長線上。結局、止められなかったんだ。

 窓の外に見える月は何時もと変わらず静かに輝いていた。
 どうしてみんなに見つめられて平気なんだろう。今この瞬間、私と同じようにして月を見ている人は必ず何処かにいるはずなのに、どうして恥ずかしがらないんだろう。後ろを向くことなく、毎日毎日、堂々と前だけを向いている月。そんな月が、うらやましかった。
 私とは大違い…。
 あいつに声を掛けられただけで、顔が破裂しそうになる私とは大違い…。
 こうして毎日悩んで、そのせいで夜更かしして、顔にニキビ作って…。どんどん見せられない顔になっていくのに、やっぱり私は悩んでいる。そして、ドキドキしている。

 無条件にあいつのことが好きだ。無条件にあいつに恋したい。でも、現実は…断られてしまうかも知れない…そんな不安がついて回る。そう、ここは現実の世界。漫画みたいにうまくいくはずなんてない。大体にして都合が良すぎるのよ、漫画は。告白すればみんなOKなんだもん。世の中には、叶わない恋だって多いの。
 でも、
 私は人間。
 小さな希望があれば、それがどんなに危険な希望でも手を伸ばしたくなっちゃう。
 何時か見た物語の結末を、私が主人公になったつもりで、そのまま演じきることが出来ると信じちゃう。
 あの物語は確か…そう…ケータイでメールを送るんだ。

 月明かりだけを頼りに机の上のケータイを手に取る。メール作成ボタンを押すと、薄闇に虹色が舞った。『明日暇?』そんな文章を入れるだけのはずなのに、私の指は寒さに凍えるようにコントロールが定まらなかった。これはきっと物語の始まり。私は今、少女漫画のページを捲ったんだ。自分が主人公の漫画の。

hourglass
(主に一時間用の)砂時計、水銀時計

 どうして何時も俺はこうなんだろう。肝心なときに失敗する。男はいざというとき女よりも失敗しやすいなんて誰かが言うけど、やっぱりこれは俺だからこそ失敗するんだろうな。武志おじさんだって何時も言っていた。時間は二度と戻ってこないって。でも、俺は何時もこうやって失敗してしまう。
 取り返しの付かない失敗があるように、取り返しの付かない瞬間もある。そして、そのことを思う度に、人間は後悔するのだろう。そして、時間が戻らないかと本気で考えてしまう。誰だって知っているんだ。時間が戻らないことを。砂時計のようにひっくり返せば時間が戻るなんて言うことが、この世の中に存在しないと言うことを。
 告白したのまでは良かった。でもどうして俺は…。

 夕日がこれでもかと言うほどオレンジ色を自己主張している。影は果てしなく長くて、まるで巨人になったかのようだった。
「あのさ…美希…。」
「ん? なに?」
「えっとさ…。」
 夕暮れのキャンパスは人通りもほとんど無く、静かな時間を保ち続けていた。それに寄り添うように、俺達の間にも静かな時間が流れていた。
「あっ、天使が通り抜けた。」
「そ…そうだな…。」
 そしてやっぱり沈黙。
「それで、何が言いたいの?」
 いい加減イライラしてきたのだろう。美希は持っていたハンドバックを体の前の方に移し、少しだけ前後に揺すった。
 …決めた。
「美希。一つだけ言いたいことがあったんだ。」
「なに?」
 まるで漫画に出てくるキャラクターのように首をかしげる美希の姿が、逆光の中に映った。
「あのさ…おれ…。」

 それから先は覚えていなかった。どうしてか俺は、その一言を吐き出した瞬間、美希に背中を向けてその場から走り去ってしまった。
 きっと、緊張の糸が切れてしまったんだろう。そして、同時に、美希との赤い糸も切れてしまった。

 キャンパスの端にある公園のベンチ。そしてそれを取り囲む林にもう太陽の光は届いていなくて、ただ、物寂しい人工照明が浮かんでいるだけだった。
「時間が戻ればいいのに…。」
「君はそう言って未来から戻ってきた。さぁ、遠慮せずに事を始めなさい。」
 おおよそ存在してはいけない声が耳に入ってきて、俺は驚きのあまり姿勢を崩し、ベンチと一緒に後ろに倒れた。
「つつ…。」
「相変わらず抜けてるね、将義は。」
「美希…。」
 たった一人の人が現れただけで、色彩を失っていた公園が急速に彩りを得ていく。見た目は何も変わっていなかった。でも、その公園の意味自体が変わってしまっていた。
「さて、将義は、未来の世界から『時間が戻ればいいのに』と言って今の時代に戻ってきたんだぞ。私に何か言うことはないのかな?」
 そう指を俺に向けて指すと、美希は笑って見せた。そんな笑顔に心臓の音が緩やかになっていく。美希は不思議な人だった。ドキドキすると言う訳じゃない。でも、側にいると不思議に落ち着いた。

 ゆっくりと口を開き、伝えたかった言葉をはっきりと音に出して言う。そして、それに対する美希の返事を、今度は、しっかりと、見届けることが出来た。

innocent
無邪気な、天真爛漫な、潔白な、無罪の、無害な、悪意のない、単純な、お人好しの

 巣の中から引っ張り出すかのように強引に決めた初デートの日。雅聡は私より先に待ち合わせ場所に着いていた。30分も早く来たのに、彼はもっと早く来ていた。その理由を聞いたら、「お前に早く会いたかっただけだから」なんて平気で言っちゃうの。あり得ない。今時大学生になってそんな台詞を言う人がいる事に私は心底驚いて、固まってしまう。
 「なにぼけっとしてるんだよ」と言いながら利き手で小突かれた感覚に、体が震えて、彼の方を向くと、少しだけ太めの眉と口の端が上に持ち上がっているのを見て、今度は自分でも分かるぐらい顔が熱くなった。あんたの所為よ、と大きな声で言ってやりたいのに、その笑顔を見て私は何も言えなくなる。
 彼は何時も無邪気だった。無防備だった。

「フィレオフィッシュでいいんだよな?」
 近くにあったモスに入ると、雅聡がそう聞いてきた。何時も私が注文するメニューだった。
「覚えていてくれたんだね。」
「まぁ、あれだけフィレオフィッシュばっかり食べてればな。」
 そんなちょっと失礼な台詞だって雅聡は全然気にしないで喋る。
 商品を受け取って、私が待つ席に戻ってきたとき、彼は相変わらず、コースメニューのポテトとジュースをLサイズにチェンジしていた。そして何の躊躇いもなく私の前でそのポテトを口に頬張る。
 彼は相変わらず無邪気だった。無防備だった。

「この服、似合うかな?」
「や、こっちの方が似合う。」
 普通なら「似合ってるよ」なんて言ってくれる場面かも知れないけど、彼の頭の中にそんな台詞はなかった。黒いシャツに赤いキャミ。長袖のデニムジャケットにカーキー色のロングスカート。どこからともなく持ってきた洋服一式を私に手渡すと、「じゃ、よろしく」なんて言って、私より早く更衣室のカーテンを閉める。
 着ていた服を脱ぎ、下着だけの姿になると、私は手渡された服を順番に着ていった。黒と赤の組み合わせ。その赤を差し色にするような形で上書きされるデニムのジャケット。色の軽いロングスカートはその面積でトップスの色をカバーしていた。自画自賛に可愛くなった私は、更衣室の中でスカートを指でつまみ、揺らしてみた。少しだけ厚めの生地が波打ち、そのたびに、くるぶしが見え隠れしていた。
 カーテンを開け放ち、お披露目。
「どう?」と言いながら、私はさっき覚えた必殺ポーズ、スカートの裾揺らしを実践してみた。
「…か…可愛いよ…。」
 今まで見たことがないぐらい頬を赤くして私に背を向けた雅聡の背中を見て私は思った。
 やっぱり、彼は無邪気だ。無防備だ。そして、可愛いんだ。

jealousy
嫉妬、妬み、怨恨

 今日の可奈美はいつになく不機嫌だった。同棲生活を初めて既に半年。恋人同士になって既に三年。こんなに不機嫌な可奈美を見るのは初めてだった。特に思い当たる節はないし、事情を聞こうにも口を利いてくれないのだから対処のしようがない。ただただ、ほっぺをふくらませて、『ぷいっ』と音が聞こえてきそうな素振りをする可奈美が落ち着くのを待つしかなかった。それでも、時間に全てを任せるわけにはいかない。とりあえず俺は、ここ数日の自分の行動を振り返ってみることにした。

 三日前の月曜日、この日は普通の日だった。八時に会社から帰ってきて、そのまま夕ご飯。二人で並んでテレビを見て、一緒にお風呂に入って、そのまま二人でベッドに入って夜を過ごした。特におかしな所はない。相変わらず可奈美の裸体は美しくて…っと、これは必要ない。
 二日前の火曜日。この日は確か…そうだ、甥の将義から電話がかかってきたんだった。確か、告白するとかしないとか、そんなことの相談を受けたような気がする。携帯の通話履歴には二時間と書いてあるから、結構長電話だったんだな。まぁ、あいつも大学生だ。そろそろ恋人の一人や二人、見つけてもいい年頃だろう。そう言えば、告白の結果は未だ聞いてないな。
 昨日は水曜日。珍しく会社が早めに終わって、六時には家に着いたはずだ。いつものように夕ご飯を食べて、二人で並んでテレビを見たんだ。途中、将義から電話がかかってきて、三十分ぐらい会話したはずだ。その後は、いつもより夕ご飯が豪華だったからお腹が一杯になって、そのまま可奈美の肩を借りて寝てしまったんだな、確か。起きると今度は可奈美が眠っていて、首筋を優しく愛撫する小さな寝息が妙にくすぐったくて、それでいてドキドキして、少し興奮してしまったことを覚えている。
 そして、今日の朝、可奈美は不機嫌だったんだ。一体、何があったんだろう…。

 考えてもらちがあかない。そう結論づけた俺は、可奈美に直接聞いてみることにした。

「なぁ、可奈美。」
「なに?」
 短めに、それでいて投げやりに発せられた言葉に、少しだけたじろいでしまう。
「俺、何かしたか?」
「さーねー。友達との電話で大切なことを忘れるような人には教えませんよーだ。」
 いつになく子供っぽい可奈美に少々あきれてしまう。大事なことを忘れるって…なんだ…サラダ記念日とかあったっけか?
「なんか記念日とかあったっけ? 誕生日は絶対違うし…。」
「自分の胸に手を当てて考えてみたら?」
 これだ。女って言う生き物は時々分からなくなる。そもそも、記念日量産マシーンを背中に抱えていること自体が意味不明だ。まぁたしかに、遥か昔、人間が狩りをやっていた時代、男が狩りで村を留守にする間、女が一致団結し村を守り、その過程で、女同士の交流が円滑になるように脳味噌が発達したし、脂肪を蓄えて飢餓に耐えられるようにもなった。でも、交流を円滑にするためとはいえ、記念日を覚えたりする能力が発達したのはちょっとばかり現代の男にとって迷惑な話だ。正直言って、くだらない。そりゃ、誕生日は大事かも知れないだろうけど、結婚記念日とかつきあい始め記念日とか、サラダ記念日とか…そんなに記念日を作って何が楽しいのだろうと思うぐらいくだらない。
 まぁ、きっと食事が豪華になったあの日が何かの記念日なんだろうけど、残念ながら、結婚はしていないから結婚記念日ではない。
 つきあい始めて三年目。未だに可奈美のことがよく分からなくなる。三年もつきあってきたら、可奈美の行動特性ぐらい分かってもいいものだが…三年も付き合ってきたら…。
 …三年。
 ……三年。
 ………三年。
 おいおい…まさか本当に…付き合い始めて三年目の記念日とか言い出すんじゃないだろうな…。
 急いで戸棚から三年前の手帳を取り出す。昨日は確か…そう、7日。月間予定表を引っ張り出し、3月7日を探していく。あった…。予定内容…可奈美と合う。…ヒット。三年前の3月7日、俺は可奈美を呼び出して告白したんだ。そして、その次の日曜日、早速デートに出掛けた。
 なるほどね…。
 原因を見つけた事に安心して、俺は一つ大きな息を吐き出した。そして、一つの課題ができあがったことにも、大きな息を吐き出した。友達からの電話のせいで、自分達の記念日を忘れられたと思っている可奈美のご機嫌をどうやって取るか。それを見つけ出すまで溜息の日々は続きそうだ。

初出: 2005年10月16日
更新: 2005年10月30日
著作: 鈴響 雪冬
Copyright © 2005 Suzuhibiki Yuki

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