オレ達が住む鈴音町にも、春がすぐそこまで来ていた。街を覆っていた雪も解け、あたりは新緑の緑に包まれている。桜の木にもつぼみが芽吹き始めて いる…。いつもと変わらない日常がそこにあった…。冬が過ぎ、春がやってくる…季節と共に人は変わる…。そんな日常の断片からはじまる小さな恋の物語…。
雪解け水の処女作である、丘の上の物語シリーズ。雪解け水の原点がここにあります。Webページで連載された作品に加筆修正を行い、冊子化した作品です。
千夏ストーリーには水瀬千夏というヒロインが登場します。主人公と彼女の出会いは唐突で…それこそまさに非現実的な出会いかたなのですが…。
ただ、そのほんの数瞬の出来事の中でも人間の運命は変わっていくものです。
物語の視点は蓮の兄である主人公、修司です。彼はいつものように日常を過ごします。ですが、そこに謎の先輩が現れて…。
(4万3000文字相当)
「だって、ほんとのことじゃん」
「いくらほんとのことだって、もう少しましな説明の仕方があるだろ」
「だって―――」
「くすっ」
オレと蓮が子供の喧嘩をしていると、小さな笑い声が聞こえてきた。オレ達はそっちを見る。
水瀬先輩が笑っていた。
「面白い方達ですね」
笑顔で言う。
その笑顔につられて皆で笑いです。
「へぇ~。それにしても、それを知ってるとは、さすが千夏ね」
「いえ。ただ単に好きなだけです。旅行先で見つけた時は、嬉しかったです」
「ねえ千夏。ちなみに、どこにあるの、その店」
「えっと…京都の右京区、嵐山でした」
記憶を探るような仕草をしながら言った。オレはどうやってここに持ってきたか聞きたくなったが、やめることにした。この人ならヘリコプターで空輸しそうな感じだ。
代わりに京都の街に立つ水瀬先輩をもう一度想像する。紅葉舞う秋の季節、長い髪をなびかせ、京の街の裏通りをゆっくりと散策する姿は、どことなく風流さを漂わせていた。
「皆さん、どうぞ召し上がって下さい」
水瀬先輩は振り向かずに、いつもとは想像できないほどの声で叫んだ。後姿は僅かに震えている。教室の喧騒がその時だけやんだように聞こえた。
オレはその意味を聞こうとして口を開きかけた。
「これ以上私に関わらないで…」
今度は全ての時間が止まる。呆然と立ち尽くすオレをよそに水瀬先輩はその場から立ち去った。その後姿があまりにも寂しく、悲しかった。
オレの心も…。