Top > ウェブ公開作品 > 小説 > 長編小説 > 光になりたい > 本編 -第六章-
商店街で男達に取り囲まれている田村さんを見つけ、俺は後先考えずに飛び出した。結局、警察の突入で事態は丸く収まった。
忙しい生活が続いていたからか、田村さんが体調を崩してしまった。佐々木先生と話すことで色々なことを覚え、理解も深まった。そこで初めて知った…人間には…かならずか弱い部分があると…。体調の回復を見計らい、俺と田村さんは学校を後にした。
時間が流れるのは誰にも止められない。
絶対的な“変化”の一つだから。
人間も日々“変化”している。成長するため。
次の日には田村さんは元気な姿を俺たちに見せてくれた。
あれから一週間が過ぎた。
―――ちなみに…俺たちに謝ったのは言うまでも無い。
三重奏の音が温かい音を作り出すように、柔らかい朝の日差しがカーテンの間を縫ってくる。
朝の音と光が複雑に絡みあう。
冒険小説の出だしのようなその光景の中、俺はベッドの上で上半身を起こした。
おかしな方向に曲がった髪を触りながら、左手であくびをした口を隠す。
机の上でなっているベルの音を止めに行くと、その足で一階に向かった。
…カーテン………まぁ、いいや。
ドアを開くと朝のにおいで迎えられる。
動物性の油が焼ける独特の香り。
だが、肉のようなしつこい香りでもない。
今日は…焼き魚か。
「おはよう」
台所にいる親父と目が合い、挨拶。
もう、いつものこと。
「おはよう」
いつもの、灰色地に黒い千鳥模様を配した着物を着た親父が答えた。
まだ40半ばなのにこういうのを見るとかなり年上に見える。
オヤジっぽいという意味ではない。かっこいい大人として年上に見える…。
ところどころにしっかりと糊付けされ、はりを与えられたオーダーメイドの着物を着た親父の背中を見て俺は育ってきた。
以前、こんなことを聞いた事がある。『なんで、着物なんだ?』って。
親父の答えはこんな感じだった。
「プログラマーのようなITの先進にいるような仕事をしてると、昔のものに触れたくなるんだよ。やっぱり、こっちのほうが心が落ちつく」
と。
何となくわかる気がした。
自分自ら望む、日常との脱却…変化。
気がつくと親父と二人三脚だった。
親父の考えを自分も受け継いでいるようなきがする。
人の考えは環境によってだいぶ左右されるらしい。
新しい考え方を学び、今までの自分の考え方と比較し、自分の正しいと思ったものを選ぶ…それの繰り替えし。
でも―――そうでもない時もある。
時には生きるため、場を収めるために自分の考えを捨てなければならない時もある。
その時の人間は何を考えるのだろうか。
自分の無力さ? あきらめ? それとも―――。
「できたぞ」という声に不意に現実に連れ戻された。
「わかった」
テレビでは5時からやっているニュース番組が今日の特集をしていた。
*
力強く、かつ、温かいフルートのデュエットが廊下に響いていた。
教室には誰もいない。ただ、リュックサックがその場の住人だった。
机の上に自分のリュックを置き、本を取り出すと音の中心へと向かう。
*
ドアの前に立つ。
中には二人の姿。
いつか見た光景にそっくりだった。
腰に近づきそうな髪。顔は小さめで儚げな雰囲気を醸し出している。
長い髪は先のほうでも不自然にばらつくことなく、手入れが行き届いていることを感じさせる。
その細い指先は、手に持つ『天使の笛』を操り、何か幻想な魔法を作り出しているように見える。
その隣にいる人。
やや丸みをおびた顔。
もともと背が小さめのその子は、田村さんの隣に並ぶと一回り小さく見える。
ただ、その存在感は大きく、自分がここにいると何かが示していた。
それは…手に持つフルートも如月さんと重なっているからではないか。
田村さんの持つ金色のフルートと如月さんの持つ銀色…正確にはプラチナのフルート。
二つの笛の音は優しく語りかけてくる。
ふっ、と、如月さんと目が合った。
如月さんは会釈をした。
俺もそれに続く。
田村さんのソロになった。
如月さんは両手で持っていたフルートを片手に持ち、笑顔で俺を手招きした。
どこか日本とは違うその笑顔。でも伝えたいことは同じだ。
俺はまた礼をすると、そっと、扉を開き、中に入った。
*
再び二人のデュエットになる。
旋律が流れとなり、重なり合い、1つの音になる。
音によって作り出され、彩りを得た翼は俺を温かく包んでいく。
二本のマジックロットからあふれ出る想いはこの世にある悪を洗い流していくかのようだ。
しだいに俺は何も考えられなくなる―――それほどまでに俺の心は二人の演奏にとらえられていたから…。
*
演奏が終わってからどれだけの時間がたつのだろう。
気がつけば耳の奥で響いている音だけが俺を支配していた。
しばらくその余韻に浸った後、俺は思いっきり拍手をした。
その音に驚いた田村さんは如月さんと2,3言言葉を交わす。
「河口さん?」
「あぁ、俺だよ」
説明をうけたと思われる田村さんは初めて俺のほうを向いた。
「だまって聞くつもりは無かったんだけどね」
あまりに音が綺麗で、と俺は付け足した。
「それにしても、二人ともすごいよ」
「そんなことはありませんよ…。すごいのは如月さんですから」
「何を言うの。田村さんだってすごいよ」
「二人ともすごいんだって。河口君だけに聞かせるのはもったいないぐらい」
予想外の方向から飛んできた声に、皆、いっせいにそちらに振り返る。
開かれたドアに持たれかかるように篠原さんが立っていた。
「「「篠原さん?」」」
三人の声が重なり、みんなの笑い声が重なる。
「流石にあの音を聞いて黙っていられるわけ無いじゃない」
まぁ、篠原さんらしいといえばらしい。
「特等席は河口君に譲ったけど、私も聞かせてもらったわ。すごいね…二人とも…。これ以上言葉を選べないよ」
「篠原さんの言いたいことは伝わりましたから、大丈夫ですよ」
田村さんが笑った。
その笑顔は俺の心をくすぐる。
「伝わりましたよ、私にも。ありがとうございました」
「ううん…本当のことだもん…。ね、河口君?」
「うん。俺みたいなやつにもわかるんだ。すごいに決まってる」
「二人とも…ありがとうございます。そういってもらえると幸いです」
「ところで皆さん?」
エリート大学出身の熟練教師のようなやさしく、いやみのある口調で篠原さんが切り出した。
その声に全員が疑問符を浮かべる。
「SHRまで後五分よ」
『。』と同じタイミングで、呼び鈴が音楽室に響き渡った。
*
なんとか教室に滑り込む事に成功すると、俺達は自分の席に座った。
手にもっていた本を机の中に入れたとき、義之が声をかけてきた。
「お前…どこ行ってたんだ?」
義明が教室に入った時さぞかし驚いた事がなんとなく伺える。
教室の後ろの席に3つのカバンがまとまって置いてあり、ぽつんと一人義之が時間をつぶす光景を想像すると俺は思わず笑ってしまった。
ゴン。
頭に鈍い衝撃が走り、義之のほうを見ると役目を終えた教科書を机の中にしまっているところだった。
「おまえなぁ…たたくことは無いだろう?」
「人が質問した時に笑った罰だ」
放課後の喧騒を感じさせないその場所。
独特の空気を放つドアの前に俺は立っていた。
第一ボタンとホックをしめ、一呼吸。
『進路指導室』と書かれたプレートの下。
ドアに手をかけ、開いた。
「失礼します」
所狭しと青背表紙のファイルが配置され、俺を圧倒する。
うずたかく詰まれた資料が机の上を占領していた。
3年生の進路指導主任の席を横手に、俺はさらに奥の部屋に入った。
「来たか」
短い言葉で俺は担任の国府田先生に迎えられた。
三角形に配置された机には、親父と国府田先生が座っている。
椅子を静かに引き、俺は座った。
「早速ですが、お子さんの進路ですが」
といいながら国府田先生が一枚の紙を取り出す。
一学期の一番初め、進路志望調査をしたときの紙だ。
「この大学を希望しているようですが、どうでしょうか?」
国府田先生が親父に返答を求める。
「聡が希望しているならそれでいいと思います」
「わかりました…」
やや意味ありげに先生が間を空ける。
「まぁ、河口君なら成績もいいですし、大丈夫でしょう」
「そうですか」
普段から学校での出来事をやり取りしている親父にとってはすでに知れた話であろうか。
大学だってずっと前から希望していたことだ。
家族の会話が少ないと叫ばれる世の中―――っと、これは前にも話したかな。
つまりは、全会一致なのである。
「それでは、最近のことですが―――」
しばらく今学期のやり取りの事や、今後の予定を話し合い、俺達は進路指導室を出た。
「しかしまぁ、お前がまさか小説家になりたい…って言うようになるとはな」
「俺自身意外だよ」
「まぁ、お前は昔から本が好きだったし…どんな本を書くんだ? 官能小説とか?」
「馬鹿」
「まともに受け取るなって…まぁ、難しいジャンルではあるがな」
親父はあごを親指でこすりながら上を仰いだ。
「まぁ、お前が好きなようにすればいいさ。60才からでも人生はやり直せる」
「わかってる」
遠くから吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。
初めは各パートの練習だったが、他の楽器も合同で練習しているのだろう。
1つの曲として俺の耳に聞こえてくる。
色々な楽器が混ざる。
音楽もパズルのようなもので出来ているのだろうか。
「田村由梨絵って言ったか。あの子も吹奏楽部だったな」
「そうだけど?」
「私の母さんは…お前にとってはおばあちゃんになるが、耳が聞こえなかった。音楽というものを聞かせてあげたくて仕方が無かったな」
「そうだったの…か」
俺の中におばあちゃんの記憶は無い。
俺が生まれた時には死んでいたからだ。
「でも、聞くことは出来なくても、感じることはできるって、いつも言ってたな」
『こうすれば…風を感じることが出来るから…風の流れを見ることが出来るから………だから、この場所が好きです』田村さんのそんな言葉を思い出した。
見る、感じる、聞く…この三つのことはもしかして同じ事なのかもしれない。
「田村って子にもわかるのか…な」
「田村さんも同じこと言ってたよ。『こうすれば…風を感じることが出来るから…風の流れを見ることが出来るから………だから、この場所が好きです』って」
「ほぉ…」
歩いていた足をとめ、俺を覗き込む。
逆光の中の親父の顔はなにか意味ありげだ。
「いつの間にそんな親密になったんだ?」
「いや、親密って…。クラスメートだし、席も近いし」
「ふ~ん…。まぁ、友達が多いことはいい事だ」
それっきり親父は何も言わなくなった。
玄関に近づくにつれ、聞こえてくる音は大きくなる。
喧騒も混じる。
親父は自分で持ってきた内履きを脱ぐと、革靴に履き替えた。
春物の薄手のスーツの襟を直すと、「じゃ、仕事にもどる。夕飯は任せた」というと、その場を後にした。
俺は下駄箱から靴を取り出すが、すぐ戻した。
見に行ってみよう。
玄関の近くの階段を上り、吹奏楽部の部室の前にたどり着く。
中には30人ほどの部員。
学年ごとに並んでいるのであろうか、右端に田村さんと如月さんがいる。
部屋の端には薫が気持ちよさそうに眠っていた。
―――眠っているようで、呼ばれたらすぐ田村さんの元に走っていくのだが…。
多少音は防音室の影響で曇っているものの、演奏は素晴らしいものがある。
曲がフェードアウトすると同時に、部長と思われる人が各パートに指示を飛ばす。
佐々木さんともうまくやっているようだ。
胸章の色でわかるが、三年生は5人。
みんな楽しそうに言葉を交わしている。
田村さんも、如月さんも、佐々木さんも、他の二人も…。
どこと無くまぶしいその光景を俺は脳裏に焼き付けるともと来た階段を下りていく。
いつのまにか微笑んでいる自分がいた。
ゆっくりと本のページをめくる。
紙というその厚さの殆ど無い場所の上に、世界が広がる。
『文字』という記号の羅列から、風景が生まれ、世界が生まれ、人が生まれる。
いつの日か本を書いてみたい…昔からの俺の夢。
たとえ、それがどんな本でもいい…人に夢を与えたい…それが俺の夢。
ゆっくりでもいい。
自分の選んだ道を進めば、必ず夢に向かっていける。
そう思っている。
学校を選ぶ理由はたくさんあるだろう。
そして、その中には、自分の夢を実現するため…というのもあるだろう。
*
「ところで、田村さんはどうして編入してきたの? 前の学校が地元にあったとしたら、そっちのほうが慣れていたんじゃないの?」
だから、俺はそんなことを田村さん聞いた。
気になっていたといえば気になっていた。
わざわざ、慣れている地元の学校をやめ、この学校に転入してきた理由。
大学での転入はよく聞く話だが、高校で転入するというのは珍しい。
何か理由があるのだろうか。
―――その質問をした瞬間、彼女はうつむいた。
柔らかい笑顔の田村さん、という俺の印象がちょっとだけ変わった瞬間だった。
「…前の高校は確かに地元にありました。私もなれている場所を離れるのは気が引けたので…」
なれている場所…それはすなわち、薫にとっても慣れている場所ということだろう。
自分のことよりほかの人のことを考える(であろう)田村さんならば、転入するには何か大きな理由があると俺は思った。
「じゃあ、親の都合とか?」
俺の友人も親の転勤で引っ越した人がいる。
「いえ…学校が受け入れてくれなかったのです」
予想外の回答に俺は戸惑った。
『学校が受け入れてくれなかった』
見つめていた田村さんの顔を凝視する。
その表情はさっきと何も変わらない。
ただ、雰囲気だけが暗くなっていた…。
言葉では表現できない雰囲気というものが世の中にあるとしたら、ちょうどこんな感じじゃないだろうか。
朝の教室というあの空間は一瞬にして消え去っていた。
「やはり、私のような障碍者はそれ相応の学校に入るような雰囲気になってきていたのです。それでも2年生まではがんばったのですが、やはり…」
田村さんの口から次から次へと出てくる意外な言葉。
その言葉は耳の中でこだまし、俺をその場に釘付けにした。
「そう………だったのか…ごめん」
何かいわないといけない気がして、俺は言葉をひねり出した。
田村さんの声で聞く『障害者』という言葉。
普段俺たちが使っている同じ言葉よりもはるかに重みがある。
場の雰囲気を察したのか、田村さんが明るい声で
「気にすることはありません。河口さんが悪いわけではないので」
気にすることじゃない?
そんなことできるのか?
学校が受け入れてくれなかった…田村さんを拒絶した。
理由は大方察しがつく。
でも、たったそれだけの理由で…。
確かに盲学校という選択肢もある。
だけど、田村さんはそれを選ばなかった。
だけど、学校は田村さんを拒絶した。
「私は、親の反対を押しきって普通高校に入学したのです。両親には盲学校に入れ…と勧められていましたけど。でも、私は普通に生活したかったのです。普通の人として。普通の人と友達になりたかったし、普通の人と話をしてみたかった。それが私の一つの夢でした…。中学校1年のとき、とある事故で、私は全盲になりました。一年学校を留年して…復帰したわたしを…周りのみんなは私を受け入れてくれました。それまでどおり接してもらいましたし。白杖(はくじょう)で登校するときや学校内を歩く時は本当に怖かった…。でも、みんながいた…。いつも一緒に歩いてもらったり…危ないものをどけてもらったり…。それだけでどれだけ私の恐怖感が引いていったか…」
今の田村さんは薫と行動を共にしている。
薫は田村さんの家族であり、田村さんの目。
白杖で歩くと言うことがどれだけ難しいかは俺には想像ができない。
でも、棒一つで道の様子を探り、段差を見つけ、それらを回避しつつ目的地に向かうことは容易ではないことはすぐにわかった。
「進路を決める時、私は普通の高校を希望しました。でも、担任の先生にも進路を決めるとき言われました。盲学校に入りなさい、と。そうじゃないと、つらいし、まわりに迷惑をかけるから、と。でも、私は自分の希望を押し通し、前の高校に入学しました。でも、結局、私はその環境には馴染む事ができませんでした…。どちらかといえば隔離されるような環境で勉強をしてきました…。クラスとは名ばかり…。普段の授業は別室で受けていました。友達はいなくて…できなくて…。二年生の夏…薫と一緒に登校して…それでも…秋まではがんばることができましたが…無理でした…。母親に相談して転入することを決め、半ば破棄捨てるように前の学校を捨て、今の学校に転入してきました。そして、皆さんと同じクラスになったのです」
「ここと、その学校は違う?」
「はい♪」
田村さんはようやくうつむいていた顔を上げた。
「だって…皆さん…優しいですから………。それに、私…こうして普通にみんなと話す事ができます…」
声を上げることは無いが、田村さんの目はかすかに揺らいでいる。
普通のことが普通ではない。
俺たちには簡単なことでも田村さんには難しい事だってある。
普段見上げる空、黒板の文字、ノートの文字…それらすべてを田村さんは見ることができない。
でも、田村さんは確実に、明るい声で言った。
「こうして『普通に』皆さんと話すことができる」
もしかしたら、田村さんはそんな日常に憧れていたのではないか。
中学校の時のみんなの優しさ…それをもう一度夢見たのではないか。
一度失いかけていたものを再び手に入れたかったのではないか。
所詮ただの推測にしか過ぎない。
でも、田村さんは、それをいま、手にいれている。
田村さんが笑顔なら、幸せと感じるなら、それでいい。
「でも、心の中では、わだかまりが…。私の存在は迷惑じゃないかって。私の目が見えないことで、みんなに迷惑をかけているんじゃないかって…ちょうど、中学のころの担任の先生が言ったように………そこだけが………」
だから、田村さんは人に迷惑をかけたくないんだ。
だから、あんなに謝るんだ。
だから、いつも自分を押し込むんだ。
「迷惑なわけないじゃないか。だってみんな本当に楽しそうに田村さんと話しているし、みんな楽しそうに授業をうけているし。田村さんは気がついていないかもしれないけど…男子の間でも結構人気があったりするんだよ。それに、薫も人気あるんだよ」
「えっ?」
「そのうち気がつくと思うよ。田村さんが、思い込むほど、みんなそんな目で見ていないから、安心してよ」
「はい」
「一年生の時は…クラスに遊びに行く事だってありました。いつも別の部屋で授業を受けていも、同じクラスメートだから…。でも…みんなは冷たくて…。私は気がつきました…。私は誰にも必要とされていないということに…。無視されるよりも、せめて邪魔だと思われる女になりたい…。でも、私は誰にも必要とされてない…。その事に気がついたとき、誰とも話すことなく、私は独り、授業を受けていました…。必要とされていないなら、私がいても仕方が無いから…。ただ、その場の空気を乱すだけですから…」
「少なくとも、俺には田村さんが必要だよ」
「えっ?」
田村さんが聞き返した。
…俺は同じ言葉を言おうとして飲み込んだ。
なんで、俺はあんなことを…?
………場をつなぐためだけの言葉のはずだ。
なのに、どうしてこんなに動揺する。
言葉の欠片が頭の中をぐるぐると回っていく。
『俺には』『田村さんが』『必要だよ』
どういう意味だ…。
自分でもわからない。
どうしてこの言葉が。
自分でも理解できない。
なぜ、『俺達』じゃなくて『俺』なんだ?
俺は心のどこかで田村さんを必要としているのか?
そりゃ、たしかに、今まで色々がんばってきた。
篠原さんや義之と一緒に。
でも、それは何のためだった?
それは…田村さんの笑顔が見たいから…。
じゃあ、なんで、笑顔が見たいんだ?
それは…くらい顔をして欲しくないから…。
じゃあ、なんで、暗い顔をして欲しくないんだ?
それは…。
わからない…。
自分でもわからないよ。
こんな気持ち…わからないよ。
遠くから「河口さん?」という声が聞こえ、俺は現実に戻された。
顔を上げると田村さんの顔が目の前にあった。
不意に心臓が高鳴り、田村さんの顔から目をそらしてしまう。
「河口さん、大丈夫ですか?」
「えっ、あ、うん…大丈夫だよ」
「よかった…。突然何も言わなくなるので…心配してしまいました」
「ごめん」
言葉が続かない。
考えることで…いや、物事を整理するだけでいっぱいいっぱいだ…。
「いえ。こんなつまらない話、聞かせてしまって…」
「謝らなくていいからね」
『ご―――』と言いかけたその言葉の続きを俺はさえぎった。
「俺が聞きたくて聞いたんだ。苦しいことを話してもらった俺のほうが謝らなければならないし…。ごめんね、言いたくなかったこと」
「いえ…ただ…何となく…ですが………河口さんの声を聞いていると安心…出来るような気がするのです」
ドキン…。
また波打つ鼓動。
「えっ?」
その言葉しか発する事ができなかった。
それ以降、田村さんも黙り込んでしまった。
どちらからと無く紡いでいた言葉を手放し、自分の世界に入り込んだ。
結局、篠原さんが来るまでこの雰囲気は続いた。
『いただきます』
お昼の時間特有の挨拶が、教室にこだまする。
といっても、それぞれの班に別れているのだが…。
知らない間におかずをやり取りする仲になってしまっていた。
いつのまにか相沢さんを加え5人の班になっている。
あの事件以来、みんな、より仲良くなった感じだ。
「あっ、そのから揚げおいしそぉ~」
「じゃあ、替わりにおでん頂戴♪」
おでん…?
あの冬の味覚の代名詞と言われ、昆布だしとしょうゆだしの微妙なバランスが味を決めるあの食材が弁当に…?
俺の目線は自然と相沢さんの手元に向く。
…確かにおでんだ。
ふわりはんぺん、牛筋、ゆで卵、大根…それらのおでんの具がなべに入っている。
なべは土鍋か。
「おっ、篠原さんの卵焼き美味しいな」
「そう? ありがとう」
何となく、俺と田村さんだけ出遅れているような気がするのは…何故だろうか。
一人ゆっくりと自分の世界に浸り弁当を食べている俺と、おにぎりを食べる田村さん…。
共通の話題を持っていそうで、まったく違う二人。
今日三つめのおにぎりを手にした田村さんは、途中で二つある魔法瓶のひとつからお茶を注ぐ。
「おい」
喧騒にかき消されるかどうかと言う微妙な声で義之に呼ばれる。
「ん? どうした?」
「さっきから田村さんばかり見ていないか?」
「いや、器用だなって」
「まぁ…言われてみればそうだが…」
俺の普段の生活からは視界がなくなったときというのは想像することができない。
目を瞑ってもあければ光が見えると言う安心感からか、恐怖すら感じることはない。
田村さんとの違いはそこにある。
どれだけ目をあけても…そこに光はない。
「慣れってのもあるんだろうけど、中々大変だと思うぞ、俺は」
…でも、田村さんはこう言った。
『見えるから…ではなく…感じる事が出来る』
見えると感じるの違いはいったいなんなんだろうか。
「目を閉じると何も見えないしな…。夜の部屋ですら薄暗く映るからな、それ以上の闇なんて想像すら俺にはできないな」
それが俺にはまだわからない。
「って、お前、聞いてるか?」
「えっ? あぁ、ごめん、考え事してた」
「ったく」
「あっ、鮭の塩焼きもらっていいかしら?」
「うん、いいよ」
俺の弁当から鮭の塩焼きが無くなり、替わりに義之絶賛の卵焼きが加わる」
「ありがとう」
「由梨絵のおにぎりには何が入ってるの?」
口に入っているものをよくかみ、ゆっくり飲み込んでから、「今食べたのはおかかでした」と、田村さんは答えた。
「おかか、かぁ…美味しいよねぇ~♪ 私も大好き♪」
「そういえば最近はから揚げとか卵焼きを入れるのも流行っているみたいね」
友達と一緒にクリスマスパーティーをした時は誰かがそんなおにぎりを持ってきたことを思い出した。
あれは確かに美味しい。
まぁ、もともと、味が濃いものはご飯と合うし、卵だってすしのネタにある。
そういった意味ではもしかしたら一品料理として成立するかもしれない。
「あっ、田村さん。お茶もらってもいいかな?」
「はい、どうぞ」
相沢さんもあれ以来田村さんの煎れるお茶がお気に入りになってしまっている。
こうして一緒に弁当を食べている時、一緒に食べていない時でもお茶は必ず飲みに来る。
いつの頃からか、田村さんがもってくる魔法瓶の数が二本に増えていた。
もちろん、相沢さんに上げるためだが…俺たちもご馳走になっている。
弁当の具を交換しながら、軽い笑い話をしつつ、田村さんの煎れたお茶を飲む…昼休みの恒例となり、俺の弁当を食べる速度も、義之に言わせれば一般レベルになったらしい…。
*
広い窓、高い天井、熱い空気。
学校の体育館では体育の授業が行なわれている。
俺達はいつものようにバトミントン。
義之のサーブからはじまった。
あれ以来バトミントンの見学をしつつ、体育のレポートを読んでいる田村さん。
もちろん点字の文章なのだが…俺にはさっぱりわからない。
コートを他の班に貸すため俺達はいったん休憩に入る事になった。
二人で『座るよ』と声をかけながら田村さんの隣に座った。
「しかし、よく読めるよな」
と義之。
「慣れることが一番です。慣れれば誰でも読むことができますよ」
ためしに指でなぞってみるが、差がわからない…。
「このページにはなんて書いてるんだ?」
「このページには…」
ページの左上のタイトルがあると思われるところを田村さんが指でなぞる。
「運動活動と精神の関係…とありますね」
「なんじゃそりゃ」
「先週の保健の授業にやったよ」
「そうだっけ?」
首をひねり本気で考え始める義之。
そういえば…眠っていたような気がする…。
「眠っていたから覚えてないんだよ。保健の授業、まじめに受けているところなんてあまり見たこと無いな、そういえば」
「おまえ、それは言いすぎだろ」
「事実でしょ」
「あれは不可抗力だ! 文句があるなら保健の前の物理化学の先生に言ってくれ。あの授業を眠らないように受けるために体力を消費してるんだからな」
「確かに…あの授業は眠らないで受けることなんでほとんど不可能だな」
別名、催眠術授業と呼ばれるあの先生の授業はリタイヤせずに突破する人は10%ほどとよばれ、校内最強の授業だ。
「田村さんはあの授業、眠くならないの?」
「えっ、私ですか?」
一瞬うつむいた。
再び上を向いたその顔は、さっきより赤くなっている気がする。
「いつも…篠原さんに起こされてます…」
そういえば、うつらうつらしているような気がする…。
俺の記憶ですらあいまいだ…。
「でも、田村さんが眠ると言うのも意外な気がするよ」
「言われてみればそうだな。いつもまじめに授業を受けているイメージがあるからな」
「私だって…眠い時は眠いですよ…。篠原さんを尊敬します…」
「確かに篠原さんが眠っているところは見たことがないね」
う~ん…と全員でうなる。
そんな様子を笑うかのように薫があくびをした。
「なんか薬でも使ってるんじゃないか?」
いくらなんでもそれはないと思うぞ、義之。
この季節独特の柔らかい朝の日差しが、吹きぬけ高く取り付けられ、空を捕まえられそうな窓から明るく照らし出す。 青い天井を望み、あくびをすると、俺はリビングの扉を開けた。
カーテンを開き、太陽を部屋に導く。おはよう…。
今日は暑くなりそうだ…。
つけたテレビの朝一番のニュースも、今年一番の暑さになると言っている。
予想があたったことに軽い優越感を覚えつつ俺は台所に向かった。
今日は…Yシャツは半そででいいな…。そんなことを考えながら。
ある事件に巻き込まれることも知らず…。
台所に入ってもお米の炊けた匂いがしない。炊飯器のディスプレイを見ると『6:30』という数字が点滅していた。10.000満点をつけたくなるような完璧なまでの失敗。俗に言う、『ボタンの押し忘れ』というやつだ。
お米族らしからぬ失敗にさっきとは反対の気分になりつつも、『少量急速』をメニューから選び出し、決定した。
*
いつもより15分ほど遅く家を出た俺は、町の中を縫っていく。
住宅街から大通りへ。大通りから郊外へ。そして…学校へ。
幾つもの交差点を抜けていく。途中、点字ブロックの上を走り、体に震動を感じる。
二種類あるブロックを歩いてみたことがあるが、よくブロックの上を外れ、ぶつかりそうになったことがある。
この上を田村さんが歩いているとなると、ちょっと驚きだ。
でも、障害物が置いてあるときだってある。商店街もそのひとつだ。露店からはみ出した商品が点字ブロックの上に乗っていることがよくある。店に立ち寄るため、自転車が上に置いてある時だってある。俺達には普通でも、そうでない人が世の中に入る。
田村さんもその一人………ん?
視界の向こう、赤信号の交差点に佇む一人の女性。赤い大き目のリュックサックに、長い髪を乗せ、紺色の制服をまとって、犬を連れている。
朝から散歩だろうか?
…そんなことは無い。
自分の寒いジョークに自ら体を震えさせつつ、俺は速度を落とし左側に並んだ。
「おはよう、田村さん」
多少驚いた顔をしつつも、俺のほうを振り返り、「おはようございます」と言った。
ふと、田村さんの左手にトランシーバーのようなものが見えた。
引き出されたイヤホンコードが、左耳へと繋がっている。ラジオのように見えるそれを、田村さんは赤になっている、俺達が渡ろうとしている方の信号機に向け、、ボタンのようなものを押した。それをポケットにいれるまでの一連の動作を俺はずっと目で追っていた。
「ねぇ、田村さん、さっきの…って一体なんなの?」
「さっきの…えぇと…これのことでしょうか?」
ポケットから緑色の未知の物体を取り出す。
「そう、それ」
「これは、『歩行者支援システム用レシーバー』というものです」
「歩行者支援システム用レシーバー?」
2、3回頭の中で繰り返して、ようやくその言葉を理解する。
「はい。交差点の名前や、そのの向こうにある建物、信号の状態を知ることが出来、青信号の時間を延長したりすることが出来る『歩行者支援システム』の受信をするための『レシーバー』です」
「そんなものが…あるのか?」
「日本全国でもそんなに多いものではありません。とても珍しいですよ。私は見たことが無いのですが…歩行者信号機の上にカメラみたいなものがあると聞いています。どうですか?」
俺は視点を信号機の上に向ける。
一瞬朝日が目に入り込み、瞬間的に瞑る。
支柱から横に信号機がつけられ、さらに上…支柱からもう一本の棒が水平に設置され、カメラのような四角い箱のようなものが見えた」
「あった…」
「そこから、電波が出ていて、このレシーバーで受信するのです」
「へぇ…」
関心というより、感嘆だった。
技術と言うものはこういうものに使うべきものなんだと改めて実感した。
「あ、青ですよ。行きましょう」
薫かレシーバーからか情報を受け取った田村さんが、言う。
「あぁ」
「薫、Straight Go」
学校の目の前の横断歩道を、俺達はゆっくりと渡った。
*
玄関に入る直前、前を歩いていた田村さんが突然立ち止まった。足で目の前の段差を確認すると、「OK」と田村さんが、靴裏で段差を叩きながら言う。
足元の段差を、気づかい、ゆっくりと超えると、田村さんは下駄箱を手でなぞりながら進んでいく。
「1…2…3…4…5………1…2」
入り口から5番目、手の位置から下に2個目の下駄箱は田村さんのものだ。
靴を脱ぎ、上履きをはく。田村さんの性格を反映したかのようなそのスカートの裾が、しゃがんだ時ふわっと床に触れた。
白杖を折りたたみ、鞄に入れ、靴を下駄箱に入れると再びしゃがみ、薫の背中から脇にかけて取り付けられている小さなポーチからタオルを取り出す。
「薫、足」
薫はその言葉にすぐ足を前に出した。
「Good!」
差し出された足をひとつずつ丁寧に拭いていく。
「はい、薫。綺麗になりましたよ」
全ての足を拭いてもらった薫は、そこで初めて学校の床の上に立った。
「行きましょう、河口さん」
「あぁ…って、ごめん、ちょっとまって」
「?」
傾げられた首に答えるように俺は言った。
「まだ、靴、履いてないんだ」
*
「Go、教室」
俺が何時も使う道を田村さんと薫と一緒に進んでいく。
「Corner」
階段の手前、薫が立ち止まり、田村さんは階段を上るように促す。その指示を聞き、薫は階段を上り始めた。
俺は邪魔をしないように田村さんの後ろをついていく。
かわいいお尻………………………もちろん薫だが…についている尻尾を振りながら薫は進んでいく。
踊り場、階段の終わり、曲がり角、交差点…その全てを薫は立ち止まることで田村さんに教えていく。
最後に教室の入り口で立ち止まり、教室に入る。七時四十分…。SHRが始まる五十分前。何時も田村さんが教室に来る時間、俺は自分のクラスにたどり着いた。
「すごいんだな、薫は」
自分の席につく前、先に席に座っている田村さんの前に立つ。薫は机の脇に伏せている。田村さんが転入したその日に、この列の幅を広げたことを思い出す。
「はい…本当に助かっています…。薫がいなければ今の私はいなかったかもしれませんし…」
「ん? どう言う意味なの?」
「たとえば、今こうして、外に出ていることも無かったかもしれません…。白杖(はくじょう)で歩くことの辛さ…なれることはできませんでした…。特に新しい土地には引っ越し出来ません…。薫がいたから、私は勇気を持ってこの土地に移り住むことができましたから…」
「なるほど…な」
薫…おまえは田村さんの目だけじゃなく、心もサポートしていたわけだ。
口に出すことが無かったその言葉。
自分の中でゆっくりと反芻すると、俺は飲み込んだ。
「えらいな、薫。これからもがんばれよ」
替わりに俺は薫をねぎらった。
自分の席につくと、学ランを脱ぎ夏服の様相になると俺は鞄から道具と本を取り出た。
…お互い本を読む。
朝の恒例行事。
本を読むとき、人は自分の世界を作り出す。他の人が犯してはならない世界を…。だから、お互い声をかけることはめったに無い。それが暗黙の約束だった。
だけど…俺は自分の世界を壊してしまうときがあった…。
こうして…本から目を離して前を見るとき…。俺の視界からは他の全てが消えうせる…。光も…音も…さっきまで読んでいた一行も…。何もかもがどうでもよくなる。全てが…無くなり、唯一、田村さんの後ろ姿だけが俺の世界に残る。
…どうしたんだろうな…。
篠原さんや相沢さん、義之…いつものメンバーが集まる。いつのまにか、俺は考えることを止め、5人で朝の会話を楽しんでいた。