Top > ウェブ公開作品 > 小説 > 掌編・短編小説 -短編小説- > この人に、ピンと来たら110番
『○○の秋』、と言う言葉にたとえられるように、私はその中に恋の秋という物があってもいいと思う。おおよそ動物たちの繁殖行動は春に行われることが多いが、人間は季節感が欠如しているかどうかはともかく、年から年中繁殖しようと思えば繁殖出来るのである。
『○○の秋』と言えば、『食欲の秋』という言葉が浮かぶ人も多いかと思う。食欲を満たすためには、食べるという工程が必要になり、その前には料理という工程がある。料理の材料となる食材の調達も、調理用具の調達も、食欲を満たすためには必要な工程なのである。幸い、今日の人間社会では、生産と消費という項目が別れているため、一般消費者は農家の方が作ってくださった作物を買い取り、手軽に調達することができる。生産という工程が省かれるのだ。何とも便利な世の中になったものだ。
料理で思い出した。面白い話があるので紹介してみようと思う。おつきあい願えるだろうか。
よく、『趣味は料理です』なんて言う人がいるが、これは危険人物だ。もう、110番を掛ける用意した方がいいだろう。特に、顔もけっこう美味しく頂けそうな、好青年だったら、危険度は測定出来ない。もし貴方が女性なら今すぐ手に電話と取っておくことをお勧めする。クラスの中に三国志にやたらと詳しい人が必ず一人いるように、クラスの中や職場の中で、必ずこういう男がいる。『あっ、趣味は料理なんですよ。仏蘭西料理とか作れますよ。』っていうやつだ。『作れますよ』の後に、ちょっと照れながら俯いて頭をかいているような奴だ。この台詞を聞いただけで、周りの女性陣はその人に対してラブラブ光線を放ち始める。それを満面の笑みで受け止める男。まぁ、この女性陣の中にいるかどうかは計り知れないが、この男はそのうち一人の女性と結婚することになるだろう。端から見れば夫婦円満だ。
そう言えば、この男が何故危険なのかをまだ説明していなかった。前述したとおり、料理は人間が生活をする上で必要な衣食住の食を担っている。このように重要な『食』を趣味で片づけられては困る。勘違い甚だしい。人間の基本欲求の一つを趣味と言い放つ…事自体が既におかしい。これじゃあ、排泄や繁殖が趣味ですと言っているようなものだ。
しかしまぁ…ここまでなら許せるだろう。料理が趣味になりうるのはきわめて例外的であるが、実際多く存在しているからである。問題はこの後だ。
自炊生活や家族のために料理を作る人ならわかると思うが、料理とは冷蔵庫の中の残り物との格闘である。一週間分の献立を考え、それに見合う食材を買ってくるにもかかわらず、必ずと言っていいほど週の終わり頃には残り物が出てくる。そう…。真の料理の姿とは、この残り物をいかにして衛生的に調理し、食べられる状態にした上で、残り物とわからせないことなのである。日々台所に立つ人達は、この大きな難題を毎日こなしているのだ。そのことに私は敬意を表する。今すぐプロジェクトXで取り上げて欲しいほどだ。
「茶碗に一粒ご飯を残せば片目が見えなくなる」なんていう言葉に形容されるほど、食材は重要なものだ。自分のために死んでしまった植物や動物に我々は感謝すると同時に、最後の全うさせてやるのが我々の使命である。
しかし、この男はどうだろう。ひとたびこいつが包丁を握ったら最後、台所は燦々たる有様だ。「よし、俺がおまえのために料理を作ってやる」なんて言い出したら逃げ出した方がいい。または、素直に台所を明け渡してはいけない。貴方は台所を死守するべきである。こいつは危険だ。この男、料理をするためには香辛料が足りないとか、赤ピーマンと黄ピーマンが無いとか言い始めて買い物に行ったあげく、大量の食材を買い込んで帰ってくる。この時点で家計を圧迫してしまうのは目に見えている。何処にあるかも知らない意味不明な言語で書かれた店に出掛けて、これまた意味不明な材料を買ってくる。女が狼狽する中、男はお構いなしだ。
さて、料理を始めたとしよう。野菜を炒める音や包丁のリズムが聞こえてくる。私にはそのリズムが地獄へのカウントダウンに聞こえてしまってしょうがない。数時間後、「おまたせ」なんて言ったあげく、いつの間にかテーブルの上にはクロスとランチョンマットがひかれ、真ん中にはローソクが立っている。ムード満点のこの雰囲気、男は大満足だ。男の中の成功ゲージはマックス寸前。確実に落ちるなんて思っている。男は何時だって変態だ。この後の展開を、にたにたしながら考えているに違いない。あぁ、いかがわしい。
「さぁ、料理を食べようじゃないか」なんていう男の誘い文句に女性は乗り、男の手料理を食べ始める。流石、自分から言うほどだけあってその味は完璧だ。そこらのシェフと言っても間違いはないかも知れない。二人で楽しい時間を過ごし、後かたづけが終わると男は手を振って玄関を出た。その顔は満面の笑みだ。男の脳味噌の中だって「今日は完璧だ」なんて思っているはずだ。この時点で男の中の成功ゲージは限界を突破。次はどうしようかと考えをめぐらせている。しかし、それは男の妄想。現実はもっと厳しい事を後で知るだろう。いや、一番辛い現実を味わうのは、料理を食べさせてもらった方の人だ。
次の日の朝ベッドから目覚めて、さわやか気分。皿洗いも男がやってくれたから、今日は純粋に料理から始められる。さて、朝ご飯をつくらなきゃ、と立った先は台所。彼女は冷蔵庫を開けて絶句する。そこにあるのは見たこともない食材。昨日の料理で使い余したであろう、おおよそ使い回しのできそうにない食材がごろごろ転がっているのである。なんだか知らない細長いネギみたいなやつとか、ピーマンだけどピーマンじゃない物体。鼻を突くハーブの匂い………。これらを食べるために浮かぶ調理手段は『佃煮』しか無いんじゃないかと思わせる食材が転がっている。頭を抱えながら冷蔵庫を閉め、目線を動かせば、シンク周りに見たことがない小さい瓶が置いてある。手に取ってみると、どうやら香辛料のようだ。書いてある文字は…日本語ではないことだけは理解出来る。そういえば、昨日の料理に緑色の粉が降りかかっていたっけ、なんて気が付いてももう遅い。手に負えない食材が女を煩わせる。
さて、数日が経ち、冷蔵庫の中もいい具合に減り始めた頃、男の残していった使い道がわからない食材だけが、冷蔵庫の隙間を埋めている光景にため息をつく。手に取ってみると所々変色し、食べられそうにもない。食材がわからなくても腐り方だけは万国共通、食べられないことだけはわかる。普段ならこんなことはないのだが、自分の知らない食材を料理すると言う怖さを彼女は知っているし、悪くなった食材がどんな悪さをしでかすかも彼女は知っている。発酵ならともかく、これは確実に腐敗である。彼女はそれらの食材を手に取り、生ゴミとして処理してしまう。この時初めて女はあの男に対して険悪感を覚えるのである。
それから男は二週間に一度、彼女の家に来ては仏蘭西料理を作るようになっていた。それを美味しく頂いた後は、地獄が待っている。自分の知らない食材を冷蔵庫に入れられ、悪くなった食材を捨てる。何度と無くそれが続いたころ女はこの男との決別を決心するのである。そして男が最も祝福の時を味わっている料理の最中にその話を切り出すのだ。成功点から奈落の底へ一気に突き落とされた男は彼女の元に二度と来なくなる。彼女は平和を取り戻したのである。冷蔵庫は家の鏡。他人に侵される領域ではないのだ。女はその後他の男と結ばれ、結婚に至った。女は新しい男と共に平和な生活を…平和な食事生活を送っているのであろう。みそは白、赤、なんて言う小さなやりとりをしながら、新たな家計を作っていくのであろう。
さて、一方あの男はというと、相変わらず非生産的な行動を何処かで繰り返している。食材を買い込んでは残った食材の処理を他人に任せる。彼はいったい毎週どれだけの食材を使い切れずに捨てていくのであろうか。数週間に一度しか料理をしない男にろくな人はいない。結婚したら料理を作らなくなることは目に見えている。『料理は趣味なんです』て言う男には十分気をつけてくれたたまえ。