「ここには何もない」
他人事のように言う大人が大嫌いだった。
だから、本当に全てを失った今、新しいことを始めようと、俺は思ったんだ。
「ここには何もない」
他人事のように言う大人が大嫌いだった。
だから、本当に全てを失った今、新しいことを始めようと、俺は思ったんだ。
それは、美しさを通り越して、恐ろしさすら感じる星空だった。
宇宙から見た僕らが塵芥に過ぎないという事実を叩きつけてくるような、そんな星空だった。
一昨日の地震の時はなんともなかったけど、今日の昼間の地震がもたらした停電は今も続いていて、いつもは夜空を煌々と照らしている仙台の街明かりも、今はしんと静まっていた。目を凝らすと南の空から立ち上る天の川がうっすらと見える。オリオン座はかろうじて見つけられた。オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、天の川を挟んで反対側のプロキオンが冬の大三角―――見分けがつくのはそこまでだった。ベテルギウスをリゲルと入れ替えて、あと三つで冬のダイヤモンドになるのに、あまりの星の多さにどれがどの星かさっぱり分からない。星座だってたくさんあるはずなのに、星座とそれ以外の星の見分けがつかない。もちろん、僕自身が知っている星座が少ないのもあるけど、知っていたらもっと別の感情でこの空を見上げていたのだろうか。
これだけの景色を目の当たりにしても、そのほとんどを理解できないこと、星空は毎日変わらずそこにあるはずなのに、今まで気がついていなかったことに後悔してしまうほどだった。
どれほどの時間が経っただろうか。呆然と空を見上げている体が寒さに震えてようやく我に返った。あれほどあった余震も、その美しき天蓋に見惚れていたかのように静かだった。僕が気づいていなかっただけかもしれないけど。
ふと、シャッター音が立て続けに鳴ったのに気がついてあたりを見渡した。いつの間にか近所の人も外に出ていて、スマホを空に向けていた。いつの間にか外に出ていたお隣の高橋さんが「すごいですね」とこぼし、僕もそれに「そうですね」と答える。
「撮れるかな」
そんなことを言いながら高橋さんがスマホを取り出すのを見て僕もスマホを取り出し、そのレンズをオリオン座へ向ける。画面の中は真っ暗で、シャッターボタンを押してもなにも映ってなかった。
「だめかあ」
隣の高橋さんもどうやら同じ結果だったらしく、そんな声が聞こえてくる。
「お、凄いな。外に出てすぐこれなら、目が慣れてきたらもっと凄そうだ」
「お父さん」
遅れて出てきたお父さんは首からカメラをぶら下げていて、左手には三脚を持っていた。
「最近やってなかったけど」
そう言いながら三脚の足を伸ばし、テキパキと設置して、カメラを据え付けた。
「どれどれ」
普段使っているファインダーではなく、背面の液晶を見ながら、「ま、こんなものだろう」といい、カメラから伸びているコードの先についているボタンを押した。しばらく経ってシャッターが切れる音がすると、液晶に星空の写真が浮かび上がった。
「すごい!」
「だろう?」
「見せてもらってもいいです?」
「どうぞどうぞ」
お隣の高橋さんも「綺麗に撮れるものですねえ」と感嘆の声を上げていた。
お父さんはその後も何枚か写真を撮り続けていた。そんなお父さんの姿を見たいと思う一方で、僕自身も星空を見たい気持ちを捨てきれず、高橋さんと一緒に再び空を見上げた。
この時の僕は気づいていなかった。この日、いや、次の日に新聞が届いて、世間に何が起こったことを知ったその瞬間、僕の中でいろいろなものが音を立てて変わっていった。それは趣味だったり、将来の夢だったり、人との繋がりの在り方だったり、多分いろいろだ。
〈宮城 震度7 大津波〉
地震の次の日、届くと思っていなかった新聞の一面に白抜きで書かれたその文字は、当時の僕を揺さぶるには十分すぎた。
なんとも言えない気持ちで震災伝承展示室を出るとホールの椅子で本を開いている青年が目に入った。
「あ、お帰りなさい」
「てっきり帰ったと思ってました。読書ですか?」
「さっき上から借りてきました。あと、最後にちょっと、聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
青年はパタンと本を閉じると立ち上がって僕の方に向き直った。
「菊池さん、でしたっけ。菊池さんが見たかったもの、撮りたかったもの、撮ることができましたか?」
「撮りたかった、もの」
青年…臼沢君の丸くて純朴な目が僕を見つめている。そんな瞳に僕は僕自身ですら言いしれぬ何か………いや、そんなことは分かり切っている。後ろめたさ。それを見透かされている気がした。
僕は最初、ここに何のために来たんだっけ。
考えるまでもない。美しい景色を見に来たはずだ。確かに発端は被災地や研究のテーマだった。だけど、そんなことに囚われることなく、観光気分で、よく言えば広い視野でここを見るために来たんじゃなかったか。それがいつの間にか目の前の景色に気持ちを引っ張られ、最初の目的すら忘れつつあった。
「臼沢君は…どうしてそんな質問を僕にするの?」
僕は、自分が卑怯な事をしていると分かっていながらも、質問に質問で返した。
「違ってたら悪いんですけど、写真を撮ってるときの姿、本当に撮りたい物を撮ってる感じじゃなかったから」
臼沢君は僕の質問に、まっすぐに見つめ返したまま、そう答えた。ここに来る前の高台でのやりとりを思い出す。考えてみたら、この子はどこか最初から疑念を抱いていた。だからこそ挑発するかのように「いい写真は撮れましたか」なんて聞いたのかもしれない。そしてそれに僕は答えられなかった。記録にはなるだろう。それを主体に活動する人もいるだろう。
でも。
少なくとも僕にとって、この旅の目的はそれではない。
「よくわかりましたね」
「なんとなく、どこを撮っていいかわからない感じがしたから…」
それはたぶん、初めて見る場所だから構図に迷っていたという部分もあるだろうけど、それは伝えないことにした。結果的に、臼沢君の予想は当たっていたのだから。撮ろうとしているものが明確なら、カメラの設定や構図はそれに従うように自然と決まっていく。確たる意志がないからこそ迷いがでる。
僕は青年と向き合うために椅子に座った。背もたれから肘掛け、座面まで木でできたそれは、少し固いけど温かみがあった。
「僕は…、僕は美しい景色を撮りに来たんだ」
僕は臼沢君に向かい合うために、自分の気持ちに向かい合うために、そう宣言した。
「美しい景色?」
「そう。元はといえば、大学での研究テーマを決めるためなんだけど、教授からはまず観光気分で見てこいって言われて。あ、観光気分というのは別に軽い気持ちとかそういうことじゃなくて―――」
「大丈夫。分かりますよ。外の人からしたらここは被災地かもしれないけど、俺にとっては地元だし、大槌だから。確かに、被災地って言われ続けて、被災地だと思い込んでる人もいるかもだけど、被災地以前にここは僕たちの住処だから」
「そう、か」
そう言うと臼沢君は朗らかに笑って見せた。それは僕の言葉をフォローしようというよりは、本心から来ているように見えた。
「僕、ここには美しい景色を求めてきたんだ。確かに大学でまちづくりを勉強していて、研究のテーマを決める目的もあるけど、少なくとも今回の旅の目的は美しい景色なんだ。ここにはなにがあるか、それが知りたいんだ」
「美しい景色、か」
心なしか臼沢君は今までで一番明るい声になった気がする。
「菊池さんは今日泊まりですか?」
「うん。ホテル鳴砂に一泊する予定」
「佐々木さんのところか。ナイスタイミング」
臼沢君はポケットからスマホを取り出して操作を始めた。
「佐々木さん?」
「佐々木剛さんっていって、鳴砂の所の息子さん。今日、ちょうど約束してて」
そこで会話は途切れた。臼沢君は相変わらずスマホを弄っている。メッセージアプリで会話をしているようだった。
「菊池さん、星空に興味はありますか?」
「星空?」
「はい。ちょうど佐々木さんと見に行く約束をしていて、一緒にどうかなと。車は佐々木さんが出してくれます」
「だけど、そこまでしてもらうのは」
「美しい景色を見に来たんですよね? 地元の人が教えるとっておきの場所ですよ。佐々木さんも大歓迎だそうです」
そう言ってスマホの画面を俺に向ける。
〈今、鳴砂に泊まるって言う人が目の前に居るんですけど〉
〈マジ? なにその偶然〉
〈美しい景色が見たいっていうから、今夜のアレに一緒に参加してもらえたらなーって〉
〈お、いいね 大歓迎〉
〈ちょっと聞いてみます〉
「元々今日はお客さんが少ないから見に行こうって話をしていて、天気も大丈夫そうなので今のところは行く予定です。どうですか?」
なんとなく外堀から埋められている気がするけど、地元の人が教えるとっておきの場所というのはちょっと気になる。それに、美しい景色のほかに、地元の人と交流するのもこの旅の目的だったはずだ。
そして、何より〈星空〉という言葉が、脳裏にあの光景を思い起こさせる。
僕が写真を始めたこと、僕がこの道を志したこと、僕がここに来て、青年と出会ったこと。どこまでが偶然で、どこからが必然なんだろうか。神様がくしゃみをした拍子に手が滑って全部繋げてしまったかのような、そんな不思議な縁だった。
「それじゃあ、お願いします」
「わかりました」
臼沢君はすぐさまスマホを操作してやりとりをしていく。
「夜の九時にフロント集合で大丈夫ですか? 十一時ぐらいには戻れると思います」
「それで大丈夫です。むしろお二人にお任せします」
「ではそれで。詳しくはチェックインの時に佐々木さんから話があると思うので」
「何から何までありがとうね」
「お礼は星空を見てからでお願いします。雲は今のところ大丈夫ですけど、霧が出ちゃってだめなときもあるので」
それじゃあまた夜にと別れた臼沢君の背中を見送り、そのまま外の様子を眺めようと視線を動かすと、バーチカルブラインドが全て閉じられていることに気がついた。クリーム色のブラインドはその向こう側にある緋色の空をうっすらと身に纏っている。慌てて時計を確認すると五時を過ぎていた。
なにかをしなければ。だけど、なにをすればいいのかわからない青年がいた。
やりたいことはある。だけど、どうすればその夢を実現できるかがわからない青年がいた。
そんな二人が出会い、二人の願いは一つの夢になって動き出す。
この街の星空をもっといろんな人に見てもらいたい。
その思いは周囲の大人をも巻き込んで、街全体に広がっていく。
二人の夢が、やがてみんなの夢になる物語。
ジャンル | 創作文芸 | |
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発行日 | 2024年2月25日 | |
仕様 | 頒布価格 | 700円 |
大きさ | A5縦 | |
ページ数 | 表紙込み144ページ、本文約135ページ | |
文字数 | 約10万3000文字 | |
段組 | 上下二段組み・普通(9pt・21行) | |
作者 | 文章 | 鈴響雪冬 |
表紙 | 鈴響雪冬 | |
装幀 | 鈴響雪冬 | |
印刷・製本 | 表紙 | 4色フルカラー(インクジェットプリンタ) |
本文 | 白黒(レーザープリンタ) | |
製本 | 並製本・平綴じ | |
用紙 | 表紙 | FKスラットR・IJ Nホワイト(939×650連量110kg、厚さ0.2mm) |
見返し | 新・星物語 クロウ(四六判788mm×1091mm連量110kg、厚さ0.16mm) | |
本文 | ラフクリーム琥珀N(四六判788mm×1091mm連量62kg、厚さ0.109mm) |
日付 | 変更内容 | 詳細 |
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2024年2月25日 | 初版発行 |
電子版の発行は未定です。
小説作品は微細な表現の変更をその都度行っているため、誤字脱字のみ掲載しています。
ページ | 誤 | 正 |
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4ページ | オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンの三つで冬の大三角―――見分けがつくのはそこまでだった。あと三つで冬の冬のダイヤモンドになるのに、あまりの星の多さにどれがどの星かさっぱり分からない。 | オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンの三つで冬の大三角―――見分けがつくのはそこまでだった。ベテルギウスをリゲルと入れ替えて、あと三つで冬の冬のダイヤモンドになるのに、あまりの星の多さにどれがどの星かさっぱり分からない。 |
7ページ | 〈宮城 震度7 大津波〉 | 〈宮城 震度7 大津波〉*1 *1 二〇一一年三月十二日付 河北新報 より 脚注の漏れ |