光になりたい -第四章・後編-

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前回までのあらすじ

 田村さんが編入してからしばらくがたつ。体育の授業の時、バスケットボールから田村さんを救ってから、急激に俺と田村さんの仲が良くなった気がする。

 朝の時間を共有する毎日…田村さんが悩んでいる様子を見た俺は、その理由を聞いた。話によるといじめられている人がいるらしい。いじめの理由は窃盗らしいが…田村さんはその人を信じているらしい。義之をメンバーに加え、俺たちの活動は本格化していった。

~第四章 後編~

5月1日(木曜日)

「本当に貴方がやったのね?」
「はい…。私です…財布を取ったのは」
 朱に染まる教室。
 夕日が入りこむと、そこはまるで違う世界。
 そして、心すら変えてしまうのだろうか。
 ここにいれば全ての時間が緩やかになる…そんな気がしていた。
「私が…財布を…」
「泣かなくていいわ。一つだけ、聞いていい?」
「はい」
「如月さんが貴方を庇ったのは知ってるわよね?」
「はい…しんとなった教室で、紫穂、は…すこしだけ………間を…空けて、誰、も…手を………上げな、いのを見る、と…すっと………自分から…。隣、にいた…私が…犯人だっ、て…知らないのに…」
「そう…。それだけ言えは十分」
「私…嫌な人だよ…」
「美樹………泣きたい時は思いっきり泣いた方がいいよ? 泣いてるとこ見られるの嫌かも知れないけど、私みたいな馬鹿だったら、見られても問題ないでしょ?」
「そんな…馬鹿だなんて…」
「ほら………こっち」
 篠原さんが腕を広げる。
 それが何を意味しているかは俺にもわかった。
「いえ………大丈夫…です。それより…」
「そう…。さっ、皆、行くわよ。全てを終わらせるために…。今のうちに解決するために」
 …
 ……
 ………
 『ガタンッ!』
 乾いた音は1段と廊下に響き渡る。
 紙が散らばる音が響き渡り、小さな悲鳴もそれに混ざる。
「ん? なに、この黒い箱」
「あっ、それは…だめ…」
「へぇ…大切なものなんだ。どれ…」
 如月さんが抱きしめるように持った黒い箱を、一人の女の人が強引に奪い取る。
「あっ…」
 伸ばした手は、宙を描き、ゆっくりと降ろされる。
「それだけは…やめてください…」
「別にいいでしょ」
 カチッとカバーロックをあける音が響き、なかの物が新しい空気に晒される。
 ここからはよく見えない。
 けど、教室を照らし出すかのように夕日をそれは反射させていた。
 赤い光は、その物を中心に、新しい生命を与えられ、生きているかのように動く。
 夕日でつややかな赤みを帯びていた教室は光の矢に射られ、新たなる色を生み出す。
 光の矢は机、黒板、壁、床…すべての物に光を投げかけていく。
 何もかもが、赤色であって赤色で無い光を全身に纏い、その姿を俺たちに焼き付ける。
「へぇ…フルート…。あんた、吹奏楽部だったわね。まっ、私達には関係ないけど」
 その声と同時に、フルートは空間上から支えを失った。
 瞬時に発していた光は消え 重力に引かれ、それは床を目指す。
「あっ!」
 如月さんは手を伸ばし、落下点を目指す。
 物と物がこすれるような音が鳴り、けたたましい音が耳を劈く。
 次の瞬間には、周囲の机が床に倒れこんだ如月さんを中心に秩序を乱していた。
「よく取れたわねぇ。そこまでして守りたい物なわけ? はっ、馬鹿みたい。馬鹿って思うと笑えてくるわ。くっ…ははっ…」
「貴方達には…わからない」
 そう言ったのは俺の隣に立っている田村さん。
「薫、Go」
 田村さんが歩み始めると同時に、あらかじめ二手に分かれていた俺達は同時に両方のドアから教室に入った。
 田村さんは俺と。義之は篠原さんと新井さんと共に。
「なっ、なによあんた達!」
 突然の招かれざる訪問者。
 それに驚くその顔は、罪悪感が含まれている。
「誰だっていいじゃないよ」
 篠原さんが声を発する。
「あっ…田村…さん」
 事の次第にやっと追いついたのか、如月さんがはじめて俺達の方を向いた。
 立ちあがると同時にフルートの状態を確認し、丁寧に蓋を閉じると、胸元に抱き寄せた。
 大事な物…なんだな…。
「こんにちは、如月さん」
 あくまで普通のやり取りを続ける田村さん。
 そこにはなんの意味が込められているのだろうか。
「まったく…卑怯ね、あんたたち」
 篠原さんの攻撃が始まった。
「第1、恥かしいと思わないわけ? あっ…あんたらに恥かしいなんていう感情なんてないか。団体行動の意味を履き違えている貴方達にそんな感情なんて存在しないわよね」
 意外な一面を見た気がする。
「如月さん…こっちへ…」
 田村さんが、如月さんを呼び寄せる。
「うん…」
 物々しかった教室が、静寂に包まれる。
 俺の目の前には二人の女子。
 俺の横には田村さんと如月さん。
 多少離れた場所には義之と篠原さん、新井さんが立っている。
「でっ、あんた達は何者よ」
 二人のうちの一人が質問する。
「如月さんの…友達ですよ」
 『友達』…その言葉に如月さんは俺達を見まわす。
 疑問の顔にもとれるその顔には驚きも含まれていた。
「そっ、友達。それ以外は教える必要なんてないでしょ?」
「それで…その友達が私達になんの用よ」
 大分口調が弱くなっているのは罪悪感からくる物なのか、篠原さんの先制攻撃からなのかはわからない。
 どちらにせよ、俺達の作戦は成功している。
「虐めを…やめさせるために来ました」
「虐め? あぁ、これね。社会の常識ってのを教えてあげてたのよ」
「人を殴ったり蹴ったり…集団で囲むことが社会の常識なのですね…」
 篠原さんが築いた場の雰囲気は田村さんの言葉にも力を与える。
「つまり…それは…もしここで貴方達が蹴られたとしても、それは社会の常識を教えるためだという理由が付けば許されるのですね…」
 田村さんの口から“蹴る”という言葉が出てきたのは意外だった。
 そんな俺の狼狽をよそに話は進んでいく。
「はぁ? そう言う意味じゃないわ。財布を取った人に社会のルールを教えてあげていたわけ。身をもって…ね。なんて優しい人たちなのかしら、私達」
「へぇ…暴力と言う形で教えられるほど社会の常識は軽い物だったなんて…初耳」
「篠原さん。もう…大丈夫ですから」
 田村さん自ら篠原さんの行動を制した。
 この問題は…ここまで来たら自分で解決したいと言うことだろうか。
 しかし、それはあまりにも無謀にも思える。
 それは…如月さんへのメッセージなのだろうか…。
「正直に答えてください。どうして…虐めという方法を取るのですか?」
 向き直った田村さんが二人に尋ねる。
 落ちついた口調。
 全てを諭すような声。
 薫は田村さんの足元で伏せ(Down)、全ての動向を見守っている。
「いじめじゃないっていってるでしょ…」
「ねぇ…どうして、話し合いで解決しようとしないのですか?貴方達が如月さんを虐めていた理由の一つに…ほんの一部に差別という意識があったとしたら…」
 あくまで淡々と推し進めていく。
「それ…は」
 『差別』と言う言葉を聞いて俺は、はっ、とした。
 田村さんも同じ思いをしたことがあったのではないか? と…。
 失礼な言い方になるが、田村さんも俺達と違う部分を持っている。
 それは如月さんと同じ。
 二人のこの共通な部分『人とは違う所』を理由に、虐められたことが…田村さんにもあるのだろうか…。
 そうだとしたら…。
 田村さんが如月さんを守ろうとする気持ちもわかる。
 田村さんがいじめを受けていたとしたら、如月さんの気持ちもよく分かるに違いない。
 それが…そのことが…今回の田村さんの行動の結果なのだろうか…。
 真実は…田村さん以外にはわからない…が。
「無いという…自信がありますか? 自分たちと違うものを吐き捨てようという意識があったとしたら…私は…」
 田村さんの言葉はそこで切れた。
 いや、それ以上言うことができなかったのかもしれない。
 だって…後ろから見てもわかるほどに…彼女の肩は震えているから…。
「そんなの…嫌です…。私は…嫌いです…。ねぇ…どうして………どうして…なのですか? 答えて…ください…」
 田村さんのその言葉。
 懇願…。
 心からの言葉…。
「確かに…そんな気持ちがあったかもしれない………。気になるのよ…。その子の存在が…全てが…。どうしようもなく気になってしょうがない。そして…気がついたら邪魔になっていた。気になるほど邪魔になっていた。そして…財布を取ったって聞いて………」
「気になって…しょうがなかった…」
「そう…。だってそうじゃない。自分と違うから…。私達とは明らかに異なる部分だから…」
「気になる…と、その人のことが好きになる…という言葉の違いは…無い…」
 田村さんの言葉には…深い意味が込められている。
 それは…沢山のオブラートに包まれていながらも…全てを伝える強さをもっていた。
 ピアニッシッシモ…。
 もし如月さんがピアニッシシモの音を奏でるとしたら、田村さんはピアニッシシモの言葉を発することができるのだろう。
「優しさの…裏返し…。好きと嫌いは紙一重…」
「その…とおり…よ…。気になって…どうしようもなく気になって…。いつのまにか…虐めていた…」
「もう一人の方は…どうなのですか?」
 そう…田村さんの質問に答えていたのは背の高いセミロングの髪を持った人。
 顔は逆光で見ることができない。
 今、田村さんが声を掛けたのは…比較的背が小さめの女性…。
「佐々木さん…教えてください」
 『佐々木』と呼ばれた女性は顔を上げ、田村さんを見つめる。
 よくその表情は読み取れない…。
 その女性はフルートを床に落とそうとした人物だった。
「佐々木さん…教えてください…。吹奏楽部である貴方が…如月さんを虐めた理由を…。そして…彼女の宝物であるフルートを落とそうとした理由を…」
 『吹奏楽部』というフレーズは全ての疑問を解決した。
 田村さんがその名前を知っていること。田村さんが必死に如月さんを庇おうとした理由。虐めているメンバーに吹奏楽部の人がいることを俺達に伝えなかった理由…声を聞けばわかるのに………。
「佐々木さん…羨ましかったのですよね? 貴方は…。だって…如月さんの…フルートは…本当に天使の笛…ですから…」
 長い間。
 その間に佐々木さんは下を向き、指を弄び…そして、また前を向いた。
「田村さん…貴方には敵わない…。どうして…そう…田村さんは人の心をよく察するのか…。でも…少し…間違ってる…。羨ましいと思った…けど…虐めはしたくなかった…。私は…脅されたの。同じ部員に…ね」
「えっ…」
 同じ部員…それすなわち吹奏楽部員を意味する。
 つまり…如月さんの才能を妬んで虐めをめいじた…ということだろうか。
「なるほどね。そういうこと」
 凛とした声。
「どうりで…あれていたわけだ」
 篠原さんの声が教室を占領する。
「一昨日…吹奏楽部の部室が…妙な空気に包まれていた理由。ハッキリ言わせてもらうわ。あの空気…明らかに…いつもと違っていた。私にはわかるのよ、音の色が」
 音の色。
 聞いた話によると一つの音感らしい。
 音に乗せられた色を読み取り、メッセージを受け取ることができる能力。
「あの空気…如月さんの演奏に対する…醜い嫉妬…」
「世の中に…天性の才能を持つもの…天才は…存在しない…。人の2倍努力すれば、誰でも天才になることができる。そして…そのひとの3倍努力すれば…」
「わかってた…。虐めはいけないって…。でもね…脅されたのよ…。………二度と…演奏ができないようにしなさいって…」
「そんなっ!」
 田村さんの隣で沈黙を続けていた如月さんが声を発した。
「二度と…演奏が…できなくなるように…だなんて…」
「如月さん…本当のことなの………。ごめんなさい…本当に…ごめんなさい…。いけないって事はわかってた…。だけど…だけどっ…。ごめん…なさい………。これしか言えないから………こんな言葉しか知らないから………」
「如月さん、言霊…という言葉…知っていますか?」
 田村さんが意外な言葉を発した。
「こと…だま…?」
 言霊…古代、言葉に宿ると信じられた霊力で、発せられた言葉の内容通りの状態を実現する力があると信じられていたもの。それは…言葉に込められた想い。
 まったく同じ事を田村さんは言った。
「彼女達の言葉に…嘘は…ない」
 強く、ハッキリと付け足した。
「はい。わかっています…。私なら大丈夫、佐々木さん、美村さん。なれているから…虐められること。しょうがないと思っているから…虐められること。本当にうれしい…二人の気持ちは…。ありが…とう」
「そんな…ありがとうだなんて…私達が悪いのに…」
 右を叩かれたら…左を差し出しなさい…か。
 如月さんも…強い人なんだな…。
「ごめんなさい…本当に…。ここで…止められなかったら…やめさせてもらわなかったら…わたし…取り返しのつかないことをしていた…」
「うん…」
「同じ人間だもの。分かり合えないことなんて無いのよ。他の動物だってお互いを分かり合ってるんだから」
 篠原さんの言葉。
 同じ人間だから…。
 ここにいる人達は全てその言葉でまとめることができる。
 差別なんて…ない。
 人間…それだけでいいじゃないか…。
 そんな意味が込められているのだろうか。
「これで、よかったんだな」
 いつのまにか隣にいた義之。
「あぁ…。結局見ていることしかできなかった…けど…ね」
「あんた達、なに勘違いしてるの?」
「「えっ?」」
「二人にとっては…自分の考え方を信じてくれる人がいるだけでどれだけ嬉しいことか…」
「信じる…か」
「なるほど…ね」
 俺達のそんな会話。
 そして…如月さんをはじめとする5人は…また1つの空間を形成し、お互いを確認しあっている。
 人間は…沢山の人がいる。
 でも…人間であることに変わりは無い。
 田村さんが伝えたかったのはそのことかもしれない…と俺は思う。
「ねぇ、如月さん…って、はじめまして。私は、篠原香澄。田村さんと同じクラス。しの~って呼んでくれていいから」
「はい…」
「そのフルート、本当に大事そうね」
「はい」
「もしよかったら、話…聞かせてくれる? 大切な物…何かあるんでしょ? それに…あの音色を出す…出すことができる…もっと、知りたいわ」
「は…い…」
 ふっと下を向く。
 フルートを見るためだろうか…考えるためだろうか…。
 それは…わからない…。
 だが、日の影に照らされたその顔は暗いことは確かだ。
「非常に素晴らしい音をもたらす…このフルートは…。このように…」
 目を閉じ、柔らかく息を吹き込む。
 流れるようなその旋律は、フルート本来の音と如月さんの思いをのせ、俺の耳に飛び込んでくる。
 一つの教室と言う無機質な箱は、その音をきき、一気に彩(いろ)をもち、姿を変える。
 コンサートホールまでとはいかない…。だが、確実に、今、この教室は魔法を作っている。
 朝の教室のように。
 そう…俺が心地よいと感じるあの空間のように…。
「私は…前の学校でも虐められていた…。色々な都合で…日本と韓国を行ったり来たりしてきたけど…。虐められていた…日本では…いつも。そんな中、出会ったフルート。何があっても…私の友達でいてくれた…フルートは。父に頼み込んで…半年間頼み込んで…このフルートを買ってもらった。ムラマツフルート…プラチナモデル…。私もアルバイトをしてお金をためた…けど…殆どは父に出してもらった…。全ての音を無理無く…奏でられるこのフルートは何時しか私の体の一部になっていた。寂しくなんて無かった…たとえ…友達がいなくても」
 如月さんが言葉を切ると篠原さんが、
「そう…なんだ…。ごめん…嫌なこと…思い出させて」
 といった。
「いえ…大丈夫です。何時か…田村さんには教えるつもりだったから…」
「そんな…大切な物だったなんて…」
 佐々木さんが口火を切る。
 ゆっくりと…佐々木さんは如月さんのもとに近づき、ハードケースを指でなぞると…
「私…嫉妬しちゃう…。あなたに…。如月さんの友達だなんて…」
 視線を如月さんに向け、
「ねぇ、如月さん…。私を…このフルートのライバルにしてくれない?」
 つまりそれは…
「ライバル…?」
「友達になろうよ…」
 そういうこと…。
「私も…お願いする…」
「そんな…かしこまらなくても…。私は…何時でも大丈夫ですよ」
 笑顔でそういった。
 如月さんの笑顔…。
 いや…全ての人の笑顔はどうしてこう…心を軽くするのだろうか…。
 そして…またその笑顔を見たくなってしまうのはどうしてだろうか…。
 如月さんはゆっくりとフルートを机の上に置き、手をさし伸ばした。
「よろしく」
「「こちらこそ」」
 結局…不器用だったんだ。
 3人とも…。
 ぎゅっと握られたその手は窓の外の矢に照らされ、光を放つ。
 光の中に守られているようなその手は…その絆は…決して切れることは無いだろう…。
 どちらからと無く手は離された。
 如月さんが俺達を見る。
고맙습니다. 지금까지 나에게는 친구가 없었다. 그렇지만, 지금은 있다. 정말로 고맙습니다.
 言葉はわからない…。
 だけど…意味は…伝わったような気がする…。
 言霊…。
 そう…思いは…伝わる…。
 どうして…日本語で言わなかったのだろうか…。
 恥かしかったから…なのだろうか…。
「どういたしまして」
 田村さんが言うと、如月さんは少し驚いたような顔をして、すぐ笑顔になった。
 そう言うことだ。
  
    *

 その後、俺達は自分たちのクラスに戻った。
 ひっそりとした空気に包まれる教室は、いつものメンバーを快く迎え入れる。
「あれ? 由梨絵は?」
 篠原さんが呟く。
 そう言えば、田村さんの姿が見えない。
 いまこの教室には俺や義明のほかに如月さんや新井さん、それに篠原さんがいる。
 中心となる人物、田村さんがいなかった…。
「どこに行ったのかしら…」
 篠原さんが俺達を見まわすが、全員、首を横に振るばかりだ。
「まっ、トイレにでも行ってるんじゃないか?」
 義明の発言にみんな賛成し、しばらく雑談をした後、それぞれの岐路にわかれた。
 そして、俺はただ一人、屋上を目指した。
 田村さんは…そこにいる。
 かくしんがあったわけじゃない…けど…そんな気がした。
 あのお昼休み…屋上に出たときの…田村さんはいつもと違っていた。
 普段は話しかけないと会話に参加しないけど…あの時は…。
 たったそれだけの違和感だけど…日常と少し違うところには人間は敏感になるものだ。
 今の俺もそれと同じだった。
 階段を上り、ドアノブをひねる。
 ギィと音を立て、ドアは開かれた。
「うっ」
 燃えるような赤色に当てられ、思わず目を瞑る。
 風が、体を包み、俺の周りを流れ、そして、またどこかに去っていく。
 丁度フェンスの際に探している人がいた。
「田村さん…こんな所で何やってるの?」
「あっ、河口さんでしたか」
 こちらを振り返り、笑顔で言った。
「いくら学校の屋上が好きだからって、もう大分遅いよ?」
「えっ?」
 田村さんはその言葉を聞いて慌てた様子を見せ、右手につけている腕時計を触る。
 『午後6時35分』
 デジタル音声が、今の時間を告げる。
 あれから大体30分近くたっている。
「…大変…」
「もう部活終わってるな」
 俺はそう言いながら田村さんに近づいた。
 距離、僅か1メートル
「ん? 薫のハーネス、外してるのか?」
 視線を下に移すと、薫に何時もついているハーネスが無い。
「はい…。ここは…薫にも楽しんで欲しいですから…」
「そっか…。よかったなぁ、薫?」
 とりあえず、やってみたかったことをやってみることにする。
 薫には…普段は触れられないから…な。
 しゃがむと、俺は薫の体に触れた。
 ふさっとした一つ一つの細い糸が俺の指を撫でる。
 首もとに手を移すと、薫は軽く上を向き、さっきより尻尾を強く振った。
「河口さん?」
 田村さんがその場にしゃがむと手であたりを探し始めた。
 俺はその手を握ると、薫のいるばしょを教える。
「あぁ…ここだよ、薫は」
「薫…」
 田村さんは半分抱きしめる感じで薫に腕を絡めた。
「わっ…嬉しそう…」
 俺が撫でたときより更にうれしそうな顔、表現。
 誰が見ても、二人は仲好しだ。
「はい…薫は家族の一人ですから」
 家族…か。
「そっか…家族…か」
「はい」
 家族と言う言葉を噛み締める。
 ふとわいた疑問を俺は田村さんに聞いてみることにした。
「ところで…田村さんはこの場所…好きなの?」
「はい…。屋上は…風が見えるから…音が見えるから…光が見えるから…」
「見え…る?」
 田村さんは立ちあがると、俺に背を向け、手を広げた。
 ササー…。
 風が流れる…緩やかに…。
「こうすれば…風を感じることが出来るから…風の流れを見ることが出来るから………だから、この場所が好きです」
 俺は目を閉じてみた。
 体を…風が撫でていく。
 優しく…ずっと…。
「見える…か」
「普段…見ることが出来ないものがここなら…見える…だから好きだといいたいんだね?」
 俺のその言葉に田村さんは振り向く。
 悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「見ることが出来ないものが見えるから…ではありません…。この場所は…体が軽くなるから…まるで…私自身を別の世界にさらってしまいそうな雰囲気があるから………だから好きです」
といった。
「それは…」
「見えるから…ではなく…感じる事が出来るから………意味は殆ど変わりませんけど」
 どんなに目を開けても、光を感じようとしても、田村さんには見ることが出来ない…だけど、感じることは出来きる…。
 そして…この場所は…感じることが出来る場所の一つ…。
 だから…、
 田村さんはこの場所が好きなんだ…。
「っと、そんなに好きな場所に俺が居たらお邪魔だな」
「あの…そのような意味で言ったわけでは…」
「いいって。それに帰宅部の俺が長い間学校に居る理由なんてないからな。田村さんはどうするの?」
「私は…もう少しここに居ます…。部活が終わってしまったなら…まだ時間はありますから…。それに…今日のことを…」
「そっか。じゃ、帰り道、気をつけてね、田村さん」
「はい」
「じゃあな、薫」
 薫にもさよならの挨拶を言い、俺は来た道を戻る。
 …
 ……
 ………
 階段を降りる一つ一つの音が変化を持ち進んでいく。
 夕日に照らされた田村さんの横顔はとても嬉しそうだった。
 そして…気持ちよさそうだった。
 いつもの少し影のある顔とは違い、笑顔だった。
 それだけで…俺は満足だった。

5月4日(日曜日)

 ゆっくりと日常は流れていく。
 流れる中、何が起こるかわからないが、その足取りは確実。
 太陽高く昼下がり。
 屋根をつきぬけて光は足元を照らす。
 それと同時に、薄オレンジ色の商店街のタイルは輝きを増していた。
 いつもの本屋に向かう俺の足取りは何故か軽く、それは俺の心を表しているようだ。
 今日は…機嫌がいい…。
 あの日…あの時から。
 人々の友情はどうしてあぁも美しいのだろうか…。
 そんなことを考えながら歩いていると、道の真中より少しよったところに、ややうすいブラウンの毛を持ち大人しそうに座っている犬を見つけた。
 軽くウェーブを持ち、光を放つその毛は細く繊細で、僅かな風にも動きを与えられる。
 クリクリとしためは遠くを見つめ、何かを待ち望んでいるようにも見える。
 その犬は何時も田村さんと一緒にいる盲導犬に似ている。
 犬に近づき、銀色のネームプレートを見ると、“薫”と掘り込んである。
 薫…か…。
 一般的に盲導犬にはまちがいが起こらないように英語などの…つまり日本語ではない名前をつけるという。
 ハーネスをつけられ、じっとその場から動こうとしない薫はお仕事中だ。
 ゆっくりとその場所を立ち去ろうとすると、すっと薫が立ちあがり俺の前に立ちふさがる。
「薫、お前は田村さんを待っているんだろう?」
 そう言い俺は歩き出す―――。
「?」
 おかしい…何かがおかしい。
 どうしてお前は俺の目をみつめるんだ?
 どうしたんだ? 薫。
 いつもの薫らしくないじゃないか…。
 田村さんを待っているんじゃないか?
 瞬間、足に登ってきた。
 何か…あったのか…。
 薫は何も言わない…。
 ただ、俺を見つめて、尻尾を振るだけ。
「何か…田村さんにあったのか?」
 俺の問いに…薫は………尻尾を強く振った。
 ………。
 賭け。
 ハーネスを手探りで外す。
『タッ』
 薫は走り出した。
「薫っ!?」
 俺は後を追う。
 薫は俺の様子を見ながらひたすらに進む。
 元陸上部の俺ですら薫には追いつくことができない。
 けど、薫は俺との距離を一定に保つスピードで走っていた。
 大通りを曲がるとそこは路地。
 オレンジ色のタイルはアスファルトに変わり、アーケードはかかっていない。
 明るい雰囲気は消え去り、音も無くなりつつある。
 薫は走る。
 どんどんと路地を進む。
 そして…。
 一つの角の前で立ち止まった。
 背筋を羽のようなものでなぞられる感覚を覚えた俺は、音を立てずにその場に近づいた。
 そっと…物陰から角の向こう側を見た。
 袋小路になっている暗い場所。
 髪の長い女性が壁にもたれている。
 周りには5人の男たち。
 その女の人を取り囲んでいる。
 長い髪の女性…細いうでは白く、重力に逆らうことも無く存在し、顔は下を向いていて…見えない…。
「あの時はよくも俺達をこけにしてくれたな」
 太い重みのある男の声。
 周りの建物で反射した音はそれを無気味に変化させた。
 聞き覚えのある声だった…。
 あの時の…。
 髪の長い女性、田村さんは
「それは、もう…解決したではありませんか…」
 と。
「何勘違いしてる。俺達はお礼がしたいだけだ、お礼」
「お礼…?」
「あぁ」
 4人の男が田村さんに近づく。
 俺は…次の行動を悟った。
「ほんの気持ちだ」
 唯一動かなかった背の高い男がそう言うと、4人の男たちはゆっくりと笑い、田村さんを壁に押し付け………その動きを封じた…」
「きゃっ…な、なにを…」
 最悪だ…。
 こいつら…。
「そんなの決まってんじゃん」
 ゆっくりと男が近づくと…その手を田村さんの額にあて、壁に押しつけた。
「心配することは無い。声をあげても誰も来ることは無い。あんたはじっとしてればいいんだよ」
 小さな声でも反響し、俺の耳に届く。
「じっと…しているだけでな」
 その男は笑う。悪魔の笑み…。
 田村さんから離れた男の手は…ゆっくりと下におり………彼女の首の下…ふくらみの部分に………………………触れた。
「きゃっ…」
「可愛い声だなぁ…」
「離し…て…っ」
 他の男たちによって押さえつけられている手では離そうとしても無駄。
 力では敵うはずも無い。
 それは………絶対的な敗北…。
 そして…絶望…。
「見えないって…怖いよなぁ? 何が起こるかわからなくて怖いよなぁ? でもねぇ…俺にとっては都合がいいんだよ…。何をしても…わからないからなぁ」
 男はさらに強引に迫っていく。
 田村さんはわずかな抵抗も許されなかった。
 周りの男達も一緒になって笑っている。
 その下司な笑いがどうしようもなくむかついた。
 いや、笑いだけじゃない。
 あいつらの行為自体が…むかついた。
 気がつくと…俺は手を握りしめ、自分の胸の辺りに持ってきていた。
 爪が手のひらに刺さる…。
 でも…痛みは感じない。
「んっ…ぁ…」
「たまにはこういうのも悪くねぇ」
 大き目の襟を持つ白いYシャツのボタンに手が掛けられる。
「ぁ…」
 普段は服に隠されている部分をその男はのぞき込み、笑みを浮かべる。
「さて…と…」
 その手が…その場所に伸びた。
 こいつら………。
 最悪な奴らだ。
 うっ…。
 何かがむせ返る。
 こいつら…殺してやる…。
 怒りが…ふつふつと怒りが湧き上がってくる。
 分かっている…自分でも…今の自分の心境が分かっている。
 何をしたらいいか分かっている。
 でも…本当にそれでいいのか?
 俺は5人相手にすることができるのか?
 体格から見てあいては二十歳前後。
 俺に…勝ち目はあるのか?
 もし…ナイフを持っていたら…?
 だけど…事態はどんどん進んでいく。
 自然と俺の顔は下を見た。
 薫が俺を見つめる…。
 薫………。
 俺は………俺は…。
 再び前を見た…。
 握りこめた拳が…痛い。
 爪がギリギリと自分の手に突き刺さる。
 腕が震える。
 俺の視界はハッキリと前を捉えている。
 そこでおきていることを捉えている。
 理解している。
 この先どうなるかもよそうできている。
 ………………………。
 ………………………………………………。
 その場にしゃがみ、薫を見つめる。
「薫、Down」
 その場に待機する命令。
 俺の命令は…伝わるかわからない…。
 けど、薫はその場に伏せた。
 そのまま…でいてくれ…。
 俺は再び立ちあがる。
「ごめん…な」
 俺は、握りこめた拳の力を緩め………ゆっくりと腕を下ろし、その場から目をそらすと………
 背中を向け………商店街へ向かって………………走り出した。

初出: 2003年7月11日
修正: 2005年2月5日
原作: 鈴響 雪冬
著作: 鈴響 雪冬
制作: 鈴響 雪冬
Copyright © 2003-2005 Suzuhibiki Yuki

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