Top > ウェブ公開作品 > 小説 > 長編小説 > 光になりたい > 本編 -第二章-
盲目の少女、田村由梨絵さんがこのクラスに編入してきた。だけど、何も変わることなく、クラスは田村さんを快く迎えた。
平凡な日常が始まる。
朝、教室に入ると、今まで一番だった俺は二番に降格する事になる。すでにその場所には田村さんがいたのだ。朝の時間、田村さんと話すという事が、日常の一ページに加えられた。
あれから一週間が過ぎた。
一週間という時間は短いようで長い。
俺は毎朝早くに家を出たが、田村さんのほうが早かった。
そして、キリのいいところで会話を切り上げ、本を読もうとすると篠原さんが乱入して賑やかにする。
どうやら、俺はしばらくは本を教室で読むことができないらしい。
だったら、家で読めという話になってしまうのだが、もう5年間…つまり中学校の頃から続けて来たことだからそう簡単には止められないのが、癖になった、ということだろう。
俺の記憶が正しければ、篠原さんは去年まで朝早く来ることが無かったが…。
以前、そのことを聞いたら、引っ越しして、バスの時間がこの時間じゃないとだめらしい。
こう言うとき、自転車で通える俺は幸せだと思う。
まぁ、それがきっかけで篠原さんともよく話すようになったのは確かだ。
篠原さんは話してみると、中々気さくな人だった。
よき相談相手に…とまでは行かないが、普通の友達として中々いい存在だった。
それに義之も混ざり、どんどんグループは大きくなっていった。
そして、それは次第に、俺の時間が―――と嘆くことにもつながった。
義之が体育の時間、バレーをしているときネットを張っている柱にぶつかったという事件もあった。
普段は中々いい顔をしている義之も、鼻血を流しながら顔にライン上に赤い線が走っているのを見たときは思わず笑ってしまった。
………あとで思いっきり殴られたが…。
田村さんは体育の授業だけは欠席している。
薫と一緒に皆の授業を眺めている。
その空気だけが俺は嫌いだった。
一人で、一階部分に備え付けられているギャラリーに薫と一緒に腰を下ろしているのを見ると、俺はそのたびに罪悪感に襲われた。
*
「さて、昼飯だな」
「あぁ」
「お前はいつも弁当だよな」
義之が俺の黒い弁当箱を箸で指しながら言った。
「まぁな。こっちの方が安いし…」
「だからって、毎日作るのは大変だとおもうぞ?」
「弁当は親父の担当だから」
「そっか。そう言えば、お前の家、父子家庭だったな」
「あぁ」
お母さんは、俺が小学校の4年生の頃、病気で死んでしまった。
それいらい、親父とは二人だけで暮らしている。
「義之はいつも購買だな」
「いつもってわけじゃないけどな。大抵は購買だな」
「弁当は作ってもらわないのか?」
「だって、面倒じゃん」
お前は作らないだろ…と突っ込みそうになる。
「まぁ、毎日作ってもらってるんだから、少しは感謝しろよ。親にも」
「あぁ」
毎日弁当を作るというのは相当の労力だと俺は思う。
年間200日学校に行くとしたら、高校3年間で600食の弁当を作ることになる。
そう考えるとかなりの回数だ。
「まぁ、お前の場合は、当番せいでご飯も作ってるだろうから、バランスとしてはいいんじゃないの? 俺なんて全部任せっきりだしな」
「まぁ、たまにはいいことしてやるといいよ」
「そうする」
俺は最後のおかずである卵焼きを頬張り、弁当の蓋を閉めた。
「ご馳走様」
「お前、食べるの早すぎ」
「義之が遅いんだって」
「周りを見てみろよ」
俺は言われた通り、回りを見渡す。
みんな、弁当を食べている最中だ。
「まぁ、個人差あるだろうし…」
「そりゃそうだけどよ」
「それじゃあ、俺、本読むから」
「おう」
俺は机から本を取りだし、ページを捲った。
*
火曜日の6時間目は楽しい授業。
「ほら、義之行ったぞ」
「あぁ」
『ヒュッ!』という音と同時に、小さい物が弾ける音がする。
放物線を描き、ハイクリアの軌道で羽が飛んでくる。
「!」
俺はラケットでそれを打ち返す。
「上ばっかり狙ってると、スマッシュ入れられるぞ」
義之が言いながらねらいをつける。
背筋をピンと伸ばし一直線にからだが伸びきった。
一際大きい音と共に、俺のコートに羽が突き刺さる勢いで入ってくる。
「なっ」
「だから言っただろ?」
体育の時間。俺達はバトミントンを選択し、授業を受けている。
バトミントンといっても馬鹿にしてはいけない。
これが中々しんどい。
とくに、義之があいてだと…ね。
「なんで、義之はそんなにバトミントンが上手いんだ?」
「天才の素質?」
「絶対、ありえない」
とまぁ、先生とタイを張れるほど義之はバトミントンが上手い。
翻弄されまいと俺がどんなに頑張っていても、義之は俺を左右に振り、隙間目掛けで一直線に決めてくる。
「しかし、聡。見てみ、女子のバスケット」
義之がラケットを握る手を緩め、体育館の一角を向いた。
俺もそっちを向く。
この体育館では、半分をバトミントン。半分をバスケットとして使っている。
卓球や野球もあるが、それは違う場所でやっている。
「バスケットがどうしたんだ?」
「いや、あの球の軌道…。どことなく、不安定だと思わないか?」
まぁ、俺も小学、中学、高校と歩んできたが、バスケットの球の大きさもどんどん変わっていった。
高校で使うボールなんて、結構重い。
投げるのにも相当な耐力が必要だ。
「あれだと、どこに飛んで行くかわからないぞ」
「だろうな。重いぶん、全力で投げて方向が狂いそうだな」
「だろ?」
『ピーッ』
耳を劈くような笛の音。
片づけを促すあいずだ。
「じゃ、そっちのねじ緩めて」
義之の指示にしたがって、俺はポールとネットを固定するねじを緩めた。
「それじゃあ、昨日言った通り、今日のホームルームの時間に席替えをするから、係はくじの準備をしておくように。以上」
そう言い残し、朝のホームルームを終える。
結局、今日も本は1ページも進まなかった。
「さて、聡。今回も楽しみだな」
「俺、もう諦めた」
「そうか。まぁ、別にどうでもいいけどな」
何を諦めたのか…それには深い事情があるのだが…。
俺と義之はくじ運がいいのか、悪いのか、どうやっても隣同士になる。
今まで各学期の初めに必ず席替えをして来たが、義之とは離れられなかった。
ここまで来ると、作為的物を感じるのだが…。
「ほら、実験だぞ。移動しないのか?」
俺の考えを遮るように義之が話しかけてくる。
「じゃあ、移動するか」
俺達は教科書を持って教室を後にした。
…
……
………
白い漆喰で塗られた壁に、春の光を浴びた木の葉の透けた色がうつりこみ、床の色を七色に変化させる。
学校という閉鎖され、同一の雰囲気を持つ各教室でも異質な空気を放つ場所がある。
化学室。そして、俺の好きな朝の教室だ。
教室の中には、化学の先生である、三浦先生。
そして、俺達がいた。
俺の座っているテーブルには義之のほかに4人いる。
去年から変わっていないおなじみのメンバーだ。
テーブルの上には透明な器具が整列され、それと共に、薬品が置かれている。
先生の説明が終了し、俺達は実験をすることになった。
俺が試験管を持ち上げ、スタンドから取り―――。
『カッ! パリンッ―――!』
出そうとしたとき、硬質の物体が弾けるような音がして、直後に短い悲鳴が聞こえた。
その音に驚き、俺は試験管を落としそうになった。
何とか試験管を手元に収めると、俺は音が聞こえた方を見た。
すでに先生がその場に立ち、片付けをはじめている。
そして、中心にいた人物は田村さんだった。
机の上の試験管の場所がわからず、落としてしまったらしい。
しきりに彼女は謝っていた。
周りの生徒…同じ班の人達が彼女をなだめる。
俺の気のせいだろうか…田村さんは目に涙を浮かべているような気がした…。
先生が塵取りでガラスの破片を片付け終わると、新しい試験管を置き、田村さんに気をつけるように促す。
田村さんは何も言わず、ただ、縦に頷いただけだった。
…
……
………
その後は何事もなく実験は終了し、俺は義之と共に教室に戻った。
*
「どうした? 聡。さっさとくじ引いてしまえよ」
6時間目のホームルームの時間。俺は教卓の上に置かれた大量のくじのなかから狙いを定める。
「…これにしよう」
細かく折られた紙を開いていく…。
18番。
黒板に書かれた座席票から18という数字を探す。
6列のうちの廊下から3列目、一番後ろの席だった。
「じゃ、俺は…」
義之が適当にくじを引く。
紙を丁寧に広げ、そして一言。
「よろしく、聡」
…。
腐れ縁だった…。
すでに腐敗してなくなってもいいと思えるほど…。
「作為的物を感じる…」
「無理だって」
だよなぁ…。
俺と義之はとりあえず、元の席に戻る。
…
……
………
クラス全員がくじを引き終わり、黒板に新しい席順が板書されていく。
その作業の途中、先生が「おぉ? 河口と工藤は隣同士か? お前ら何回連続だ?」といった。
それに対し、義之が、「入学してからずっと隣同士です」と答える。
「…恋に目覚めるなよ?」
その瞬間、クラスが笑いに包まれる。
「それだけは、絶対に無いです」
…
……
………
「「よろしく」」
俺達は前の席になった篠原さんと田村さんに挨拶をした。
「よろしく」
「よろしくおねがいします」
篠原さんは手を上げながら、田村さんは深々と礼をしながらそれに答えた。
結局、俺の席の前に田村さん。
その隣…義之の前には篠原さんが座っている。
………………………これで…朝はもう今まで通り過ごせないな。
俺はそう、心に思った。
「んっ…んぅ~………」
欠伸をしながら俺はベッドから起き上がる。
今日は朝ご飯の当番の日だ…。
『トントントン…』
階段を千鳥足のようなステップで降り、顔を洗う。
「ふぁぁ~………」
また欠伸…。
俺はタイマーで電源の入ったストーブで温められている部屋のドアを開け、台所に行く途中でテレビに電源をつけ、包丁を手にした。
テレビでは朝早くから耐久戦の様にニュースが読み上げられる。
冷蔵庫を開け、日曜日の買い物メニューと照らし合わせ、今日作る予定だったメニューを思い出す。
「肉じゃが…だったっけ?」
俺は頭を右方向に傾け、思い出す…。
やっぱり、肉じゃがであっていた。
野菜庫から玉葱、ジャガイモ、牛肉、しらたきを取り出す。
ジャガイモと玉葱の皮をむき、少量の油で炒める。
表面の色が変わったのを確認し、牛肉を同じ鍋で炒める。
その間に俺はだしの準備をする。
水、酒、砂糖、醤油、塩…すべて目分量。
水をさっきの鍋に入れ、煮込む。
頃合を見ながら、砂糖、塩、醤油を追加し、しらたきも入れる。
もう1つの方のコンロでは味噌汁を作る、
後ろでご飯がたけたことを知らせる音が鳴った。
「おはよう」
リビングのドアを開け、親父が入ってくる。
「おはよう」
「ん? …砂糖と醤油…それに…酒か…?」
「後、塩」
何故か親父は匂いだけで調味料をあてられる。
俺はまだ色と味を見なければ、調味料を当てることができない。
「相変わらずだね」
「まぁ、な…。今日は肉じゃがか」
「うん」
「煮崩れさせるなよ」
親父が目元を光らせていった。
「なんのために、ぢゃがいもの種類を選んで買ってきてると思うの?」
ぢゃがいもには2種類あり、メークインのように細長いタイプと、男爵のように丸いタイプがある。
それぞれ、荷崩れし易い、しにくい…などといった特徴があるため、調理目的で選ぶとより美味しい…と親父に俺は聞かされていた。
お母さんが死んでから親父は一人で料理を覚え、そして、俺に教えた。
当然、親父は俺より料理が上手いし、男としてもまだまだ上の存在だ。
しばらくは勝てそうに無い。
「まっ、お前がそう言うなら間違い無いだろうな」
最近は、俺のことも見なおしてくれているようだけど。
俺は皿に朝食を盛りつけ、お盆に載せ、テーブルに運んだ。
*
「へぇ~、河口君って、本を読むのが好きだったんだ」
「そう。だからこうして朝早く来て本を読んでいるわけ」
「なるほどねぇ~」
今日も天気は晴れ。
青い空から降り注ぐ光は、教室を明るく照らし、その空気を心地よい温かさへ変化させていく。
今、俺の前には、篠原さんと田村さんがいる。
田村さんは薫を撫でているし、篠原さんは机の上に俺のほうを向く形で座っている。
「しっかし、わざわざ朝の教室じゃなくてもいいと思うけど?」
「いや、俺にとって、この雰囲気が好きなんだよ。ここが最適な読書空間というわけ」
「へぇ~。面白いもんだね」
乾いた音が教室に響き、一人の人が入ってくる。
「おはよう、しの~」
「おはよう、みっちゃん♪」
「おはよう、田村さんに、河口君」
「おはようございます」
「おはよう」
教室に入ってきた女の人は相沢さんだった。
みっちゃんというのは、きっと、相沢真美の真美から来ているのだろうと思った。
ざっくりと短く切った髪は少し癖があり、外側に跳ねている。
そんな髪に細く光るヘアピンをつけ、前髪を止めていた。
「みんな早いね~。それに、一箇所に固まって…なにやってるの?」
「ん? ただ単に、席が集まっているだけよ」
「へぇ~」
そう言いながら、相沢さんは窓際の最前列の机に小さなリュックを置き、中からメロンパンを取り出した。
120円で売っている、チョコチップ入りの奴だ。
「今から朝ご飯?」
「うん。遅刻すると思って全速力で走ってきたら、どう言うわけか早く着きすぎちゃって…ね」
「凄い話だね」
「うん。私もびっくりしたよ」
そう言いながら、メロンパンを頬張る。
「あぁ~、牛乳も持ってくればよかった」
それはどうかと思う…。
たしかに、世の中には『常温保存可能』という牛乳も売ってるけど、あの味だけはどうしても好きになれなかった。
「しの~、お茶とか持ってる?」
「残念。私飲まないし…」
「そっか…」
「あの―――」
俺はその声に驚いて、自分の席の前の人…つまり、田村さんの方を見た。
そう言えば、まだ彼女は一言も喋っていなかった。
「ホットの緑茶ならありますけど…」
「田村さん本当?」
「はい。よろしければ、どうぞ」
「ありがとう。メロンパンと緑茶…なかなか面白い組み合わせだね」
といいつつ、田村さんが差し出した小さな魔法瓶のコップと用途を兼ねている蓋をあけ、それにお茶を注いだ。
「それにしても、相変わらず、メロンパンなのね」
「うん。メロンパン好きだし」
「どうせ、今日も二つ持ってきてるんでしょ」
「あったり~。さすがだね、しの~」
「みっちゃんの行動ほどわかりやすいものってないよ…とくに、朝のパンは…ね」
どうやら、相沢さんはメロンパンが好きらしい。
メロンパンといえば、色々な種類が最近出てきた。
俺はよく親父と買い物にいくが、パンコーナーには色々な種類のメロンパンが売っている。
表面が乾いたタイプのもの、しっとりとしたもの。
最近ではチョコチップ入り、メロンの果肉入り…はたまた生クリーム入りという物まで売っている。
「今日は、チョコチップと、果肉入りのメロンパン」
ほら…ね。
「やっぱり、朝はメロンパンっ♪ あっ、美味しい~」
相沢さんはお茶を飲みながら、嬉しそうに言った。
朝から元気な人…おれはそう思った。
「そう言っていただけると、幸いです」
「田村さん。これって、売ってる奴じゃないでしょ?」
「はい。自分で煎れています」
「やっぱりねぇ~。味が違うもん」
お茶を美味しく入れるにはコツがあると、俺は聞いた事がある。
まぁ、親父からだが…。
たしか、お茶にもお湯の最適な温度とか、割合があるらしく、蒸らす時間なども考慮して煎れるものらしい。
当然、葉の種類によってもそれは変わるらしいが…。
俺はそこまで考えると、手元に視線を戻す。
にぎやかな教室の声を聞きながら、俺は本を読み始めた。
*
昼休み。
皆は思い思いの場所でご飯を食べ始める。
そして、俺と義之はいつもそうしているように机を向かい合わせてくっつけた。
「しかし、男二人で弁当ってのも、なんだか味気ないよなぁ~」
義之がそんなことを言いながらフライング購入した学食の定食がある。
義之自身が、部の後輩のクラスに頼んで、早く授業が終わったら定食セットを買っておくようにと命じているらしい。
まぁ、変わりに、義之も部活で遅くなったときは夕飯を奢るらしいが…。
毎日4時間目が早く終わるクラスをチェックし、それぞれの部員に命じているところを見ると、中々抜け目無い。
「工藤君、河口君、一緒に弁当食べない?」
斜め前の席…篠原さんが言った言葉に、義之はすぐ賛成した。
俺もそれに同意する。
どうせ、二人で食べたって、食事は面白くない。
男二人という構成になれてしまった俺にとって、それは中々面白いのではないか? という結論に至ったのもある。
「ね、田村さんも一緒にどう?」
「私は…皆さんが迷惑でなければ…」
「もう、こっちから誘ってるんだから、迷惑なわけ無いでしょ。じゃ、決まり。さ、机くっつけて」
…
……
………
こうして、4人のメンバーで昼ご飯を囲むことになった。
「あれ、工藤君、いつのまに学食に?」
「あぁ、学食宅配サービスを使ってるからな」
学食パシリサービスだ。
「へぇ…何かわからないけど…他の人にはそれは出来そうにないね」
「まぁ、俺だけに許された手段だからな」
「田村さんは…おにぎり?」
「はい。これが一番楽ですから」
「まさか、一日中おにぎりって事は無いよな?」
義之がそんな質問をする。
田村さんは苦笑いしながら「流石に、それはないですよ」と言った。
「ただ、他の方より、時間がかかるので、学校で食べる昼だけはお握りにしているのです」
「へぇ~。それじゃ、頂きます」
《頂きます》
篠原さんの言葉に、メンバー全員が口を揃えて言う。
「ちょ、私がリーダーみたいじゃない」
「実質そうじゃないのか?」
と、義之。
「絶対、嫌よ」
と、篠原さん。
「どちらかというと、河口君が一番適任よね」
「ちょっとまてよ、リーダーなんてそもそも決める必要ないだろ?」
「名目上でもあった方が楽しそうだし…」
「そんなことで、楽しんでどうする」
俺と篠原さんのやり取りを、見守ることなく、二人は昼ご飯を食べている。
「それに、昼ご飯のときに―――」
『ピー』
突如、俺の隣から電子音が聞こえ、俺は言葉を飲み込んだ。
「なっ…なんだ、今の音?」
遅れて義之が反応する。
「田村さん?」
「もしかして、驚かせてしまいました…か…?」
左手にいつか見た魔法瓶を持ちながら、田村さんが申し訳なさそうに言う。
「ま…まぁ、それより、今の音ってなんの音?」
俺は田村さんに疑問をそのままぶつける。
田村さんは俺に、机の上においてあったコップを持ち上げ、見せた。
「このコップの縁に付けてある水位センサーの音です。お茶を入れる時、こぼれない様に…ということです」
「へぇ…そんなのが売ってあるのか」
田村さんが俺に見せたコップには、フックじょうの金具がつけられ、そのうえの方にブザーのようなものがついていた。
「中の水などが、このセンサーの位置まで来ると音が鳴って知らせてくれるのです。これなら、目が見えなくても大丈夫ですから」
「なるほどね…。面白い物があるんだねっ」
「はい」
こうして、昼休みは終わり、俺は午後の新たなる敵との闘い…睡魔との戦闘を開始した。
太陽が、南へ高く上がり、その日差しがポリカーボネートの透明な板を通りぬけ、オレンジ色のブロックを明るく照らし出す。
辺りは人で賑わい、どこの場所からも人の笑い声が聞こえていた。
そんな中、俺は買い物袋を手に持ち、自転車置き場を目指して、商店街を歩いていた。
ふと、目を前にやると、人だかりがあった。
なんの見世物だろう? と思ったが、買い物袋がいい加減手に食い込んできたので、俺はそこを通り過ぎた…。
いや、通りすぎようとしたが、通りすぎることが出来なかった。
「ですから…それは………」
俺がその中心を見る。
すると、少女が5,6人の男に囲まれていた。
長く伸びた足、長い髪。
顔は背を向けていて見ることが出来ない。
右手には、犬を連れていた。
そして、そのすべてに俺は見覚えがあった。
田村さんだ…。
場の雰囲気は最悪。
彼女が必死に謝る中、男たちは彼女を睨みつづける。
田村さんは俯いたままだ。
「なぁ、きちんと前を向いて歩けば、こう言うことにはならないと思うんだ?」
口調は優しいが、どこと無くとげのある言い方。
田村さんは盲導犬が目の代わりだ。
薫は判断を間違うことは無いだろうし…それに、もし間違っていたとしても、ぶつかったとすれば、男たちに責任がるのではないか?
だが、ぶつかっただけならいい。
謝ればすむからだ…。
だけど、最悪の事態が起こっているようだ。
囲んでいる男たちの中で最も身長が高い奴…態度のでかそうな奴の服が濡れている。
そして、手には、ラージサイズのコーラのコップが握られていた。
田村さんは目が見えない。
それならば、彼女に罪は無い…という考えを俺はしたくなかった。
一方的な判断を下したって、彼らの怒りをあおるだけだからだ…。
人の流れは、この場所だけを無視し、秩序よく流れている。
俺はゆっくりと考えをめぐらす。
田村さんが盲導犬と一緒に歩いているならば、前を見ていない…前の様子に気がつかない確率は低い。
盲導犬はきちんと訓練をしているからだ。
それに、田村さんは左右に振れて歩いていたわけではないようだ。
点字ブロックの上に田村さんが立っている所から、俺は、そう判断した。
それなら、ぶつかった事の原因は男たちにあるのではないだろうか?
男たちが前を向いて歩いていたなら、男たちが避けることも可能なのではないか?
盲導犬は危機回避能力がある。
当然、前に男たちがいたら、避けるだろう。
だが、避けきれなかった原因がある…。
それは…。
対応しきれなかった?
すなわち…男たちの急激な動きに対応できなかった…と言うことだろうか?
最も自然な流れとしては…。
田村さんも男たちも別々の方向から歩いていた。
もちろん、普通ならぶつかることはない。
だが、男たちはダラダラしながら、かつ、ふざけながら歩いていた。
突如、コーラを持った男が横にふざけて反れ、そして、田村さんにぶつかった…。
多分、こう言うことじゃないのだろうか。
俺は考えをまとめ、田村さんと男たちの会話の腰を折った。
「何があったんですか?」
俺はわざと大声で言った。
「んぁ? なんだ貴様」
「何があったんですか?」
軽く無視しながら、その質問をもう一度言う。
「彼女がよそ見をしていて俺達にぶつかったんだよ」
別の男が答えた。
「ねぇ、君。何があったの?」
俺はあえて名前を出さずに、田村さんに聞いた。
後々面倒になるのは彼女にとっても俺にとっても厄介だ。
「………」
ずっと同じ姿勢で田村さんは固まっている。
「答えてくれないとわからないんだけどな…」
「………私が…よそ見をしていて彼らにぶつかったんです」
…本当にそうだろうか?
そもそも、田村さんによそ見という概念はあるのだろうか。
よそ見をするもしないも、すべてはその薫が握っている。
ラブラドールレトリーバーは仕事熱心で従順という。
そんな薫が、仕事を放棄するとも取れる行為をするだろうか。
「ほら、俺達は何にも悪くない」
「貴方達は前を向いて歩いていたんですよね?」
「あぁ」
「じゃあ、どうして、あなた達が避けなかったんですか?」
「それは…」
少なくとも田村さんにはよそ見をするという行為は危険な物である。
すなわち、握っているハーネスから注意をそらすということ…。
つまり、視界が無い中、歩くこと…。
「答えられないのですか?」
出来るだけ、丁寧に…俺は聞く。
なるべく、彼らの神経をさかなでないように。
「そこにいるほかの人と話しながら歩いていたんじゃないですか?」
「ふん」
「…彼女によそ見なんてできるはずがないですよ。彼女の連れている犬は盲導犬ですよ」
言ってから俺は少しだけ後悔した。
関係ない人に、彼女のことをしゃべってしまったから…。
ごめん、田村さん。
だけど、こうしないと…。
「盲導犬の訓練のレベルはかなり高い。よっぽどのことがなければ判断を間違えるはずがないと思いますが? きっと、あなたたちは、この人のにぎわう商店街の中で横一列に並んで話しながら歩いたんじゃないんですか?」
「そりゃ………そうだけどさ」
「前なんて向いて歩いていなかった?」
流れはこっちに向いてきた。
「見てはいたさ。ただ、彼女がよけると思ってそのまま歩いていたんだよ」
どこと無く言葉を詰まらせながら男は言った。
「…」
…あの焦りようは見ていた…とはいえないな。
盲導犬に意見が聞ければ一番いいんだけど。
「ねぇ、君。前から人の声は聞こえた?」
「………」
少なくとも人間の判断の9割をになう目が見えないということは、その神経は他の器官に回る。
彼女の耳はほかの人より、敏感なはずだ。
「答えてくれないか?」
「…はじめは大きな声が右側から聞こえてきたんです。ですがその声が急に左…つまり私の歩いていたほうに移動してきて
このこがよけるように指示したんですけど、間に合わなくて…」
つまり、ふざけながら歩いていたということか。
「ということらしいけど?」
「ほう。お前は俺達にたてつく気か?」
その言葉で、彼らは自分の非を認めた事になる。
「怒るということは自分たちに不利な証拠」
「うっせぇなぁ」
「こいつ、生意気だな。やっちまうか?」
「俺は殴られてもぜんぜん平気ですよ? ただ、周りの人がそれをみて許すかどうか…」
すでにおれたちの周りにはかなりの人が集まっている。
つまり、俺にとって地の利があるのだ。
そこまでしないと、こんなことはいえない。
警察を呼んだほうが早いからだ。
だけど、俺一人の力で解決したかった。
だからできるだけ大声で話していたのだ。
そして、何よりも、彼女を守りたかった。
「ちっ、いくぞ」
「あぁ」
…
……
………
男たちは何かぶつくさ言いながら立ち去った。
それと同時に、周りの人もいなくなる。
「大丈夫? 田村さん?」
「どうして、私の名前を…?」
「田村さんらしくないね。河口だよ。クラスメートの」
「河口さん…。あっ…ごめんなさい…きがつかなくて…。動揺してしまって…」
せっかく上げた顔を又地面に戻してしまう。
「いいって」
「ありがとうございました。本当に迷惑かけて」
「気にすることないって。悪いのはあいつらなんだから」
「でも…」
「悪いことは悪い。いいことはいい。ただそれだけ…。それにしても、こいつもおとなしいな、薫」
俺はこの話を長く続けたくなかった。
彼女にも負担がかかるだけだ。
見えない相手と戦うと言うのはどんな感じなのだろうか…。
考えただけでも背中を何かが通りぬけた。
「それにしても、商店街に用事でもあったの?」
「いえ、早く、道を覚えてしまいたかったので…」
「引越してきたばかりだし、なんだったら案内するけど?
「え、いえ、それは迷惑がかかってしまいますから」
「気にしないでいいって」
「そうですか…」
彼女は再び顔を上げる。
「あぁ」
「じつは、困っていたところなのですよ」
「そうなのか?」
「はい」
「薫も引っ越してきたばかりの土地にはなじめていないですし…盲導犬自身は道を覚えないのです。飼い主がおぼえて、その方向に指示を出していくのです」
はじめて知った…。
俺はてっきり盲導犬が道をすべて覚えていると思っていた。
そうだとしたら、田村さんには余計負担がかかる。
「飼い主がなんこめの交差点を右というように、おぼえて、盲導犬に指示をだのんです。盲導犬はその方向に危険がないかを私に知らせる役目をしているのです」
「初めて知ったよ。そうだったのか」
「はい」
「それじゃあ、困ることもいっぱいあるだろうね」
「はい。店の位置など、一つも分からないですから」
「そうだろうな。じゃ、案内するよ」
「ごめんなさい。迷惑を…」
「だから、気にしなくてもいいって」
俺は半分苦笑いしながら言った。
気がつくと、彼女は謝ることが多いような気がする。
「人に聞こうとしても、どこにいるかまでは大体わかりますけど、どういう人か、親切そうな人かまでは実際に話してみないとわからないので…」
「それじゃ、俺になんでも聞いていいよ」
「それでは、お願いします」
「あぁ」
俺はゆっくりと歩き出す。
「こっちだよ」
「はい」
昼下がりの商店街。
俺と田村さん、薫はゆっくりとあるく。
この商店街は意外と大きく、店の種類も多い。
一部ながら、ショッピングモール形式を取っているところもある。
店の場所を紹介すると、たまに田村さんは中に入り、必要なものを買っていく。
「ねぇ、お母さんとかに頼んだりしないの?」
「自分に出来ることは、出来るだけ自分でやる…。そう決めているので」
「えらいんだな」
人に頼ったりせず、出来るだけ自分でやる。
その考え方だけでも凄いのに、彼女は実践している。
「でも、これだけ歩いて店の場所はわかるの?」
「場所…というよりも、距離感覚でしょうか…。店の場所は所々に置かれている点字つきの地図を見れば分かりますから」
地図にどれだけの意味があるのだろうと思ったことはある。
元々そこに住んでいる人にとって、意味の無い物だから。
だけど、引っ越してきたばかりの人…特に、田村さんには重要なことだったのだ。
「点字つきだったんだ…」
「はい。おかげさまで、助かっています」
「そうだろうね。じゃ、次はなんの店に行きたい?」
「そうですね…」
…
……
………
日は傾き、時間は5時。
田村さんはもう戻るらしい。
俺は田村さんを商店街の入り口まで案内した。
「さようなら」
「はい。それでは」
その言葉を残し、田村さんは暗い道へと歩き出す。
田村さんの背中が見えなくなって、俺は気がついた。
右手に重い買い物袋を持っていたことを…。
そして、その重みを感じていなかったことを…。
熱中すると周りが見えなくなる…。
そう言うことだった。
義之と一緒の時だって味わったことがある。
そう…。
それだけ…。