ささ、どうぞお嬢様、手を。
ヒマワリのような髪、ワインレッドに染まる髪。
夜の空に似た髪、空色を淡く灯す髪。
大輪の花火に負けずとも劣らない輝きと情緒を含んだ髪。
移りゆく時間と模様を映し出すその髪は、彼女自身をも映し出していた。
木肌の色にも似た軟らかい光が窓の外から伸びているのを視界の隅に見留ながら、桁すらも忘れてしまった今日幾度目かの欠伸をかみ殺し、たばこの箱へと手を伸ば―――勢いよくドアチャイムが鳴り響くと、最愛の彼に一方的に振られてしまってさんざん泣きはらした後のような目をした女の子が入ってくるなり、「ばっさりと切ってください」と、これまたドアを開けたときのような勢いで言い放った。
突然の出来事に、その言葉を最後に空間全体が固まってしまう。
再び時間が動き出したのは、彼女が「あの…」と細い声を出してからだった。
「あっ、ああ、すまない。こちらへどうぞ」
散髪台のある方を示して彼女が動き出すのを目で追いかけながら、引き出しから刈布を取りし、広げた。椅子に座った彼女の後ろに回り、そのマントを使って彼女の首から下を覆い隠していく。マントの下に隠れた髪と首の間に手を入れ、その髪を外へと掻き出―――。
その感触は、透明な空気で編んだ糸が手のひらの上で踊っているかのような感触だった。
それと同時に辺りに広がった香りは、その貴婦人の踊りには良い意味で似合っていない、軟らかい石けんの匂いだった。
えっと…。
その匂いには、記憶をかき消す能力があるのだろうか。次にすべき行動を私は即座に思い出すことができなかった。それでも体が覚えていたのか、すぐに「どのように切りましょうか」と尋ねた。
「えっと、ばっさり、お願いします」
改めて彼女の髪へと目を向けた。水色の刈布の上に広がる、すべての始まりを思わせる闇の上を、天の川にも見えるハイライトが意志を持っているかのように僅かに揺れ続けている。
私がその変化に気づいたのは、学食で食べた物が誘ってくる眠気をどうにかこうにか振り切った頃の、少しだけ傾いた太陽が彼女の髪を照らしだした時だった。日々繰り返される授業という光景の中、彼女のその髪だけは少しずつ変わっていった。国語の授業も、数学の授業も、科学も公民もOAも、やっていることは同じなのに、日に照らされている彼女のその髪だけは毛先が少しずつ荒れていき、小学校の頃の理科の実験でヘチマを乾燥させていくあの過程を思い出させてくれた。
「私自身が一番わかっているけど、ヘチマはないと思うー」
「ごめん」
日中の空の色が少し薄まりだすころ、ブラウスを着終えた彼女がそう言ったので、私は素直に謝った。
「でも気になってるのは気になってるんだよねー」
ロッカーからスカートの掛かったハンガーを取り出したところでその動作を止めて一言。
「だよねー」
私もそれに相槌を打つ。端から見ていた私が気づくぐらいだし、毎日鏡を見ている本人が気づかないはずはない。スカートを穿いた奏芽は自分の髪を一房手に持ち、自分の目の高さまで持ち上げる。相手の話がつまらなくて何気なくやってしまう手遊びではなく、真剣な作業だ。
「最近シャンプーとか変えた?」
「んーん、そんなことはないよ」
とそこまで言って奏芽は「シャンプーで思い出したけど、何かいいシャンプー知らない? もうすぐ無くなるからこれを機に変えてみようかなって」とベルトを締めながら言った。
「いいシャンプーねー」
「未緒、髪の毛さらさらだし、教えてもらおうかなって」
大佐。本日もみっちゃんの寝起きは非常に悪いであります! …なんちゃって。
目を窓の方に向けると、しっかりと日を遮っているカーテンの隙間から外の光が漏れ出ていた。その光は外の明るさを証明するには十分すぎるほどで、今の時間をそれとなく私に教えてくれた。今度はベッドの宮台に目を向ける。ベッドと同じ色の木でできた宮台の上に置かれたデジタル時計は〈10:18〉と表示していた。薄暗い部屋、透明な液晶に表示されているその文字は、銀色の細いフレームの中に浮かんでいるように見えた。しばらく見ているとその文字は〈10:19〉に切り替わった。今日は特に講義があるわけでもなく、大学には昨日の夜にやったレポートを出しに行くだけだから時間に制限があるわけではない。
けど。
私が寂しいのだ。ワンルームという小さな空間に二人で居るのに、肝心の相手は未だ夢の中にいるのだ。
「みっちゃ~ん」
もちろん、この程度で起きるはずもない。それどころか息は全く乱れていないし、私の声を含めた周囲の世界はみっちゃんにとっては異次元の話みたいだ。
それにしても、だ。
「なんでみっちゃんはこんなに無防備なのかなあ」
目尻も眉も緩やかに弧を描き、口は結ばれつつも時々何かを食べているかのように動く。そんな姿は、昼間の頭脳明晰でお姉さんなみっちゃんからは想像できなかった。そしてそれを知っているのが私とみっちゃんの元彼………そう言えば、みっちゃんって彼氏いたことがあるのかな。
今までのみっちゃんとの会話を幾つか思い出してみる。映画や服、ゲームなどでそのほとんどは埋まっていて、彼氏という単語は一切無かった。この間、私自身が彼氏について口走ったことはあったけど、みっちゃんからそう言う話を聞いた記憶は全く無かった。
ま、いっか。
昔のことより、今の私達の方が大事なんだ。それに、この眠り姫をどうにかしないといけない。今日は昼前には課題を提出して、遊びに行きたい気分なのだ。
起こしていた上半身を戻し、みっちゃんと顔を向き合わせる。こういう時、『パイプベッドじゃなくしっかりしたベッドを買いなさい』というお母さんの忠告が、なぜかとてもありがたく思える。アドバイスに忠実に購入した木のベッドは頑丈で、こうして二人でも気にせず寝ることができた。
肝心のみっちゃんは私とは違うまっすぐな髪が顔に垂れ、ベールのように覆い隠していた。その向こう側に見える鋭くも優しい目尻や、隠しきることができなかった鼻が印象的で、お姫様のように見えた。
ある人は彼氏に邪魔になるから髪を切れと言われ、近くにあった理容院に駆け込んだ。
ある人は髪に合うシャンプーを見つけられずに悩んでいた。
ある人は奥さんの長い髪が気に入っていた。
ある猫は同居人の長い髪が気に入っていた。
ある人は寝癖と格闘していた。
ある人は友達の髪型を結って満足していた。
これは、黒髪とそれを持つ5人の少女達の日常を描いた物語。
作者一人の黒髪アンソロジー、「黒と髪と彼女たち」、いよいよ発行です。
ジャンル | 創作文芸 | |
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発行日 | 2010年8月15日(コミックマーケット78) | |
仕様 | 頒布価格 | 300円 |
大きさ | A5縦 | |
ページ数 | 表紙込み54ページ、本文44ページ | |
文字数 | 約3万2000文字 | |
段組 | 上下二段組み・ゆったり(9.5pt・20行) | |
作者 | 文章 | 鈴響雪冬 |
表紙 | 鈴響雪冬 | |
装幀 | 鈴響雪冬 | |
印刷・製本 | 表紙 | 4色フルカラー(インクジェットプリンタ) |
本文 | 白黒(レーザープリンタ) | |
製本 | 並製本・平綴じ | |
用紙 | 表紙 | FKスラットR・IJ Nホワイト(939×650連量110kg、厚さ0.2mm) |
きき紙 | ビオトープGA-FS ポルトブラック(四六判連量60kg、厚さ0.11mm) | |
本文 | オペラクリームウルトラ(四六判連量68.0kg、坪量79.1g/㎡、厚さ0.128mm) |
日付 | 変更内容 | 詳細 |
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時期不詳 | 本文用紙が変わりました | 再生色上質ラベンダー厚口→OKプリンス上質エコG100(発注先業者A廃業および発注先業者Sの入荷再開につき) |
2018年12月15日 | 製本方法を変更しました | 製本環境の再構築により、平綴じから無線綴じに製本方法を変更しました。 スピン(糸栞)をつけました。 |
2019年10月1日 | 価格改定しました | 紙の価格変動や消費増税などにより原価が高騰しているため、200円から300円に価格改定を行いました。 |
2019年10月22日 | 本文用紙が変わりました | OKプリンス上質エコG100→淡クリームキンマリ(四六判連量90kg、坪量104.7g/㎡、厚さ0.121mm) 当該用紙が受注生産に移行し、発注先業者Sでの取り扱いが終了したため。 実際には淡クリームキンマリで印刷したものはなく、直接次項のオペラクリームウルトラへの移行となりました。 |
2021年11月6日 | 本文用紙が変わりました | 淡クリームキンマリ→オペラクリームウルトラ(四六判連量68.0kg、坪量79.1g/㎡、厚さ0.128mm) 気分転換。 |
2021年11月6日 | 製本方法を変更しました | 製本の手間を考慮して無線綴じから平綴じに製本方法を変更しました。スピンは継続です。 |