光になりたい -第一章-

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前回までのあらすじ

 盲目の少女、田村由梨絵。そしてそのパートナーの盲導犬、薫。一人と一匹がクラスに編入学してきた。初めは戸惑うクラスメートも、徐々に田村さんを迎え入れ始めた。日常に新たなる一ページが加えられる。こうして三年生の一学期が始まった。田村さんを加えたクラスで。

光になりたい ~第一章~

「さて、それじゃあ今後の予定だが―――」
 担任である、国府田先生が話を続ける。
 まぁ、内容的には毎年変わらず、今後の予定やら進路の事。就職希望の人は解禁まで時間がないからどうとか、進学先が決まっていない人は早く決めろとか…。これから始業式があるからさっさと並べとか…。
 と、言うわけで、俺達のクラスも体育館を目指す事になった。この学年になると、もう、背の順に並べと言うものや、名簿順に…と言うものもなく、みんな思い思いの場所に並ぶ。当然、俺もいつものように義之と共に一番後ろに並んだ。
 いつもは一番後ろになるのだが、今日は違った。田村さんがいたのだ。女子は女子で大抵前の方に全員で固まってしまうのがこのクラスなのだが、田村さんは一人だけ後ろに並んだのである。
「田村さんは、前の方には行かないの?」
 俺は後ろを振り向きつつ、田村さんに声をかけた。
「えっと…その声は…。河口さん…でしょうか?」
「えっ…なんで俺の名前を?」
 俺は自己紹介をした記憶はないんだけど…。
「今日の朝、国府田先生が貴方の事をそう呼んでいたような気がしたので。でも間違いではなかったようで…。安心しました」
 あっ、そうか…。
「それじゃあ、改めてよろしくね」
「はい」
 彼女は笑顔でそう言った。
「ところで、さっきの質問だけど…」
「…何故、前の方に行かないか? でしたね。私はどうしても歩くのが遅くなりがちなので、前の方に並んでしまいますと、皆さんに迷惑がかかってしまうので、何時も後ろに並ぶようにしています」
「そうなの?」
「はい。やはり、足元に注意しないといけないので…皆さんと同じ速度である事はなかなか…」
「おい、聡。列、進んだぞ」
「あっ、あぁ」
 その声に俺は前を見る。既に前の人達と二メートル以上離れていた。俺達のクラスが体育館に入る順番が回ってきたらしい。
「じゃあ、田村さん。そう言う事だから」
「はい」
 俺は義之と共に体育館に入った。
 少し遅れて田村さんも後ろにつく。国府田先生が全員揃った事を確認して合図を送り、みんなを座らせる。後ろから「Down」と言う声が聞こえた。

 しかしながら、校長先生まで毎年同じ事を言う。当然ながら、生徒指導部の顧問も。まぁ、一つだけ違うのは、盲導犬への配慮と注意があった事。
 それだけだった。

     *

 教室に戻ると、田村さんは人気者だった。
 まぁ、ちょっと表現は違うかもしれないけど。
 田村さんの周りにはクラスの殆どの女子と、一部の男子が集まり質問攻めにしている。
 転校生の宿命…というものだろうか。
「聡。お前は田村さんに興味は無いのか?」
 義之が話しかけてくる。
「興味って?」
「いや、転校生の田村さんのことをどう思ってるんだ? って話」
「そんな事言われてもなぁ…」
 俺は田村さんの方を見る。
 人の隙間から僅かながら田村さんの姿が見えた。
 早朝、朝、今…今まで何度か田村さんを見てきが、控えめな印象がある田村さんはその性格も全体に表れているようだ。
 透けるような白い肌。艶やかで真っ直ぐな黒い髪は丁度腰の辺りで切られていた。
 比較的整った顔の作り…そしてしなやかに、かつ細く伸びた手足。
 美人とか可愛い…というわけではない。だが、彼女自身の存在を目に焼き付けさせるには十分だ。
「ほら、見とれてるんじゃねぇよ」
「見とれてなんか…」
「じゃ、なんで熱い眼差しで田村さんを見つめてたんだ?」
「いや、それは…」
「なんだか、面白そうな話をしてるねぇ」
「よっ、誠治」
「おはよう」
 俺達の会話に割りこんできた誠治はさっそく話を変な方向へ捻じ曲げる。
「田村さん、どうおもう?」
「誠治もその話か? まっ、俺的には微妙なラインだな。悪くは無いが…」
「えぇ~…。あの黒くて長い髪に何も引かれないのかなぁ…」
「すまんが、俺には黒髪ロングの属性は無いから」
 …二人とも変な方向性で話を展開し始めた。
 俺はそんな二人を無視して、朝読み損ねた本を開く。

 再び時が止まった。
 今度はなんの音も聞こえない。
 水を打ったような静けさ…。
 優は彼女の眸を見つめた。
 その眸はかすかに青みがかっている。
 …。
 綺麗だ…優は純粋に―――

「「お前はどうなんだよ、聡」」
 突然二人同時に声を掛けられる。
「しかも、気がつかない間に本よんでやがる…」
「それで、聡は田村さんのこと、どう思う?」
「えっ…俺…?」
「「そう」」
「そんなこと急に言われても…」
『普通科2年B組、河口聡。今すぐ職員室、村上のところまで。繰り返す…』
「というわけだ、じゃあな」
「逃げられた…」
 俺はドアを開け、教室を後にする。
 しかし…今になって何で陸上部の顧問に呼び出されるんだ?
 もう俺は止めたんだけど…。
 そんなことを考えながら、階段を降りているときだった。
 手に違和感を覚え、俺は立ち止まる。
「ん?」
 さっきまで触っていたのは手すりだったけど、何か素材の違い…というより、突起があたった気がしたのだ。
 手すりをよく確認すると、点が寄り集まっていて、なにかの記号を意味しているような記号らしきものがあった。
 透明なシールの上に突起状に加工されたそれは、『点字』だった。
 …この間までこんなのは無かったけど…。
 きっと田村さんが転校してくるから、学校側で対応をしたという事だろう。
 俺はそこまで考えると、再び職員室を目指した。

     *

「結局、なんだったんだ?」
 教室に戻って席につくなり義之が聞いてきた。
「あぁ。陸上部に復帰しないか? って」
「まぁな。お前、パッとしない顔してても、陸上はそこそこ成績よかったし」
「短距離だけな。しかも、本当にそこそこの成績だったからね。どうせ、人数あわせのために戻そうとしているんだと思うよ」
 どっちにしても、俺がやめた理由なんで、なんとなく…だからなぁ…。
 いまさら戻りたくないというのが真相だったりする。
「そう言うもんか? だって、陸上に団体なんて種目、リレー以外に無いだろ?」
「まっ、どっちにしてももうやめたんだし」
「聡はどちらかというと文系の人間だからな、運動は似合わないぜ」
 ちょっとだけ、カチンと来た。
「おいおい、どう言う意味だよ?」
「気にすんなって。ほら、一時間目の授業、始まってまうぞ」
「そうだな」
 その言葉に俺は鞄から道具を取り出し、机の中に入れた。
 二回目以降は机の中に置きっぱなしになる、教科書の運命だった。
「起立っ!」
 号令の挨拶と共に、新学期、一度目の授業が始まる。
 ロングホームルームという授業が…。

     *

 4時間の授業が終わり、午前授業である今日はもう帰ることができる。
「聡、一緒に帰ろうぜ」
「あぁ」
 義之に声を掛けられた俺は、一緒に帰ることにした。
 …
 ……
 ………
「義之、商店街、よっていい?」
「あぁ、俺はかまわないぜ」
 この商店街は学校から俺の家のちょうど間にある商店街だ。
 アーケードがあり、歩行者天国になっているここには、昼夜問わず人が来る。
 ちょうど駅前にあるとあって、毎日にぎわっていて、色々な店がある。
 そんな沢山の店の中から俺はいつもの本屋に入った。
「しかし、また本屋か?」
「いいでしょ。読みたいんだし」
「お前、本屋に行くのはたいてい日曜日じゃないか。どうしたんだ月曜日なんて」
 そう。俺は一週間の内にだいたい2~3冊の本を読むわけだが、その殆どが注文した本になる。
 一週間分の本をまとめて日曜日に取りに来るようにしているから、日曜日はほぼ毎週この本屋に来る。
 『Book House -河上市中央商店街支店-』とプリントされだ自動ドアをくぐると、本屋独特のにおいが漂ってくる。
 この本屋は週刊誌といった本はあまり取り扱っていないが、文学作品や医学書…つまりは週刊誌などをのぞいた本がそろっている。
 店長さんがなかなか物知りな人で俺は結構好きだ。
 それに、店の面積も広くなかなか使える本屋だ。
「すみません。頼んでいた本が届いたという連絡があったんですが…」
「お客様のお名前をお願いします」
 若い女性の店員が俺に聞いてきた。
「河口聡です」
「少々お待ち下さい」
 そう言いながらレジの奥にある注文書籍の欄を探していく店員。
「んで、今回は何の本を頼んだわけ?」
 隣でその様子を見ていた義之が俺の顔をのぞき込みながら聞く。
「お前が日曜日じゃなくて、届いたその日に取りに来るほんの中身は…」
 なかなか鋭いな…。
「でも、今回は専門書だからおもしろい…というより、興味がある…の方だし…」
「そうか…」
 …
 ……
 ………
 店員から本を受け取ると、俺は義之と共に本屋を後にした。

     *

「ただいま」
「お帰り」
 誰もいないと思っていた家に今日は親父が先に帰ってた。
「早いね」
 靴を脱ぎながら、そんなことを言う。
「当たり前だ。今日は4月7日だからな」
 4月7日…何かあったっけ?
「なんかあったっけ?」
「いや、何もない」
 なんだよ…そりゃ…。
「とにかく、今日の晩飯は聡の当番だからな」
「わかってるって」
 …
 ……
 ………
 俺は制服のままエプロンを付け、台所に立つ。
 エプロンは前に掛けるタイプじゃなく、袖がついている油料理にも使えるエプロンだ。
 …色がピンクなのだけをのぞけば、なかなか便利なものである。
「あれ? 三つ葉は?」
 冷蔵庫の野菜庫をあけながら俺は親父に聞いた。
「あぁ、三つ葉は今日の弁当に使ってしまったなぁ」
「そう。ならいいや」
 親子丼の付け合わせの澄まし汁にしようと思ったけどないなら仕方がない。
 俺は鶏肉をパックから開封すると同時に醤油と酒で作ったタレに入れた。
 その間にナメコを準備し、ネギを刻む。
 煮干しでだしを取って、鍋にナメコとネギを入れ、煮立てる。
 フライパンに水、醤油、酒、砂糖を直接入れこちらも煮立てる。
 タマネギを切り、みそを準備する。
 途中、ホンダシを加え、沸騰する直前まで加熱する。
 フライパンに切ったタマネギを入れ、タレに付けた鶏肉を入れ、強火で加熱する。
 鍋にみそを入れ、沸騰させない程度の温度で温める。
 お椀を調理台にのせ、左手に卵を持ちつつ、右手に一個ずつ移しながら片手で割って準備したお椀に入れ、かき混ぜる。
 味噌汁の方は火が粗方通ったみたいだから、火を止める。
 フライパンの上のタマネギが音を立てながら踊り、次第にその色を透明に変化させ、タレを吸収し、だんだんときつね色になっていく。
 鶏肉はピンクを失い、火が通った合図となる。
 俺は溶いた卵をフライパンに流し込み、半熟になるまで加熱し、火を止める。
 …
 ……
 ………
「はい」
「ほぉ。今日は親子丼か。親子丼とナメコの味噌汁…なんか微妙な組み合わせだな」
「誰だよ、三つ葉を使ったのは」
「しょうがないじゃないか…」
「まぁいいけどね。それじゃあ頂ます」
「頂きます」
 …
 ……
 ………
「聡、なんかおもしろいことあったか?」
 高校生になるとあまり親と話さなくなる人が増えると言うが、我が家は例外だった。
 早くに母を亡くし、俺たちは二人でこの家で過ごしてきた。
 それがお互いを認めることになり、お互いを尊重しあうという事につながった。
 結局、親子の仲が深まったということだ。
 お母さんも、今頃上の世界でほほえましく見守っていることだろう。
「う~ん、転校…いや、転入生がうちのクラスにきた」
「へぇ~珍しいな、高校で転入なんて」
「うん…。目が見えない子なんだけどね。盲導犬と一緒に入学したよ」
「盲目か…。女の子か?」
 どうして俺の周りにはこういう人が多いのだろうか。
「女の子だよ」
「可愛いか?」
 そして、話は結局こうなるわけだ。
「まぁ、そこそこ…かな」
「…ものにしろよ」
「どうして、そうなる」
「いや、だってお前、最後に彼女できたのいつだ?」
「それは聞かないでくれ」
 …小学校…6年生だったかな?
 思い出したくもない彼女いない歴だった。
「はははっ! まぁ、せいぜいがんばれよ。わしの目が黒いうちにつれてこないと、親子心中するからな」
「いつ死ぬんだか」
「おいっ!」
 笑いながらも鉄の制裁が下された。
「つぅ~~~」

4月8日(火曜日)

「じゃ、行ってきます」
「行ってこいよ」
 朝の挨拶もそこそこに俺は家を出た。
 自転車もいつもより音が軽い。
 いつもより少しだけ家を早くでた俺は学校に向かった。
 そう…誰もいない静かな教室で本を読むため。
 家で読んでもいいのだが、やっぱり、学校というあの環境がなぜか俺にはちょうどよかった。
 朝の静けさから授業の始まる喧噪を次第に迎え入れつつ、読書という時間に浸る…。
 これが俺の今の楽しみだった。
 そう…誰もいない教室で…。

    *

 『ガラガラ』
 いつものように前のドアから入る。
 春の日差しに温められた空気が俺を包み込む。
 暑すぎず、寒すぎず…どことなく心地いい空気。
 そして、心地いい空間がある。
 そんな空間。
 このクラスのメンバーでは俺しか味わっていないはずの空間に今日は先客がいた。
 長い髪。ほっそりとした体。雪を欺くような白さの肌をもったその少女は音に反応して俺のほうを見た。
 彼女は目を閉じているが、なんとなく目が合ったような感覚を覚えた。
「おはよう。田村さん」
「おはようございます。河口さん」
 彼女は殆ど浮揚の無い声で言った。
 そう…彼女の雰囲気はそんな感じだった。
 どことなく、おしとやか…というよりも、物静かな雰囲気。
 彼女自身から発せられる空気。
「早いんだね」
 空間に音が無くなるのを俺は懸念し、質問をする。
「そうですね…。これ以上遅く来てしまうと、廊下に人が増えてきて私が歩くと邪魔になってしまいますので…」
 そこまで彼女は気を使っていたのだろうか。
「そんなこと気にしなければいいのに」
「それに、薫のこともありますから」
「そうか…」
 いくらなれているといっても、朝の廊下ほど人が多い時間は無い。
 そこを避けて通るのは田村さんなりの気使いだったのだ。
「ところで、河口さんはどうしてこんなにも早く来られたのですか?」
「俺か? 本が読みたかったからね」
「本が…読みたいから…?」
「あぁ。この学校のこの教室…朝の日差しが差し込む教室の雰囲気が好きだからね」
 東から、一日の始まりである朝陽が差し込む教室。
 その光を、音の無いこの広い空間で、自分一人で独り占めに出来る事が好きな人は、きっと俺以外にもいるだろう。
「本を読むのが…好きなのですね」
「あぁ。田村さんは好きなことってあるでしょ? 何が好きなの? 趣味とか…」
 知らない間に会話が弾んでいく。
 これが朝のこの教室の魔力だろうか。
 独特の雰囲気を持っている教室は魔法使いだ。
「そうですね…。音がないという空間はあまり好きではないので、よく音楽は聴いたりします。それに読書も比較的好きですよ」
「本…という事は、点字本になるの?」
「はい。欠点は少し重い事でしょうか」
「なるほどな」
 普通の文字より幅を取る点字に文字を置き換えたら、それは相当なページになるに違いない。
「すべての本は無料で点字にすることができるので」
「無料で?」
「はい。ボランティアの方もいますし、書籍を点字にしたり、CDに録音してくれる機関もありますから」
「へぇ~」
「河口さんはどのような本を読むのですか?」
「俺か? 色んなのを読むけど…ファンタジーとかが多いかな。でも、本当に色々な本を読んでるから…」
「そうですか。色々な世界に興味があるという事はいいことですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
 乾いた音が教室に響いた。
「おはよう」
 クラスメートの篠原さんだ。
 田村さんとは正反対のショートカット。
 襟足の部分を少し長くしたその髪は色素の関係で若干茶色っぽくなっている。
 くりくりとした眼はどことなく、小動物を思わせる。
 性格は明るく、女子にも男子にも結構人気のある存在だ。
「おはよう、田村さん」
「おはようございます。篠原さん」
「いやぁだ~さん付けで呼ばないでって。私のことは『しの~』でいいから」
 しの~…なんじゃそりゃ。俺、はじめて聞いたぞそんな呼ばれ方。
 こうして、1ページも進むことなく、俺の時間は終わってしまった…。
 …
 ……
 ………
 朝の教室でのやり取りは続く。
「それにしても、大人しいよね。この犬」
 篠原さんがそんなことを聞く。
 …そう言われてみればそうだな…。
「本当は薫が元気がいい犬ですけど、ハーネスをつけているときはまったくその気が無くなってしまいます」
「へぇ~。ねぇ田村さん………って由梨絵って呼んでいい?」
「はい。構いませんよ」
「由梨絵、ハーネス外してみてもいい?」
 中々大胆なことを言う。
「…私も外してあげたいのですけど…リズムが出来あがってしまって…」
「そっか………残念」
 手のひらを上に向け、そのまま空気を持ち上げた。
 心底残念そうな仕草を見せる。
「はい…」
 同時に田村さんは俯いてしまった。
「ちょ、そこまで気にしなくていいって。機会はあるんだし。今度でいいよ♪」
 ぱっ、と、笑いながら篠原さんは言った。
「はい」
 その顔を見て…いや、その言葉を聞いて田村さんも安心したのか、はじめて笑った。

   *

 一時間目の担当の先生が入ってくると共に、教室にいる生徒は立ちあがる。
 全員が立ちあがったのを確認した号令が、「おねがいします」と、礼をかける。
 そして、礼をした皆は思い思いに席に着いた。
「しかし、この授業ほど楽しい授業はないと思うぞ」
「うん。新学期そうそう、この授業ならなんとなく気分がいいね」
 火曜日一時間目の授業は国語。
 初老の男の先生で、背は低め。
 いつも黒いスーツでビシッと、きめている。
 その先生がチョークを取って黒板に向かった。
 しかし、黒板には朝の連絡事項が書かれている。
 日直が消し忘れたのだ。
 俺が日直の方を向くと、日直は口をあけてしまっている。
 己のあやまちに気がついたのだ。
 その先生―――芳賀先生は何事も無かったかのようにその連絡事項の上に何も無いように板書していく。
 “『0歳時がことばを獲得するとき』作、正高信男”
 と縦に達筆な文字で書く。
 しかし、その一部は文字が重なっていて読むことが出来ない。
 俺達の方に振りかえった先生は心底楽しそうだ。
「それじゃ、一時間目だけど、普通に授業はじめるからな。田村さん、今年1年よろしく」
 一人だけに自己紹介をしてさっさと授業をはじめてしまった。
 まぁ、芳賀先生はいつもこんなスタイルだ。
 所々ひねくれているが、そこが楽しくてしょうがない。
 中には嫌いな人もいるらしいが、俺はこの先生が好きだ。
 色々と面白いことを、授業で(脱線したときに)教えてくれる。
 …
 ……
 ………
「ということは、子供が発生する言葉は、ニュアンスの相違により、それが自分に関われば情動的、第3者に関われば叙述機能を果たし―――」
 子供が発生する言葉には同じ言葉でも色々なニュアンスがあるらしい。
 たとえば、『トートー』という言葉。
 これは母親に対すれば、お父さんが帰ってきたということ、自分に対していった場合はお父さんを呼ぶこと…などの例である。
 語彙能力の発達した俺達にはもうわからないかもしれないが、子供は子供なりにコミュニケーションをとっているということだ。
 …言葉…か。
 ふと、田村さんの事がよぎった。
 彼女にとってのコミュニケーションの手段は言葉がメインだろう。
 俺達はスキンシップといいながら、よく手を叩き合ったりする。
 でも、『身振り』というコミュニケーションを彼女は理解することが出来ないのだ。
 今日の朝もそうだ。
 篠原さんがやった残念という仕草。
 俺にはわかるが、田村さんには見ることが出来ない…。
 彼女は一つのコミュニケーションの手段を失っているんだ…。
 …それ以前に、どうやって授業を受けているんだろうか…。
 後ろを振り返る。
 一時間目なのに、半分の生徒が宇宙遊泳をしている。
 この先生、何も言わないけど、点数はしっかり引いているんだよな。
 …彼女は点字化された教科書を指でなぞりながら、先生の話を聞いている。
 ん?
 机の端に銀色の光る四角い箱のような物が見えた。
 光が反射してあまりよく見えないが、それは、通販でも売っているボイスレコーダーに見える。
 なるほど…。
 一つ謎が解けたことに満足し、俺は前に向き直った。

初出: 2003年5月11日
修正: 2005年2月5日
原作: 鈴響 雪冬
著作: 鈴響 雪冬
制作: 鈴響 雪冬
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