Top > ウェブ公開作品 > 小説 > 長編小説 > 光になりたい > 本編 -第七章-
田村さんが転入してきた理由を聞いた俺は、現実というものを強く知った。そして、それを知ったとき、俺は強く自分の心が動揺するのも同時に感じ取った。
俺が田村さんの笑顔が見たい理由ってなんなんだ? それに自分で答えを見いだす。田村さんの発する言葉に俺は動揺する。田村さんを見るたびに動揺する心を俺は感じ取っていた。そして、それがなぜか、気がつく事になる。
「に、してもだ、今日は暑いな…。」
義之の呟きに俺も賛同する。
開け放っている窓からも風は入ってくる気配が無い。
薫も口をあけ、息をしている。
空気は歪み、二月早い夏を意識させる。
「というわけで、ストリッ―――ぐわっ…」
義之が学ランのボタンに手をかけた時に言った台詞に篠原さんがノートで応戦する。
「普通に脱ぐなら脱いでよね」
「へぇ~い」
Tシャツの上に半そでのYシャツ姿になった義之は、「ふぅ」と言いながら、手で顔を仰ぐ。
「俺、暑いの苦手なんだよね」
「そうなんだ」
まぁ、苦手…じゃないにしろ、急激な温度変化は余計に暑く感じさせる。俺も義之に見習い長袖の黒い服を脱ぎ捨て、椅子にかけた。
「皆涼しそうだね。私も脱いじゃおっ」
「おぉ~」
今度は二人で義之に応戦。
「おまえら…冗談だって」
信用ならん…。
そんな俺と篠原さんの動きを笑いながら、相沢さんは冬服を脱ぎ、夏服へ。
きちんと夏服用の胸章を持ってきてる辺り準備がいい。
…
……
………
結局、全員夏服になり、談笑再開。
「由梨絵は半袖じゃないのね」
「………はい。私はそんなに暑がりでは無いので…」
「いいなぁ…俺尊敬。暑いのは絶対に嫌だな…」
「俺も暑いのはちょっとだめかな…」
「ちょっと二人とも…それじゃ、夏はどうやって乗り切るの?」
「「エアコン」」
「そう………。あっ…」
突然手を叩いてあたかも名案が浮かんだかのようなしぐさをする篠原さん。
その音にも薫は反応しない。
ここまでか…。
「どうしたの、しの?」
「ん、夏で思い出したけど…夏祭り、あるじゃない?」
田村さん以外の人が全員うなずく。
その光景に俺は噴出しそうになった。
これは…篠原さんはやっぱりリーダだな。
「それで、皆でいっしょに行かない? 夏祭り」
「いいね~♪」
すかさず賛同の相沢さん。遅れて義之。
返事をしない二人。
「それじゃあ、全員参加、決定♪」
「いや、ちょっと待って、俺はまだ参加するともしないとも…」と言う前に「二人とも黙認なんでしょ?」と満面の笑みで言われる。
「まぁ…俺は問題無いけど…」
「私は…」
「悩むなら行こうよ。せっかくの祭なんだし。人多いけど、私達が何とかするから」
私達が何とかするから…。
田村さんが何を言おうとしたか理解しているかのような言い方だった。
「ね、みんないいよね?」
「あぁ。俺はかまわないぜ」
「私もいいよ♪」
「俺も」
「というわけで…由梨絵…いっしょに行かない?」
「えぇと…皆さんがいいのなら…」
「じゃあ、決定ね」
「あっ…はい」
ふと、自分の言葉を思い出した…。
『迷惑なわけないじゃないか。だってみんな本当に楽しそうに田村さんと話しているし、みんな楽しそうに授業をうけているし。』
人間、誰だって他の人に頼って生きてるんだ…。だから『人』という漢字が存在するんだ。少しぐらい…ラフに行こうよ。
「じゃあ、今週の日曜日にでも、浴衣買いに行こう♪」
どんどん話が進んでいく。
「ちょっと…早すぎるんじゃない?」
「まぁ、早いに越したことは無いけど…ちょっと早すぎじゃねぇか?」
「だって、あと2ヶ月無いんだよ。早いうちに買っておかないと好きな柄無くなっちゃうよぉ」
「それも一理あるわね」
納得した篠原さん。
「でも、この時期に売ってる店なんてあるのか?」
「隣町の夏祭り、時期が早いし…それに今年の夏は暑いらしいからもう出てると思うよ」
「なるほど」
納得した義之。
「いいんじゃないかな。もう六月になるわけだし…。ちょっと早いけど、今のうちなら相沢さんが言うようにいい柄もあるだろうし…それに、俺の親父、着物とかそういう和服もの好きだから、いい店、知っていると思う」
どうせ買うなら、自分の好みのものを選びたい。
「そっか。それなら安心だね。田村さんは大丈夫?」
「はい。私なら何時でも大丈夫ですよ」
「それじゃあ、決定、っと」
「問題は、何処に集まるか…よね。河口君のお父さんの教えてくれた店次第だと思うけど…」
「そうだな…親父は何時も商店街から買ってきてるみたいだけど…今日聞いておくよ」
「うん。お願い」
*
「と、いうことで…いい店知ってる?」
夕食を食べながらの会話。
親父がコトリと茶碗を置く。
「そうだなぁ…」
あごを親指でこすりながら考える。
「やはり、商店街にある『彩-sAi-』だろうな…」
親父が言った店の名前に何処か聞き覚えがあった。
毎週行く商店街だ。いったことが無い店でも名前ぐらいは自然に覚えているのだろう。
「あぁ…ちょっと奥のほうにあるんだが…あそこなら和服も着物もあるし…おまえ達にも買えるぐらいの値段も売ってるしな」
「へぇ…」
「あの店なら年中取り扱ってるし…この時期なら新作の柄とかも入ってるだろうな」
「新作?」
どこかのブランドでしか使わないような単語が出てきて俺は少しだけ驚いた。
「あぁ…。毎年夏の前に着物にも新作の柄が出るんだよ。時期的にはそろそろじゃないかな。買うなら今のうちだぞ。人気のある柄はすぐなくなる」
「そうなんだ」
相沢さんの読みはあたったわけだ。
「浴衣の買い方…知ってるか?」
「いや」
そもそも浴衣に買い方があることすら知らない。
「夜着るのが目的なら、白地の浴衣を選べよ。月明かりを反射させて女の人を綺麗に見せる。間違っても紺とかは選ぶな。それだけは言わせてくれ」
なるほど…。俺の脳内メモに『親父は着物フェチ』と刻まれた。
話を戻すと、暗いところで紺色の浴衣を着ると、着た人が沈んで見える…というわけか…。
俺は白地の浴衣を着た姿を思い浮かべてみた。暗闇に淡く映る浴衣を着た人達。陽炎のように儚げな雰囲気を醸し出している。
「おい、なににやけてる。気持ち悪いからそんな顔するな」
「ぇ?」
俺は自分の頬を叩き、引き締める。
「どうせ、また変なこと考えてたんだろ」
「また、ってなんだよ。またって」
「気にするな。まぁ、みんなで服を買うって言うのも結構楽しいと思うぞ」
「俺もそう思う」
「いい浴衣…着せてやれよ」
軽く下を向いてから俺を見つめ直し、親父が言ったその顔はかすかに笑っていた。
「そんなカッコつけて言わなくていいって。それになんだよ。着せてやれって」
誰に着させるんだよ。
「田村の服…みんなが選んでやるんだろ?」
あ…そうだ…。
「うん」
「じゃあほら、みんなで田村に似合う浴衣、選んでやらないと」
「あぁ」
金曜日、土曜日が過ぎて日曜日になった。
その日曜日、田村さんは車に引かれた。
5月25日…夏を間近に控えた暑い日だった。
いつものように朝ご飯を食べ、出かける準備をし、薫といっしょに商店街に向かった。
途中で遅れそうになると電話をして、急いで商店街に向かった。
商店街の近くの交差点。
薫といっしょに横断歩道を渡っている田村さん達に、メールを打っている運転手を乗せた車が、赤信号に気がつかず…突っ込んできた。
響き渡るブレーキの音。
薫は即座に左側に回りこむ…それは…田村さんをかばうように。
黒い路面に、朱色の鮮血と、リュックサックが、散らばった。
*
待ち合わせをした商店街の真中にある樹の下で俺達は田村さんを待っている。
樹の葉々から光が差し込み、天使の梯子を作り出す。
俺は汗をぬぐった。
「あっついねぇ…」
「まったくだ…」
「今日は…ちょっと暑いわね…」
「うん…」
みんな汗をぬぐっている。
義之に限っては2本目のジュースを持っていた。
俺達のそんな気分をよそに、陽気な着メロが鳴り響く。
「あっ、私の」
篠原さんが携帯を取り出すと、「田村さんから」と言った。
「はいもしもし」
会話が続いていく。
うん、そう。わかったわ。
「田村さん、ちょっと遅れるって」
「急いで来なくていいから、ゆっくり来てね。何かあると心配だから」
俺は電話口に向かって言った。
「聞こえた? うん。慌てなくていいからね。うん。じゃ、待ってるよ」
篠原さんが携帯をしまう。
「へぇ…いい事言うじゃん」
「いや…だってそうでしょ?」
「そうだねぇ。急いできてなにかあったらやだもん」
「まぁ、待とうじゃないか。待ち人って待つからこそ楽しいんだし」
「そうね」
喧騒の中、沢山の人が歩いていく。
高気圧に恵まれた今日。
みんな半袖で歩いていく。
暑いね。という会話が聞こえてくる。
先週はいなかった屋台のアイス屋さんが出ていた。
電話が来てから10分。
義之が本日三本目のジュースを買う。
みんなでそんな義之に「飲み過ぎだよ」と突っ込む。
笑いながら、喧騒の中。
店の音楽。
遠くのサイレン。
色々な音が聞こえてくる。
俺達は田村さんを待っていた。
電話が来てから20分。
ふと妙な感じが俺の脳裏をよぎる…。
なんだろう…この感じ。
繋がっていたものがいきなり切断されたような感じ。
俺は空を見上げる。
…ん。何でも無いよな。
電話が来てから30分。
一分一秒が経つのが遅く感じる。
人を待つことでこんなに不安になったことなんて無い…。
でも…きっと来る。
今に向こうがわから、人の多さにおどおどしながらも、田村さんは薫と一緒にやってくる。
そして、また、謝るんだ。
そして、また、みんなでそれを笑って許すんだ。
電話が来てから40分。
集合時間から30分。
俺は田村さんが歩いてくる姿を想像していた。
今に来る…きっと…きっと…。
電話が来てから45分。
みんな顔を見合わせた。
「ねぇ…」
篠原さんが携帯を取りだし電話をかける。
『おかけになった電話番号は電波の届かないところにあるか―――』
『プツッ』
無機質な音でさえぎられた声。
篠原さんは再び携帯から電話をかける。今度は田村さんの家に…。
そこで俺達ははじめて…何が起こったかを知った。
*
ねぇ…冗談って…言ってよ…篠原さん…。
その言葉…うそだよね?
事故なんて…ありえないよね?
ねぇ…嘘だって…言ってよ…。
ね、ぇ…嘘だ…っ、て………言、っ…て…よ。
ねぇ…。
俺はその場に崩れ落ちた………………………。
*
明滅する蛍光灯の下の椅子。
俺達は田村さんを待っている。
目の前にはいつか見た由梨子さんがいる。
言葉少なく…ただ…みんなの嗚咽が聞こえる。
俺は…。
泣くことなんて出来なかった。
考えることがありすぎて…泣くことなんて出来ない。
もしくは…泣いていることに気がつかないんだ…。
自分の頬を涙が伝っている事に気がつかないんだ…。
薫は動物病院に運ばれた。
薫も手術を受けている。
たのむ…助かってくれ…お願いだ…。
ただ…願うことしか出来ない自分に腹がたった。
放課後のざわめきの残る廊下を俺は歩いていた。
ゆっくり…ゆっくり…。
今年取り付けられたアルミ製の手すりをなぞりながら…。たまに手のひらに触れる点字をかみ締めながら。
ゆっくり…ゆっくりと病院を目指す。
幸いにも田村さんの意識は昨日からあった。事故の直後、薫を…抱き起こそうとしていたらしい…。自分の体から流れ出る…自分自身を構成するものなんて気にしないかのように。ただ…薫だけを見つめていた…。
みんな…もう…病院に向かったころだろうか。教室には誰もいなかった。
俺は…ゆっくり…ゆっくり病院を目指した。
東塔4階…410号室。篠原さんから無言で受け取ったメモを元に俺はただそれだけを目指す。周りには…なにも見えない…なにも聞こえない。
410号室。
扉の向こうに田村さんがいる。そして…ここには由梨子さんがいた。
「あの…他のみんなは…」
既に来ているはずの人達の姿が無い。義之だけじゃない…篠原さんも…相沢さんも…如月さんも…クラスの人や、吹奏楽部の部員も…。
「皆さん…来ましたよ…。皆さん、もう帰られました」
「そうなんですか…」
「これだけの花束を…頂きました」
病室の前…床を由梨子さんは見る。俺もそれに続いて床を見る。メッセージカードつきの花束が置かれていた。
なるほど…みんな来てたってわけか。
「田村さんは…大丈夫…なんですよね?」
「はい…。かろうじてブレーキが効いたらしく…リュックがクッションになったみたいで…めだった外傷は…腕を少し縫ったぐらいです…から…」
それでも大怪我だと思う…。
「薫が…由梨絵を守ってくれましたから」
「薫が?」
「由梨絵と車の間に薫がいたそうです…。いつもの反対の左側に…」
左側…。何時だって田村さんは右側に薫を連れていた。利き手とは反対の右側に…。薫は…田村さんを…救ったというのか…? いや…薫ならありえる…薫なら…。
「それで…薫は無事なんですか…?」
「分からないわ…」
「そう…ですか…」
次第に小さくなっていく自分の声。
俺は…ここに来るほど…勇気があったのだろうか。田村さんに会うことなんて出来るのだろうか。
「とりあえず…田村さんに会ってみます…。大丈夫ですよね?」
「はい」
少しためらった後、由梨子さんは頷いた。
そのためらいが…なにを意味するかわからなかった。
でも…やらなきゃ…しょうがない…。
俺…気がついたことがあるんだ。
なぜ…田村さんの笑顔が見たいかって…。なんで…こんなに苦しいのかって…。
クラスメートが事故に遭っても…こんなに…切ない想い…したことがない…。家に帰ってから…骨が軋むほど泣く想いなんて…したことがない…。だって…それは…友達という仲だったから…。
泣くことはある。切なくなることだってある。でも…こんなに切ないことなんて…。
なんで…こんなに…。
そんなの分かってるよ…この気持ちの理由。
自分より、その人のことを守りたいと思う心がこの世に存在するから。
人間…誰だって…何を言っても自分のことが一番かわいいのに…一番守りたいのに…。
他の人のことを守りたいって思う心…。
どうして…人間に『恋』なんて感情を作ったんですか?
なんで…こんなに苦しい感情を作ったんですか?
どうして…こんなに切ない感情を作ったんですか?
なんで…こんなに…自分のことより…他の人を…想う事が出来る感情を作ったんですか?
教えてください…。
俺に…。
………………………結局…ずっと…好きだったんだな…俺は…。
田村さんに呼びかけた後、俺は扉を開いた。
淡いピンクの壁。差し込む光。無機質な蛍光灯。
田村さんと…同じ空間にいるはずなのに…なぜか…俺だけが浮いている気がした。
俺と田村さんは…いっしょにいない…。
「こんばんは、田村さん」
その声に田村さんは振り向かない。ただ…窓の外を眺めているだけ。
「田村さん…」
俺の呼びかけに、田村さんは反応こそしたが、振り向かなかった。ただ…その後姿は外だけを見つめている。わずかに揺れる遠くの木々。わずかに聞こえる廊下の外の音。
「河口さん」
ゆっくりとした時の流れの仲、田村さんが俺を呼ぶ。
「なに? 田村さん」
そっと………聞き返す。
「誰にも…会いたくない…です…。たとえ…それが河口さんでも…」
しってるよ。だけど、俺は田村さんに会いに来たんだ。
「ごめんなさい…出て行ってください…私…もう…。誰もかもが嫌いになってしまいました。昔の私にもどってしまいました…。信じることが出来る人が誰もいないから…。誰も信じたくないから…。自分の存在も…信じたくないから…。もう…誰にも会いたくない…誰とも話したくない…誰もかもが…嫌い…。もう…出て行ってください…」
田村さんの揺らぎを持つ声。『出て行きたくない』今すぐここで田村さんを抱きしめて放したくない。でも…田村さんが望むなら…俺は…。
「わかったよ…。また来るからね」
俺はただそれだけの言葉を残すと廊下に出た。
「ありがとうございました」
由梨子さんに別れを告げる。
「はい…」
病室を立ち去る俺に、由梨子さんは…「皆さんで支えてもらえますか?」と。俺はなにも言わず、ただ…頷いた…。
階段を下りる。
ゆっくりと…ゆっくりと…。誰も使わない階段をゆっくりと下りる。
田村さんが言った言葉を思い出す。
「嫌い…か」
俺は上を見上げる。流れ出る涙を落とさないように。
「本当に好きだから…嫌いになれないよ………な」
「おはよう…」
誰もいない教室にむなしく声が響く。教室に入り、その足で窓を開けると、俺は自分の席へと向かった。
「おはよう」
「おはよう」
本を読むことなくボーっとしていた俺に篠原さんが声をかけてきた。
「なんか…さびしいね」
「うん…」
それっきり言葉を紡がない二人。
「おはよう」
「おはよう」
「おはよう」
なにもすることなくボーっとしていた俺達に、義之が声をかけてきた。
「なんか…調子でねぇな」
「うん」
「そうね…」
それっきり黙る三人。
「おはよう」
「おはよう」
「おはよう」
「おはよう」
なにもすることなくボーっとしていた俺達に、相沢さんが声をかけてきた。
「なんか…暗いよね…。朝って感じがしないよね」
「えぇ…」
「あぁ…」
「うん…」
短い…必要最低限だけで行われる会話。意思を持たないその言葉に意味はない。
「「ねぇ…」」
篠原さんと相沢さんの声が重なる。
「しの、先言って」
「うん…わかった。結局私達が沈んでも起こった事はどうしようも出来ない…。私達は今自分達が出来ることをしましょう」
「私も同じ事言いたかった」
自分の机を見ていた俺達が、お互いの顔を向かい合わせる。
「やっぱ…それしかないよな」
義之が言った。その声は…いつもの義之だ。その横顔は…いつか見た義之の顔…そのものだった。
「俺もそう思う。結局俺達がここでくよくよしててもしょうがないし…。なにも出来ないかもしれない…でも探せばきっと何かある…だから…」
「えぇ…やりましょう…」
「うん♪」
俺は自分の鞄を見つめる…。俺には…これしかない…のか…。
鞄の中の一冊の本…。『Book House』と書かれた藍色のカバーが俺を見つめている。先週の日曜日に買った本だ。
ゆっくりと手を伸ばし、俺はそれを自分の手元に持ってくる。表面をなぞると…和紙特有の触感が俺の指を伝わってきた。
「俺は…自分の出来ることをするよ」
そう言うと、俺は本を開いた。
俺には…これしか出来ないから…。そのためには―――。
*
揺れ動く太陽の赤い光が夕暮れの時間を感じさせる。その場所にはページを繰る音しか聞こえていない。
俺の目線は文字を追い、そこに書かれた全てのことが俺の中に入ってくる。
「―――さん」
ひとつ…またひとつ…ページをめくっていく。たまにノートにシャーペンを走らせながら、俺はまたひとつひとつページをめくっていく。
一旦、目を休めるため、俺は上を向き、思いっきり背伸びをした。たっぷりと背を伸ばした後、俺は教室を見渡す。
無造作に投げ出された机の上の教科書。綺麗に整頓された机。消しむらがない黒板。34秒遅れた時間を刻む時計…。机の上の小さな傷…前に使っていた人が書いたんだろうか。そっ、と、こすった指先がわずかに熱を帯びる。
時間を確認しようとして時計を見る。
…まだ…大丈夫だな。
本に視線を戻す途中…視界の隅に誰かが映った。
「如月さん?」
「こんばんは、河口さん」
「こんばんは。どうしたのこんな時間に…って部活か」
「はい。ちょうど今終わったところです」
俺の中で吹奏楽部といえば、文化部の中で一番最後まで練習をしている部活だ。もう一度時計を見る。
6:40分。
一時間時計を読み間違えていた。既に夕日は落ち、蛍光灯だけの明るさになっていた教室に、俺と如月さんがいる。如月さんは俺の近くに歩いてきた。
「今日は、お見舞いに行かないのですか?」
「あぁ…。明日行こうと思うよ」
帰ってきたばかりとは思えない丁寧な日本語…。
そう言えば…以前にも日本にいたような話をしてたっけ。
「そうですか。私は今日、これから行くところです」
「これから?」
面会時間を思い出す。確か8時までのはずだ。
「今回も…会ってもらえないと思いますが…」
えっ?
会ってもらえない?
今回もって…まさか…。
「如月さんは…田村さんの顔…見てないの?」
如月さんの顔を見つめる。
「はい」
しっかりとした口調で答えた如月さん。
あれほど気の合う二人なのに…如月さんですら…田村さんに会っていないなんて…。
そういえば…。
俺は昨日の事を思い出す。廊下に置かれた花束。
なんで…病室の中に置かないんだ? それって…もしかして…。
全ての事象がひとつに繋がる。
じゃあ…どうして…俺が…?
「ひとつ答えてもらえますか? 河口さん。いきなりですけど…」
「あぁ…いいよ」
「答えたくなかったら答えなくていいです…。好きな人…いますか?」
すっ、と、なにかが俺の心を通りぬけた。
「好きな人…か………」
ゆっくりと視線が中空を仰ぐ。
「いるよ。どうしようもなく守りたい人が…」
「そうですか………それは…田村さん…ですか?」
貴方は田村さんのことが好き?
俺は田村さんのことが好き。
「あぁ…」
俺はあいまいながらも答えた。
「そうですか」
語尾に『♪』がついていいほど、如月さんは笑って見せた。
「田村さん………早く元気になってほしい」
「俺も早く元気になってほしいと思ってるさ」
「それではなぜ―――」
お見舞いに行かなかったのですか?
「俺に出来ることをしてるつもりさ。たとえそれが過ちでも…何度でも起き上がれるからな、人間は」
如月さんの言葉をさえぎる形で俺は言った。
「そう…ですか…」
「少なくとも…俺は田村さんに早く元気になってほしい。薫も無事でいてほしい。田村さんの心も支えている薫に元気になってほしい…。そして…田村さんも…」
「私も…それは同じです。だって…田村さんの苦しむ顔…私見たくない」
「俺もだ。田村さんの苦しむ顔なんて…見たくないさ」
その言葉にうつむいていた如月さんが俺の顔を見つめる。目と目が重なり合う。如月さんの目がわずかに揺れる。
「河口さんなら…」
「俺なら…?」
「いえ…何でもありません…」
それっきり目をそらした如月さん。手に持っていたハードカバーを開け、中からフルートを取り出す。もう一度俺を見つめ、目を閉じた…。ゆっくりと間を空ける。自分の世界を作るかのように…。そして…その世界に俺を呼ぶかのように…。
ふっ―――。
音が聞こえる。フルートの音が聞こえる。俺の耳にフルートの音が入ってくる。俺の心に、音が飛び込んでくる。
風が頬を掠めるような旋律。吹き抜ける風はなんとなく温かい。
これが…ピアニッシッシモの音なのか…?
…
……
………
音が終わる。あの時と同じだ…。俺の耳の奥でまだ音がこだましている。その音が引いていくのがもったいなくて俺は目を瞑ったままでいる。
…ゆっくり。
……ゆっくり。
………ゆっくり。
音がなり終わるまでの時間を待ち、俺は眼を開けた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
だんだんと言葉が浮かんでくる。
「今の曲は…?」
「アンプロンプチュ………即興曲。今この場で作りました」
「たった今…あれだけの曲を?」
「自分の心…伝えたいことを音にするだけ………それだけで曲にすることが出来ます」
「如月さんは…俺になにを伝えたかったんだ?」
「内緒です。がんばって解読できるようになってください」
ふわりと空気を和らげ、如月さんは笑いながら言った。なんとなく…元気が出たような気がした。
自分の心を伝えるために、如月さんは『音』を使う。俺は…自分の心をどうやって伝えればいいのだろうか。
悩むことなんて無い。もう…決まってるじゃないか。
「そもそも、『障碍者』という言葉ってなんなんだろうな」
朝ご飯をテーブルで囲んでの会話。
親父の質問に俺は答えられなかった。
「障碍を持っているから障碍者とするならば、『障碍』ってなにか考えたことがあるか?」
「特に…」
「私が思うにな、障碍は世間の見方のことなんじゃないか? だってそうだろ。不自由な部分があったとしても、それは不自由なだけで障碍にはならない。障碍にしているのは、周りの人とか環境がそうしてるんだよ」
「結局、障碍を与えているのは、俺達自身ということになるのか」
「体の不自由な部分を持っていても、不自由さを感じないような世の中を作るのが本当のバリアフリーなんだよ。物理的にも、精神的にも…。私が会社で担当しているプロジェクトがあるんだが…物理的なバリアフリーはどうにかできるんだよ。だけど、問題は精神的バリアフリー…周りの人達の目とかが問題なんだ…。物理的に補えないところを精神的に補うのが本来のバリアフリーだと私は思うぞ」
精神的バリアフリー…。結局それは、『普通に接する』ということなんだろうか。ただ、いま、俺が『普通に接する』と考えた時点で差別的になってしまうんだろうな…。
自然に…何も無いように…ただ、それだけを目指す…。
「所で、親父のプロジェクトって…?」
「あぁ…。歩行者誘導システムって知ってるか?」
「うん。この間田村さんに教えてもらったよ。信号機についているやつだよね?」
『田村さん』という言葉にちょっとだけ引っ掛かりを感じた。今、田村さんは病院のベッドの上だ…。どうしているんだろうか…。
「あぁ。その中に組みこまれているプログラムの改善さ。まだまだ導入するにはお金がかかるからな。プログラムを改善して、汎用性を高めれば、導入もしやすいだろう、ということで、この私が抜擢されたわけさ」
「おばあちゃんのことと関係があるの?」
「そうだな。介護の経験が若干あるから、その経験と今までの実績を買われて…ということみたいだな」
「がんばってよ」
「まかせておけって。そのうちプロジェクトXに出てやるから」
「無理だな」
「おい」
顔は笑っていたが、声は笑っていなかった。
その証拠に、俺のおかずが一品減らされた。
*
授業を聞いているのと、参加しているのでは意味が違う。
俺も今は『聞いている』に入る。
そう、教科書の隣には関係のない本が一冊置いてある。
普段はこんなことはしない。授業ぐらいはまじめに受け、ノートを取っている。まぁ、もちろん成績もそこそこいい。
でも、俺にはいま、優先することがある。ちょっとだけ、脱線して、人生を歩いてみるのもいいかもしれない。まだ三時間目、今日はまだ長い。
俺はゆっくりと、ページを捲る。耳には先生の声が聞こえている。でも、脳の中には入ってこない。耳からの情報は完全に俺の意識の中にはない。いま、問題を出されても、すぐに解ける自信はない。まったく説明を聞いていないのだから。義之はそんな俺を珍しそうに見ている。義之とは三年間同じクラスだが、その三年の間、俺が授業に本を広げているところなんて見たことがないはずだ。教科書という本以外。
読書は読書、勉強は勉強。趣味と勉強を完全にわけ、俺は一つの世界を作り出す。勉強をしながら、読書なんていう器用なことは俺にはできないし、やりたくない。本は一つの世界。だからこそ、その世界につかりたい。だから、おれは勉強中には本を読まないようにしている。
今だって同じだ。
勉強を完全に捨て、自分の世界を作っている。
だけど、それがいいか悪いかは俺だって判断がつく。
ゆっくりと本を閉じると、俺は勉強の世界に戻ることにした。
やるなら、もっと、集中しないと…。
先生の声をBGMにしながら読書なんて俺には向いていない。そう感じた。
*
机を向かい合わせる。その机の数は三つ。いつもより一つ少ない。
お茶もなければ、田村さんの声もない。一つのものが欠落しただけで、今までの形をまったく保っていられなくなる。 それが日常というものだから。それを埋めることができるのは、変わる何かか、失ったものが戻ってくるか………時が経つかそのどれかであろうか。
だけど、今の俺達に、『時が解決するのを待つ』という選択肢はない。
そんなの寂しすぎるから。だから、みんながんばっている。
でも………難しいかもしれない。
みんなが考えていることは同じこと。『あの時、誘わなければ、こんな事にはならなかったのに』後悔とでもいうのだろうか。
あの事故は、自分たちが起こしてしまったのではないか。
そう考えてしまう。運転手が圧倒的に悪い。そんなのは既に知っている。でも、みんな、自分を責めずにはいられないのだ。
*
静かな夕暮れ。
そこかしこから、いろいろな匂いが漂う。
玉ねぎを炒める匂い、カレーの匂い………。
どこの家も、晩御飯の支度で大忙しだ。
おなかを空かせたみんながテレビを見ながら待っている。
夕日が、雲を染め、空を染め、すべてのものを染めていく。
烏が空を舞い、自分の住処へ帰っていく。
車がライトを点け、俺の横を過ぎ、街の中へと消えていく。
駅の前で待ち合わせをする二人。出会った瞬間の二人の安堵の顔。
誰もがみんな、それぞれの夕べをすごしている。
夕焼けに染まることのない、透明なガラスをはめた自動ドアが開く。
俺は中に足を踏み入れた。
緩やかな…クラシックが流れ、淡いピンク色を基調とした廊下。そんな中、俺は、東館の410号室を目指す。
途中、何人かの患者さんや、看護師とすれ違いつつ、俺はドアの前に立った。
廊下には花はない。
ドアをノックし、ゆっくりと扉を開ける。
やはり淡いピンクの壁に包まれた部屋の中に、数々の花、白杖、お見舞いの食べ物…いろいろなものが部屋にはある。
サイドテーブルの上には、ポータブルMDプレイヤー、ポータブルカセットプレイヤー、少し厚めの本がきれいに並んでいる。
ベッドに横わたる田村さん。何かにしがみつくような格好で眠っていた。薄いレースのカーテンを透かして差し込んだ夕日が、彼女の横顔を照らしている。眠っている彼女は少しだけ幼く見えた。
ちょっとだけサイズが大きめのレモンシフォン色のパジャマに身を包み、穏やかな横顔を俺に見せてくれる。
枕に散らばった髪の毛の一つを手に取る。思わず匂いをかぎたくなってしまいそうだが、そこは、ぐっと、押さえる。その髪はわずかに湿り気を帯びていた。
手から髪を放すと、柔らかくシャンプーのにおいが舞った。風呂に入ったばかりなのだろうか、部屋を見ると、窓辺にバスタオルが掛けてあった。
いつもと違うそんな田村さんに、俺は、俺自身にいつもと違う感情が湧いてくるのを感じた。
かわいい………ふと、そんなことを思ってしまう。
そんな田村さんを間近で見るため、椅子をベッドの脇に持ってくる。
ゆっくりと座り、俺はもう一度田村さんを見た。彼女の足下で布団が自分の場所を失っていた。
暑いけど………そんなことを考えつつも、布団を田村さんの腰のあたりまで掛ける。
ゆっくりと時間をかけ、俺は今朝まで読んでいた本とは違う本を取り出す。
夕日の傾く中、かすかな寝息をBGMにしながら、俺は読書を始めた。
微かな声で、俺は本から目を上げる。
田村さんがベッドの上で起きあがる。
目を開けている…。
「おはよう」
突然の俺の声に驚いた田村さんは軽い悲鳴を上げた。
「河口さん…」
俺の方を向いた田村さんは既に目を閉じている。
本能的に起きたら人間は目を開けるのだろうか。そんなことを考えた。
「どうして、河口さんがここにいるのですか?」
「お見舞い」
一言で片づける。
「そうですか…。でも、以前言ったように、私は誰にも会いたくないのです。独りにさせてください…これからずっと…。別れる事が苦しいのなら、はじめから出会わない方がどれだけ楽なことか」
「そう言われても…」
ふと、目を落とす。
パジャマの袖口から田村さんの手首が見える。
「ただですら痩せてるのに…」
言いながら俺は田村さんの手首を握った。
「…何も食べてないんでしょ?」
「…」
無言の中に、俺は肯定を見いだす。
「私は大丈夫です。独りでも大丈夫です。今までそうでしたから。だから…今独りになっても…私には関係のないこと」
「田村さんの言う大丈夫は、全然大丈夫じゃないんだよ。おっかなくて見てられないんだから」
「…」
無言の中に、俺は何も感じることができなかった。
「もう、手首放してください」
静だけと強いその言葉に、俺は田村さんの手を解放した。それっきり、田村さんは口を噤んだ。ただ、自分の手元を見ているように見える。
そんな田村さんを見ているのが痛々しくて、何も声をかけることができない自分がもどかしくて、俺は、『またくるから。絶対』と言葉を残し、病室を立ち去った。
コミュニケーションホールにある、配膳ラックの中、『410号室・田村由梨絵さん』とかかれた棚だけに、昼ご飯がまだ残っていた…。
言葉のキャッチボールという言葉がある。自分が放り投げ、相手がキャッチして、また放り投げる。
言葉を紡ぐ…言葉と言葉をより合わせ、双方の想いを『ひとつ』にすること。
結局、一人じゃ、なにも出来ない…。必ず、誰かを頼り、頼らなくても、いつのまにか、誰かが自分の心の支えになっている。
誰よりも自分のことを守る…自分自身が生き残る…それが人間の本能ならば…人を想い、その人のことを自分より大切にしたいと思う心が世界には存在する。
部屋に入ると、そこは赤い色で覆われている。夕日が刺しこみ、窓から外を眺めるさまは、いつかの屋上に似ていた。ただひとつ違うのは、ここに薫がいないこと…。
そして、
彼女が、手を広げていないこと…心を開けていないこと…。
「ご飯ぐらい…食べたら?」
ベッドテーブルの上に置かれた昼ご飯と思われるもの。白いご飯、味噌汁、焼き魚、ほうれん草の胡麻和え、みかん…その全てが、本来持っているべき熱を失っていた。
「ねぇ…田村さん…田村さんが倒れたら…俺達や、薫はどうすればいいの?」
薫という言葉に田村さんの肩が震える。空気が一瞬にして重くなったのを俺は第6感で感じ取った。
俺は…事故が起こってからはじめて、田村さんの顔を正面から見ることになる。
ゆっくりと俺のほうを向き…「薫の…薫の話は…しないで下さい…」と…。
「田村さんは………薫のこと…思い出すだけの『思い出』というひとつの結晶にしてしまいたいのか? これから…一緒に生きていくんじゃないのか? まだ…死ぬって決まったわけじゃないのに…なんだよ…そのいい方…薫がかわいそうじゃないか…。俺は…そんな田村さんを見るの…嫌だよ…」
「薫は私のせいで事故に遭った。私がいなければ、薫は事故に遭うことなんて無かった…。目が見えなくなったときに私はその場で死ねばよかったのに…そうすれば誰にも迷惑をかけずに済んだのに…薫が私のところに来て………………………私と一緒に生活をして………………………事故に遭うことなんて無かったのに………どうして? どうして私は生きているのですか? 私に…教えてくれますか…河口さん…」
「それは………それはね、田村さんが人間だという証拠なんだよ…。野生の動物は…体に不自由なものを持ってしまったら…死に繋がるから…。田村さんがいまこうして生きているのは…薫が沢山の人の手によって治療を受けているのは…みんなが田村さん達を見守っている証拠なんだよ。だから………田村さんも薫やみんなの事…きちんと見守ってあげないと駄目なんだよ…。全てを無視しても…拒絶しても…駄目なんだよ」
息つく間もなく俺は言葉を返した。自分でもどうしてこんなことが言えたかわからない。
自分の発した言葉の意味が、ゆっくりと後から亀のようなスピードでついてきた。
『その場で死ねばよかったのに』…そんなことを考えないでくれ、頼むから。そうしたら、俺達が田村さんに会うことも、薫に会うことも無かったじゃないか。
篠原さんや如月さんに義之…そのほかいろんな人は田村さんに出会うことなく人生を送っていくことになるんだ。
既にできあがった日常のなかから田村さんを取り外すのは俺にはできなかった。だってそれが当たり前のことだから。
完成されたパズルを壊すなんて俺にはできないよ。
「薫は…薫は…薫は死んじゃうよ…。わたしのせいで…薫―――。ごめん…何度言っても伝わらないけど…」
「田村さん…」
微かに残っていた距離を俺は縮める。それに気がついたのか、田村さんが『来ないで』と言った。そして…
「私は酷い人だから」
と、付け足した。
言葉より先に手がでてしまったことに俺は後悔した。
自分の右手を見つめる。指の隙間から田村さんが頬を覆っているのが見える。
「田村さん…。田村さんは薫が死んでほしいと思っているのか? 違うだろ?」
「違います…。違いますけど…」
「なら、信じようよ。薫のことを…。治療してくれる先生のことを」
「私は心のどこかで薫が死んでしまうと信じているのかもしれません…。もう助からないと思いこんでいるのかもしれません。助かってほしいのに…薫には…まだ…恩返しがすんで……いない、のに…」
心という透明なグラスに溜まっていく涙。俺にはそれを全て受け止めることが出来るだろうか。
いや、
受け止めてみせる。だって………『好き』だから。田村さんが一人で出来ないことでも、もしかしたら俺が支えてやれるかもしれない。それが慢心でも。
「苦しみと向き合うのはずっと後でいい。今は、一歩いっぽ、田村さんが少しでも楽になることをやろう? 後ろを振り返ったり、休憩しながら、ゆっくりと前に進もう? 自分のペースで…。そして、その後で考えようよ。一人で無理でも、俺がいる、みんながいる。ね?、田村さん。田村さんは一人じゃないんだからさ。俺達みんな、友達なんでしょ? それなら…。篠原さんの言葉じゃないけど………俺を信じて。俺達を信じて。だって………クラスメイトでしょ? 友達でしょ? 仲間なんだよ。一緒に過ごしてきたんだよ、今まで。だったら信じてくれよ。そして、信じてよ…薫は絶対大丈夫だって」
不意にこみ上げてくる諸々の言葉の断片。一つひとつを紡ぎ、言葉にしていく…。
「俺………田村さんのそんな顔見るの…嫌なんだよ…。みんなに笑っていてほしいんだよ。田村さんに笑っていてほしいんだよ。だって…悲しみだけの…世界なんて…嫌だから。笑っていて…ほしいんだよ。人間は…忘れる生き物なんだよ。今、田村さんは辛いかもしれない…。でも、ずっと楽しい気持ちでいられない事と同じように、辛いままでいる事もないんだよ。心もね…時間とともに動いていくものだから。必ずその辛い気持ちが癒える時がくる。そして、それは薫が元気になる日なんだよ。そして…俺は早くその日がきてほしいと信じている。だから、田村さんにも信じてほしいんだ。押しつけかもしれないけど、信じてほしいんだ、その日がくる事を。それに―――」
息を吸い込む。
「いつまでも田村さんがそのままだと、俺も辛いんだよ」
全てを出し切った。なぜか、胸の奥が軽くなった気がする。自分が、羽や空気、光みたいに軽い存在になったような気がする。
「河口…さん」
田村さんが再び俯く。
ゆっくりと肩が震えだし、それに嗚咽の声が混じりはじめた。それが何を意味しているかわからない。
俺は田村さんのベッドに腰掛け、田村さんが泣きやむのをじっと待っていた。