光になりたい -第八章-

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前回までのあらすじ

 いつ、何が起こるかわからない…それが自然の流れ…。わかっているわかっているはずなんだけど…自分のみに降りかかったときのショックは大きい。そして…それが田村さんだった…。

 昔のように心を閉ざしたという田村さん。でも、俺はそんな顔を見るのが嫌だったから…。だから言葉を田村さんに投げかける。
 俺の言葉に何を思ったのか田村さんが泣き出してしまった。
 抱き留めることなく、俺は田村さんが泣きやむのをゆっくりと待つ事にした。

光になりたい ~第八章~

 あれからどのぐらいの時間が経ったのだろうか。開け放たれたドアの向こう、廊下から、色々な音が聞こえてくる。看護師さん達の忙しそうな足音、患者同士の談笑…お見舞いに来た家族だろうか…子供の声にお母さんと思われる声が混ざる。そして…俺の後ろからは…田村さんのしゃくり上げる声が聞こえてくる。はじめより、間隔をあけ…大きさも小さくなっていた。
 その声がやがて聞こえなくなり「ごめんなさい…」と、田村さんが振り向きざまに言った。
「俺の隣で泣く事がが出来るなら…いつでも隣…あけておくから。田村さんが安心して泣く事が出来る場所…いつでもあけておくから」
 俺は田村さんに背中を向けたまま言った。恥ずかしさで埋め尽くされている顔をなんとか押さえると、俺は意味もなく部屋を見渡す。
「まぁ、もちろん、田村さんがよかったら…だけど」
「河口さん…」
 返事をする代わりに俺の名前を呼んだ田村さんに俺は「隣に座ってもいい?」とたずねた。
 少しだけ間をあけた後、一度だけ首を、縦に振った。それと同時に田村さんが隙間をあける。一度ベッドから降り、ぐるりと移動すると、俺は田村さんと同じように、そして田村さんの隣に腰をかけた。目を上げると窓が目の前にあり、外の街並みが見下ろせた。浅い朱色の街を幾人もの人が動いている。
「あ、あの…」
 しばらく外を眺めていると、隣からおどおどした声が聞こえてきた。
「どうしたの?」
 聞き返すとまた、小さな間があった。もしかしたら、俺はこの間が好きなのかもしれない。人間が言葉という音を使って会話をするならば…音の継ぎ目の、この間にも意味がある。そして、俺はこの田村さんが作る間が好きなんだと思う。
「あ…の…どうして河口さんはこんなに優しいのですか?」
『俺は元から優しいよ』
 …う~ん…だめだ
『田村さんだからだよ』
 ストレートすぎる
 ………………………。
 さんざん悩んだあげく何も答えない事にした。田村さんの横顔を見る。幾束の髪が肩より前に垂れ、パジャマに線を作っている。
 そう言えば…こうやって横顔を見る事はあまり無かったような気がする…。どうしてだろうか…。
「ねぇ、田村さん。薫との出会い…聞かせてくれるかな?」
「薫と…ですか?」
「うん…田村さんがよかったら…だけど」
 この期に及んで俺は薫の事を思い出させようとしているのか…。そんな自分が腹立たしい。だけど、田村さんは俺の質問に答え始めた…。
「私の目が見えなくなったのは…そう…丁度今回と同じように事故が原因です…。中学校一年生の時…凍結した路面で車がスリップして私に向かって突っ込んできました…。そして、その事故以来、私は視力を失いました。光と色のある世界から、背中を押され、深い谷底に落ちたかのような気分でした。全てのものが見えない事に、私は私自身すら見失ってしまいました。ベッドの上で初めて目を開けた時、何も見えなくて…夜だと思って…一人私は『お母さん…』と呟きました。
 『お母さん…』
 『大丈夫? 由梨絵』
 『うん…大丈夫。お母さん…今何時? ずいぶんと暗いけど…』
そこまで会話を進めると、不意に時間が止まったかのように感じました。いえ…実際には止まっていたかもしれません…。
 『今は、十一時よ………午前の』
 『えっ…嘘…だって…外はこんなにくらいのに…』
聞き慣れない男の人の声が私にこう言いました。『今からライトを動かすから、目で追いかけてね』って…。でも私が何時まで待っても光は見えませんでした。そして、その時、私は、自分の目が見えなくなった事を知り、同時に二度と見えるようにはならないと聞かされました。院内学校で白杖を持たされ、これからはこれで歩くんだよと言われた時…私は『もう死んでもかまわない』と本気で考えました。でも…二人とも…父も母も私の手を握ってくれました…。ゆっくりと私と歩き、私と向き合い…時には抱きしめてくれました。一緒にお風呂に入ったり、一緒にふとんに入ってくれたり…二人とも私のために一生懸命でした…。何時しか私は思うようになりました…。『自分を見守ってくれる人がいる。だから私もそれに答えなきゃ』…と。訓練と治療のため一年学校を休み、中学二年生になった四月…学校に復帰した時…クラスメイトは既に一年上でしたけど…全ての人が私を受け入れてくれました…。手をつないでくれたり…歩く時肩を貸してくれたり…授業を後から教えてくれたり………。慣れない世界で何も知らない世界で…ゆっくりと私は自分を取り戻し、新しい自分を見つけました。放課後の学校に響き渡る吹奏楽部の演奏に惹かれ、フルートを始めたのもこの時期です。やがて三年生になり、進路を決める時、私は普通の学校に入学する事にしました。もちろん反対はされました。でも、どうしても入学してみたかった………。結局、先生や両親の反対を押し切り、私は高校を受験し、前の高校に入学しました。………でも…新しい学校で私を待っていたのは隔離授業の世界でした…。一人違う教室で私は高校生活を始めました…」
 そこで田村さんは言葉を区切ると窓の方へと顔を向けた。そのままの姿勢で、一息置いた後、また言葉を紡ぎはじめる。
「私にとって高校生活は地獄のようでした。中学の時とは全く違う周りの対応…。気がつけば小さな苛めが起こっていました。靴を隠されて…裸足で家に帰った事もあります。白杖を隠されたり、足をかけられたり…。初めのうちはクラスに遊びに行っていた私も、だんだんとそこから離れていきました。やがて、本来の自分のクラスから離れ、名前だけ与えられたクラスで私は授業を受けるようになっていました…。二年生の夏が始まる前…私は両親につられてとある場所に行きました。建物の中に入る前…父は私に、『由梨絵は盲導犬と一緒に歩きたい、って希望したことがあるよな?』と言いました。確かに私は希望してはいました。ですが、希望した時はまだ基準の十八歳に年齢が届いていませんでした…。そして、その時、私は盲導犬を借りる事が出来るかもしれない、と告げられました。その後、面接やテストを含め、入校式が終わったあとから早速訓練が始まりました。指示語やハーネス、リードの扱い方…それらを教わり、その日の夜が終わる時…私は盲導犬候補犬の『薫』とペアを組む事になりました。次の日…私は、初めて薫に出会いました。指導員の方に名前を呼んでくださいと言われ、おそるおそる『薫』と呼ぶと、薫は私に向かって全力で走ってきました。その勢いの強さに私は後ろに倒れてしまうのではないかと思ったぐらいです…。一緒に訓練所で過ごして…一緒に街を歩いて………。訓練の時…街に飛び出した時…今まで一人で歩いていた時とは全然違うのです。足を踏み出せないでいる私を薫がぐんぐんと引っ張っていくんです。何時の日か忘れてしまっていた風を感じて歩くと言う事…思い出しました…。そして、その時、私は、薫となら行けると思いました。二人で歩くようになって、ゆっくりと外の世界に慣れていきました。一度は手放した外の世界を………。入校してから約四週間……卒業試験当日…私の十八歳の誕生日の当日…決められたコースを私達は歩きました…。そして…目的地…つまりゴールに辿りついた時…指導員の方が言った『おめでとう』と言う言葉…忘れられません…あの時から…私は盲導犬と行動を共にする事を許され、薫は正式に『盲導犬』になったのですから…。卒業式を終え…家に戻ってきた日から…私と薫の二人の生活が始まりました…。夏休みも終わり、学校に私は復帰しました。そして…丁度その頃でした…苛めが本格的になったのは………。苛められる理由は単純で…でも私にとっては一番ショックな事で…『私の目が気持ち悪い』のだそうです。何処を見ているかわからない…視点の定まらない…私の目が…。『そんな目で私達を見ないで』とまで………。その頃から私は人前では目を開けないようにするようになりました。どうせ開けていても目が見えないですし………。それでも事は変わるはずもなく…苛めは悪化する一方でした………。時が経つにつれ、体に出来るアザや傷は増え、お風呂に入るたびにしびれて…。特に…水面下で進行する言葉や態度の苛めが一番辛かった…。でも、何時も薫には言うんです…『大丈夫だから』、『心配しなくてもいいよ』って…。それも短い間だけでした。やがて私は耐えられなくなり、私はこの事を…全てを両親に告げました。丁度…秋の初めの頃だと思います。二人ともショックを受けたようで…でも…みんなを責める前に私を抱き留めてくれました。『しばらく休んでいいよ』…と言われましたが私は学校に通い続けました。忘れられるよりも…無視されるよりも…邪魔だと思われている間のうちが幸せですから………。でも…私達…家族みんなで転入する事を決意していました。慣れている街を離れる事は不安でした…。でも、このままだと、何時か薫まで被害に遭ってしまうのではないかと思い…私達は準備を始めたのです。それに…薫と…みんなと一緒ならどこにでも行けると思いましたから。教育委員会と学校に苛めの事実と共に報告し、テストを受け、手続きを済ませ、私は住み慣れた街を離れ今年の四月…この街へ引っ越してきました………。…色々脱線してしまいましたね。薫と出会ってから私は外に出る事が出来るようになりました。いえ…元から外に出る事は出来たのですが…心に余裕が無くて…当時私が心から信じる事が出来たのは両親と薫、そして、相楽さんだけでした」
「相楽さん?」
 聞き慣れない名前に俺は沈黙を破った。
「はい。高校の時、隠された靴や白杖を探して頂いたり…私の話につきあって頂いたり…。彼女はまだあちらの学校にいます…。高校に通い続ける事が出来たのもあの人がいたから…でしょうね…。結局両親も友人も…そして薫も私を支えてくれています。河口さんの言うとおり………信じてみたいと思います………。薫が私を信じてくれるのなら、私も薫を信じなくてはいけませんよね? それに私がいつまでもこのままだと………みなさんが………」
 最後の方は泣き声で聞き取る事が出来なかった。俺の隣で泣く田村さんを…ゆっくりと抱き寄せた…。背中に手を回したときびくりと震えたが、そっと俺に体を預ける。震える背中に手を乗せ、その体を自分の胸元へと導いていく。あの時と同じようだ…。田村さんが抵抗しない事に少しだけ嬉しく思いつつ、自分の行動に罪悪感を覚える。ゆっくりと流れる時間の中で、俺の脈だけがその速度を上げていった。
 二人が出会ってから一年以上が経つ今…。薫を一人の家族として迎え入れた田村さんにとっていかに薫の存在が大きいのか…。自分の天秤で量る事は出来ない…。でも、その大きさだけは何となくわかったような気がした。

   *

「もう…大丈夫…です」
 その言葉に俺はゆっくりと手を離す。
「見苦しいところ…見せてしまいましたね…」
「気にしなくていいよ。もう、沢山見たから」
 そんな俺の言葉に田村さんは困惑する。
「私…そんなに泣き虫ですか?」
 必死…とまでは行かないが、あえて確認する田村さんに少しだけ俺は笑いながらも答えた。
「泣く事はいい事なんだ…。そのぶん、笑う事が出来る証拠だから。笑う事で涙を溜めて、泣く事で笑顔を溜める事が出来るから………」
「………………………そう…ですね」
 あの事故が起きてから、俺ははじめて田村さんの笑顔を見た。涙で少しだけ歪んでいたけど…。

    *

「そろそろ時間だから俺はもう帰るよ」
 太陽が落ちる時間は遅くなりつつも、時間の流れは変わらない。もうすぐ夕食の時間だ。由梨子さんも来るだろう。
「はい…お引き留めしました…」
「いや…気にしなくていいよ」
 鞄を背負うと俺は病室を後にした―――
「河口さん」
「ん?」
 ドアの前に立ったころ、呼び止められた。振り向き、田村さんを見る。少しだけ………俯いた後、田村さんは言った。
「………泣きたくなったら…また…胸を借りてもよろしいですか?」
 言われた言葉の意味にとまどいつつ俺は一つの単語で答えた。
 …承諾を意味する言葉で。

6月2日(月曜日)

 病室に向かう途中で俺は珈琲を飲む事にした。コミュニケーションホールとかかれた一角を俺は目指す。全ての人に開放されているその場所には一般の人を含め4,5人が椅子に座っていた。窓の外に目をやると開けた場所―――テラスがあった。お金を入れ、番号を選び『OK』ボタンを押し、珈琲を買った俺はテラスに出た。二ヶ月前までは夕日が見えた時間…でも今はまだ明るい。
 軽快な音とともにプルタブをあけると俺は一気に飲み干した。缶をいったん足下に置き、目を瞑り、手を広げてみた。
 風が指の隙間を抜け、通り過ぎる。同時に鳴った葉のすれる音…。遠くに聞こえる街のささやき…。目を閉じているはずなのに…目の前に街の様子やが浮かんでくる。風に揺れる木が見え、葉が見え…やがて風の軌跡が見えてきた。
 すぅ、と、息を吹い、肺に新しい空気を溜めると、俺は缶を持ちテラスを後にした。

 病室に入ると見知った顔の人たちがいた。
「おい、遅いぞ」
 俺に気づいた義之が声を上げる。
「主役は一番ドラマティックに登場するものなんだよ」
「いいから入ってこいよ」
 さりげなく無視された心境になった。

 久しぶりにみんながそろっている。篠原さんに相沢さん、如月さんに義之…そして俺と田村さん。朝の風景をそのまま切り出したかのような場所が病室にある。
「本当に元気になってよかったよぉ…みんな心配したんだからね」
「ご迷惑をおかけ致しました…」
「謝らなくていいわよ。元気になってくれただけで嬉しいんだから」
「はい」
「それにしてもよかったよ。ねぇ、田村さん、なんかあったの?」
「ぇ…?」
「ううん。急に元気になってさびっくりしたから」
「それは…内緒です」
 内緒…秘め事…。二人の間にだけ共有し他人には見せない隠れた部分…。二人だけの共有された事…そして自分達だけが知っているという満足感…。お互いに『他の人に教えてはならない』という契約を与えると同時に得るもの…。
 如月さんが俺に目配せをした。それに俺も返す。如月さんは数瞬笑ってすぐ元の顔に戻った。
 俺もそれっきり会話に混ざる。
 何気ない話題…。昨日のテレビの事や最近のクラスの様子…。野球の結果や今日のご飯の事…。田村さんがいなくて部活が盛り上がらないとか、朝が寂しいとか…。そんな普通の会話。たったそれだけの言葉のやりとりなのに…無くしたときの動揺は大きくて、手に入れたときのうれしさは計り知れない。言葉でも、触れる事でも、見る事でも、知る事でも、支える事でも………人は必ず繋がりを持っている。人と人、ヒトと他の動物………心と心…。いつも繋がっているから見失ってしまう。でも、確実にそれは存在する。人間は一人では生きていく事が出来ない動物だから…。弱いかもしれない…。でもみんなといるから強くなれる…。それが人間なんだろう。

6月5日(木曜日)

 ぽつり、ぽつりと言葉をはき出し、時間を進めていく。今、病室には二人しかいない。もちろん、俺と田村さんだ。あの日みんなが病室に集まった日から、みんなの時間が重なる事が無くなった。まぁ、部活も大詰めなのだろう。義之に関してはわからないが…。
 とまぁ、そんな理由で、今、病室には二人しかいない。
「私は出来るだけ皆さんの気に触らないように生活しなければなりませんでした。出来るだけすれ違わないようにして、出来るだけ登校時間をずらして…。話しかけられても、当たり障りのない言葉を選んで、出来るだけ相手の気に触らないように…」
「そんな事があったんだ…」
 この間の話の延長で、田村さんが話している。俺が聞いたわけではない。ただ、自然と流れができあがった。
「だから、田村さんは言葉遣いが丁寧なんだね…」
「いえ…別に丁寧という訳では…。元からこのような言い回しをしていましたし…ただ、輪をかけて強くなった…という感じでしょうか」
「そっか…。まぁ、着飾らない人間が一番かっこいいし素敵だと思うんだ、俺は。田村さんは田村さん自身で、俺は俺自身。見た目とか、そんなものじゃ人間は決まらないから…」
「河口さんは難しい事を言いますね」
 少し眉をひそめて首をひねる。
「でも、俺は少なくともそう思うな」
「はい。私も同じように感じます。今の私が私ならば、他の私は存在しないですから…。私は私自身です」
「うん。田村さんは田村さんなんだよ」
「河口さん………見てほしいものがあるのですが…」
 言葉がゆっくり動き出す。さっきまでの雰囲気とは何かが違う。何が違うの? と聞かれても答える事は出来ない。それは雰囲気が持つものだから…。言葉にする事は出来ない。そう…ちょうど第六感が反応するかのように…。
「どうしたの?」
 俺はその琴線(きんせん)に触れてみる事にした。デリケートな琴線はいつ切れるかわからない…。だから………そっと…そっと…。
「カーテンを閉めていただけますか?」
 何を見せるつもりなのだろうか…そう疑問に思いつつ、俺は、管理の都合で特別な事情がない限り閉める事が出来ない病室の扉を開けたまま、ベッドの上にある天蓋カーテンだけを閉じた。まだ高い太陽の光が、クリーム色になってその狭い空間に柔らかく入り込む。
「何を…見せるつもりなの?」
 なかなか動かない田村さんに俺は自ら歩み寄った。
「…私の全てを」
 短い無音の後、そう言った田村さんはなにを思ったのか、自分のパジャマのボタンに手をかけた。
「田村さんっ?!」
 俺の動揺をよそに、田村さんはゆっくりとボタンをはずしていく。思わず彼女の手を押さえる。
「河口さん…」
 その言葉に『離して』という意味を悟り、俺はゆっくりと手を離す。代りに自らの目を覆った。
「河口さん…見てください」
 そんなこと…言われても。
「お願いします…。見てほしいものがあるのです…」
 …。
「わかったよ」
 俺はゆっくりと手を下ろす。そして…閉じていた目を開ける。
 そこには田村さんがいた…。開かれた世界の向こう…ベッドの上で上半身を起こしている田村さんがいた。
 俺がまだ見た事がない…田村さん…。上半身を隠すものを下着以外全て取り払った田村さんがいた。手をひざの上に乗せ、俺を見つめる田村さんがいた。高級なガラス製品のような脆さ………繊細さ………それらを持つ女性の体がそこにあった。
 目の前に…。
 …。
 揺れ動く自らの脈。止める事が出来ない自分にもわからない感情。俺は田村さんをみる…いや…田村さんの体を見る。
 …
 ……
 ………
 ふ、と、ある事に気がついた。
 二人の間の距離を近づける。よく見ないとわからないけど…でも…うっすらと…線が見えたのだ。
 そして、それが何を意味するか…俺にはすぐに理解出来た。疑いたくなかった…でも、それが事実だった。
 体の至る所に傷がある。ちょうどカッターで浅く切った残り傷のようなもの…。背中を見る…。やはり…同じ。そして…そこには傷のほかに痣のようなものがあった。事故の傷とは明らかに違う傷があった…。
「これは…」
「はい…ご想像の通り、虐めの…痕です」
 俺はもう一度その傷を見つめる。無造作につけられた傷…痣。背中…体…肘のあたりまでその傷はあった…。無数に走るすじは…当時の様子を物語っている。
「…」
「河口さん…。一つだけ…教えていただけますか? どうして………どうして…人間は自分たちと違う物を追い出そうとするのですか? 好奇な目で見つめるのですか? なぜ、虐めるのですか? なぜ…どうして………? 私にはわからない…」
 いつかの、質問…。前は答える事が出来なかった…。だけど…今なら。
「田村さん…自分で言ってたよね。好きと嫌いは紙一重だって…。結局そう言う事なんだよ。気になってきになってしょうがないんだよ…。人間ってそう言う生き物だから…。集団生活を好む人間だからこそ、一つでも違うものがあると気になってしょうがないんだ。そして…一つ間違ってしまうと…虐めになってしまうんだ…」
「そう…ですか…」
 無表情のまま田村さんは言う。
「人間って不思議な生き物なんだ。好きになるのは一瞬で、嫌いになるのも一瞬だけど…一度好きになったら…その人の嫌いな部分も好きになってしまう。でも、一度嫌いになってしまったら、その人の好きな部分も嫌いになってしまう。本当に………紙一重なんだ…。でも…だからこそ、人間が存在するんだ。虐めをなくす事は無理だと思う。だって…人によってはそれが愛情表現なんだから…。本当は怖いんだよ、みんな。たった一人の違う存在によって、自分たちの生活が乱れるのが…でも………一度溶け込んでしまえば…ね」
 ここから先は田村さん次第だ。俺は一つの方向性を見いだしてあげたまで。答えは出さない。田村さんだってわかっているはずなんだ。俺より…はっきりとわかっているはずなんだ。虐められた本人だから…。そして、俺達の中に溶け込んだのは…田村さん自身だから。
「でも…虐めは暴力には変わりないんだ。だから…他の方法を教えてあげないといけない…。それが…周りの人たちの役目なんだ…。結局、人間は一人では生きていけない生き物だから。そして、それが、『家族』とか『仲間』とか『友達』とか『クラスメイト』とか………その他にも沢山………」
「河口さん…」
 田村さんが俺を見る…。いや、見ているような気がする。いつものように、田村さんは俺に顔だけを向けているだけだから…。でも、確かに見つめられている気がする。でも、そんな、田村さんの顔がゆがんで見える…。涙で視界が揺らいでいた。
「だから…田村さんがここにいるのは………田村さん…以外の全ての人たちの…おかげ…なんだよ」
「河口さん………」
「ごめん…よくわからなくて………」
「こちらこそ…訳のわからない質問をしてしまって…」
「気にしなくていいさ。俺、田村さんから学んだ事がたくさんあるから。だから、たまにはお返ししないと」
 謝りかけた彼女の声を遮った。
「ほら、服着て。ここで誰か来たら、俺は犯罪者だ」
「ぇ、あっ…わ………」
 あわてふためく田村さん。どうやら意識の隅から無くなっていたらしい。そんな姿を見て、俺にも急激に恥ずかしがこみ上げてくる。「外に出るから着替え終わったら呼んでね」と言ったつもりだったけど、舌が絡まってうまく言う事が出来なかった。カーテンの隙間から外に出、廊下に出る。息が苦しい。
 あれから田村さんに呼ばれたのは、十分に時間が経ってからだった…。

6月6日(金曜日)

 相変わらず忙しそうに時間が流れる病院の中、俺は田村さんの病室を目指す。既に見知った看護師さんと挨拶を交わし、患者さんとも挨拶を交わしていく。一般の外来診察が終わっている午後の時間。俺は通い慣れた道をたどっていった。

 病室に入って目に入ったのは誰もいない部屋だった。カーテンは開けられ、窓も開いている。流れる風に微かにカーテンが揺れる。義之も、篠原さんも………誰もいない。由梨子さんのバッグや、田村さんの白杖すらない…。
 白杖が…無い…。どこかに出かけているのだろうか? 田村さんが…出かける場所…それは…田村さん自ら好きだと言っていた場所…屋上。でも…病院で屋上を開放しているところは滅多にない…。
 考えを巡らす。必死になって田村さんを捜す自分が何となくおかしく思いつつも…。
 ある一つの答えにたどり着いた。
 その場所は………テラス…。俺が風の軌跡を見た場所…そこに…田村さんはきっといる。
 どこからともなくわいてくる確信に、俺は身をゆだね、テラスを目指した。

初出: 2003年11月8日
修正: 2005年2月5日
原作: 鈴響 雪冬
著作: 鈴響 雪冬
制作: 鈴響 雪冬
Copyright © 2003-2005 Suzuhibiki Yuki

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