Top > ウェブ公開作品 > 小説 > 長編小説 > 光になりたい > 本編 -第五章-
如月さんの無実を証明し、如月さんをいじめから救い出した俺達は、いつもの平凡な日常にもどりつつあった。
クラスもしだいに馴染み始め、完全に田村さんはクラスに溶け込んだ。
そんなある日曜日、俺は注文していた本をとりにいくために商店街に出かけた。道の真ん中にいる薫を無視して進もうとしたら、止められた。様子がおかしいと思った俺は走り出した薫の後ろを追いかけた。そしてたどり着いた先には…卑猥な行為に及ぼうとしている男たちと、その対象者、田村さんがいた。その光景を見た俺は、しばらく考えた後―――もときた道を引き返した。
…走る…。
……走る……。
………走る………。
息がもつれる。
風が流れる。
体が流れを作る。
すべての物を後ろに押し流し、俺は前に進む。
―――あそこだっ!
心の中で叫び、体をスレスレまで傾ける。
多少足が滑りそうになったが、グリップが効く。
「貴様らっ!」
叫ぶと同時に右肩を張りだし、渾身の一撃。
肉体同士とは思えないほどの鈍い音がし、にごった声が聞こえ、一人の男が吹っ飛んだ。
「ざけんじゃねぇよ!」
俺の叫び。
ここに来て初めて音が聞こえ始めた。
自分の鼓動。
かすかなザワメキ。
そして…狼狽の声。
「お前…何を考えてやがる」
相手の声。
それは壁に反響し不気味に聞こえる。
だけど…その言葉は俺になんの恐怖も与えない。
まるで………空虚な言葉。
空っぽだ。
お前らの頭の中身のように。
「それはこっちの台詞だ」
俺の視界に入った一人の女性が顔を引きつらせる。
俺は素早く上着を脱ぎ、その女性に手渡す。
「薫はすぐそこにいる。逃げろ」
何か言いたそうなその顔を俺は言葉で制す。
「何も考えるな」
その女性は頷くと後ろめたそうにしながらも俺が走って来た方に戻っていく。
「お前はあの時の…」
「せいっ!」
何も言わせない…。
前に出てきた男を上段蹴りで跳ね飛ばす。
「なにしやがる」
「関係ない。女に手を出した“御礼”だ。沢山あげたいものがあるんでな…それに言いたいこともあるんでな」
空気が一気に重みを増す。
押しつぶされないように俺は心で気合いを入れる。
負けるかよ…。
いつだって誰かのために戦うときは無敵になれる。
「手前ぇ…どうやら痛い目にあいたいようだな」
「それはどうかな」
「調子くれてんじゃねぇ!」
発火点の低いやつらだ。
考える隙無く男の右手が下から跳ね上がってきた。
ぐっ!
顎を下からたたき上げられ、体が後ろに反り返る。
「ちっ」
後方に着地した体を跳ね返らせ、相手に近づくと、右足から変化を伴った中段蹴りを入れる。
下段に見据えたその脚を、膝を中心に上方に回転させたその蹴りは相手の脇腹を確実に突く。
「ぐはっ!」
母音が欠落したその声の持ち主は地面へと帰還する。
残り3人。
―――!
不意に後頭部に重い衝撃を受け俺は体のバランスを急激に失った。
いつの間に後ろに。
倒れつつある視界の中には二人しかいない。
―――させねぇよ。
両手を同時に地につくと、全身のバネを働かせ体を跳躍させる。
ハンドスプリング。
走るという行動は全ての運動の基本…。
いつの頃かたたき込まれた気がする。
前にいた二人は俺の後方に滑り込み、振り返る瞬間、再び上段へ。
―――脚だけは使うな…って言われたな。
「はっ!」
頭上へあがった脚を一気に直角に降ろす。
肩口に当たり、相手は苦肉の顔を浮かべる。
「なめんじゃねぇ!」
最後まで発せられることの無かった相手の声は急激に俺に近づき、風を巻き付けた拳が俺を襲う。
首をひねりつつ、その勢いで体を反転させると、血がにじむくらいに握ったその拳をたたきつける。
堅い!
「ひょろいんだよ…」
直後、いつの間にか向き直っていたその体…そして膝が俺をめがけて噴気を起こす。
やられる…。
腕と腕をクロスさせ、攻撃が当たると思われる場所に俺はガードをはる。
だが、衝撃は腕を貫通し、俺の体を襲った。
核が…違う。
こいつは…リーダーだ。
十分に距離を保って俺は立ち上がる。
残りの二人は壁際に移動し、戦局を見守っていた。
背の高い男はつっこんでくる。
早いっ!
出された拳は…左手。
予想外の事態に俺は困惑する。
こいつ…。
体重移動が間に合わない…。
かわせるかっ!?
上体を捻り、その遠心力で拳を外側に弾く。
だが、その軌道を完全に変える事はできない。
力が重すぎる。
過去に軽量化を重ねたこの体で…あの重さに勝つことが出来るのか。
右肩にかすったその攻撃すら、俺の体を徐々にむしばむ。
俺は体制を立て直すために、再び後ろに下がった。
振り返るな。
あそこには守るべき人がいる。
ここを超えられてはだめだ。
もうすぐ…あともうすぐだから…。
その数分を戦い抜けば十分じゃないか。
ただひたすら己の体力を温存し、時間が解決するのを待てばいいじゃないか。
だが、相手にはそんな考えはない。
その証拠に、ほら、また突っ込んでくる!
軽そうな体から繰り出される一連の攻撃は正確性こそ無いが、それを補うだけの十分な重みがある。
再び左手。
俺は体を滑り込ませ、相手の懐を見据える。
距離が縮まる時間が半分になる。
攻撃に入っていた長身の男はその時間に対応できなかった。
右手を相手のみぞおちにたたき込む。
『力=質量×加速度(F=ma)』
軽く後ろに反発した相手の脇腹めがけ、今日何度目かの回し蹴り。
そして、鳩尾への攻撃を追加した。
「うっ」
多少後ろに反り返っただけ。
…化け物。
だがっ!
バランスを崩している長身の男に対し、脚を蹴り払う。
今度は後ろに相手の体が流れる。
距離を詰め、姿勢を低くし、肘を突き出し、損傷が少ないといわれる太ももを狙う。
ただし…つぼを狙って…。
「せいっ!」
柔らかいものに突き立てるような感覚が肘を襲い、攻撃が当たったことを示している。
俺と同時に地面に倒れ込んだ男は…気絶しているようだ。
肩をさすりながら俺は立ち上がった。
右側に一人の男を確認し、残るは―――。
刹那、視界が一周し、次の瞬間には空が見えていた。
「だりぃ」
さっきまで左の壁際にいた…男…。
体が言うことを聞かない。
全てが俺の意識と切断されていく。
これが、気絶ってやつか…?
頭が鈍い。
音が遠ざかっていく。
薄れゆく意識の中で、「君達!」とかすかに聞こえた気がした。
*
光が消えては、うっすらと消え、音が聞こえては、すっと引いていく。
体が重く感じれば、ふっと軽くなり、しめつけられては、暖かく包まれる。
ゆっくりとした時の中、闇の中。
何も見えない、聞こえない。
言いしれぬ不安の中、一つの光が見えた。
体は…動く。
俺はその光を目指すことにした。
淡く、力強く眸に入るその点は俺を確実にその場所へと向かわせる。
どうして、光はこんなにも明るく、そして優しいのだろうか。
光の中心に手をかざすと、その光は力を強め、俺を包む、照らし出す。
まるで、それが、当然の出来事かのように、光の使命であるかのように。
光は俺の体を軽くすると同時に、俺に現実を与えた。
すっと手に感覚が戻り、体に自分の体重の重みを感じ、音を連れ戻し、闇を与える。
ゆっくりと目を開けると、見慣れない景色が映り込んだ。
真新しい天井、白いカーテンに夕日が暖かく差し込む。
部屋はオレンジのヴェールをまとっていた。
ベッドは三つ並んでいて、どれも白いシーツがしっかりと掛かっていた。
そんなことを考えながら、ベッドから降り立つ。
『タンッ』
軽いはねるような音が部屋にこだまする。
もう一度部屋を見渡すと、唯一見慣れた存在、田村さんがソファに腰掛けていた。
足下には薫が大人しくねむっている。
「田村さん?」
小さな声に反応したのは薫だった。
起きあがると、薫は俺の元に歩いてくる。
俺はしゃがみこむと、薫を撫でる。
ほおにざらっとした感覚を覚えた。
「おまえ…」
ふっとため息をつき、俺は続けて『惚れるなよ』と言った。
流石にこれには薫も引いたらしい。
一瞬動きが止まった。
「言霊…か」
言った自分自身、心底後悔した。
「河口…さん?」
透明な、それでいて、しっかりと重みを感じる声。
田村さんの方を見る。
「こんばんは、田村さん」
目をこすっている田村さんを見ながら、挨拶をする。
どうやら、うとうとしていたらしい。
「こんばんはではありません!」
その細いラインのどこからそんな声が出るか分からなかった。
しかし…次の時には、何も考えられなくなっていた。
田村さんが俺のもとに転びそうになりながら駆け寄ってくる。
薫も素早く反応し、俺のそばから離れた。
「田村さん!」
バランスを崩しかけた田村さんはかまわず俺に飛び込んできた。
ぐっ…と足に力を込め、後ろに流れないようにする。
「河口………………………さん」
胸の高さ、田村さんの頭がそこにある。
泣きじゃくる彼女に俺は何も出来ない。
いや、何も考えられない。
「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい!」
それから何も言うことなしに、ただ、泣いている。
俺の薄手のシャツは涙のかけらに染められていった。
…
……
………
ようやく泣きやんだ田村さんは俺の顔を見上げた。
閉じられているまぶたの隙間からはまだ涙が見え隠れする。
「ごめんなさい…。私のせいで…。河口さんにこんな事…」
「どうして、田村さんのせいなの?」
「私が…そう店外にこなければ。私が彼らに見つからなければ。私が…薫をあそこに残さなければ…。こんな事には…ならなかった…私が…」
「そんなこと言わないでよ。俺が報われないじゃないか」
「………………………」
「俺は、自分の正しいと思ったことをやったまでだ。田村さんを助けたいと思ったからやったまで。形は違うけど…こうして田村さんが無事でいること…。田村さんが謝ったら俺がしたことは何だったんだ? だから…謝らないでよ…俺のためにも………………………逆に俺が謝らなきゃいけないのに…」
「どうして…ですか」
初めて口を挟んだ田村さんの声は疑問の声だった。
「だって、後先考えずにあいつらにつっこんでいって…勝手にやられて…気がついたら逆に俺がやられて…。心配させたのは俺の方じゃないか…だから…」
「そんな…」
田村さんはどうして自分に責任を向けようとするのだろうか。
自分が悪くなくても、全て自分が背負おうとしてしまうところがあるような気がする。
性格…といったらそれで片づいてしまうだろうが。
「う~ん…じゃ、これで、おあいこ…ということでどうかな?」
「おあいこ…」
「うん。だめかな?」
「河口さんがそれを望むならば…」
田村さんは、ゆっくりと俺から離れた。
どこか不安で頼りないこの感じ。
こんなに近くにいるのに遠く離れているように感じたり、反対に重なり合っているかのように感じる。
なんだろう…この気持ち。
「ところで…田村さん。ここはどこ?」
そんなわだかまりをうえから押しつぶすかのように俺は疑問に思っていたことを聞いた。
「商店街の交番です。あのあと、刑事さんが河口さんをここまではこんでくれたのです。あの方達も捕まり、今、下で色々聞かれているようです」
「そっか…」
少なくとも一人で突っ込むより、先に交番に走りこむという俺の考えは間違っていなかったらしい。
もし、一人だったら俺は今頃…。
ナイフを持っている可能性だってあったはずだ。
でも…あんな所を見せ付けられてだまっていられるはずなんてない。
たとえ無謀でも…誰だって守りたいものがあるから。
*
「親父…」
田村さんに連れられて辿りついた一階の窓口には親父がいた。
「よっ♪」
よっ…って。
その言葉を放ったきり、何も言わなくなった。
すぅと息を吸い込み…
「馬鹿やろう!」
空気が震え、体がびりっと痙攣する。
静かだが、激しい怒りの表情。
その顔のまま俺に近づき、
手を出すと―――
その手は俺に向って伸びる―――
目を瞑る。
次に来る衝撃に備えて。
すっ…とあたたかい感覚に包まれる。
丁度腰のあたりにしめつけられる感覚。
目をゆっくりと開けると、親父が目の前にいた。
耳元で『よくやった』と呟いた。
親父はそう言うと俺から離れた。
何が起こったかいまいち把握出来ない。
そんな俺をよそに親父はソファーに腰掛けた。
「河口君だね?」
人の良さそうな40代ぐらいの刑事さんが俺に声をかける。
「はい」
「君からも話をききたいんだが、大丈夫かい?」
*
ふわっとしたウェーブ。栗毛色の髪。丸みのある柔らかい眸。カットソーの上に軽く羽織るような形で淡紅のブラウス。アンサンブルカーディガンではないのだろうか、色違いのロングスカートを穿いていた。その様相はいかにも『大人』と言う雰囲気を醸し出している。上下ともしっかりと着こなすその姿は、全体的に雰囲気が田村さんに似ている。母親…だろうか。
背は田村さんと同じか少し高いぐらい。じっとその目で見つめられるとなんとなく落ち着きを覚える。その隣に…椅子に腰掛けている田村さんと比べても一目で親子とわかる。その田村さんは………据え付けのミニアップルパイを食べている。何となく意外なところを見た気分だ。膝の上には既になん袋もの食べた後のゴミがあった。
「初めまして、河口君」
しばらくの沈黙の後、声をかけられた。その声は独特の暖かさを持っている。
「由梨絵の母で、由梨子と言います。何時も貴方の事は由梨絵から聞いてます。今回の事、本当にありがとうございます」
「いえ、俺が好き勝手にやった事ですから…。逆に心配かけてしまって…」
「自分の思った事を実行出来る事は凄い事です。誇りに思いなさい」
「は、はい」
ただそれだけを言うと由梨子さんは田村さんの方を振り返る。
「由梨絵、帰ろうか」
「はい」
「薫、お仕事」
いつか見たようにハーネスを付けると、田村さんは俺に向かって一つだけ黙礼をして、外に出ていった。由梨子さんはその後ろをついていく。
「お疲れ様でした」
一つ間をあけて刑事さんが話し出す。
「今回の件ですが、全員の事情聴取が終わったら、もう一度お呼び致しますのでその時はご協力お願いします」
「はい」
俺は親父と交番を後にした。
商店街。
夕日は色あせ、青みが空を覆う。澄み切った空に徒雲が一つ浮かんでいた。
ふと、気になる事があった。田村さんの顔…ちょっとだけ青白かったような気がする。―――怖さが…抜けないんだろうな。
日も落ち、イルミネーションが輝き始める道を二人で家に戻った。
朝霧が葉の上に残り、何かの意思を持った宝石のように光を反射させる。
そんな休み明けの火曜日の朝、俺は学校の中に入った。
ひっそりと静まりかえったその場所はこれからの賑わいのことを感じさせない。
階段を上り、二階の廊下に降り立つ。
リノリウムの床。
窓から入る光彩。こだまする足音。
すべてがいつもと変わらずそこに存在した。
教室の扉。
ゆっくりとそれを開くと朝の住人はいなかった。
今日は…休み…かな?
机の上に鞄を置くと、俺は窓を一つだけ開けた。
風は…無い。
音…あさの音が教室を満たす。
複雑なパズルのピースを一つひとつあてはめていくように、その『空間』を創り出す。
椅子に座ると、日曜日に買ったばかりの本を広げた。
児童文学…ファンタジー。
青空をバックにタイトルが黄色い文字で入れられている。
透明なビニールのカバーとともに表紙をめくると、同時乾いた音が、ピースをひとつ教室にあてはめた。
…
……
………
「薫………………………OK」
聞き覚えのある声に俺は顔を上げた。
扉は閉めていない。
田村さんは入り口を確認したことを薫に伝えると、教室の中に入ってきた。
ゆっくり…ゆっくり。
あまりにゆっくり過ぎる動作。
そして―――
ふわっ―――
その音がまるで聞こえたかのような感覚。
次の瞬間には、田村さんは床に…倒れていた。
「!」
椅子が倒れる音、机が位置を変える音。
そのすべてを背後に押しやり、俺は田村さんに近づく。
「田村さん!?」
仰向けの姿勢に移し変える。
額からは気持ちのよくない汗が流れているのがしっかりと見えた。
思わず口の上に手をかざしてしまう…。
息は…ある…。
ふ、と、口が開き「大丈夫ですから」という言葉を発する。
大丈夫なわけがない…。
「保健室…。立てる?」
うなずいたのを確認して、俺は田村さんの手を握る。
自分からたちあがろうとする田村さんを差さえる。
たちあがった瞬間、ふらっとするその体を俺はまた支える。
「本当に大丈夫…? ほら、おんぶするから…」
「そんな…」
「気にしてる場合じゃねぇよ…」
俺は田村さんに背を向けると、「ここだよ」と握った手を自分の背中に当てる。
俺はひざを軽く曲げ、下を向く。
薫がいた…。
心配した面持ちで俺達を…いや、田村さんを見上げている。
「…すみません…。薫…のハーネスを…」
「あぁ」
最後まで言い終わる前に俺は薫のハーネスをはずしていく。
2回目となるとなれたものだ…。
はずしてからしばらくたつと、田村さんの重みを背中に感じる。
軽く曲げていたひざを伸ばす。
ハーネスと、いっしょにつけられているリードを手に持つと、俺は田村さんを背中に背負い、歩き出した。
細く、それでいて苦しそうな息遣いが聞こえてくる。
ゆっくりと転ばないように階段を降りる。
薫が俺達を先導しているような形…。
揺れで落ちてきた田村さんを背負いなおし、俺は一階に降り立った。
この時間は…保健室は開いてないから…職員室…か。
誰もいない廊下。
喧騒の無い廊下。
恐らく職員会議中であろう職員室のドアをノックし、返事を確認してから扉を開ける。
「失礼します…」
いっせいに先生達の目が俺たちを見る。
一通り名乗っている間に、中には異常に気がついた人がいるようだ。
「保健室の、佐々木先生居ますか?」
呼ぶより早く歩いてくる先生がいた。
佐々木先生だ。
「とりあえず、保健室に連れていくわよ」
「はい」
*
締め切っていた部屋の匂いと太陽のにおいが同時に鼻をくすぐる。
電気のスイッチをパチンと入れると、部屋は一気に明るさを増した。
「そこのベッドに寝かせて」
「はい」と返事をしながら俺はいったん田村さんをベッドの縁に下ろす。
改めて顔を見ると、その肌は白いを通り越し、うっすらと青みを帯びていた。
田村さんは自ら背負っていたリュックを下ろすと、手探りで確認しながらベッドに寝た。
居心地が悪そうにしているベッドの上のリュックを、保健室中央のテーブルの上に移動させる。
入れ替わりに先生がベッドのそばに移動すると、近くにあったいすに座る。
「しゃべること出来る?」
「はい…」
かすれいりそうな声。
聞き取るのがやっと。
俺は部屋の隅のいすに座る。
「どんな感じ? 頭が重いとか、からだが熱いとか…めまいがするとか…」
「下腹部のあたりが…痛いのと…眩暈がします…つねにボーっとしている感じです」
「思い当たる原因はある?」
「はい…。多分…」
長く間を空けた………………………
「生理ではないかと…」
「生理…。なるほどね…。いつもこんな感じなの?」
「いえ…今回が初めてです…」
「いつもより早いの? それとも遅いの?」
「一週間ほど…遅いです」
「手帳とか…持ってる?」
「はい…リュックの小さいポケットに」
俺は立ち上がると、リュックを先生の手元に持っていった。
「ありがとう」
同時にファスナーを開ける。
中からは、小さな小物類、保険証、障害者手帳とともに見慣れない手帳が出てきた。
びっしりと日付けが書き込まれ、グラフが伸びている。
楕円形の円が所々塗りつぶされていた。
「すごい…」
手帳を開くとともに先生が言った。
「よくこんなに…」
グラフを追う目が真剣になる。
前のページをめくっては、その前。
そして元に戻ってくる。
「確かに…一週間遅れてるわけね。先月までは普通だったから…」
う~ん…とうなった後…、
「新しい環境になじめていないかな?」
新しい環境。
転入してきたということは当然引っ越してきたということだ。
長年住み慣れた町を離れ、この地に来てから大体一ヶ月ぐらいだろうか…。
どちらにせよ、環境になじんでいないことは確かだろう…。
それに、最近はいろいろあった…。
日曜日…最後に見た顔が青白かったのは…もしかしたら、予兆だったのかもしれない。
「とりあえず、ゆっくり今日は眠りなさい。どうせ体じゃあ授業なんて受けられないでしょ?」
「はい………」
パタンと閉じられた手帳の表紙には『女性健康手帳』とかかれていた。
*
先生がもう一枚シーツを部屋の奥から持ってくる。
「暖めたほうが少しは楽よ」
そう言いながら、布団の上にシーツをかぶせた。
「すみません…」
「それにしても…だ。よくここまで細かくつけてるわね」
再び手帳を開く。
小さい丁寧な文字は…多分田村さんのお母さんの字であろう。
インク書きされたそれは日々の様子から、基礎体温までかかれている。
さっき見えたグラフは基礎体温の移り変わり、ということだ。
「小学校のときから書き込んでいるようだけど…そうね…安定してからは特に痛みがあるというわけではなさそうね」
後から知った話が、この健康手帳は10年分の記録をつけることが出来るらしい。
移り変わりなどを手軽に知ることが出来るということだろう。
自分の体に関してセンシティブであろう田村さんならでは…というところか…。
「兆候はありました…。先週の終わり頃から…偏頭痛が…」
「そっか…。今日の朝は?」
「軽い眩暈はありましたが、大丈夫だと思っていたのですが…来る途中で…」
「そう…まぁ、休みなさい。たまには休息だって必要よ」
「はい…」
「その服装だと寝苦しいよね? 脱ぐ?」
「はい…」
俺は何も言わず部屋の隅へと移動した。
先生がそんな俺を笑いながら見届け、カーテンを閉めた。
しばらく小声で会話が聞こえた後、カーテンが開かれる。
手には紺のセーラー服とリュックサックを持っている。
この学校はいまさらながら、学ランとセーラー服だ。
それでも、今まで何回もデザインを変えてきたらしく、セーラー服といっても地味…というわけではない。
どちらかというと、“小洒落(こじゃれ)”ている。
ベッドの前まで再び移動する。
部屋の片隅からは筆記の音。
生徒自身が書き込むはずの受診記録を書き込んでいるのであろう。
「大丈夫?」
俺の声に、側臥位になっている田村さんは苦しそうながらも笑顔で「はい」といった。
無理…してるよな…。
「とりあえず眠りな。授業のほうは録音しておくし、篠原さんもいるし」
「はい…ご迷惑をおかけします…」
「困ったときはお互い様…さ」
自分の手に目線を持っていくと、さらに下、薫がベッドの下で眠っている。
それは…待っているかのように思えた。
元気がいい…と聞いているからこういう姿を見ると意外に感じる。
田村さんを思う気持ち…か。
「何か必要なものとか、あるかしら?」
いつの間にか俺のそばに来ていた佐々木先生が田村さんに問い掛ける。
「出来れば…クッションか…それに類するものがあれば………」
「そう…確かにおなかを暖めることも出来るし…便利かしら…。ちょっと待っててね」
隣のベッドに無造作に置かれていたクッションをバスタオルで包み、田村さんに手渡した。
「はい…どうぞ」
「すみみません…。でも…こうすると…落ち着くので…」
ゆっくりとした動作でそれを受け止まると、胸元に抱き寄せる。
「そう…それで、他にある?」
「大丈夫です…」
「そう…痛くなったらいつでも言っていいから。無理しなくていいわよ」
「はい…」
短い言葉でやり取りした後、先生はカーテンを半分だけ閉めた。
*
やがて寝息が聞こえ始めると、先生は一気に肩を下ろした。
カーテンの隙間から見える田村さんは、落ち着いた寝顔を見せている。
「ふぅ…。お疲れ様」
「あ、あぁ…はい」
一瞬、何の事だかわからなかった。
「よく…つれて連れてこられたわね…」
「陸上部の…基礎練で人を担いで階段登ったりしましたから」
「なるほど」
苦笑交じりの笑い。
「そろそろSHLの時間よ」
「あっ…そうですね」
俺は立ち上がると田村さんのリュックからいつも使っているICレコーダーを取り出す。
「よろしく…お願いします」
「えぇ」
*
昼休み、篠原さん、如月さん、相沢さん、工藤とともに保健室にお見舞いに行った。
だけと田村さんは眠っていて…相沢さんは手に持っていたメロンパン(学校を抜け出して買ってきたらしい)をテーブルの上に置いた。
それぞれ、佐々木先生にお願いしますと言った後、保健室を後にした。
*
一日の授業が終わり、俺は保健室に向かった。
他の四人はそれぞれ部活もある。
ようは、暇人なわけです、俺は。
それに、ICレコーダーを返さないと行けない。
保健室はドアが開いていて、かわりにレースのカーテンがかかっている。
窓が開いているからだろうか、そのカーテンは廊下にわずかに入り込み、ゆれていた。
失礼します…と小声で言いながら保健室に入る。
クルリと椅子を回転させ、佐々木先生が俺を見ると、にっこりと笑い、「お疲れ様」といった。
続けて、「まだ寝ているわよ」と。
「一応、一回起きて軽く昼ご飯は食べたけどね…。メロンパンは後にしておきます…って」
と、笑いながら言った。
「そうですか」
俺はそれに答えつつ、リュックに銀色の物体をしまいこむ。
「調子…どうなんですか?
「そうね…お昼の段階ではだいぶよくなってきていたみたいよ」
「そうですか」
それを聞いて安心した…。
胸にたまっていた何かが、すっ、と、流れていった。
俺は椅子に座る。
「そうだ…」といいながら先生は俺の前に椅子を持ってきて座る。
ちょうどお互いに向き合う形になった。
「ねぇ河口君。どうして、田村さんがこういう格好で寝ているかわかる?」
俺は今一度田村さんの方を見る。
ふとんで隠れてはいるが、そのシルエットは自分自身の胸元にすべてを集めているような格好…胎児姿勢といったような気がする。
「胎児姿勢ですか?」
「へぇ…よく知ってるわね。じゃ、なぜ、クッションを抱いているかわかる?」
「それは…さっき田村さん自身が…」
「そうね。でもそれ以外にも隠れたりゆうがあるのよ。例えば胎児姿勢。三角座りをそのまま横にしたような姿勢は母胎の体内で眠っているときの格好。あの姿勢を取ることで本能的に安らぐというのは既に証明されているわ。元々人間は、自分の体のパーツが胸に近いところにあると安心するのよ」
「自分の胸元に近い…?」
「うん。例えばこうやって手を下ろしているより、胸元に手を置いた方が何となく安心しない?」
先生は手を起立の姿勢のところに持っていき、その後、自分の胸元においた。
俺も続けてやってみる。
たしかに、手が自分の胸元にあるだけでどことなく密着する感じがする。
「胸には心臓があるわ。それを守っているという意味もあるかもしれないけど、安心するのは事実。膝を自分の体の胸に近い部分に置くことによって、似たような効果が得られるのよ。だから、あの姿勢に行き着く…。これが胎児姿勢の秘密。更に補足するなら、女性は左胸のほうが若干大きいという。それは、心臓を守るクッションの役目をしているわけね」
そこで先生は言葉を切った。
壁際に移動すると、臓器の様子が描かれたポスターを指差し、
「それに、胸には『だんちゅう』というつぼがあるの。そこを刺激することによって、副交感神経が活性化するのよ。知っていると思うけど、副交感神経はリラックスや催眠導入といった効果をもたらすわ」
再び椅子の元に戻ってくる。
「なるほど…でも、それとクッションがどういう関係にあるのですか?」
「膝を自分の胸元に近づけると、胸と膝のあいだに一つの空間ができるわよね?」
「えぇ」
「そこにクッションを置くと…その空間を綺麗に埋めることができる。つまり、感覚的に自分の体を一つの丸い物体にすることができる。胸を中心に…ね」
「なるほど…。つまり、全てが自分の胸の位置を中心に置かれることによって、安心感が増すと…」
「そういうこと。理解が早いわね」
そこで先生は言葉を切り、窓の外を見る。
ちょうど俺に背を向ける格好だ。
「目は物事をもっとも現実的に把握するもの。人間の五感の中でもっとも現実的な感覚。それを失うとどうなるか分かる?」
「現実的な感覚…」
「例えば、手にはさみを持たされたとするでしょ? 目で見るとそれはすぐ『はさみ』ということが分かる。だけど、目をつむると、まず『堅いもの』という遠回しな認識から始まる。つまり、物事を抽象的にとらえることになる。物体をとらえるには、触覚と視覚が重要と言うことは分かるでしょ? その中で視覚が消えたら残りは触覚しか残っていない。田村さんにとって全ての感覚は触覚から得られる。そして、人間は自分の近くにものがあることによって安心する…。すなわちそれは、田村さんにふれているものが多ければ多いほど田村さん自身が安心する要因になる。だから彼女は『クッションをだいて眠ると安心できるのです』と言ったわけ」
「つまり、田村さんは自分になにかものがふれることによって安心を得る…と」
「そう。何か思い当たるようなことはない?」
思い当たることか…。
そういえば、薫に触れるときも撫でるではなく、抱きついていたような…。愛情というのもあるかもしれないが、もしかしたら、先生が言うような要因があったのかもしれない。
「ありますね…たしかに」
「胎児姿勢、触れること…これらを統合すると、最終的に自然とあぁいう格好になるわけ」
「なるほど…」
「でも…それだけじゃないかもしれないわよ」
「というと?」
「苦しいとき、人間は胸元に手を置く。なにか自分を押さえるとき人間は自分の胸元に手を置く。丸くなって小さくなって眠るのは、寂しいから? それとも、成長する想いを押さえるため? 貴方はどっちだと思う?、河口くん」
「それは…」
寂しいから…これはさっきの説明の延長から求められるけど…。成長する想いって…なんだ?
「わからないです」
「そうね。人間の考えが簡単に分かったら怖いわ」
軽く苦笑いを混ぜたような顔をしている気がする。
「ただ、触れることで感じることもあるのは確か。確かに目は現実的な感覚器官、60億人の中から自分の親の顔を探し出すことができるかもしれないけど、それが故に現実を直下に把握してしまう危険性すらあるわ。そのことによって得ることも傷つくこともある…。結局、怖いのよ。目が見えないことによって、今までの感覚を失うこともあれば、新しいものの感じ方を得る。でも、それは見えなくなってからじゃなければ分からない。だから、私たちは目が見えなくなることをおそれる。そこに何があるか分からないから…。だから田村さんは自分のそばに何かを置く。それが薫であり、自分の体の一部…。あなた、田村さんが襲われそうになったところを助けたそうじゃない?」
意外な展開に俺は多少なりとも驚いた。
あの話は警察と両親と担任の先生しか知らないはずなのに…。
「どうしてそれを?」
俺を振りかえり、
「田村さんが教えてくれたわよ、私に。ちょっとだけ恥ずかしそうに…そして時々怖そうに…。女性にとって…いえ、全ての人にとって胸という体の部分は大切なことはさっきの話で分かると思うけど…。そこを全く知らない人にいきなり触れられたらどう?」
と、言った。
「流石に俺も嫌です」
「そう…。人間の体の中で他の人に触れさせてはならない場所…それが胸という部分。命という面でも…心という面でも…ね」
あの時、あの男達は田村さんの『胸』を触っていた。
あれは誰もが嫌と感じることだ…。
だが、田村さんはそれを現実的に把握することができない。
全てはその触覚から把握する。
現実的に把握しにくいからこそ嫌な想像が巡る。
よけい…怖い…。
「しかしまぁ…河口君も隅に置けないわね」
「どういう意味ですか?」
「あの後田村さんが貴方の胸元で泣いたそうじゃない」
そんなことまで…。
「自分の胸を相手に貸すことがどれだけ勇気がいることか…あなたは知ってる? だって…もっともさらしたくない場所を他人に見せるわけでしょ?」
「それは…確かにそうですけど」
あの時は突然の出来事で何も考えられなかったな…。
なんて田村さんに声を掛けたかも覚えていないし…。
でも…嫌な感覚はしなかった。
自分の近くにものや人があることによって得る安心感…か。
理解できるかもしれない…。
自分の手に向けていた視線を先生に向けると、いつの間にか背中を向けていた。
?と思っていると「河口君…ごめん…これからJRCなの…。ここ、開けてもいいかしら?」
「あっ…はい」
「生徒が来たら先生はいないって言ってもいいし、視聴覚室にいると伝えれくれれば言いから」
「わかりました」
「ごめん…お願いするわ」
後半のせりふはあわただしく、筆記用具を持つと廊下に飛び出していった。
どうやら何かを忘れていたらしい。
*
白いワイシャツと言うものは、どうしてこんなにも心を惑わせるのだろうか。着ていても、中にあるものがうっすらと見える。その、見えそうで見えない感覚が人間の探求心をくすぐるからだろうか。ワイシャツの奥に見える男性とは異なる部分を隠す存在が…見える…。
「河口さん?」
「あぁ、ごめん。制服を広げるのに時間がかかった」
と、嘘をついた。
―――どうしてこうなっているかみんなに説明する必要があるだろうか。
あの後田村さんが目を覚まし、2,3言葉を交わした後、制服を着るという話になった。
そこで、テーブルの上にある制服を俺が取りにいき、田村さんに手渡すために広げているというところである―――
しかし…どうやって着させたらいいのだろうか。
俺は制服の構造を確かめつつ、考えをめぐらす。
ふと、制服があった場所のすぐそばにブレザーがたたんでおいてあった。
「ブレザーも田村さんのものなの?」
「はい…。まだ寒いので…」
「そっか…」
「ブレザーは自分で着られますので…」
「わかった」と言うと同時に田村さんはベッドの上で手を前に差し出す。
「わたすよ?」
うなずくのを確認し、俺は手の上にブレザーを置いた。
田村さんはそれを広げ、上からかぶるような格好で着た。
長袖のYシャツとのコントラストが目に鮮やかに映り込む。
「それでは…お願いします…」
「あぁ」
俺はブレザーと同じようにして上からかぶせることにした。
「じゃあ、バンザイしてもらえるかな?」
「はい」
言われた通り田村さんは手をまっすぐ上に上げる。
軽く背伸びしながら、俺は広げた制服を上から通していく。
制服の中に入ってしまった、長い髪を田村さんは外に出す。
そのとき―――ふわっと石鹸の匂いが溢れ出した。
その甘い香りは、そこの空気だけを違う空間へ“誘った(いざなった)”
「終わったよ」
俺がそう言うと、田村さんは「ごめんなさい」と言った。
「えっ?」
聞き間違えかと思い、俺は聞き返す。
「ごめんなさい…。皆さんに迷惑をかけてばかり…」
「いいんだよ、そんなこと。それに、無理するといけないし」
「でも…わざわざ…お見舞いにきていただいたり…河口さんにはここまで運んでいただいて…」
「気にしなくていいって…。みんな田村さんが元気になることが一番うれしいんだから」
「でも…」
「好意は素直に受け取っていいよ」
「………………………はい…ありがとうございます」
消え入りそうな声ながらも、俺は満足した。
田村さんって…こう言う人なんだな…と思った。
「あら、どう、調子は?」
声に振り向くとレースのカーテンを持ち上げなら部屋に入ってくる佐々木先生がいた。
「はい、おかげさまで…」
田村さんはベッドの縁を手探りで確認すると、ゆっくりと足を下に伸ばし、床に降り立った。
「あっ、靴はここ」
俺は田村さんの手に軽く靴を当てる。
「すみません」といいながらかがんで靴をはく。
『薫』と言う一言で、ベッドの下でおとなしくしていた薫が田村さんの足元に移動する。
「薫。ずれているの直すからね」
一旦ハーネス取り外して、薫へ向けると、薫は首を自分でハーネスの中にくぐらせた。田村さんはそれを確認し、しっかりと固定し直す。
ハーネスを右手に持つと、「お世話になりました」と深々と礼をする。
「何かあったらいつでもどうぞ。あっ…*点字…間違ってるのがあったら私に言って頂戴。すぐ直すから」
「はい」
先生はリュックを田村さんに渡し、彼女が背負うのを見届けた。
もう一度「ありがとうございます」と言うと、田村さんは続けて「薫、Door」と言った。薫はすぐさま田村さんを入り口まで案内する。
「二人とも…帰り道、気をつけてね」
先生の言葉に田村さんと俺は見送られ、保健室を後にした。夕日に照らされ、影がいつもより長く…伸びていた。